ブルガリアの住まい by ミレーナ・メタルコヴァ
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II

ブルガリア領土の最初の住人たち

    人間が生活していた最古の遺跡が北ブルガリアで発見されていますが、 それは初期の旧石器時代(紀元前10万〜20万年)まで遡ります。

非常に多くの粘土細工が発見されており、 それによって当時の住居の姿と空間意匠がわかります。

通常、 それらは方形(ほとんど正方形)で、 その屋根は鞍型です。

その初期には、 それらは単一の空間から成っていますが、 後に、 空間は2、 3の部屋とナルテックス(玄関)に分割されます。

 

画像bu06     バルカン半島の青銅器時代(紀元前2000年の末)には、 徐々にトラキア民族が形作られ、 遂にはトラキア人国家が形成されます。

セヴトポリス(Sevtopolis)というトラキアの都市の都市計画(図6)は、 ヒポダムス(Hypodamus)の古代ギリシア形式を受け継いでいます。

 

    その特徴としては、 主要な門が2つの大通りを規定し、 また、 矩形の強化された外壁を持つなど、 堅固で垂直性が強い街路システムになってることが挙げられます。

セヴトポリスは、 ギリシアのポリス・システムとは異なる「ツァー(王)」都市です。

例えば、 砦の存在は、 中央に集中された権力と、 強力な階級分けを反映しています。

その砦の中で最も重要な建物は、 非常に装飾的な宮殿および寺院です。

 

    これらの様式的に統一された寺院や、 その支配者の邸宅は、 彼らの持つ二つの権力(宗教的・政治的権力)にふさわしいものです。

彼らの邸宅は大規模で、 部屋は中庭のまわりに配置されています。

両側からその中庭を仕切る、 列柱で出来た二層のベランダを見てもわかるように、 パスタダ(pastada)型の住居の典型と言えるでしょう。

 

A ローマ帝國の一部であった時代

画像bu07     2世紀に及ぶローマ人とトラキア人の激しい戦いの後、 紀元46年、 ブルガリアの領土は、 ローマ帝国に併合されます。

ローマ人は、 三つの地方(ミジア、 トラキア、 マケドニア)をつくり、 彼らはその地に、 非常に発達した奴隷制度を導入しました。

彼らは、 経済的、 政治的な権力を強化するために、 それら三つの都市を発展させました。

ローマ人はローマ駐屯隊の活動のために、 キャンパメント(campaments)と道路システムをつくります。

住居は、 中庭、 ペリスティル(peristil)、 大理石の縁飾り、 モザイク、 フレスコ画、 池によって、 重厚な表現がなされています。

また、 街路は全て、 石版でおおわれています(図7)。

 

B 最初のブルガリア王国

    6世紀のはじめ、 スラブ民族は、 ネスター(Dnestar)川とネパー(Dnepar)川の中流の領地を出て、 当時ビザンチウム領だったバルカン半島を攻撃しはじめます。

6世紀の中頃には、 彼らはコンスタンチノープルに達し、 最後にはソルン(Solun)を包囲し、 バルカン半島のほぼ全域を占領します。

それと同時に先住のブルガリア人も、 彼らの国を出て、 同じ土地に移動して来ます。

 

    先住のブルガリア人は、 中央アジアから来て、 2世紀に、 黒海とカスピ海の間で形成された、 一つの民族です。

はじめ、 彼らはオスゴー(Ostgoth)に対立していたため、 ビザンチウムと同盟していましたが、 すぐに敵対するようになります。

6世紀の後半には、 彼らはアバール人に服従し、 ソルン(620年)とコンスタンチノープル(Konstantinopol)(626年)に包囲されることによって、 彼らとの交流を始めます。

 

    7世紀の中頃、 カーン・クブラット(Khan Kubrat)はカスピ海の近くに、 大ブルガリアという先住ブルガリア人の連邦をつくります。

彼の死後、 この連邦は、 ハザーズ(Hazars)によって破壊されます。

彼の息子の一人は、 ドン、 ネパー、 ネスター川にまたがる勢力の首領であるアスパル(Asparuh)を呼び、 ダニウブ(Danube)の北部に移り住みます。

彼はそこから、 ビザンチウムに対する反撃を始め、 徐々にスタラ・プラニナ(Stara Planina)の北部を征服していきます。

 

