JUDI関西・96年都市環境デザインセミナー
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森具の区画整理

株式会社オオバ 田村博美

はじめに

地区の概要

 西宮市を空から見ると、 南側に阪神電車、 阪神高速、 その下に国道43号が通っています。

北側には、 国道2号が東西につながっており、 その北へ行くとJRが通っています。

地形的には六甲山系の裾野に連なっている位置で、 このあたりに走っている活断層の影響で震災の被害が大きくなったようです。

地層的には沖積層で、 1mも掘れば地下水がどんどん湧き出てくるところです。

六甲山の堅い地層と夙川辺りを中心とする扇状地との間で、 地震波が集中して甚大な被害を被ったことかと思います(資料1「3学会調査による森具地区の被害」(174K GIF))。

   

 森具地区の周辺は、 芦屋方面、 西宮方面への道路整備がきちんとされています。

このあたりだけが従来の集落の持つ細い細街路の状態で、 そういうことも今回の復興区画整理の課題となっています。

   

 森具地区は10.5haです。

かなりこじんまりした地域で、 このこじんまりさも復興事業が比較的うまくいっている理由の一つだと思います(資料2「地域の建物の一つ一つの被災状態を表わす模型」(44K gif))。

   

 本地区も相当の被害でした。

特に阪神高速とJRの間は手ひどくやられました。

中でも木造の賃貸住宅は構造的に弱く、 かなり被害を被っています。

そこに住んでいた借家人をどうするかも大きな課題でした(写真1「露地をふさいだ賃貸住宅」(14K gif))。

   

 一方、 屋敷町との名前が示すとおり、 昔からの地主さんが住んでいた大きな宅地もたくさんある地域で、 屋敷林だけが残っていたりしていました(写真2「屋敷林が残っている」(12K gif))。

また都市近郊の農村集落特有の消防器具庫やお地蔵さん、 細い水路など懐かしいものもけっこう残っていた地区です。

   

道路の状況

 道路は自然発生的にできていて、 細い2〜3mぐらいの道路に接した住宅が多く、 いろんな課題をかかえています。

個別に建て替えるのは無理で、 大半が街区単位で対応しないとどうしようもない地域でした(資料3「協調・共同建て替え課題敷地抽出図」(170K gif))。

   

 周辺地区は過去、 大正から昭和にかけての耕地整理や戦災復興区画整理事業でグリッド状の街路が整備されていったのですが、 森具地区だけはその動きから取り残されてしまいました。

大都市近郊にはこうした集落はいくつもありますが、 そのような農村集落特有の特徴を残したまま市街化がすすんだ街区を、 どうやって安全な街にしていくのかが今回の震災復興の大きなテーマでした。

   

 以上のことを頭に入れていただいた上で、 以下少し詳しくお話ししたいと思います。

   

森具地区の復興街づくり

森具地区の歴史

 森具地区は屋敷町、 弓場町、 松下町、 川西町の4町が関連しています。

西宮えびすを西に行って、 初めて出会う集落が森具村という位置でした。

市街地の形成過程は、 西国街道沿いの森具村が発展していったもので、 明治40年頃までは集落の周辺は果樹園や農耕地のほかは何もなかったところです。

   

 明治40年に、 阪神・香炉園駅が開設され、 それが交通の要所となりました。

同年に遊園地の香炉園、 海水浴場の香炉園浜も開設、 森具村周辺は大阪の船場商人たちの「リゾート住宅地」という経過を辿ることになります。

その後、 森具村周辺は耕地整理がされ住宅地として整っていったのですが、 森具村だけがこの震災まで農村集落の形をとどめて市街化していったのです。

   

 したがって、 この地区の建物はかなり老朽化が進んでいました。

また、 交通の便がいい地域であることから、 構造的に地震に弱い賃貸住宅も多くあったので被害が大きくなってしまいました。

   

