3−2 アグリトゥリズモの極意 角野 幸博 YUKIHIRO KADONO 関西学院大学 |
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■戸惑うご主人 町の広場から漆黒の山道を車で10分足らず、我々の宿は小高い丘の中腹に、控え目に建っていた。井口氏の宿泊施設3分類(アグリトゥリズモ、カントリーハウス、B&B)に従うと、典型的なアグリトゥリズモ民宿である。 石積みの母屋の仄暗いダイニングに通されると、ご主人が地酒の赤ワインをふるまってくれた。おかみさんも顔を出すが、二人とも英語はほとんど通じない。陽気で騒がしいイタリア人というより、朴とつで人のよいお百姓という印象。これから3日間どうやって遠来の客をもてなそうかと戸惑っているようだ。夕食の飲み疲れもあって、早々に部屋へ案内してもらう。 部屋は母屋の裏にある別棟。2ベッドルームにシャワー・トイレが付く。もちろんテレビも冷蔵庫もLANケーブルもない。酔い覚ましに椅子を外へ持ち出し、夕涼みを決め込んだ。満天の星空は、万国共通の田舎のもてなしである。こうして我々のショートステイが始まった。 ■アグリトゥリズモのもてなし 農家の朝はどこの国も早い。夜明け前からニワトリが鳴きだす。朝露が降りる敷地内には、ニワトリ以外にもアヒル、ロバ、ネコが歩き回る。観光客とは無関係に、それぞれの動物の一日がいつもと同じように始まる。そこはかとなく匂ってくるのは、牛かロバの糞だろうか。 朝食はパンとカプチーノそれに自家製の焼き菓子。テーブルの上にはこれも自家製のジャムやマーマレードが無造作に置いてある。台所でおかみさんが何やら作っているのだが、我々の食卓とは関係ないらしい。 我々のアグリトゥリズモ体験はここまで。朝食を終えると、ご主人に町まで送ってもらう。「小さな町の豊かな生活」を垣間見ることはできても、なかなか実践とまではいかなかった。それでも気付いたことはいくつもある。 日本で農村観光というと、農村風景を眺め、かたちばかりの農業体験をし、地元の野菜を食べ、「乳搾り」か「そば打ち」か「草木染め」をするようなイメージをもつ。子供連れならこれに昆虫採集か魚釣りが加わる。すべてが予定され、用意されたアトラクションである。それに比べてメルカテッロの農家民宿には何もない。体験したのは、漆黒の闇と静寂、朝露、動物の鳴き声と匂い、農家の簡素な朝食くらいだろうか。仮に昼間、町へ出ずに農家にいたとしても、何もしなかっただろう。そして退屈したに違いない。 だが我々の体験こそが、アグリトゥリズモの本質でありスタートなのかなと思う。農村の日常生活と観光との間をつかず離れず行き来するために、まずその空気を体験する。空気とは光、音、匂いである。そして退屈する。退屈するから、何か新しい物事を自分で見つけることができる。暇つぶしに散歩すれば、野ウサギやキジに出会えるかもしれない。アグリトゥリズモの喜びとは、地元の人に親切にもてなしてもらうことではなく、なつかしさと退屈さの間に隠れる微妙な違和感の中から何かを見つけることなのだと気づく。 ■アグリトゥリズモの可能性 とはいうものの日本では、そんな楽しみが誰にでも素直に受け入れられるとは思えない。滞在期間の長短にかかわらず、観光客は様々な体験メニューを期待し、地元は観光客をもてなすことに一所懸命になる。そうしなければ地域振興や村おこしにつながらないと思ってしまう。 農村観光が生活と観光の接点の魅力を探るものである以上、地域ごとの農業形態と生活文化に応じたやり方があってしかるべきだと思う。私を含めて多くの日本人は、料理やファッションをはじめイタリア文化に親しみと憧れを感じている。ポー川流域では、ヨーロッパでは珍しい米作りも行われている。イタリアの村で感じるなつかしさの理由は、ここにあるのかもしれない。 しかし、いや、だからこそ、日本は独自の農村観光のあり方を探る必要がある。そのためには、パッケージ化しつつある観光メニューを見直し、退屈してもらうことから本来の魅力を探しなおすという試みも必要だと思う。 忘れてならないのは、イタリアの今の農村生活の魅力は、町との関係が緊密という点にある。我々を送り迎えしてくれた御主人も、メルカテッロのバールの常連だった。日に幾度となく町へやってきて、買物や仕入れの合間に町を楽しむ。小さな町の豊かな生活は、町と農村とのコンパクトな関係で成り立っている。このことは、日本の農村も肝に銘じておくべきである。 |
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