序論
その特徴とは、 現実主義的な方向性、 非常に民族的な色合い、 そして、 その他の文化的活動との融合です。
この国の歴史的運命は、 バルカン地域の文化的な文脈の中で、 ブルガリア文化を独立的、 創造的なものとさせることになります(図1、 2)。
ネクロポリスよりも古い、 ヴァルナ(Varna)の遺跡は、 ヨーロッパ最古の文明であり、 世界最古の加工された金が残っているという点で、 歴史的価値を持っています(図3)。
トラキア文化はトロイ文明より、 上位に位置付けられるという意見もありますが、 その発端は、 オリエントの遠い過去にあります。
古代ギリシア人による土地の肥沃化と、 その後の5世紀にわたるローマの影響により、 トラキア文化は、 文化的な連続性を確立しました。
この連続性は、 カザンラク(Kazanlak、 紀元前4世紀)のヴォールトによっても立証されており、 そこではフレスコ画の構成と彫刻が、 古典的秩序に従った建築的空間を、 規定しています(図4)。
トラキア文化は、 黒海沿岸のヘレニズム文化と接触します。
トラキア文化は、 建築、 モザイク画、 フレスコ画、 建築素材の豊かな色彩処理等、 他の芸術分野との相互影響の結果、 世界の代表的文化の一つとなります。
また、 ブルガリアとビザンチンの芸術的伝統は、 初期のローマ東方教会の文化によって、 深く結びついています。
さらに東方教会は、 ブルガリアで共通した宗教であったため、 教会建築は、 トラキア文化において中心的存在となりました。
また、 ブルガリアは、 スラブ国家として初めて、 9世紀のギリシア人、 ラテン地方の共同生活体と共に、 第三勢力として古代ヨーロッパ文化と大きく関わりました。
この結果ブルガリアは、 ヨーロッパや近東と、 密接に関わり続けることになります。
ビザンチンによる支配は、 ブルガリアの政治的、 文化的な独立を奪いました。
その支配は、 その次の、 東方による文字どおりの侵略にとって変わる12世紀まで続きます。
そしてブルガリアは、 文化的自立の過程のなかで、 周辺地域の文化の交流点となりました。
第1期のブルガリア王国の造形美術は、 王国が続いた3世紀の間に、 段階的に変化します。
建築、 陶芸、 石彫芸術は有機的に統一され、 表現の調和を見せています。
その最初の建築ないし芸術作品は、 初期の封建主義の、 強力な中央集権的王政を反映しており、 記念碑的ですが、 また厳しいものでもあります。
それらは、 建築的構成のなかで、 巨大な躯体における熟慮されたスケール、 調和、 そして古典的手法を見せています。
4世紀(シメオン(Simeon)王の時代)に入って、 ブルガリア建築に装飾的アプローチが始まり、 これは後にバルカン諸国の芸術史上、 重要な出来事となります。
封建時代(11〜14世紀、 ビザンチン支配と第二期のブルガリア王国の時代)の盛期には、 造形芸術の共生という潮流は新しい方向に変化します。
ブルガリアの芸術家たちは、 建築、 フレスコ画、 美術の分野でビザンチン派に傾倒します。
その結果、 教会建築は小規模になり、 新しいプランタイプが確立されます。
また、 フレスコ画の規範的な配置は、 後に建築分野の様式を誘導していくうえでの布石となっていきます。
例えば、 1259年に建設されたボヤナ(Boyana)教会のフレスコ画は、 ブルガリアの中世芸術の頂点をなすもので、 人間主義的な表現の原則を示しています(図5)。
封建時代の後期(15〜18世紀)、 ブルガリアの芸術文化は、 ヨーロッパでも非常にユニークな住居形式の創造、 というルネッサンス期の成果に至るまでの、 準備段階にあったと言えるでしょう。
オスマントルコによる長期支配の下、 国家の創造的伝統は、 キリスト教徒にとって重要な、 修道院建築や教会建築のなかで生き続けます。
そこでは、 自然との調和、 他の芸術分野との共生、 人間の姿の現実主義的表現が見られます。
それはまた、 後のブルガリアルネッサンスの精神に沿ったものでもあります。
これらの文化的特徴は、 2つのブルガリアの修道院の独自の制度と、 そしてによって、 そして、 ブルガリアの修道士の高度な文化的活動によって、 バルカン諸国の文化的中心であったアトス山に深く影響しました。