ブラジルセミナー
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「景観の新しい見方」
−New Visions of Landscape−

大阪大学教授 大阪大学大学院環境工学専攻 鳴海 邦碩

1。 はじめに

 1976年と78年の2回にわたって、南米都市の空間的な特徴に関する実態調査が行なわれた。この調査は、日系、ドイツ系、イタリア系の移民都市を対象として、その空間的な特徴を明らかにしようとするものであった。

 私の担当は、ドイツ系移民都市であり、ブルメナウをはじめとするイタジャイ川流域の多くの小都市を訪れた。移民都市の正確な定義はここでは論じないが、それぞれ都市の空間的特徴が、移民の出身地の文化を反映しており、興味深い経験であった。

 その調査に参加した時、今回訪問することができた、クリチバそしてこのロンドリーナも訪れた。

 それから20年以上経った今、ブラジルの都市は、新たな変化をとげつつある。それは急速な、そして大規模な都市化の進展である。この都市化が、近代化とあいまって、地域の環境に大きな変化を与える。こうした変化は、日本の都市も経験してきたことであり、都市計画の新たな課題として認識されてきた。

 今日は、このことについて、景観という観点から、論じることとしたい。

 さて、明治以降、近代化に邁進してきた日本は、それぞれの時代、それぞれの地域で、伝統と近代化の相克に遭遇したが、国土の環境が大きく変化したのは、太平洋戦争後のことである。 つまり、日本の都市化が急激に進んだ時代であった。

 都市化の指標のひとつとしてDIDというのがある。 Densely Inhabited District で人口集中地区の意である。 人口密度が1ha当たり40人以上でまとまって5000人以上の人口をもつ地域をDIDと規定しており、国勢調査の一環として1960年(昭和35)以降調査されている。 このDIDは市街地とみなすことができる地区であるが、1960年のDID面積を100とすると、1980年にはDID面積は250になっているのである。 すなわち、20年の間に、それまであった市街地の2.5倍の市街地が形成されたということになる。 つまり、市街地が急速に広がったのである。


2。 日本の都市景観の評価

 こうした時代の多くの知識人たちが、日本の都市の景観について危惧を表明した。

 いわく、「巨大な都市のすべての地域が雑然とした状況を呈しつつあり、(人々は)その中に各自が埋没してゆくときの不安、苛立ち、そして頼りなさを感じているようだ」(大谷幸夫『建築雑誌』1979.7)。

 いわく、「このノッペリした大都市は、どこも画一的に広がっているだけで、町並みを描きわけられるような特徴をもっていない。 ただ、……“安っぽい二階建ての間に時々四角ないし薄っぺらなコンクリートビルが建っている”とか“通りから小路を曲ってアパートや家がごちゃごちゃたてこんだあたり”とか書けば東京はじめ日本の大都市のどこにも通用する」(奥野健男『文学における原風景』1972)。

 またアノニマスな建築に強い関心を示している前衛建築家の眼も同じような判定を下す。 「日本ではあたりまえのこんな風景は世界では珍しいのだ。 わたしは、世界のいなかを歩いて、集落を調査しながら、人々から日本の工業製品の話を聞くたびに、彼等が企業名を知っていて日本を知らない状態にほっとする。 彼等に、この風景を見せたくない……」(原広司『世界』1977.No.380)。

 日本の都市景観に対するヨーロッパの人々の目はなかなか厳しい。 日本は幻想をかきたてる国のようで、日本古来の芸術はヨーロッパでも知られているし、経済大国になったのだから、そうした魅力に磨きがかけられているのではないか、と期待して日本に来る人も多いのではないかと思う。 が、日本に来て失望する人たちは少なくないのである。

 ヨーロッパやアメリカから日本に来た人が、日本の環境の特徴を論じた本が、数年前に相次いで出版された。 まず、1992年のアラン・ブース著『津軽:失われゆく風景を探して』があり、1993年にはアレックス・カー著『美しき日本の残像』、次いで1994年のレズリー・ダウナー著『芭蕉の道ひとり旅』がある。 いずれも新潮社の出版である。

