質疑応答
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林:
生物多様性が必要なのは、生物多様性が持っている生態系サービスを壊さないためです。例を挙げると、私たちの生活を支えている衣食住は、全て生き物の多様性によって支えられている面があります。食べ物はもちろんそうですし、服や靴でもそうです。この間、黒マグロをめぐる議論が新聞で取り沙汰されていましたが、現在の人類のスピードで黒マグロを食べていくと、黒マグロを絶滅させてしまうことになるのです。そうなってしまうと、生態系サービスのどこかが薄くなってしまうのです。生態系サービスに穴が空いてしまうと、人間もそこから落ちてしまうということなのです。
我われの生活自体が生物多様性に支えられているということを忘れて、それを食いつぶしているのが今の生活だという認識から、生物多様性が重要視されるようになったのです。絶滅していく生物が可哀想だという議論以上に、せっぱ詰まった問題があるということです。
松谷:
生態系サービスが生物多様性に支えられているということは、証明されている事実ですか。
林:
一般的にオーソライズはされています。
林:
ジェレミー・ヘッドさんの「自然の再生は不可能だ」という発言ですが、ジェレミーさんの言う自然とはかなりコンセプチュアルな話です。今、新しいランドスケープデザインを推進している人はミニマリズムから影響を受けている人が多くて、アートとランドスケープデザインを融合する形をよく見かけます。ですから、彼等は自然そのものを再生するのが目的ではないという所から、「自然再生は不可能」という言葉が出てきたのだと思います。イングリッシュガーデンのように自然を大きく改変するやり方をしないのが彼らのコンセプトで、アートをめざす過程でその素材や表現するコンセプトとして土地本来の息吹を表現したいという考えを持っていると思います。
もちろん、公園の中で湿地を保全する形のデザインも多く、「作り込まない」というデザインのスタイルもあります。
先生が最後に例にあげた尼崎や大阪市内のような所ではどうやって自然を生かす形にしていくのか、その中でまちづくりをする過程で地域ブランドになったり観光拠点になるような方策とはどういうものが考えられるでしょうか。
林:
私がすぐにでもできるのになぜ手をつけないのかと思っているのが、自生種で公共緑化を進めることです。今過疎や高齢化が問題視されている中山間地域の中で、自生種を栽培し、それを公共が使うという担保性を持たせることによって植木業が活性化できると思うんですよね。日本ではそういうシステムがまだありません。
すでにアメリカでは、公共緑化の何割かはネイティブプラントを使わなければならないと決められていますし、高級志向の住宅開発では「生物多様性を守る」がそこのブランドになっていたりします。
だから、日本でも土地本来の固有性を大事にし、地場産業を育成しながら環境共生型のビジネスにつなげたり、ビジネスまでは行かなくても地域のアイデンティティを育てるアイデアはけっこうあると思っています。
お話を聞いて気になったことの一つは、ガイドラインの作成で生態系の学者が表に出るのではなく造園家が表に出てくることです。学者の研究を待っているとにっちもさっちもいかないという点では私も同意見ですが、造園家が名乗りを上げてその名前で出したということに違和感を感じます。今でさえ日本ではランドスケープデザインが優先されて生物多様性の視点が薄いことを考えると、日本で同じようなことをすれば生態系への良い影響があるのか疑問です。造園家の生物への知識度は信頼できるものなのでしょうか。
林:
多分今日ここに参加されておられている人びとは生物を専門に研究されていると言うよりは、デザインや政策など実学に携わっている方々が多く、アイデアをどう実践に活かしていくかを考えておられる方がほとんどだと思います。
生態学の見地からは、何もしない・何もさわらないのが一番だという意見があります。それは私も違うと思っていますが、そういう方々の要旨は「人間が関わるより自然の生理に任せる方がいい」という考え方です。しかし、それを実際にやってみると、すぐ外来種が入ってきて在来種を駆逐するという現実もあるのですが。
