女性元型の模式図(ノイマンによる) |
ノイマンは女性性には、 母親であるという性質と、 男と女という意味での女性性と、 二つの側面があると捉えています。
その母親であるという側面についても、 プラスの側面とマイナスの側面があります。
母性には基本的な性質として「包み込む」という性質があります。 包み込むということがプラスに作用した場合には、 グッドマザーと書かれていますが、 「産む」「放つ」「発達させる」「新しいものを生み出す」、 そして「植物の秘儀」「死と再生」というようなイメージにつながります。
母性がマイナスの方に行くと、 テリブルマザーと書かれていますが、 「しがみつく」「固執する」、 やがてそれは「死」とか「解体する」といったものにつながっていきます。
それから、 いわゆる男と女としての女性性についても、 やはりプラスの女性性とマイナスの女性性があります。 プラスの方にいくと、 「与える」とか「高揚させる」とかがあって、 最終的には「霊感の秘儀」のようなところにいきます。 逆にマイナスの方に行くと、 「奪う」とか「拒む」、 最後には「失う」「失神させる」「混迷させる」というように、 精神を鬱屈させるような側面を持っています。
しかし母性と同様に、 「包む」という性質が一番基本的な性格としてあり、 ノイマンはこれを図の円の中心に置いています。
図では、 こういったキーワードとともに色々な神話にでてくる女神が位置づけられています。 例えば、 女性性のもっともプラスの側面としてソフィアやマリア、 あるいはミューズが位置づけられています。
女性=身体=容器=世界(ノイマンによる) |
その中の一つである都市とか村とか城塞とか、 あるいは家とか、 そういうものから我々は容器としての女性性をイメージしています。
理想的な風水図 |
場所元型の模式図 |
ここから先は、 佐伯先生の話でいえば近代人あるいはヨーロッパ人に独特の考え方で、 日本にこれが妥当するかどうかがそもそも問題なのかもしれませんが、 これらふたつの軸をそれぞれプラスとマイナスの2つの方向性に分けて考えてみました。
まず無縁の軸、 都市性の軸について見てみます。 プラスの都市的性格としてとらえられるものの中に、 例えば「憧れの都会」「花の都」「芸術の都」とか、 究極的には「聖地」を位置づけることができます。 ちょうどノイマンの図式で、 聖母マリアあるいはミューズとかが位置づけられたのと同じように、 場所についてもそういうイメージを想定できます。
もう一方でマイナスの都市的性格のものは、 例えば話題になっている「色里」であるとか「悪所」、 最終的には「妖しい都会」とか「怖い都会」「魔都」をあてることが出来そうです。
次に、 ノイマンの女性図式でいえば母性に近いイメージの故郷性の軸、 あるいは地縁血縁の軸で考えると、 これにもプラスとマイナスがあります。 この母性の一番基本的なものは我々に安らぎを与えるもので、 そこからプラスの方向として「安らぎの故郷」が想定できます。 しかしもう一方で、 そういうものが我々を縛り付ける、 あるいはマイナスの母性が子供を離さない、 拘束してしまうのと同じように「退屈な故郷」も想定することができます。 ちょうどそういうプラスとマイナスの極があるわけです。
なお先ほどのノイマンの図式でおもしろいのは、 実はこれは球体なんだという説明なんです。 図式の中心は球体の一番上の北極で、 これをどんどん離れて行くと実は南極になって、 マイナスの軸と交わっているという説明です。
つまり色里的なもの、 あるいは佐伯先生のイメージでいえば遊女的なものが、 聖母的なものの反対側にあるようでありながら、 繋がっているという逆転現象が起こることが、 このノイマンの図式のおもしろいところです。 都市もそういうものとして理解しておいた方がいいと思います。
おそらく我々の持っている場所性と女性性には、 一種の共通性があります。
今日のテーマでいえば、 色里と対置されるものとして、 多分今は近代恋愛があるのでしょう。 その近代恋愛の空間的な対応物として、 例えばデートスポットが考えられます。 それから、 近代恋愛のゴールとして理想とされているものが、 むしろスィートホームのように故郷性の方に位置づけられると思います。
故郷性のプラスとマイナス、 都市的性格のプラスとマイナスから見た都市 |
自分の故郷であったところが、 だんだん成長してくるにしたがって、 そこで守られているという感じから拘束されている、 あるいはどこかに自分の可能性を求めたい、 とういう感じにどんどん変わっていき、 故郷の牢獄化が起こります。 これは個人のレベルでもそうですが、 おそらく時代の流れの中で、 社会的に起こっていると思います。
こういうプラスであったものがマイナスとして意識されるようになると、 その時どうするかというと、 おそらくマイナス的な故郷性を破壊しようとするのです。 英雄神話は、 母親を殺し自立した男になって恋愛をするという構造を持っていますが、 都市もこれによく似ているのです。
要するに、 拘束的な世界から、 拘束のない、 地縁を断ち切った世界に移ろうとするわけですが、 そのときに二つの方向性があります。 一つはプラスの都市的性格に移行するような方向です。 これがアテネ憲章の世界、 モダニズムの動きだと僕は理解しています。
日本の場合、 明治以前の江戸の街は明治維新当時の人にとっては牢獄のように見えたと思うのです。 例えば藤森さんは、 明治の都市計画は基本的に〈開く〉ことだったという言い方をしています。
しかし近世以前においては、 むしろ我々が今考えている意味でいうマイナスの都市的性格、 「妖しい都会」をベースに都市を造っていたのではないかと感じます。 先ほど、 漂流民としての遊女を郭に囲うという形で都市ができてきたというお話がありましたが、 中世から近世に移行する時に、 むしろこういう動きで都市が造られたのです。 これはマイナスの故郷的性格から逃れマイナスの都市的性格へという動きで都市を造ろうとしている読むことができると思います。
近年のポストモダンと言われた動きにも、 似たようなところがあったように思います。
そういった時代のあと、 無縁性で特徴づけられる都市を故郷化しようという動きが起こってきます。 都市を定住化しようとしたり保存しようとしたり、 あるいは持続性に注目していつまでも住み続けていこうとする動きです。 これは新アテネ憲章の一つの趣旨ではないかと解釈します。
アテネ憲章は実は英雄神話だったのかもしれません。 いわゆる建築の世界でも、 コルビュジエとかルイス・カーン、 またミースにしても、 マイナスの故郷的性格をプラスの都市的性格に変えてゆこうという英雄神話の流れにの中にあるのですが、 同時に我々にとっては彼らは英雄に見える、 そういう人たちなのです。
ただ我々はもはや都市化の時代に戻れません。 いいか悪いかは別として故郷化の方に動いているということだと思います。