 これらの書物の中で、カーは「今、日本は世界の中で〈みにくい国〉の一つになってきているのです。 (中略)日本の田舎は見事に汚れてしまったのです。 友人に〈どこまで行けば立て看板、電線、コンクリートが見えなくなるのか?〉と聞かれると答えることが出来ません」と日本の農村について語る。 また、ダウナーはある地方中心都市を「やたらに看板が立ち並び、電線やケーブルが影を落とす通りであり、えんえんと続くコンクリートの家並であり、その狭い空間に40万人の人口がひしめき合う都市」と評し、日本人が美しいと思っている京都でさえ、ブースに言わせれば、「京都はどの視点から見ても(中略)その醜悪さに泣けてくる」となる。

 これらの著者たちは日本を深く愛する人たちばかりで、単なる日本への訪問者ではない。 だからこそ評価もきびしく失望も大きいのかもしれない。


3。 アメニティから景観へ

 日本において、ここ10数年の間に関心がもたれたアメニティづくりに関連するキーワードを整理してみると、〈自然環境〉〈歴史的環境〉〈歩行者空間〉〈文化行政〉〈うるおい〉〈景観〉といった流れがある。 この過程で、景観は都市の総合的な魅力と強い関係のあることが認識され、魅力ある都市景観を実現することがまちづくりの目標ではないか、という考えが生まれてきた。

 景観行政の領域は多岐にわたっているが、町並みの保全修景や文化的・歴史的遺産の保存に関しては、その価値が認識され、文化財保護法による伝統的建造物群保存地区や地方公共団体の独自の条例による景観形成地区に指定することによって、景観の保存・継承に取り組んでいる自治体が多い。 また、〈建築協定〉を締結したり〈景観形成地区〉などを設定することによって、建築のコントロールを行ない、町並み景観を整えることに取り組んでいる町や地区も増えている。

 景観づくりに関する制度的な裏付けについては、全国的な傾向をみると、国の制度に基づくのではなく、景観施策展開の拠所として、自治体独自の条例や要綱を制定しようとする傾向にある。 内容から見れば、自治体の景観条例による景観形成地区と、建築基準法の建築協定や地区計画、文化財保護法の伝統的建造物群保存地区と基本的には違わないのだが、どうして国の法律ではなく、自治体の条例等を手がかりにしようとする傾向にあるのだろうか。 手続きが複雑だ、国の法律では融通がきかなくなる、といった理由も考えられるが、〈自治体のまちづくりの指針として独自に打出したい〉、というのが本音にあるように思う。

 自治体の景観への取り組みは、このように条例の制定よって顕在化するが、関西地域では、京都市が1972年で最もはやく、ついで神戸市が1978年に、都市景観関連条例を制定している。 都道府県では、滋賀県が1984年に風景条例を制定し、ついで兵庫県が、1985年に都市景観形成条例、正しくは〈都市景観の形成等に関する条例〉を制定している。

 日本経済新聞社が1993年に行なった調査によると、全国の23府県、264の市区町村で景観形成に関する条例が制定されており、247の市区町村で制定の検討が進められているという。 なぜ、景観行政に取り組む自治体が増えてきたのかについて考えれば、景観からまちをとらえることが住民にとっては理解しやすいということがいえよう。 それを反映して、景観行政からまちづくり行政へと展開してきている自治体も多い。 景観行政が総合的なまちづくりへの手掛かりとなっているのである。


4。 なぜ景観整備なのか

 日本における景観整備の必要性に関する議論は、最近でてきたものではなく、戦前にもあったし、江戸時代にもあった。 それらを概観してみると、景観整備の必要性の論拠はおよそ以下の諸点に整理できる。