今日の私の話は、計画や実践を行う立場の専門家にとって何ができるかを、そのヒントになりうるものとして「自生種を使った緑化」という提案をさせて頂きました。自生種を使うことが上位の目的ではないのですが、もともとそこにいた生物も植物に依存していますから、自生種による緑化が生物多様性をもたらすことになります。ですから、緑地を増やして環境を良くするための手法のひとつとしてこうしたやり方をお伝えした次第です。
それと、造園家が名乗りを上げて計画を進めることの是非についてのご質問についてですが、私は「できることからやる」というスタンスはとても大事だと思うのです。例えば、ひとつのエリアの中でどういう植物が自己繁殖できるかというガイドラインを作らないと、何も目安がないところでは行政も専門家も身動きがとれないと思います。
ひとむかしにビオトープが流行りました。あれもひとつの大きなうねりだったと思いますが、専門家の中では何年前の自然に戻せばいいのかがずっと議論されていました。議論している間に、関係者一同が疲れてしまったということを何回も見ました。そういうプロセスを経験していると、何ができるかを見つけて計画に結びつけるのが専門家の役目ではないかと思ってしまいます。今ある事象を話し合っているだけでは、話は前に進まないのです。もちろん、進めていく内容は完璧ではないでしょうが、行政がオーソライズしにくければ専門家の名前で計画を出していけばいいじゃないかという一つのアイデアとして提案しているわけです。
後藤:
私も、実践していくことを否定しているわけではありません。それは良いことだと思うのですが、しかし闇雲に計画を進めればいいというわけではなく、生態系を活かす環境づくりを進めるには生態学的な裏付けがないといけないと思うのです。例えば、淡路産の桜を探そうとしたとき、業者から「九州産しかありません」と言われたとき、九州も日本産だから自生種だと考える方法もあるかもしれません。そこをどう捉えるかが問題です。
私は慎重に事を進めるべきだと思っています。できれば、生態学の専門家同士で議論を尽くすことが大事だろうと思っています。しかし、その議論の結果を待つ必要はない。やるべきことを進め、直すべき所が出てきたら直せるという施策が今後求められるべきだと私は思っています。
林:
今日、紹介したニュージーランドのガイドラインも、出版したのは造園家の事務所ですが、内容は造園家の名前だけでなく生態学者との共著という形です。研究成果を利用した共著として学者の名前は明記されていますし、それはこのエリアに関しては最高の物だというオーソライズを行政側も認めています。ですから、公共的なものとしていろんな所で売られているのです。
日本ではこうしたガイドラインは行政の名前だけが記されていて、専門家の名前は削除されてしまいます。だから、誰がどうやって作成したかが分からないことが普通です。ニュージーランドではそのガイドラインに疑問点があれば、記されている専門家の事務所に連絡して議論できるし、情報がオープンになっているところがとてもいいことだと思いました。そういうやり方で情報をオープンにしていかないと、物事は進歩していきませんよね。
林:
コミュニティでの議論を大事にするようになったのは、経済情勢が悪くなって行革をし始めたためだと言えます。まちの予算の使い方で、何もかも行政が計画して専門家や業者さんに委託するというやり方ができなくなった時、やはり市民自身が話し合うということになります。予算も全て公開して、何にどれだけ使ったのかを明らかにして、それが適正だったかどうかを議論するんです。議論では、来年度の予算ではどの事業を優先させるかを話し合っていくのです。「予算がこれだけしかないのなら、自分たちもボランティアで関わろうか」ということになって、ワーキングデーなども市民が率先して作っていくことになっています。
もちろん、全ての市民がこうした動きに参加しているわけでもなく、一方では若者のバンダリズムもあって、ニュージーランドではこうだという言い方はできないのですが、見聞きした中ではこうした話し合いが地域社会の中でたくさん持たれるようになったとは思います。
戸田:
もともと日本とよく似た気候風土だと最初にお話がありました。日本では森林が国土の約7割ですが、ニュージーランドもそのくらいあるのでしょうか。
林:
