造園計画者としてのこれからの課題
最後に、 僕が造園を手がけている者の課題だと思っていることをいくつか述べて終わりたいと思います。
まず、 人類が一番最初に木を植えたのは何のためだったのか。 いろんな所で皆さんに質問をするのですが、 あまり納得のいく答えを得られることがありません。 草を植えたら一年以内に収穫できるのですが、 木を植えて果物を収穫するのは何年か先になるのです。 何年か先までイメージして物事を進めるのは僕は苦手なのですが、 先人達は何を考えて木を植えたのか。 これが納得できたら都市で木を植える理由がはっきりし、 またその受益者もはっきりするのではないかと思います。
今日僕に与えられたテーマは「一般論としての緑地の意義」を造園計画者の立場から言えということでした。 「意義」については多分皆さんもすでにご存じのことでしょうが、 ただ誰も説得力のある答えができないテーマだと思います。 それでも、 人間の側の意義はいろいろと言えるでしょうが、 木の側にとって人間は意義があるのかについて、 一度考えた方がいいと思っています。 これを2番目の課題として上げたいと思います。
それから3つ目の課題としては、 ひらがなの「みどり」と漢字の「緑」はどう違うのか。 僕が入社して初めての職員研修で、 千葉大学の田畑先生にうかがって、 僕が「みどりはベランダに置いてある植木鉢で、 信州に広がる緑地とはボリュームが違うのは分かりますが、 質としての違いは何でしょうか」と聞いたところ、 先生は「実にいい質問をするねえ」と誉めてくれただけで、 答えはくれませんでした。 今になるまで疑問は持ち越していますが、 これは多分都市の緑地を考える上で大事な部分ではないかと思っています。
植木鉢に代表される伝統園芸文化は江戸時代がピークで、 園芸の品種を作って固定していき、 しかも植木鉢も品種に合わせて作られていたわけで、 完全に人間の技として生き物を扱っているのです。 それと信州の森とは違うのではないでしょうか。
先週僕は鈴鹿の沢登りに行って来たのですが、 下りてきたら足にヒルがいっぱいついていました。 確かにこういう状態は快適ではないし、 こういう「自然」を人間の空間に持ち込むのは無理があるでしょう。 完全に人間のコントロールに置かれた「自然」とそうでない本物の「自然」はやはり全然別のものだと思います。
4番目の課題は、 草や林、 山も含めて「木の美しさとは何か」ということです。 いい庭で花が咲いてきれいというのはよく分かる話ですが、 ビオトープに生き物がいっぱいいるのは狭い概念で言うとあまり美しくない。 今後、 ビオトープが定着するようになると美しさの概念も変わっていくでしょうし、 最終的に美しさとは「生きる生命の論理」と合致するものになるのかどうか。
最後に、 僕は「造園倫理研究会」といった会を発足させたいと思っています。 自然のものを人間がどれだけ使っていいのかを考える会です。 僕の仲間が貝塚市で、 いっさい人工の物を使わずにトンボ池を作りました。 ただそこは埋め立て地でして、 それでも自然と言えるのかどうか。 それから神戸にパピルス研究会というのがあり、 奥須磨の池でパピルスを植えています。 これは水を浄化して紙も作れるということだそうですが、 「アフリカや南半球にしかない植物を植えることは、 郷土種にとってどうなのか」と言う人もいます。 また、 尼崎にはボランティアの山仕事探検隊というのがあり、 里山管理をしようとしていますが「直径5cm以上の木はかわいそうだから伐らない」と言っています。 はてそれで本当に里山になるのでしょうか。
要するに、 人間が自然と共生するとき、 どれだけ自然を扱っていいのかを考えたいのです。 一切扱ったらダメだということではなく、 人間側の都合とバランスのとれるルールをどの辺で持つのかを考えてみたいと思っています。 それが造園倫理研究会です。
とりとめのない話ばかりをしてしまいましたが、 これで僕の話を終わりたいと思います。
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