震災直後には「復興区画整理」という区画整理の復興版と言えるものが出来たのですが、 現地では必ずしもそのまま活用されているわけではなく、 従来の区画整理の方法をそれぞれの状況に合わせて使い分けているという面があります。
また、 従来の区画整理であれば画一的なパターンになりがちなところを、 地域の事情に合わせながら柔軟に対応しているグループもあります。
復興については、 昨年のセミナーでも何度か取り上げましたが、 今回はその具体的な事例を受け、 昨年のセミナーで議論した内容を振り返りながら質疑応答を行いたいと思います。
地図の東側を流れる川は新湊川(昔は狩藻川と呼ばれた)で、 この川を上がると古代には「ヒノカワ」と呼ばれる川になります。
このあたりは、 日本書紀では「ナガタノクニ」と記されていて歴史的にも古い土地です。
地図の北側には鷹取山があり、 昔は「カムナビ山」と呼ばれる神体山でした。
古代から開けていた場所で、 条里制が敷かれていた土地です。
この地図を見ても分かるように街区の形は100mメッシュの方形で入っています。
これは条里制が街の基礎を作っていたと言えるでしょう。
明治42年には耕地整理法が施行されましたが、 この地域では明治44年から当時あった道路計画と一緒に耕地整理が行われました。
この耕地整理は、 将来の市街化を予測しての土地整理でした。
形からも分かるように条里制を基礎にして耕地整理が行われました。
町名はこの時期につけられたもので、 100mメッシュの街区がそのまま一つの町丁となっています。
当時行政は、 補助金を出し、 地主に組合をつくってもらうよう指導しています。
次に基盤整備が行われたのは戦災復興の時ですが、 今回の区画整理事業区域内のほとんどは手をつけられませんでした。
図2「新長田駅北地区区画整理エリアの一部(五位池線より東側)」(58K jpg)は、 新長田駅北地区の区画整理エリアの震災前の道路現況を示しています。
大体8m道路が100メッシュに入っていますが、 これは耕地整理によって造られた道路です。
100mメッシュの街区内は、 建築基準法下では家の建替えが出来ない4m未満、 大体2〜3mの私道がほとんどです。
私は味泥地区の震災復興も手掛けましたが、 やはりこういう「アンコ部分(街区内に4m以上の道路がほとんどない区域)」が沢山残っていてそれをどうするかが大きな課題でした。
こういう部分は個人間の権利を調整していくのがたいへん困難です。
図3「新長田駅付近の震災前の建物用途図」(56K GIF)は、 新長田駅付近の震災前の建物用途図です。
地域一帯に工業施設が散在し、 住宅と混在しています。
ケミカルシューズを中心とした産業と、 住宅、 商業が混在している地域です。
もう一つの特徴はこの地域には、 アジア系の在日の外国人が多いことです。
新長田駅北地区土地区画整理事業区域の面積は、 42.8haで、 28町丁を含み、 震災復興事業では最大の土地区画整理事業です。
私が担当しているのは新長田のうち、 五位池線より東側の区域で、 面積では約28haです。
この都市計画決定では、 都市計画道路(17m)がほぼ200mメッシュで決定されています。
つまり、 条里制の100mメッシュのベースの上に都市計画道路が200mメッシュで入るように計画決定されたわけです。
また1haの防災公園が地域福祉センターや防火地域指定のゾーンに隣接する位置に計画されています。
図5「95年5月19日段階での新長田のまちづくり関係の組織(久保が認識したもの)」(28K GIF)は昨年の5月19日段階で私が描いた図です。
私が4月末頃最初に地元に入って知り合ったのは「神戸シューズ復興協議会」という任意の住民組織でした。
この組織が核となって神戸商科大学の北野先生らが中心となって、 住民が個人の資格で参加できる「長田の良さを生かした街づくり懇談会」ができ、 5月の初め頃から活動が始まりました。
