土田さんはヨーロッパから帰ってきたばかりで、 プラハの印象が強いようです。
この会場の窓から外を見るなり、 大阪は汚いと、 おっしゃっていました。
我々は色々な場所を見ることができるそういう時代になってきていますので、 そういうことが環境づくりにずいぶん反映していくことは事実であります。
ギーデオンが30年ぐらい前に書いた「空間・時間・建築」という本があります。
芸術という観点から建築を論じようとしたものです。
その第2巻目の終わりの方に古い芸術の方が分かりやすいという話が出ていました。
我々は古い芸術には結構関心があって理解できます。
例えば、 宗教画とか風景画とか、 日本でいうと墨絵とかそういうのは結構理解できるのですが、 ピカソあたりからだんだん分からなくなります。
美術展でも、 分かりやすい展覧会にはたくさんのお客さんが行くのですが、 新しい芸術になるとほとんどお客さんがいないというような状態で、 前衛的な芸術はなかなか理解されません。
そういう芸術が100年経ったら理解されるかというと、 どうでしょうか。
100年経ってもまだ宗教画とか風景画がいいといって、 そういう展覧会が開かれているのではないかとそんな気もします。
近代が色々な芸術活動をやって、 人間の可能性を試しているのですが、 必ずしもそれらは残っていかないかもしれません。
そういう面からアーバンデザインとかそういう議論もしてみるのもおもしろいかと思ったりします。
それから全然分野の違う人たちは、 近代を論じる際に我々の分野とはまるで違った議論と仕方をします。
今我々はどういう環境がいいだろうかという話をしていますが、 そういう話を聞いたある社会学の人が、 そういう議論はニーチェの議論であると言ったのです。
ニーチェは人間らしさとか人間の熱情とかにこだわって、 それをどうやって哲学にしうるのかを論じた最後の哲学者だそうです。
我々は今都市理論とかを論じて、 ヒューマンスケールだとか人間的だとか言っても、 人間の深いところはなにも論じていません。
だからこの分野で人間的とか言っても、 非常に浅い人間主義ではないかということです。
だから社会学者の人は、 そういうことを考えるなら、 せめてニーチェを勉強しなさいと言うわけです。
困ったなあと思っています。
そうした議論の手がかりもいずれ考えてみたいと思っています。
今日は、 帰国されたばかりで大変お疲れのところ、 昨日も夜中まで大変だったそうですが、 わざわざ東京からおこしいたきどうも有り難うございました。