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許認可行政で都市景観は救えるか?

2007.3.2 丸茂 弘幸

 京都の都市景観政策をめぐる議論は、煎じ詰めると、許認可行政すなわち事前明示的な基準にもとづき申請案件を確認・認定・許可するという手続きによって景観の向上をどこまで図れるのか?ということが問われているのだと思います。安全性や利便性の向上を目的とする行政において許認可という手続きがこれまで一定の効果を発揮してきたことはもちろん否定できません。しかし都市景観の向上、都市における美的価値の増進を目的とする行政において、これまでの許認可というスタイルが果たしてどこまで有効か、という問題です。
 私は「景観まちづくり」においては、これまでの<認める・許す>手続きのほかに、どうしても<選ぶ>手続きが必要なのだと思います。<認める・許す>手続きにおいては公平性が重要ですから「基準」が問題です。事前に確定し明らかにした基準にもとづき公平になされなければなりません。しかし<選ぶ>手続きにおいては最善性が重要であり、何が最善であるかに関する「合意」が問題です。「合意」さえ得られれば「基準」は関係ありません。もともと優れたものを<選ぶ>とは差別化することであり、差別化が前提である以上公平性は意味を成しません。その意味で「景観まちづくり」は、行政過程であるよりも政治過程なのです。
 議論をわかりやすくするために建築物などのデザイン・コンペを例に挙げましょう。コンペの募集要項には、コンペのテーマや趣旨、設計条件、提出物の要件や期限、応募資格などが普通書かれています。このうち、設計条件、提出物の要件や期限、応募資格などのように事前明示的な基準に明らかに反する応募作品は受理されないか、あるいは審査の対象にされません。この審査の対象になるか否かを決める手続き、すなわち<認める・許す>手続きは、透明な行政過程として、基準に照らして公明正大に行なわなければなりません。
 この<認める・許す>手続きのあとに、<選ぶ>手続きが始まります。ここではコンペのテーマや趣旨が重要な意味を持ちますが、その解釈は一義的なものではなく各審査員の価値観にもとづく判断と審査員相互の協議により選定されます。協議だけでは合意が得られなければ投票が行なわれます。合意の結果が最善のものであったかどうかは審査員の資質、価値観や判断力に依存します。ある種の政治過程である審査プロセスを完全に透明にすることなどできません。
 景観法が想定している景観政策はこの<選ぶ>手続きを欠いています。それを典型的に具体化した京都の景観政策は、<選ぶ>手続きなしでも、地区の特性に応じた優れた建築のみが(いわば自動的に)認定されるように、事前明示的な条件や基準を厳しく、細かくしているのです。コンペで言えば、審査対象として認定された作品(建物)はどんなものでも(建てて)よろしいと言えるまで、<認める・許す>手続きを厳格にしようとしているわけですが、そんなことで本当に京都の景観が救われるでしょうか。
 <選ぶ>手続きを欠く代償として<認める・許す>手続きを厳密化、詳細化することの弊害は3つ考えられます。
 そのひとつは、デザインの可能性を過度に制約することで(コンペで言えば)優れた建築作品の応募を妨げかねないということです。広原先生の「京都の建築家は怒っている」というご指摘はこのことを心配されているのでしょう。
 二つ目は、新手の既存不適格建築物を生み出してしまうことです。これまでも日本の都市計画は既存不適格建築物を生み出し続けてきましたが、それは人の生命に関わるものであったから許されてきたと言ってよいでしょう。景観を理由とした既存不適格の発生がどこまで許されるのか、考えさせられます。
 三つ目は<選ぶ>手続きの進化発達を抑制しかねないということです。これが最大の問題かもしれません。ヨーロッパと違って、日本では、市民が自分たちの身の回りの景観(の変化)を選択できる場、<選ぶ>手続きをほとんど持ち合わせていません。各市で行なわれている都市景観に関わる事前協議制度、住民によるまちづくり協議会の活動などは、<選ぶ>手続きの萌芽ですが、<認める・許す>手続きの厳密化、詳細化が、その芽を押しつぶしてしまうことを恐れるのです。わが家に既存不適格と烙印を押された住民が、自分たちの町の景観(の変化)を<選ぶ>作業にどこまで積極的に参加できるか、大いに疑問です。

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