その頃その他に活動していたのが「ケミカルシューズ産業復興研究会」(業界有志によるビジョンづくり)、 「神戸市在住外国人問題懇談会」(国際ボランティア交流センターの提案)などです。
6月頃から新長田の区画整理区域内から町丁(街区)毎で協議会を作ろうという気運が一部芽ばえてきます。
そういうバラバラに活動しているまちづくり組織がどういう位置付けになるかを私が当時描いた図がこれです。
まちづくり組織は、 広域の長田地区レベル、 新長田地区レベル、 街区レベルの3つのレベルに分けられます。
「長田の良さを生かした街づくり懇談会」は今も続いていますが、 初期の段階では街づくりのコンセプトなどいろいろな勉強会が行われました。
また、 区画整理事業区域では、 町丁単位で協議会ができる可能性があったので、 事業区域が一つにまとまった動きもする必要があるとして「新長田北地区街づくり協議会」を想定しましたが、 これはまだ出来ていません。
現在は、 20協議会が新長田北地区にありますが、 会長会という形で集まっています。
図6「96年3月段階では20の協議会が出来ている」(45K GIF)は、 今年(1996) 3月に市が出した「まちづくりニュース」の1号の一部です。
2次の都市計画決定と事業計画を縦覧をするため「ニュース」を出したわけです。
20の協議会は、 協議会ごとに性格に相当な違いがあります。
住宅ゾーン、 工場系ゾーン、 商業系ゾーンですがいずれも用途が混在しており、 町丁ごとに特徴があります。
協議会のまとまりも1町単位、 2町単位だったりします。
市は、 街づくり条例によって協議会に対して技術支援を行うことができ、 それが根拠となってコンサルタントが地元に入れるような仕組みになっているのですが、 震災当初はもちろん昨年6月頃までは地元にコンサルタントとして入るのは難しい状況でした。
私が新長田北地区の協議会に参加したのは、 当初は懇談会で知りあった人からでイモヅル式に参加する協議会が拡がっていき、 現在新長田北地区では、 私が関連しているのは11協議会です。
そのうちの9協議会が街づくり提案をしています。
今年3月までで、 主な勉強会だけでのべ135回、 ニュースものべ45号出しました。
新長田に毎日通い、 修行のような日々でしたが、 良い経験でした。
当時は住民と行政の対峙関係にあり、 土地区画整理についても非常に反感が強い時期でした。
私としても非常にプレッシャーがありましたが、 「状況から見ても土地区画整理事業しか手法がないだろう」というスタンスで、 なるべく早く復興の着地点を見つけなければという想いでした。
後の経過を見てもこれしかなかったなと思います。
当時の区画整理事業への住民の反感の一つには自主的に建築することをストップされていることによる精神的ストレスが大きかったのではないかと思います。
精神的ストレスは方向性が出来ると安定するものなんですが、 建築がストップされたままで、 さらに区画整理が何であるかの説明がない状態だと、 かなり精神的ストレスが大きくなると思いました。
今回の区画整理がどういうものであるかは、 それまで市からはほとんど説明できる状況ではありませんでした。
新聞も詳細な説明には足らない内容のものが多く、 土地区画整理が悪法であるという固定観念さえできている状況でしたから、 区画整理事業について私なりに、 正確な説明をする必要があると思いました。
その時私が話した要点は3つで、 (1)なぜ区画整理をする必要があるのか、 (2)今回の区画整理の内容、 (3)街づくりの進め方の3つです。
図7がその時の資料です。
古代に秋田平野から大隅半島まで広く展開された条里制をベースに、 住民参加をしながら街づくりをしていく土地区画事業手法の提案です。
その「新条里制土地区画整理事業」の提案と今回の新長田北地区の土地区画整理事業の手法は、 本質的には同じものです。
今回の復興土地区画整理事業は次のように考えてよいのではないかと説明しました。
復興土地区画整理事業による市街地整備の段階としては、 便宜上大きく分けて3段階が考えられます。