 ただこの周辺には、 阪神間の歴史を形作ってきた教育施設や文化施設が数多く立地しています。

大谷記念美術館や辰馬考古資料館、 海岸部の菊池貝類館がありますし、 甲陽学院中学、 大手前女子大などの学校があり、 地域として文化的ないい雰囲気があります。

そうした文化的なものや、 集落が持っていたヒューマンな雰囲気の良さを今回の復興計画に生かすべきだろうし、 それをどう生かすべきかが大きな課題になっています。

   

森具地区の震災前の状況と被災状況

 区域面積は10.5ha、 人口1850人、 830世帯で、 土地の権利者は440人でした。

従前の土地利用は、 1.37haが道路、 9.13haが宅地で、 公園はゼロでした。

公共の土地としては約13%しかなかったわけです。

   

 住宅については4町単位(屋敷町、 弓場町、 松下町、 川西町)で数字を拾い出したものですが、 戸建32%、 低層共同29%(木造賃貸も含む)、 中高層39%という住宅構成でした。

被災の状況は、 屋敷町での中高層以外の戸建、 低層共同の約9割近くが全半壊した数字を筆頭に、 この地区の被害がどれほど大きかったかを物語っています。

   

 町別の死亡者では、 屋敷町36人(2.75%)、 弓場町23人(1.54%)の数字が出ていますが、 震災の被災地域で従前の人口に対する死亡者比率が1%を超える町はそれほどありませんでした。

それを考えると、 屋敷町の2.75%の死亡率はかなりすごい数字で、 この数字を計算した時は大変な事態だったんだなと実感した次第です。

   

まちづくりの課題

地震と共生する安全なまちづくり

 地震は自然災害ですから、 どんなに強固なものを作っても人間の力では限界があります。

ですから、 地震と共生するという考え方で、 人間が死なないような適度に強固な街づくりをしていこうと思っています。

   

 そういう街づくりの前提としては、 適切な避難路、 救援にも使えるような地域を結ぶ準幹線道路を整備すべきだろうと思います。

また、 密集した地域や1mの道しかない所には適切な生活道路の整備や一時避難拠点となるような公園の整備が必要です。

   

 こういったものを整備していくには、 やはり土地区画整理事業を使うしかないだろうと思います。

   

住宅の早期再建

 仮設住宅に入ったり遠くに避難していった人達から、 早く住宅が欲しいという声がかなりあります。

もちろん、 基本整備が出来た後、 個別建替えをするのが最も望ましいのですが、 この地域には小さな宅地がたくさんあり、 建ぺい率60%という枠では従前の建物が建てられないことになりました。

これは、 もともとが違法建築の住宅だった例も少なくありません。

例えば60m2の土地に100m2、 120m2の建物が建っていて、 震災後それが違法建築であることが明らかになり、 元の家が建てられないという話がかなりあります。

それにどう対応していくか。

   

 また個別バラバラに建て替えるのではなく、 街並みを意識した「協調建替え」をどう誘導していくべきか。

高齢者が多く新たな住宅ローンが困難であることから、 宅地の等価交換方式による共同住宅などを提案してきました。

これらを早く作りあげるためのシステム作りや合意作りが大変でした。

   

安心して住める快適なまちづくり

 実際には、 このタイトルのようなところまで話は進みません。

街の基盤を行政と強調しながらつくりあげていくのが当面の課題で、 その後どういう街にしていくのかはなかなか課題に上がりませんでした。

   

 9割以上の人は森具を離れたくないという意志を示しましたが、 それは生活の利便性(通勤の良さ、 周辺の文化・公共施設の立地)以上に、 集落の持っていた人間臭さを早く取り戻したいという意向が強くありました。

その思いをどう作っていくのかが大きな課題でした。

   

 提案としては、 道路・公園を復興のシンボルと位置づけて豊かな景観、 環境のベースとしていこうと話しました。

その上で、 地区計画、 建築協定、 緑化協定を結んでルールを決めた美しいまちづくりをしていこうと話し合ったわけです。

   