もともと森林の島だったのですが、移民したヨーロッパ人によって大半が切り倒され牧草地となりました。また、先住民であるマオリ族も焼き畑農業のために森林を伐採したという歴史もあります。だから、見た目は緑豊かな国土ですが、本来の自然からはかけ離れているのも現実です。
だけど、今は残された手つかずの森林をきっちり守っていこうとしていますし、不必要に草地にしてしまった所はもう一度森林として復元しようとする動きもあります。観光がニュージーランドの大きな政策でもありますし、見た目の華やかさだけでなく、エコロジカルな環境をしっかり復元していこうというのも大きな施策としてあげられています。これはニュージーランドだけでなく、世界的な潮流としてあると思います。
もちろん、ある程度年輩でイングリッシュガーデンに馴染んでいる人の中には、こうした動きに「いかがなものか」と疑問をなげかける人もいます。また、農業者の立場からは、資源管理法という厳しい法律に対して反発をしている人もいます。
造園家の中にも、資源管理法が地域社会の議論を上位に置いていますから、「市民がいいと言えばグリーンベルトも壊すのか」と疑問を投げかけている人もいます。これは、グリーンベルトだった所も開発してもいいという事例が実際にあったからです。地域社会の議論の優位性に対して疑問を持つ専門家もいるのです。それに対し、別の専門家からは「資源管理法の使い方に熟達してないからだ。この法律を扱う専門家のレベルアップが必要だ」という意見もあって、様々な議論と共に新しい動きが始まっているのがニュージーランドの現状だと言えるのではないでしょうか。
林:
ニュージーランドでは大きな樹木があるところは、自然公園や公有地になっている所が多いですが、規制も厳しくして、入山規制をしたり伐採禁止をかけて保全的な立場で樹林を守ろうとしています。
害虫や雑草に関しては、その概念は農業者の立場から言われるものですよね。ですから、どんどん農薬を使っていったために、例えば豊岡のコウノトリは農薬入りの生物を食べて絶滅したというプロセスがあります。だから、今の豊岡ではなるべく農薬を使わない環境共生型の農業を推進しています。ただし、完璧な有機農法にしてしまうことは、今の農業の生産システムの中ではとても難しいことです。しかし農薬を使わなくても土地が肥沃になれば、害虫を駆除することができる。そのせめぎ合いが求められていると思います。
また、大規模に害虫が発生すると他の生物を駆逐してしまう事態になってしまうのですが、それは今話している生物の多様性とは別の現象だと捉えています。生物ならなんでもいっぱいいればいいという話でもないと思います。
雑草に関して言うと(私たちは「野草」と呼んでいますが)、野草も何もしないで放っておくと今はセイタカアワダチソウのような外来種が一斉にはびこってしまうのが現状です。特にセイタカアワダチソウは他の植物を駆逐してしまうので、植物の多様性は失われてしまうのです。だから、自生種を復元していくことで、侵略的な植物を排除していく考え方もあります。
どういう装置を管理して自生種を守るかは、けっこう専門的な分野ですが。例えば、淡路島の県立公園では新しく整備し直すときに、最初の案である芝桜の代わりに、茅(チガヤ)とススキの草原に復元することを提案しました。実はチガヤも雑草の一種です。でも秋の紅葉の時期には綺麗な物ですし、県に提案して了承を得ることができました。雑草の中にも侵略的なものもあれば地域固有のものもあるので、これも地元のみなさんが専門的な知識を持って貰うことで地域の生物多様性を担保できると思うのですが。
羽木:
ニュージーランドでも、外来種や雑草と共存しながら自生種を育てているのでしょうか。
林:
外来種と自生種の共存についてですが、ニュージーランドでは綺麗な花を咲かせるルピナスをあちこちで見ることができ、観光パンフにも掲載されているのですが、実はこれは外来種でけっこう侵略的な植物で流域沿いに繁茂しています。ですから、自生種を守るために、ボランティアたちがしょっちゅう駆除しています。植物にもよるのでしょうが、他の植物を駆逐してしまう植物については優先的に駆除することはしています。
今日は植物の話を中心にしましたが、どうやって生き物を増やすかということも市民に啓発啓蒙したりするリーダーたちを育成するいろんな方法も開発されています。地域固有の生き物を地域ぐるみで復元しようという制度、仕組みもたくさん作られています。