(1)人を迎えるための景観整備

 景観整備の必要性を説くもっとも解りやすい論拠は、客を迎えるにあたって、町の環境を整えようというものだ。 江戸時代にも、外国使節を迎えるに際し沿道の景観整備が行われた。 国際化の進展にあって、恥ずかしくないような環境整備が必要だ、という考えも類似のものである。

(2)観光資源としての景観整備

 美しい景色や歴史的町並みには、多くの人びとをひきつけることから、一種の観光資源としての価値がある。 そこで、観光振興の一つとして景観整備をする、という方策がでてくる。

(3)地域の誇りとしての景観整備

 町を訪れタクシーに乗って、遠慮がちに自分の町を自慢する運転手さんにであったりすると、つい「いい町だな」と思ってしまう。 確かにそんな町には景観的な良さが随所にあり、市民の気持ちがそれを支えているが感じられる。

(4)あたりまえのこととしての景観整備

 部屋になにげなく花が飾ってあったりすると、心がなごむ。 家の前が掃除してあって水がまかれていると、こざっぱりした感じで、住んでいる人の思いやりが伝わってくる。 ところが町というとなかなかそういうわけにはいかない。 ポイ捨てゴミが散乱し違法な看板が放置され、古い趣のあるものがだんだん失われていく。 新しい建物が建ったり開発が進むのに、町や地域がよくなったという印象がしない。 自分の住んでいる町を見回すにつけ、町全体がもう少しなんとかならないだろうか、と思わない人はいないのではないだろうか。


5。 震災をのりこえて伝えたいふるさとの景観

 1995年の1月、兵庫県の南部地域は大地震に見舞われた。 被災地では、市民に親しまれ、魅力の核となっていた景観が大きな打撃を受けた一方で、復興によってこれまでにはない特質をもった町並みが形成されつつある。 このような状況の中で、市民がどのような景観に関心をもち、「伝えたいふるさとの景観」と認識しているかについて調査する作業に参加する機会を得た。

 被災10市10町の「伝えたいふるさとの景観」ということで募集したところ、1800余の応募があったのである。 それを重複しているものを省く等整理するとおよそ1300の残したい、伝えたい景観というものが浮び上がってきた。

市民が応募した景観は、1374景

建築物501景(36.5%)
自然物489景(35.6%)
構造物等253景(18.4%)
生活風景115景(8.4%)
その他16景(1.1%)
 

 このなかから○○百景のように選定することが、当初、考えられたが、全て、一人一人の市民が愛着をもっている景観であり、選定する事はやめて、これらを通じて、市民が愛着をもっている景観を理解することに役立てるとともに、これを広く公表することとしたのである。

 数が少ないが、その報告書をもって来ているので、希望の方は申し出ていただければ差し上げたい。

 これらの中で、筆者が注目した景観は、以下のような特徴をもっている。  

一本の樹木

 「大地に根をはってそびえるくすの木。 震災の時はここへ大勢の人々が集まり毛布をかぶり、湊川、長田と次々と燃え上がる街を息をのみふるえながら見ました。 幾人の子供達がこの木に登り豊かな思いに浸った事か。 近頃は木に登って遊ぶ子供も少なくなってしまいました。 孫の木登りを見て、うれしさでシャッターを切りました。 景観には遠いかもしれませんが、人間に大きな力を与え、これからも生き物たちを育ててくれるであろうこの古木が好きです」。

 震災から2年経った年の4月、木登りをする子供たちの写真をとったAさんは、このような一文を添えて、応募してくれた。 また、被害にあって新築された小学校の校庭に、昔のまま残る樹木の姿の応募もあった。

 誰かが植えたのには違いないのだが、すっくと立つ一本の樹木は、ずっと昔からそこにあったように思えてくる。 普段は何気なく見過ごしてしまう道端の樹木も、ふとしたきっかけで輝いて見える。 広がる農地の中に立つ樹木の下には祠があるのだろうか、地域の営みの歴史を感じさせる。

