北加賀屋クリエイティブ・ビレッジ構想
左三角前に 上三角目次へ 三角印次へ

 

クリエイティブ・ビレッジ構想に至るまで

 

■はじめに

 鳴海先生と井口さんには2004年の夏にお会いしました。天保山の夏の花火大会には、名村造船所大阪工場跡から花火見物の船が出るのですが、そこでお会いしたという記憶がございます。その頃は、私も今のようなまちづくり活動をすることになるとは思っていませんでした。

 ちょうどその1年前に、平林の貯木場にフローティングハウスという水に浮かぶ家を作りました。これは海面に直接接するフローティングハウスで、水位が変わることもあって、2003年に行われた水のエキスポ「世界水博」が大阪で開かれた時に、作った物です。

 過去に海外で見たものを見よう見まねで作ってみたのです。ただ、これは確認申請を取っていません。土地に付随してないからですから。今は引退されました岩本康男さんが大阪市の計画調整局局長の時に、「これ、良いよね。確認申請は取らなくていいから」ということで作りまして、お披露目の時には当時の港湾部の局長や市会議員の先生達にも来て頂いて、形式的に後からオーソライズされたことがございました。

 それでは、これからタイトルにあります北加賀屋のまちづくりについて話をしていきます。


■未来の大阪を考えてみる 人口減を止めることができるか

 3.11の震災後に、次の震災が何年内にどのくらいの確率で来るかを予想した新聞記事によると、70%というかなり高い確率になっています。

 また50年後の人口は3割減になるといったことも報じられています。

 私たち経営者としましては、もちろん大地震も恐ろしいのですが、実は日本の人口が将来どうなるかを考えながら日々の経営にあたっています。

画像sib04
北加賀屋の戦後の空撮写真
 
 写真は、北加賀屋の戦後間もない頃の様子です。左上の方に、今みなさんがおられます名村造船所が見えます。この頃、現在の地下鉄四ツ橋線北加賀屋駅のあたりから名村に至る道中はまだ沼地だった時代です。新なにわ筋には(今の阪堺線である三宝電車が通っていまして)、芦原橋から堺の三宝まで電車が走っていました。私たちの会社は当時、この北加賀屋一帯を経営地としていましたが、主に新なにわ筋以西の田畑を終戦時の農地解放で失います。この土地については、戦前に区画整理事業に取り組んでおり、農地ではないとして最終的に最高裁まで争ったのですが、敗訴してしまい、全部なくなってしまったのです。

 この頃の人口を見ますと、大阪市が195万人、日本全体では8千500万人弱、うち15〜65歳までの労働者人口は約5千万人弱になっていました。

画像sib05 画像sib06
戦後復興の頃の日本在住者(藻谷浩介さん提供) 40年後の日本在住者(藻谷浩介さん提供)
 
 この頃の人口分布を表したのが、「戦後復興の頃の日本在住者」です。この図は藻谷浩介さんが書かれた『デフレの正体』から引用致しました。労働者人口は5千万人弱ですが、その構成は若年層が圧倒的に多いことが分かります。

 では、今から40年後にどうなっているかを表したのが右の図です。左の図とは反対に、私も含む段階の世代など高齢者層が人口の大きな部分を占めることになっています。

画像sib07
都市圏で予想される人口減少の推移
 
 さらに、これ以上に恐ろしい予想を表しているのが「都市圏で予想される人口減少の推移」です。図を見てお分かりのように、大阪の人口減少が著しい。人口統計はかなり確かな予想なのですが、私たち企業としましては、大阪の人口をここまで凋楽させることは何としてでも止めねばならないという使命感で経営に当たっております。


■北加賀屋の土地の変遷

 次に、今日みなさんが見学されました北加賀屋の私どもの経営地の変遷について、述べさせていただきます。

画像sib09
1989年、旧名村重機船渠跡返還時 緑:名村造船所大阪工場跡地 薄い青:空地、濃い青:空き家、濃い緑:駐車場
 
 これは、バブルの頂点の少し前の頃で、この時に名村造船の土地が私たちの会社に返還されました。当時はまだ、いったん土地を貸すとまず返ってこないという時代でした。そういう頃に、名村さんがここを引き払って佐賀県の伊万里へ行かれることになりました。通常ですと、借地人さんの方で土地を原状回復してから返還を受けるのですが、当時は借地が返ることは滅多にないことでしたので、現状のままで引き取った次第です。

画像sib10
1995年の様子 薄い青:空地、濃い青:空き家、濃い緑:駐車場
 
 それから約5年後の北加賀屋の経営地の様子です。今も言いましたように、当時は土地を貸すと盗られたも同然の状況になりますから、返還を受けた土地の多くは借地権が発生しない形で駐車場として運用していました。

 1991年に駐車場の法の改正があり、作れば駐車場の申込みがあるという時代でした。この当時は、借地が返ってくる時は借地人さんに建物を解体してもらい、更地で受け取った土地を白線引きのアスファルト舗装をして月極駐車場として提供していました。

画像sib11
駐車場利用のピーク
 
 こんなふうに駐車場経営をどんどん進めていたのですが、気がつくと、駐車場利用は97〜98年をピークに、利用がどんどん減っていったのです。そこで我われは、駐車場に向かない借地、すなわち狭小借地の返還の場合は建物を残してもらうことにしました。ご存知のように小規模住宅の場合、土地の固定資産税が6分の1で納まりますので、建物はそのまま残してもらうことにしたのです。

画像sib12
1993年 STUDIO PARTITA 薄い青:空地、濃い青:空き家、濃い緑:駐車場
 
 1993年には、先ほどまち歩きをされたみなさんに見て頂いたSTUDIO PARTITAをオープン致しました。この年はちょうど衛星放送が始まる年でして、コンテンツが圧倒的に不足するであろうという予測から、ここでコンテンツを作り、ここから衛星で全国に飛ばそうという目論見だったのですが、ものの見事にはずれてしまいました。

画像sib13
2000年の様子 薄い青:空地、濃い青:空き家、濃い緑:駐車場
 
 2000年当時に我われが受け取った借地や空き地の様子で、どんどん増えていった頃です。

 最近の新聞には「増える空き家、倒壊防げ!」といった見出しが踊っています。

 21世紀に入った頃から空き家がどんどん増えて困っているという内容です。各自治体で社会的な問題として受け止められるようになりました。

 この頃から、私たちは一部の空いている所を賃貸に回し始めています。

左三角前に 上三角目次へ 三角印次へ


このページへのご意見はJUDI

(C) by 都市環境デザイン会議関西ブロック JUDI Kansai

JUDIホームページへ
学芸出版社ホームページへ