福祉のまちづくり

 この地区の世帯主の4割が65歳以上であり、 今後高齢者への対応が必要だろうということで福祉のまちづくりを話し合いました。

内容は、 街区単位のボランティア組織、 地域のコミュニティ活動、 地域にあった比較的大きな病院と連携するデイサービスネットワークなどです。

   

まちづくり案作成の仕組みと経過

まちづくり三人四脚

 「まちづくり三人四脚」と申しますが、 3人とは地元、 西宮市、 コンサルタントのことでお互いが自分の役割を認識しながら目標に向かってスムーズに連携しあう姿勢が一番大切だったと思います。

特に、 事業の立上り時期のちょっとしたことが、 その後うまくいったり反対に進まなかったりの根にあるようです。

   

 西宮市は、 1995年1月17日〜3月17日にかけて区画整理区域の設定と計画素案づくりを行ない、 3月17日に区画整理区域の都市計画決定を行ないました。

資料4「95年3月17日に出された都市計画決定」(170K gif)がそれですが、 縦横十文字の道路はもともと都市計画決定されていた道路で、 市としてはそれを実現したい意向があったようです。

また、 公園がこの地区になかったことから2700m2と2600m2の街区公園を計画に入れ、 あと区画道路をとるという案です。

   

 これは時期的に住民に何も聞くことなく計画されたもので、 区画街路はかなり広くとってあります。

新興住宅地での計画ならともかく、 狭い宅地が半数を占める地域でこういう道路を通すと、 街並みが形成されません。

住民サイドからは区画整理反対との声が強く出て、 それがきっかけで地元協議会づくりが始まりました。

この動きに対して西宮市は「地元案ができるまで待ちますよ」というスタンスをとり、 その対応の仕方が結果的に良かったように思います。

   

 地元協議会が発足したのは、 4月16日です。

この時期までは当然のことながら自分のことで手一杯という状態でした。

震災のショック状態が長く続いていたのですが、 自分たちも立ち上がって何とかしなければと動きだし、 「香炉園森具地区まちづくり協議会」の発足へとこぎつけたのです。

その中に、 まちづくり部会、 共同化部会、 生活再建部会と3つの部会が結成され、 各委員会や総会のシステムが作り上げられていきました。

   

事業屋と計画屋の二面性

 以上のような状況の中、 私たちコンサルタントは西宮市から委託を受け区画整理事業を共同で行なうと同時に、 地元協議会主導のまちづくり事業にも相談役として参加しました。

二面性を持ったわけです。

   

 もともと区画整理事業とは、 区画整理設計標準とかマニュアルがきっちり出来ているもので、 それが国や県主導のもとで実行されていくものです。

そこに登場するコンサルタントとは区画整理の専門家、 いわゆる「事業屋」でいろんな換地のことを考えて絵を描いていくのですが、 作業はどちらかというと機械的になります。

「事業屋」はまず区画整理が最初にあって作業を進めていくのです。

そういう機械的な絵では地元に受け入れられません。

   

 一方、 われわれ「計画屋」は、 地域の歴史や風土、 どこに誰が住んでいてどんなもの(道祖神とかお地蔵さん等)があるかを素材にして、 どんな町ができるかをコンサルティングしています。

   

 私は、 まちづくりには事業屋と計画屋の2つの側面が必要だと思うのです。

どんなに面白いまちづくりの絵を描いても、 それが事業として成立しなかったら意味がありません。

ですから事業屋と計画屋の連携がどうしても必要で、 今回の森具の場合はそれが一つの組織の中でできたわけで、 その意義は大きかったと思います。

西宮市案、 地元案の2つが徐々にすりよってまとまっていきましたが、 私たち「まちづくり屋」がいなかったら多分この事業は成功しなかったのではないでしょうか。

   