 皆が楽しめる個人の庭の樹木が地域の重要な顔になることもある。 親しまれる桜木は各地に存在しており、淡路の梅づくりの名人は、しだれ梅を公開している。

 枯れてもまた芽を出す樹木の生命力は、見る人に感動を与える。 震災で延焼をくいとめてくれた、生命力の旺盛な樹木の応募もあった。 樹木を植えられないことになっている河原に自然に樹木が生えた。

 道に生える樹木は、街の成り立ちを示すメッセージでもある。 三又路の樹木はかつてこの地が農地だったことを思い出させるし、道に覆い被さる樹木は街ができる前から存在していたに違いない。

田園風景の中のこんもりとした樹林

 田園風景に欠かせないこんもりとした樹林は、風景にうるおいとやさしさを与えている。 お社があったり、かつての城跡であったりして、地域の営みの歴史を語っている。 レールバスに着目した風景も、小学校に着目した風景も、この樹林が引き立てている。 ドイツのビオトープもこの樹林が提供しているような景観の見直しから生まれたといわれる。

私の緑と公の緑の連携・不思議な緑地

 公共の空間には街路樹等が植えられる。 これに私の緑が連携すると、豊かな景観が生まれる。 無駄とも思える曖昧な空間は、都市の中では消えつつある。 どうしてあるのか理解に苦しむ緑地は、景観からすれば一つの魅力である。 河川は都市空間の中で線状に連なっていく。 そこの緑もまた連なる。 水と緑をもった空間を大事にしていかなければならない。

地形と人間の営みとの関わりを語る水路

 日本の農業は灌漑によって成り立ってきた。 ため池や用水路の整備に多くの人々が苦労を重ねてきた。 そうした技術と努力の跡が、私たちに感動を与える。

 農地では灌漑が重視されたが、都市では、水はできるだけ早く流し去ることが意図されてきた。 しかし、震災は都市もまた水で潤す必要があることを教えてくれた。 住宅地の水路は心を潤しているのではないだろうか。 天から降った雨水は、側溝の作り方によっては、街の表情になる。

 都市を灌漑することはこうした風景にも繁がる。 水と植物を育てることが繁がり、そこから自然のメッセージが生まれる。

 景観もまた、大きな被害から復興する人々を勇気付けてくれる。 その意味で景観は、単に表面的な美しさではなく、その地域のアイデンティティなのだと思う。 国際化、国際化といわれるが、本当の国際化は、どこにでもあるような都市を造ることではなく、その地域のアイデンティティが読み取れるようなまちを造ることではないだろうか。


6。 地域景観の変貌

 私たちは誰もが、多かれ少なかれ、美しい風景に感動する能力をもっている。 だからこそ、風光明媚な場所が多くの人々を集めるし、美しい町並みをもった都市が賑うことになる。

 しかし、そうした環境を評価し感動する能力をもっていても、それが失われたり、壊れたりすることを防いだり、あるいは新たにそうした環境を造ることには必ずしも繋がっていないように見える。

 フランスのオギュスタン・ベルク氏は次のように述べる。

 「今日の都市と田園の風景の有様を前にして、時にいたたまれなさを感じることのない人が、あるいはこの地球の生態学的な荒廃に不安を覚えることのない人が、果たしているだろうか。 環境に劣らず風景に対しても、保護なり改良なりをめざして効果のある行動のさまざまが近年試みられてはいる。 〈中略〉しかしながら、より根本的な問題が解決されないままになっている。 つまり、これほど自然と空間に影響をおよぼす力をそなえた我々の文明が、その作用のおもむきをほとんど掌握できていないのは、どういうわけなのだろうか」(『風土としての地球』1994)。

 ベルク氏は、程度の差こそあれ世界中に広がっている環境上の変化に対する、問題意識を表明している。 何がこのような事態を引き起こしたのであろうか。

 その理由は様々に考えられるが、景観や風景は、社会そのものの環境的な表現としての結果であると思う。 そのような視点に立ったとき、景観を巡るさまざまな関心は、近代という社会システムがもたらしている現象と、密接な関連性をもっていることに気付く。

