このJUDIのテーマは「都市に関わること」だとうかがっています。 私の普段の研究テーマである文学、 特に女性や恋愛についての事柄が、 どう都市と関わってくるのかきちんとお話しする自信はないのですが、 鳴海先生から文学の話でもよいとおっしゃっていただけたので、 私なりにお話ししたいと思います。
さて、 私はもともと演劇を研究しようと大学院に入ったのですが、 日本の演劇には遊女がたくさん出てきます。 それは何故だろうという素朴な疑問から、 遊女研究に入り込むことになり、 現在に至っています。
遊郭にしても劇場にしても、 日本ではかつて「悪所」と呼ばれた都市の中の非日常空間でした。 江戸、 大阪、 京都などの日本の都市は、 こうした悪所、 つまり色里の発展と不可分に結びついて展開してきました。 なぜ都市とともに色里が発展したかについては、 色里の第一の機能は女性の性の商品化であり、 都市は商品化がもっとも進んだ場所だからだというのが近代的な解釈ですが、 私はむしろそれ以外の役割の方が大きかったと思います。
例えば、 資料1『徒然草』(吉田兼好)によると、 「色好みでない男性は他の事がいかに優れていても、 肝心の所が抜けているようなものだ」と言っています。
よろづにいみじくとも、 色好まざらん男は、 いとさうざうしく、 玉の盃の当(そこ)なきここちぞすべき。
徒然草の時代より下って江戸時代にもそうした価値観は生きていました。 資料2『春色梅児誉美』(為永春水)では、 「色は自分の思うようにはいかないものだけれど、 男女の関係を通してどんな無粋な人間でも心が柔軟になって、 人情の機微を知る助けになるものだ」と述べられています。 ここにも吉田兼好の色好み論を継承する視点が見られます。
色は思案の外とはいへど、 物の哀れをこれよりぞ、 しらば邪見の匹夫をして、 心をやわらぐ一助とならんか。
「色」のもっとも大きな特徴は、 男女の肉体的な関係と精神的な関係を差別化して考えないことにありました。
ただし、 誤解を受けないように申しておきますが、 私は買売春行為を肯定しているわけではありません。 色里は体を金銭を介して売買する場所でもあり、 女性にとっては屈辱的な場所でした。
ただ、 色里の微妙なところは肉体的レベルのコミュニケーションを含んだ上で、 一種の文化が成り立っていたことです。 それは歴史的に否定できないことです。 私たちが近代の目で「良い」「悪い」を論じる以前に、 日本の演劇や音楽は遊女を担い手として発達してきたという歴史があったわけです。 というのも、 「遊女」の「遊」はもともと芸能をするという意味だったからです。 売春と芸能とはエロスという根源を共有していて、 肉体を介したコミュニケーションを司る人たちが、 芸能も司っていたから、 遊女の存在が日本の芸能史では大きいのです。
その女性に会うためには、 いくつもの幔幕や几帳を通り抜けて行かねばなりません。 太夫の部屋は水晶の玉に金色の造花、 鼈甲の装飾という贅沢な造りで、 「浄瑠璃世界もかくやらむ」となるわけで、 一種の理想郷が目に見えるものとして演出されていたようです。 こういう世界を演出することで男性をひきつけるのですが、 色里は都市における異界、 他界を作り上げていたと言えるでしょう。 日本の色里は、 単なる性欲の処理場所ではなかったことが分かると思います。
交通の要所に都市的なるものが形成されていくのは経済的な動機からも説明出来ますが、 同時にそこはいろいろなものがコミュニケートする場所であったからだと思います。 つまりそこは日常生活を離れて旅をする旅人、 日常から離れた人がたくさんいる場所だったのです。 そこに色里ができました。
ですから都市化と色里の成立は根本的なところで結びついていると思います。 村落共同体は地縁、 血縁で結びついていましたが、 都市はそれから逃れた「無縁」の人たちが集合する空間だと言えます。 そこでは異文化間のコミュニケーションが行われ、 様々な交換が行われます。 村落の日常性から離れた非日常的な空間、 いろんなところから来た人びととのコミュニケーションの場が、 やがて都市として発達していったとすると、 その非日常性を担う女性が遊女だったわけです。
江戸時代になると、 遊女は「地女(じおんな)」という言葉と対比して呼ばれるのですが、 地女が日常の世界の存在なら、 遊女は非日常の存在だというはっきりした区別が見られるようになります。 女性の立場からすると、 こういう差異化はして欲しくないのですが。
ともあれ、 現世の生活とは切り離されたハレや祝祭的な部分を担っていたのが遊女達で、 色里における非日常的なエロス(普段の生活では味わえない他界の体験)を見せてくれるわけです。 田舎の生活を現世とするなら都市全体が他界と言えるでしょうが、 地方の男性が都市に出てきて吉原の花魁を見ることが、 都市的な体験の極致と位置づけられていた時期がありました。色里の成立
「色」「色好み」は人間の徳性を表わすものだった