    そして、 スラブ民族の生活が安定する一方で、 移住してきた人々と、 先住ブルガリア人の利害関係が一致します。

このような歴史的状況の下、 カーン・アスパルが681年に、 最初のブルガリア王国の基礎を築きます。

この王国は、 複数の種族による政治的な連合体で、 徐々にスラブの言語を受けいれていきます。

様々な種族の、 様々な文化や生活様式は混じり合いながら、 また、 ビザンチンの文化を吸収しながら、 統一された流れに変わっていきます。

この流れは、 民族的なブルガリア文化の基礎を形づくります。

 

    昔から、 ブルガリアは大国の利害関係の中で、 いつも干渉を受ける交差路になっています。

ブルガリア王国の誕生とその発展は、 以下の3つの重要な事実に関連しており、 これらの事実によってビザンチウムに対峙し得る、 国家としての団結が促されます。

 

1. キリル(Cyril)とメソディウス(Methodius)の
兄弟によるスラブのアルファベットの創造

    当時の公式のアルファベットは、 ラテン文字と、 旧約および新約聖書を書くためのギリシア文字です。

スラブの、 アルファベットの採用は、 ブルガリアの文化の独立的発達のための状況を生みだし、 ヨーロッパ諸国に対する、 王国の権威を増大させます。

また、 このことによって、 ブルガリアはヨーロッパで三番目のキリスト教の中心地となります。

 

2. 公式の宗教としてのキリスト教の
受諾(紀元865年)

    このことは、 新しい王国で、 経済的、 社会的、 政治的、 文化的に、 あらゆる面で影響します。

 

3. 王国の広大な領土

    黒海からアドリア海まで、 ダニウブや隣のフランク王国の北部、 及び西部に位置する土地も含んでいます。

このことにより、 ヨーロッパの発展的な国々との接触が可能になり、 また経済的、 政治的、 さらに精神的意味での成長に向けての刺激材料ともなります。

ブルガリア文化は先住ブルガリア人と、 スラブ民族と、 そして融合したトラキア文化との伝統的建築に基づいて発達しています。

また、 この文化は、 黒海のギリシア人、 ローマ人、 初期のキリスト教文化、 ビザンチウムとキリスト教の東方教会にも影響されています。

画像bu08-l 画像bu08-r     第一期ブルガリア王国の頃、 この国の技術は、 成長を続ける封建的関係と、 統一された中央集権国家の権力とに関連しています。

なぜなら、 その支配者と軍の上流階級は、 要塞、 宮殿、 モニュメント、 威厳に満ちた宗教建築物、 後には異教となるキリスト教の寺院を必要としたからです。

この建築の典型は、 街の最大の城塞において説明されるでしょう。

それらは、 プリスカ(Pliska)、 プレスラブ(Preslav)、 オーリド(Ohrid)等の、 都市の城塞です(図8)。

画像bu09     発見された二階建ての貴族の邸宅は対称的プランを確立しています。

西側から部屋が並び、 一つか二つの中央の空間が出来ています。

この形式は、 第二期ブルガリア王国やルネッサンス時代には伝統的形式として踏襲されます(図9)。

 

C 第二期ブルガリア王国

    1018年、 ブルガリア王国はバルカン半島全域と共に、 ビザンチンに併合されます。

この動きはブルガリア文化の独自の発展を停止させます。

1096年と1147年の遊牧民の攻撃や十字軍遠征は、 広範囲にわたってブルガリア王国を破壊します。

1185年、 アセン(Asen)とペーター(Peter)兄弟は王国の内紛と、 ビザンチウムの衰退を利用しながら反乱を起こし、 ストマラ・プラニア(Stara Planina)の北部で独立ブルガリア王国を宣言しました。

イワン・アセン二世(Ivan Asen、 1218〜1241)の時代に、 ブルガリアは再び三海(黒海、 アドリア海、 エーゲ海)まで勢力を広げ、 この国はバルカン半島で最大の勢力を誇る国となりました。

しかしこの覇権は長くは続かず、 封建的分割統治の傾向が強まっていきます。

 

    建築技術も変革を遂げます。

主材料が煉瓦になったこと、 建築的スケールの大きな変化などにより、 装飾主義への強い傾倒や、 室内のフレスコ画の重要性が説明されるでしょう。

また、 後には第二期ブルガリア王国の、 建築技術の独自性を方向付けることになる、 陶製の色彩的な装飾が確立されます。

芸術史上、 この流れはヴェリコ・タルノヴォ・スクール(Veliko Tarnovo School)と呼ばれますが、 その流れの頂点にあるのは、 ネセバー(Nesebar)にある教会です。

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