林:
区分図は、ここの地形、地質、植物の遺伝的な区分を示しています。それを勘案して、この範囲の中で推奨できる(つまり植栽に向いている)植物のリストをあげているのです。
また、見る人に親しみを持って貰うために、この地域のイメージをロゴ化しています。この地域の典型的な植物をマオリ語で示していますが、これと植物リスト表が対応していて、緑のロゴの所を見るとお勧めの植物がずらっと並んでいるというふうになっています。
このガイドラインを買った人は、自分の家に合う植物のページを見て、それを育てている甫壌や業者さんの所に行って入手するのです。
植物がメインのガイドライン以外にも地質や地形による区分図もあります。
河本:
つまり、このエリアではこういう植物を育てなさいということを示しているのですね。
お勧めの自然景観を復元したいならこういう植物ですよというリストなわけですね。
林:
潜在的な自然植生を元にした利用計画図面みたいなものですね。小さなエリアでも湿地と乾燥した所では育つ植物が違いますから、それは勘案してガイドラインに反映されています。
ひとつのページに何十種類もの植物が掲載されていています。
林
:全部お話しする時間がございませんので、おっしゃるとおり本を読んで頂ければ…
西田:
ではそちらを参考にさせて頂きます。
林:
ブロックの分け方については、私はよく分からないのです。コミュニティボードという区単位の委員会がありますから、それと連動しているのかもしれません。多分、行政的な区分と連動しているように思います。
手紙が住民に送られると話しましたが、実際には手紙以外にいろんな広報ツールで住民に案内が行くようになっています。それを知った地域の人が参加してくるという形です。
集会は実際に河川敷きに行って話し合う屋外のこともあれば、屋内で話し合うこともあります。そういう場所で、古い写真を持ち寄って「昔はこうだった」という話から始めて、市からこの計画のコンセプトが伝えられて、それに対して市民が意見を出し合うというふうになっています。つまり、ワークショップを重ねて、市民の意向をまとめていきます。
私も今日のお話を聞いて、いろいろなことを思い出しました。
昔、ドイツで「緑の党」が結成された頃、「グリーンアスファルト」という言葉が使われるようにないr、それまでの緑のあり方が批判されるようになりました。つまり、綺麗に刈られた芝生はアスファルトと一緒で美しくないという訳で、そういう美意識が生まれてきたのですね。
その概念が浸透するにつれ、ドイツでは野草の方が美しいという意識転換が起き、それはベルリンのランドスケーププランにも影響を与えました。そのプランを見ると、「道路のアスファルトを取り除き野草が生えるようにする」「公園はなるべく舗装しない、公園の樹木も手を入れない所と手をちょっとだけ入れる部分に分ける」などと書かれていました。公園だけでなく、住宅地、河川敷きごとにそういう方針が貫かれていました。こうした計画がつくられたのは20年ぐらい前のことだったと思います。
今日のニュージーランドのお話を聞いて、似ていると思いました。その頃のドイツが生物多様性を重視したのかどうかは分かりませんが、「手入れされた芝生は醜い」という美意識の転換から始まったのは確かです。当時は科学的に考えられたというより、とてもコンセプチュアルな感じがしました。ビオトープもドイツから生まれましたが、そういう科学的な考え方と美意識が相まって、社会に受け入れられて、計画が出来ていくのだと思います。
今の日本でもそういう動きが出てくるかどうかを考えると、「アスファルトを剥がして野草が生えてくる方がいい」「綺麗な芝生はみっともない」という美意識にはまだ至っていないように思います。日本での生物多様性や地域コミュニティのあり方を考えたときに、日本的な可能性がこれからどう生まれるのだろうかということを感じました。
なかなか奥の深い話で、皆さんのお仕事でもとても悩ましい問題がたくさんあろうかと思います。日本ではどうしたらいいのかは悩みの種ではありますが、ニュージーランドの情報を教えて頂いたことは有意義であったと思います。林さん、今日はどうもありがとうございました。