 また、 もうひとつ成功の大きな要素に、 地元協議会にまちづくりのキーマンになる人がいたことがあげられます。

いろんな人がいますが、 今回は専門知識のあった人がキーマンになっています。

つまり、 我々と共通の言葉で話すことが出来たわけです。

普通、 地元協議会で専門知識のある人はおらず、 そのせいでコンサルタントや行政と断絶してしまう不幸な結果になりがちなんですが、 その点森具の例は有利だったとも言えるわけで、 事業が進み始めました。

   

 平成7年5月13日に第1回まちづくり協議会の総会が開かれ、 以降平成8年2月まで9回のまちづくり部会でいろんな議論が出されました。

   

 都市計画道路や公園についても「本当に6m道路が必要なのか」「いらないから減歩を減らしてほしい」という意見が出て、 実際6m道路のある町へ行ってみたり5000m2の公園を見に行ったりしました。

そんな地元の体験にもとづいて計画案をまとめていき、 資料5「最終案」(177K gif)が最終案として出されていったのです。

   

 この案の特徴は、 (1)公園を復興のシンボルとして街の中心に据える、 昔の森の復活、 (2)区画道路は、 自宅再建が可能となるよう宅地のプロポーションを考慮して配置。

また市の素案で出た、 幹線道路に対して区画道路が横切る形は安全を阻害するためとりやめ、 Uループのような街路パターンをとる、 などです。

   

 これらはすべて地元協議会の中で決めていったのですが、 その過程で我々コンサルタントもいろんなスタディを提示しながら最終案づくりのお手伝いをしていきました。

   

 それらの案に対し、 行政も「被災市街地復興特別措置法」で、 普通補助対象の道路は12mなのを8mにしているのですが、 森具の場合さらに6m道路も補助対象に適用されています。

   

 平成8年2月29日に最終案の認可が下り、 現在仮換地をしていく手続きに入っています。

夏ごろ仮換地を指定して、 秋には着工に入れるようにしていく予定です。

   

減歩について

 減歩率については、 震災直後に西宮市長が「減歩率は10%以下にします」と発表し、 それにもとづいていろんな手法がとられています。

最終案にもとづいた森具地区の減歩率は21.5%になるのですが、 市長発言にもとづくと、 11.5%分用地買収をしなければなりません。

それで市は13000m2を買収することになり、 減歩率も10%以下になりそうでほぼ目的を達成できそうです。

   

 また、 小規模宅地(西宮市の場合90m2以下)は基本的にノー減歩で、 減歩しなければならない場合はお金で清算することになりそうです。

   

住宅共同化

 区画整理事業の進展と同時に重要な課題が、 住宅の早期建設と自力再建が困難な高齢者用の住宅建設で、 これは住宅の共同化をしようという話を進めています。

共同化については、 昨年5月13日の第1回総会で呼び掛けをし、 その後共同化部会を設けて6回の勉強会を開催しました。

今年(1996)の4月21日には共同化準備会を委員会組織として「森具地区復興共同化委員会」を作りました。

現在28権利者が集まっており、 その所有している土地2060m2を一体的に換地して共同化事業を行なっていこうという計画です。

それに併せて共同化事業のコーディネーター、 等価交換方式で行うのでその事業のディベロッパーを選任、 具体的にスタートしました。

   

 ここに至るまでにはいろんな話が出ました。

「自己資金ゼロでもできるのか」「元の宅地でどのくらいの床が手に入るのか」などをコンサルタントとの間で何度も話し合いながらまとめていきました。

当初は50〜60人ほどが共同化の勉強会に参加し、 何ヶ所か共同化の場所も検討していたんですが、 今のところは28権利者で1カ所の共同化計画になっています。

   