第1段階は都市計画決定で、 目的は長期的な視点で行う地域レベルの根幹的整備です。
第2段階は土地利用目的に対応した公共施設整備で、 街区レベルで行うもの。
これは、 それぞれの協議会が中心となって提案することが望ましいものです。
第3段階は望ましい土地利用の形成、 街並みの形成で、 長期にわたって生活環境や産業環境の創造・育成をすることを目的としています。
建物の共同化やケミカルシューズの産業活性化事業などがこれにあたります。
早期に事業の都市計画決定が行われる理由は、 個別の建築活動が行われた後で、 復興事業の意志決定を行った場合、 事業の実施や住民の合意形成が困難になること、 準備作業の着手が遅延すること、 それだけ事業の進捗や被災者の生活再建が遅れること等です。
これに対して、 被災者が避難先で生活を送っている中で周知が不十分、 住民の声が反映されていないことで都市計画決定に対する非難が大方の意見でした。
しかし、 例えば、 一般地区である味泥地区での状況をみていますと、 震災後3〜6カ月には、 自主的再建ができる人は、 ある程度再建の方向性がでているようですので、 早期の都市計画決定は必要ではないかと思います。
それだけに都市計画決定の内容の適正さが問われることになります。
事業区域での住民サイドの不満は、 事業の周知の不十分の中で建築の規制が強いられ、 再建の方向性がつくれないという精神的ストレスが大きな要因になったと思われます。
この点から、 震災直後からの復興についての誤解のない正確な情報をいかに住民に提供するかということは、 将来この経験を生かすためにも今後十分に検討する必要があると考えています。
これはジャーナリズムにも考えていただきたいことだと思います。
「住民と行政とのパートナーシップ」と書いてありますが、 実際はこの時期の対峙関係は強烈で、 私たちコンサルタントはたびたび「行政の回し者か、 住民の味方か」と聞かれました。
ジャーナルは、 よく行政と住民の対立を記事に書きますが、 それでは着地点をみつけるのに時間がかかります。
私は、 コンサルタントとは行政側でも住民側でもなく、 両者の意見調整や支援する立場なのだと説明しました。
やはり、 住民、 行政、 コンサルタントが一つの土俵の上で勉強してひとつのものを作っていくべきだし、 そのためには初期の段階で行政と住民のパートナーシップを作っていくことが非常に大事だと思います。
これは、 (1)「水と緑」を基盤とする、 (2)高齢者が戻ってこれる町、 (3)21世紀産業としての神戸シューズの復興、 (4)アジアタウン、 (5)海側のウォーターフロント復活の5項目からなるものであり、 懇談会提案として市に提出されました。
私としてはこれを新長田駅北地区の長期的な復興ビジョンの基本として、 協議会等で紹介していきました。
図9「95年8月に描いたアジアタウンのイメージ図」(31K jpg)は5項目のうちの一つ、 「アジアタウン」のイメージ図です。
95年8月に描いたものですが、 住民に見せることにはなりませんでした。
なぜかと言うと、 将来のビジョンに関わる内容と、 町丁レベルの協議会での住民の意見内容にはかなり差があります。
住民の視点からは復興(将来ビジョン)よりもまず「街の復旧」「生活の復旧」が中心です。
具体的には「そんな広い道路を作って、 私たちは戻って来られるのか」というような不安です。
将来ビジョンについての議論は、 ずっと先になりそうですので、 「生活の復旧」をベースにしながら、 いかに将来の展開もできる基盤を計画に盛り込めるかということも留意しておくことが必要になります。
このような状況ですが将来ビジョンの議論については、 在日の人達を含めて一部の人達から始まっており、 アジアタウン実現に向けて一画の土地を借りて「アジア自由市場」を今年の夏ごろからやっていこうという動きもあります。
ただ住民も総論としてはアジアタウンに賛成だとしても、 そういうものをやるとした場合、 周辺住民との調整などいろいろ話合いが必要なようです。