「色」という言葉は、 現代では「色っぽい」という言葉に代表されるようにエッチな感じ、 マイナスのイメージの方が強いのですが、 そのイメージは明治以降の近代になってからのもので、 それ以前は文化的含蓄のある言葉でした。
●資料1 『徒然草』(吉田兼好)
色好みは人間の持つべき徳性の中でも非常に大切なことだと述べているのです。 源氏物語の光源氏や在原業平の色好みもそうですが、 これは単に女性が好きと言うだけではありません。 歌を交しあったりする感受性の豊かさ、 感情の機微を知ることが「色好み」と位置づけられていました。
●資料2 『春色梅児誉美』(為永春水)
色好みの伝統を受け継ぐ色里
色里という世界は、 こうした色好みの伝統の上に成り立っていた空間でした。 売春婦のいるところは近代には赤線、 現在はソープランドと言っていますが、 遊女や玄人女性のいるところを色里と言っていた時代には、 「もののあはれ」を悟るところであり、 そういう感情的な含蓄を含んだ世界が展開していました。 私たちが今「芸術」と呼んでいる歌や演劇などの活動は、 こういう「色」という感情の世界から生まれてくると言えるでしょうし、 色や恋は芸術を生み出すエネルギーになっていると思います。
「理想郷」「極楽」として憧れの空間
そうした色里で展開していた「遊び」の有り様を紹介しているのが、 次にあげる江戸時代の『露殿物語』です。 露殿という男性が吉原の太夫に一目惚れをして、 吉原に通っていく話ですが、 吉原の絢爛豪華な世界が描写されています。
●資料3 『露殿物語』引用文(1)
香車(きょうしゃ。 遣手婆のこと)露殿御手をひき、 九重の幔、 八重の几帳を通り過ぎ、 かの御局に入り給ふ。 見給へばタイマイ(瑁)を飾り、 垣に金花をかけ、 戸には水晶を飾り、 鸞輿属車(らんよしよくしゃ)の玉衣の色を重ね、 花の錦の御褥(おんしとね)かがやき渡る有様は、 浄瑠璃世界もかくやらむ。 その内にかの君、 いかにもほしやりとさせられ、 引きつくろはぬ風情(ふぜい)にて、 丈(たけ)にあまれる御髪(みぐし)を打ち乱しい給ひける。 露殿おぼしめし給ふやう、 「いつくしの有様や。 昔の楊貴妃・李夫人も、 これにはやはかまさらん」、 と見とれてこそおはしけれ。
これは遊郭のインテリアを描写していますが、 部屋や廊下が絢爛豪華に飾られているということです。 太夫というトップクラスの遊女は、 単に売春をしていただけでなく一流の芸能人の役割も果たしていたわけで、 世の中からは憧れの存在と位置づけられていました。
日常と離れた他界としての空間−水辺との関わり
都市の中で遊郭の特殊性を際だたせていた装置に、 「水」があげられます。 色里は水と縁が深く、 たいてい水辺にありました。 謡曲の『江口』は、 今の上新庄から少し行ったところが舞台で、 中世から遊女が集まっていた交通の要所で、 中世には川が交通の中心でしたので、 そうした場所に色里ができました。 今なら駅前に歓楽街が出来るようなものです。
資料4 『梅田橋図屏風』(六曲二双/片畑敬三氏蔵) |
資料5 『淀・橋本観桜図』(八曲一双/大阪市立博物館蔵) |
資料5『淀・橋本観桜図』も同様に、 淀川沿いの行楽地を描いたものです。 ここもやはり、 遊女のいる場所としてよく知られたところでした。 水辺と色里は都市の他界性を凝縮した文化装置として成り立っていたと思います。
江戸時代の人たちは色里で何か高尚な文化活動をしているのだという意識はあまりなかったと思うのですが、 私たちの目から見るとそこでの活動はかなり芸術的なものだったようです。 例えば、 先ほどの『露殿物語』の中で遊女の舞姿は次のように形容されています。
色里の文化
今、 「文化装置」という言い方をしましたが、 明治になると「色」と文化は相反するものだととらえられるようになります。 近代の発想は「色」を低俗なものだと貶め、 文化は上半身(上品・精神・高尚)で、 色は下半身(下品・肉体・低俗)というヒエラルキーが出来てしまいました。 しかし、 これは近代的な見方であって、 もともとの日本の文化である色の世界は、 歌舞音曲、 文学をも含む世界でした。
●資料6 『露殿物語』引用文(2)
五宝八華の舞を、 迦陵頻伽の御声にて歌ひ舞はせ給ふ御有様は。 咲き乱れたる糸桜の、 夕(ゆうべ)の嵐にさそはれて、 かつ散りかかる折ふしに、 春を惜しみて鶯舌のさへづる風情にことならず。 霓裳羽衣(げいしょううい)の曲もかくやらんと、 その袖のうちにや入りぬらん、 わが魂もなき心地して、 茫然とあきれはててぞおはしける。
現在ではプロの歌や踊りは劇場などいろんなところで見ることが出来ますが、 それと同じ機能を担っていたのが色里だったと思われます。 そこでは芸術的レベルの高い芸能が披露されており、 色と芸能が一体化されていたのです。
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