いくつかの市販ガイドブックから、この個性らしきもの(「地域イメージ」と言い換えてよい)を表現するフレーズを抽出・列記すると次のようである。
すなわち、「緑」「ストリート」などに該当するのは植物園・鴨川・高野川、それに当の北山通りと北側の後背丘陵地などで、しっかりした地域基盤となっている。「変化」というボキャブラリィは、この新しい町と近傍の上賀茂神社や社家町などの歴史的環境との関係として捉まえることが出来る。また、そこここに残る農地が「進行形」「若さ」を感じさせる要素ともなっているといえよう。そういう場所がらや環境のよさをわきまえた商業者の選択が、郊外進出志向の老舗による和風伝統調から、英語・フランス語などの横文字のきらきらした名前にまで広がっていったとしても不思議ではないし、日常性からは離れた飲食系店舗(喫茶・レストラン・バー……)やインテリア、ブティックなどファッションを売りものにする業態にウエイトがかかるのもまた当然の結果であろう。これらの店舗構成は、「若さ」「変化」「洒落っ気」などのイメージを演出する主役としての役割・評価を得る理由にもなっている。
北山通りがこのように明快なイメージを獲得することができた背景をのぞき込むと、あきらかに京都商人の思考法の存在を読み取ることができる。ファッショナブル・ストリートの形成過程を振り返ることにより、このことを示してみたい。
こうして次第に一帯の市街化が進行していったわけであるが、明治28年(1895年)開学の京都府農林学校(現、京都府立大学)、昭和5年(1930年)吉田から松ケ崎に移転してきた京都高等工芸学校(現、京都工芸繊維大学)のほか、昭和40年(1965年)前後には、ノートルダム女子大学、府立総合資料館が開設され、近接地においては宝ケ池公園ならびに宝ケ池国際会議場(国立京都国際会館)の整備がすすめられてきた。
これらの立地条件と大規模文教施設の整備などの文化的環境という条件のなかで、北山通りのまちづくりが失敗する筈がない、という言い方も可能であろう。しかし、ことはそれほど簡単でもない、といいたい。
その「喫茶レストラン北山」は、通りの西半分が開通したばかりの1965年に現在地に開設された。オーナーの岩崎次郎氏は、当時京都の中心繁華街である河原町四条近くで同種の店舗を経営していたが、思い切って、見渡せば農地ばかりのこの土地に進出した。といっても府立植物園、そしてこれも竣工したばかりの府立総合資料館に面する角地という条件はしっかり押えられていた。これに加えて、通り北側のすぐ裏手には上賀茂から松が崎につながる丘陵がせまり、かつ先記の文化施設ストックが形成されるなどの〈環境のよさ〉、そしてはじまったばかりの車時代への適応性からする〈車によるアクセス〉。
市内都心部には見出し難いこのふたつの条件が、常日頃から事業・経営に創意工夫を凝らし、個性的な商売を目指している元気な若手経営者を呼び寄せることになったと岩崎氏はいう。北山通りや周辺一帯の商店経営者の多くは、京都のマチナカからやってきた個性的オーナー(在来の店舗をも合わせて持ち続ける人が多いともいう)なのだ。彼らは、こんな面白い店をつくったからとお得意さん連中に声をかけ、この北山通りに人びとを呼び寄せることから始めた。
こうして客つきの店舗が新しい通りにでき上がり、客の往来がさらに人を呼ぶという連鎖反応によって町の評判が高まり、これが世の中に急ピッチで広まっていった。先記のごとく、しゃれた車を乗り回すかっこよさが若者の心を捉えたこともこれに拍車をかけた。
近傍地でオフィスを構える国吉公一氏(建築家)は、このような経営スタイルは今でも維持されており、もともとの地域在住者による開設や京都以外から入ってきた店は多くないという。言い換えると、北山通りは京都の町衆がつくっているモダンな町なのである。
鴨川畔から植物園の東側境界までのおよそ800m区間に店舗等を開いているオーナーたちが集まり、「北山街協同組合」を結成したのは、94年12月である。町の成熟度に比べると、ずいぶん遅れたといってよい立ち上がりである。彼らがただちに取り組んだ事業は歩道のみかげ石舗装化と水銀灯設置である。それは地域環境としてのおしゃれ度を高めるに十分な、気合いを感じさせる仕上がりになっている。
商店街としてのこれ以外の共同事業については、かれらはあまり活発ではない。ふつうに取り組まれる歳末等の売り出し事業や共通看板整備などには取り組んでいない。望まれているところは、この町で商売したい人のためのハードの環境づくりである。それだけで十分であって、その他のソフト事業はそれぞれのオーナーが個性的にすすめるのが一番、という考え方に納得している人が多いのである。集まって相談ずくですすめる共同作業は減らして、つき合いはクールに止めておこう。個人の力をフルに発揮しながらの商売の継続と積み重ねこそが、人びとの納得するようなまちづくりにつながるとする構え方、あるいはそういう態度・作法は、実は伝統の京都町衆の視点と共通するものといえるだろう。
歴史的マチナカから、この北山通りに出てきた人びとがつくる町であってみれば、あたり前のものの考え方であるといえようか。
ここでもやはり、個性的な経営者が昔からつき合ってきたデザイナーや新しく自分の好みでセレクトした建築家による思い思いのデザインが展開されている。
統一的な町並みをデザインしようという心積もりはここにはない。スタイルとしてはばらばらだが、ひとつひとつの建物が豊かなセンスを表出することによって総体としての魅力が生まれてくる。これが、この町の元気印のオーナーたちのスタンスと自信であるといってよい。発光体の集合としての町とでも言うことができよう。
北山通りのファッショナブル・ストリート化は鴨川と植物園に近い西側のブロックからはじまり、この一帯をおおむね使い切った後、こんどは通りの東端・高野川側から西方へ攻め寄せつつ展開している。これは早期に完了した区画整理によって中間部では住宅地化が進行していたことと関わっている。先のバブル景気と崩壊との関係で言えば、一時期、域外資本によるハイテク・ハイデザインの流行感覚豊かな建築群が参入したが、客層をまとめ切れずに結局は退散したという経緯もある。
そのような消長はこの町を襲いもしたが、いまは再びマチナカからの第2世代とでもいうべき若手経営者が、草分けの第1世代と同じように、みずから顧客を引き連れて北山通りに店舗を構え出しているという。若者向けのブランドを揃えるブティックであり、海外で修業してきたヘアデザイナーであるなど、まさに第2世代の客のための店づくりがすすんでいるのである。
このように北山通りは、京都人を相手にした京都商人のつくる個性的ファッショナブル・ストリートとして定着してきている、ということができる。
そして、意外にもその町並みは、それぞれが派手さと個性をまき散らすような一種あられもない格好を見せており、歴史的京都の町家群がつくる〈しっとり感〉とは対極にある。これを「非京都の町並み」と批評する向きもあるが、肯定的にみるなら、北山通りは新しもの好きの京都人という伝統が体現した「非統一型の町並みタイプ」とも見てとれる。
北山通りは、その〈環境のよさ〉と〈車によるアクセス〉を生かした仲々に面白い町として整いつつある。誰が入ってもなんとかなるほどの恵まれた条件であるかも知れないが、これを押しのけて、京都の若手経営者が中心になってでき上がってきた所がもうひとつの面白い点である。古い京都のもつ底力を再確認するとともに、ここに悪くない格好の「非統一型町並みデザイン」の一例がまさに自然にでき上がって来ている点に新しさを見ることができる。