補助制度

 共同化事業にもいろんな補助制度があるのですが、 市の補助要綱ができないとこちらは対応できないという不便さがありました。

区画整理事業の進捗に併せて市の他部局の対応が必要だと思うのですが、 縦割り行政の弊害でうまくいきません。

この共同化事業には、 「住市総」(住宅市街地総合整備事業)の補助でいこうということが決まりつつありますが、 どのくらいまで補助が可能かという点については、 今後の詰め次第になります。

   

その他関連事業

 震災前にいた約450世帯の借家人や自力再建が困難な権利者の早期住宅建設のため、 公営賃貸住宅建設を計画しています。

そのため、 「密集住宅市街地整備促進事業」を導入する予定ですが、 その建設を地区内にするか地区外にするかで今議論が進んでいます。

   

不便な制度が多い

 これらの事業は他地区の復興事業と比べたら、 比較的うまくいっているそうで、 建設省あたりも注目しているそうです。

   

 しかし、 うまくいっていると言っても、 共同住宅を例にとると、 小規模宅地は地区内に分散していて飛び換地してひとつのブロックにしにくいという問題をかかえています。

地権者同士のいろんなトラブルが発生する可能性が高いからです。

   

 そういう問題を回避するために、 特別措置法で「復興共同住宅区」という制度があるのですが、 これが現実の動きに合わせて作った制度ではないためうまく機能しません。

   

 「復興共同住宅区」は、 特定土地区画整理事業の「共同住宅区」を参考に作られたのですが、 特定土地区画整理事業と今回の震災復興では置かれている状況が全然違うのです。

それを理解しないで作った制度ですから、 「復興共同住宅区」は今回スムーズに適用できませんでした。

適用しようと思ったら、 建物計画と仮換地をどうするかなど様々な問題を煮詰めていかなければならないのですが、 今回のように共同住宅の合意形成までは1年以上かかってしまうわけで、 区画整理事業の進み具合と共同住宅化の進捗度に大幅な時間差があるためうまく適用できません。

国の方では、 超法規的なことも含めて対応していると言っていますが、 現実の動きの中ではうまく利用できる制度があまりないというのが実感です。

   

これからの課題

 もう一つの問題点としては、 もともと中高層の建物がそんなに建っていなかった地域ですから共同住宅建設地の近隣の住民からクレームがつく可能性があります。

今まではうまく事業が運んでいますが、 これからいろいろな問題が出てくるでしょう。

   

 また地元協議会のキーマンたちはこれまで自分の時間を割いて努力してきましたが、 事業認可が下りてしまうと後は仮換地の話だけになるので、 まちづくり全体についての意識が薄れてきているのが気になります。

   

 多分、 この夏に仮換地が指定されたら、 その段階からまた新しいまちづくりのいろんなステップが始まるだろうと思っています。

今まではほとんどの人が自分たちの家がどうなるかに精一杯で街全体についてはその次という姿勢でしたが、 自分たちの家の位置が大体決まってくる秋以降、 もう一度地区計画や建築協定の話をして街並みをどうするのかの話し合いが必要だと考えています。

   

震災復興事業全体の問題点と課題

事業立上げ時の問題

 地元住民が震災ショック状態である時に、 そのショックを理解せず、 行政が先走ったことが問題としてあげられます。

行政主導でともかく建築制限のある2ヶ月をクリアするため事業先行でことを進めたため、 住民にとっては寝耳に水の話となりました。

したがって復興事業を理解する機会のないままで、 反対のための反対というケースも生じました。

   

 まずまちづくりは誰のための計画で何を目的にしているのかを、 行政・住民が早く理解しあって、 計画に向けて最大限の歩み寄りをするべきでしょう。

そういう理解が双方にあれば、 うまく妥協点を見出すことができるのではないかと思います。

   

ボランティア参加による地元案の正否

 当初いろんな人がボランティアで参加しましたが、 区画整理のことをよく理解しないまま勝手なことを発言して地元を混乱させた例が結構あったようです。

そこで生まれた住民と行政の溝はなかなか埋まりませんでした。

   

