でも、 これらはごくわずかな例であって、 宗教ではなく色と経済で動いている今の時代は、 要するにみんな郭の世界なのです。 しかもこの色は、 明治知識人が下品だと言った肉欲の色そのものといっていいと思います。
ぼくはそれなりにそれを一生懸命にやっていて、 それも面白いと思っていますが、 ただ、 アラブの世界やキリスト教の世界は、 はっきり別の世界なのです。
それはなぜかというと、 日本の場合、 都市が非日常の世界ですが、 ヨーロッパあるいは旧大陸では、 都市が日常の世界だということがまず根本的に違います。 それからもう一つは、 大島力さんの言われるところのキリスト教が母性崇拝の否定からスタートしているということです。 イヴからアダムが生まれたのではなく、 アダムからイヴが生まれたとされていますが、 これは母性崇拝の否定です。 それぐらい強く、 女あるいはセックスというものを否定している宗教だということです。 そういう世界が作った都市はやはり違います。
必ずしも宗教だけで作っているわけではなく、 もっといろいろな要素がありますが、 少なくともそういう現実の欲から離れたところに価値観をもって作っている都市が確かにあります。 そこに行ってみると、 やっぱり「あぁいいな」と思いますし、 ぼく自身が確かにそういうものに憧れるんです。
例えば、 ヨーロッパの歴史的都市がそういう都市だと言いましたが、 現代の都市ではニューヨークがそうです。 ニューヨークのマンハッタンは、 とにかく超高層のビルを建てるという妄執にとらわれて作った、 そんな感じがします。 経済的に考えると、 あんな超高層のものが建つはずがないんですね。 日本でいう、 色とか歓楽とかとは全然違う別のものを求めて作ったという意味では、 これは宗教都市と同じ様なことかもしれません。 このことに非常に崇高なものを感じます。
とはいえ、 ヨーロッパでも神は死んだとされる時代の中で、 彼等はどこに崇高さを求めていけばいいのでしょうか。 彼等もまた、 遊郭都市を作っていくしかないのかと、 思ってしまうのです。
ひとつだけ付け加えるならば、 もし我々が今、 世界中遊郭都市を作るしかないとすると、 そうじゃないものはどこで作っているのかということです。 それは宇宙空間ではないかと思います。 ぼくは子供の時から宇宙旅行が大好きでした。 やっぱり宇宙に向かうことこそは経済からもセックスからも離れた人類の崇高な一つの建設的な行為だと思います。 僕らは崇高な都市は造れないけど宇宙旅行でそれを紛らわすのかなと、 そんなことを感じました。
崇高な都市
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