前半の5、 6年がバブル期で、 それ以降はバブルの崩壊過程です。
ところで、 まさにこの時期に、 日本の都市環境デザインが花開いた、 非常に元気づいたということがあります。
それをどう考えるか、 みなさんと一緒に総括してみる必要がありそうです。
バブルになって、 都市開発や公共投資が活発になり、 また一方でそれまでの思考の型というか枠がはずれてきて、 かなり大胆にいろいろなことを自由にやるようになった。
デザインの世界でも少々俗っぽく言えばクライアントも鷹揚になってデザイナーもやりたいようにやれるようになったと言った方がいいかもしれませんが、 こうした流れの中で、 いろいろな発想なり考えが出てくる。
そういうことが全般的にあったわけです。
長年都市環境デザインを主張していた私たちにしてみれば、 それ以前の都市環境デザインからの延長で考えたいわけですが、 どうもここで切れてしまっているようです。
建設省も新規の投資が困難になり、 改良事業でしのいだ時期があるわけです。
80年代の初頭です。
用地取得を伴わない改良事業ということで、 その中にモールの事業とか公園のデザインのやり直しだとか、 親水護岸だとか、 そういうものが含まれています。
それだけでなく、 価値観やライフスタイルなども多少は変わったかと思えました。
それまでも先進的な都市で、 景観、 特に歴史的な景観や自然を守るという意味での景観がずいぶん言われていました。
それを建設省が本気で取り組みだしたのが83年とか85年ぐらいです。
これも80年代前半の落ち着いた雰囲気の中でそういうものを志向したのだろうと思います。
それが80年代後半に始まったバブル期には、 一気に都市開発の方向で動き出し、 それまでとは打って変わった流れの中に全体が乗っていったわけです。
都市環境デザインもその流れの中にありました。
アメリカから入ってきた言葉ですが、 アメリカの場合はもっと端的にスーパーブロックの計画、 デザインを指していました。
アメリカでは老朽化したブロックの再開発、 リニューアルが進行していたのですが、 そういうことに取り組む職能とか、 プロフェッショナルがいなかったのです。
そこでその教育が緊急課題となり、 1950年代の後半のことですが、 ハーバードやそのほかの大学で大学院の学科やコースが開かれました。
こうした動きが日本に紹介されたわけです。
このときのアーバンデザインの理解は、 地区スケールあるいはスーパーブロック、 さらに街区のスケールの、 特に建築群の扱い方に関するトレーニング、 そういう分野が一つあるだろうということでした。
もうひとつの側面としては、 大きな敷地で一人の建築家が扱う建築群とは違って、 複数の事業主、 あるいは設計者がいる中でどう建築群を調和のとれたものにしていくのか、 ということが課題になるのが都市デザインだと理解されていました。
しかし、 そうは言っても実際には複数の事業主体による建築群の開発などという例は現実にはなかなかなかったし、 既存の街の中ではとても現実的だとは思われていませんでした。
例えば郊外の住宅団地をみても、 いうなれば住宅公団が複数の住棟を1人の計画者あるいは設計者にデザインをさせるというものが通例のやり方で、 ここを仮に“団地”らしくなく多様な表現をとってデザインしたとしても、 これは擬似的な都市デザインでしかなかったわけです。
新宿の副都心のような例もありますが、 あれは区画整理の宅地分譲に近く、 計画論的に公開空地を取って超高層を建てるというただそれだけの約束事で始まったもので、 アーバンデザインとは言うにはプリミティブに過ぎます。
大阪の駅前の都市改造の再開発も、 複数の建築になっているわけですが、 基本的には単一の事業主体がやるというものでしかなかったのです。
もちろん皆無だったとは思いません。
住宅地のデザインなどにはこれに近い試行もありましたし、 既存の街なみにおける建築を誘導しようとする努力もありました。
地区スケールとか、 スーパーブロック単位での開発や、 複数の事業主体による開発が続々と登場し、 現実のものとなったのはバブル期です。
もちろん前から準備はされていたのだろうとは思いますが、 例えば、 大阪でいえばOBPだとか、 いくつかがこの時期に出てきました。
アーバンデザインが考えていた建築群の構成を主体にする都市環境デザインがようやく活動の場を得たのがこの時期であったわけです(図1、 画像をクリックすると大きな画像とキャプションが出てきます)。
3Kどころか5Kだとか、 土木という名前を社会基盤なんたらとかそういう名前に変えたいという時期があったのです。
と同時に、 土木にももう少し魅力的な分野を開拓してイメージアップする必要があるということで、 よくよくみれば建築系の人がデザインをいろいろやっているモールを始め多くの公共施設や空間も、 もとをただせば土木の縄張りではないかというようなこともあって、 少し自分たちが作るものをデザインしていかなくてはいけないということになってきました。
そんな中で東工大の中村先生とか、 東大の篠原先生とかそういった土木の方々がパイオニアとして一生懸命やられ、 土木全体の中にも浸透してきました。
土木で採り上げやすいのは橋です。
橋は、 歴史的にデザインの対象としてすでにあったわけです。
そういったあたりから取り組もうということです。
このほかにも河川やダム、 港湾などでも随分とデザイン活動が活発になってきています。
このように改めて土木でデザインを採り上げる意気込みが、 建築の方で使っているアーバンデザインという言葉を嫌って、 シビックデザインという言葉で取り組もうということのようです(図2)。
それも、 先に述べた時代的な背景があってのことだろうと思います。
あまり勝手なことを言うと、 篠原さんや窪田さんに叱られますので、 本当のところはそちらにも確かめて下さい。
あまり簡単にくくってしまうと、 ここでも多くのお叱りを受けそうですが。
それから、 その当時、 環境色彩デザインを先進的に取り組んでいるフランスに勉強しに行って帰ってきた吉田さんのような人がいたりとか、 産業デザインの世界でも色だとか照明だとか色々な角度から、 ただモノのデザインだけでなく、 環境のデザインに参加するということがちょうどこの時期に行われました。
これは専門家同士のコラボレーションとしては当たり前と言えますが、 ひとえにバブル経済で都市環境デザイン分野の仕事が増え、 余裕があったからだろうという気がします。
そもそもランドスケープデザインと言うようになったのはいつ頃のことか後でランドスケープの方にお伺いしたいと思いますが、 長い間造園というかランドスケープデザインを見てきて、 この分野も活性化したのはバブルの時期だろうと思います。
無論、 公園や緑地のデザインは、 60年代から70年代にかけて団地やニュータウンの計画などでかなりの水準に達していたと思います。
これはわが国だけでの話なのか、 パリのシトロエン公園とかラヴィレット公園だとかといった世界的な動きの中でこれらの触発的な事例があってということなのか、 たぶん全て含めて軌を一にして動いているのだろうと思いますが、 従来のいわゆる造園とは違った動きが目立ってきました。
その前からも公園行政を進めている人たちと、 それとは別のランドスケープデザインをする人たちとの意見の対立があったと私は理解していますけれども、 それが非常にはっきりとしてきたのもこの10年だろうと思います。
地域のデザインとか都市環境デザインそのものに目が向けられてきて、 そのうちもっと発言力をつけてくるように思っています。