図10「商業、 工業、 住宅の3つのゾーンに分かれた住民説明のためのイメージ図(96年3月)」(70K jpg)は、 今年3月から市が2次の都市計画決定の縦覧の前に住民に説明するための絵です。
大きく分けると、 商業、 工業、 住宅の3つのゾーンに分かれますが、 その中は混在しているのが現状です。
図11「コミュニティ道路(14m)のイメージ図」(31K JPG)、 図12「縦覧している事業計画案(96年4月)」(153K gif)が、 各協議会で詰めてきた段階のまちづくり提案を盛り込んだ事業計画案です。
コミュニティ道路、 みちひろばも計画に入っています。
これを縦覧して意見書をもらいましたが、 先日の神戸市の都市計画審議会ではこれで決まったという風に聞きました。
これは工場が点在していたのをなるべく集約させ、 マクロ混在・ミクロ純化という考え方を実現しようとしたものです。
これは一つの協議会でやろうとしてもできません。
それまではそれぞれの協議会でやってきましたが、 街づくり提案のぎりぎりの段階で合同提案という形をとりました。
これには各協議会のコンサルタントが同一であったので、 それぞれをつなぐことができたという背景もありました。
内容は、 工業ゾーンの集約、 住宅の集約、 共同化等です。
手法としては「飛び換地」を使っています。
飛び換地は、 大都市法の特定土地区画整理事業の中での制度はありますが、 在来のこうした市街地の中では余り行われていないと思います。
しかし市は、 工業など用途の集約のため都市計画決定された42.8haの中だったら、 飛び換地をしてもいいと地元に説明しています。
これは多分、 超法規的な措置だと思うのですが、 それはそれぞれの地元が街づくり提案をして土地利用を決めていることが担保になるのだと思います。
図14「工業ブロックのスケジュール(2月現在のもの)」(70K Gif)はある工業系ブロックの協議会スケジュールイメージです。
新長田地区では、 事業計画の決定を6月に、 区画整理審議会の選挙を9月ごろに行ない、 仮換地を年内からしたいというのが行政の希望です。
それに対して個別相談や共同建替え、 協調建替えの勉強会の支援を続けていこうとしているのが現状です。
また、 用途地域地区計画の検討や住宅ブロックについては、 建ぺい率が60%であると狭小な宅地が多い当地区では、 敷地が小さくなって家が建ちにくいので「インナー長屋制度」等の活用によって建ぺい率を70%にすること等もこれからの課題です。
産業部会も具体的なことをやっていくことが必要だと思いますが、 ケミカル産業はかなり体力が弱っていてこれをどう展開していくのかが問題です。
プランとしては、 工房街、 展示スペースなどシューズ産業のシンボル機能の誘導を図る街区である「シューズギャラリー」を設置して、 ファッション化、 情報化に対応していくという位置付けです。
換地の時はそれに対応できる企業に入ってきてもらうことが望まれます。
コミュニティ道路14mは、 都市型産業への展開をうながすことも目的としています。
基本的には、 街区の中には許可車以外は入れない、 いわば「アーバンビレッジ」的なイメージです。
「みちひろば」を街区の中に配置し、 ふくらみのある空間をつくっています。
図16「駅周辺ゾーンのイメージ」(26K JPG)は、 駅前街区のイメージ図です。
こんなきれいな形でなく、 下町らしいごちゃごちゃした形になるかもしれませんし、 その方が良いかもしれません。
また、 長田らしい商業の展開も望まれます。
どういう形で誘導していくのがいいかは今後の課題です。
図17「住宅を市とした街区のまちづくり提案」(148K GIF)は、 住宅を主とした街区の街づくり提案です。
ここでの特徴は一部の街区に生活道路に4.5m道路が入っていることです。
私は基本的に区画道路は区画整理の基準や開発指導要綱による幅員6mは経験則というべきものとして詳細に説明してきましたが、 この街区は住民の強い要望で4.5mになりました。