 区画整理と街づくりのコンサルタントが一対になって対行政・対住民に対応していればそういうこともなかったのですが、 街づくり・区画整理の知識のない人(特に建築家に多かったようです)が建築デザインや建替えの話ばかりで先走って、 地元に無用な心配が広がったこともあると思います。

   

区画整理の考え方について

 区画整理は事業手法としてはいい手法だと思いますが、 まず区画整理以前にその地区が地域に合った街づくりをしていくべきではないでしょうか。

ランドスケープ、 アーバンスケープ、 路地などヒューマンな空間づくりも含めてどんな街にしたいかが前提にあって、 それを実現するために区画整理事業を使うという発想がとられるべきなんです。

   

 しかし現実には区画整理だけあって街づくりはないというケースが結構あります。

私は今回の復興区画整理だけでなく、 全国のいろんな区画整理事業に携わりますが、 どうも設計標準やマニュアルだけで決められていくという気がします。

いろんな街独自のまちづくり案があっていいと思うのですが、 それがあまりない。

区画整理屋は土木出身の人が多いのですが、 そういう人達は今後環境デザインとか街づくり計画を勉強してから事業に参加するのでないと、 日本の街づくりもあまりよくならないんじゃないかと思います。

   

今後のまちづくりの課題

(1) まちづくりには地元でのキーマン、 リーダーが必要です。

そういう人がいない場合は、 総合力のあるコンサルタントが参加していくべきでしょう。

(2) 森具の場合、 今後仮換地指定後の建物の建設をうまく誘導して、 従前以上の良好な街並み景観を作っていくための活動が必要だろうと思います。

(3) マスコミの報道は今回ひどかったと思います。

住民と行政の間の小さな溝をセンセーショナルに表現して反発し合うようにしてしまいました。

本来マスコミは両者が理解し合えるような情報提供サービスをすべきだと思うのですが。

マスコミはトラブルが勃発したら来ますが、 うまくいっているときは来ないですね。

マスコミに対する情報の流し方は、 我々も注意しなければならないと思います。

(4) 森具地区のような都市近郊の農村集落市街地エリアを整備するため、 平成8年に建設省が「安全市街地形成土地区画整理事業」を創設しました。

発想としてはいいと思うのですが、 参考図を見ると「区画整理」「安全」ばかりが表に出ていてあまり面白くない。

その集落が本来持っているヒューマン性や楽しさがつぶされる絵になっているのです。

 私としては、 集落の中のうねった細街路を基盤として生かしながら、 消防車が通れたり乗用車が2台すれ違えるよう街路を何ヶ所か整備したら、 あとは以前の街区形態を尊重する区画整理があってもいいと思うのです。

しかし、 建設省は「防災」「安全」をメインに考えているようです。

   

(5) まちづくりでは、 その地区だけでなく広域的に道路ネットワーク、 公園の配置、 緑のネットワークをスタディすべきです。

  森具を例にとると資料6「森具らしいまちを復興するため、 まちづくり協議会に当初提案した素案」(170K gif)、 既存の道路をうまく利用してクルドサック形式の道路に協調建替えの建物を並べ、 その中に井戸を生かした「路地尊・スクエア」を作っていこうと提案しました。

また15mの縦横の道路にはゆるい蛇行を入れて歩道空間を豊かにしようとか、 地区を東に行くと西宮えびすがあるので東西道路は「えびす道」として、 ボラード(車止め)に「えびすさん」のイメージの鯛をモチーフにしようとかを話し合いました。

それに南北の道路を北に行くと大手前女子大があるので、 その道路は「女子大小路」にしてボラードを「女子大生の足にするのはどや!」という話も出ました。

中央の公園には森具の森を復活させるという提案が出ています。

   

 こういう話をベースにしながら、 まちづくり案をまとめていきました。

そして道路や公園をこうしたいという案を協議会として市に出したり、 勉強会を開催して計画を詰めていったわけです。

   

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