 近代の社会制度は、人間個人個人が、法の前に平等であり等質であるという原則に立っている。 この原則を人間の生活環境にも敷衍していくと、法の論理が地域毎に異なってはならないということから、地域環境をできるだけ均質にする方向に作用する。 つまり、近代は人間を地域的な土地の呪縛から解き放つと同時に、地域空間を概念的に平板にしてしまったのである。


7。 懐かしい景観

 ふるさとが懐かしいのは当たり前だが、次第に〈懐かしい時代〉が認識されるという状況ができてきた。 〈レトロ趣味〉がそうである。 自分が生きた時代ではないのに懐かしい。 また、大海原やヒマラヤのような大自然にも、懐かしさを感じることができる時代になってきた。 そして宇宙から眺める地球の姿も懐かしい。 何か根源をイメージさせる環境、それが懐かしさをもった環境なのである。 旅が盛んになるのも、その根底には、懐かしさへの旅意識があるのかもしれない。

 アイデンティティを確認できなくぼんやりした不安と不満がつきまとう時に、自分を再確認することを助ける環境というのがあると思う。 それは自然的な環境とか、歴史的な環境、それに自分が育ったりして親しんだ街の環境である。 いいかえればそれはノスタルジーの環境でもある。

 そのような環境を必要とする場合、そうした場所を訪れればいい。 しかし、自分の住んでいるまちにこそこのような環境が備っていることが、期待されているように思う。

 人間の生活があるかぎり、都市は存在するし、都市が存在するかぎり、都市計画のような、都市に対する人間の働きかけは存在し続ける。

 その意味で、都市は歴史的な存在であり、都市は、文明の記憶装置である。

 そうして都市はそれぞれに個性をもつ。 それが景観に現れるのである。

 景観という言葉は元来地理学の用語で、〈自然と人間界のことが入りまじっている現実のさま〉を意味するが、むずかしく考えないで、広く〈見える環境〉としてとらえてもらえばいいと思う。 従って、景色も町並みもみんな景観ということになる。


8。 自分のアイデンティテイが確認できる環境

 〈まちのアイデンティティが、住む人にアイデンティティをもたらす〉といっても、小さななまちならばいざしらず、大阪のような大都市だと本当にそんな効果があるのだろうか、と疑問になってくる。 先に述べた学生の紹介でも、大都市出身者ほどぞんざいである。 もう少し違った側面から考えてみなければならない。

 アイデンティテイは、〈一貫性をもって認識される自分〉のことも意味する。 「わたしはいったい何者なのか」という自分への問い掛けである。 こうした問い掛けは日常的にあるのではなく、「ほっ」とした時にふと感じたりする。 アイデンティティを確認できなくても病気になったりはしないが、ぼんやりした不安と不満がつきまとう。 いいふるされた言葉でいえば「生きがい」、「生きている実感」がえられないということになろう。 それが昂じると、ストレスになる。 このようなストレスはノスタルジーに似ていると思う。

 ノスタルジーとは、昔スイスの若い庸兵が赴任地で罹った一種の病気に名付けられたもので、その治療法はふるさとに戻すこと以外にはなかったという。 〈懐かしさ〉を感じることができる環境が、ノスタルジーを癒してくれる。 それでは、スイスの庸兵は出身地であるアルプスの山のまちにもどればいいが、大都市の出身者はどうしたらいいのであろうか。 彼らに彼らの〈懐かしさ〉を感じる環境がある。

 人間にとって、ふるさとは
   歴史であり
   自然であり
   文化である。

 単に、経済や利便から都市を考えるのではなく、このような人間が感じるアメニティの面から、都市を考えていくことも重要である。

 ブラジルは世界に知られた多民族国家である。 ブラジルの文化を論じる資格は、私にはないが、多様な文化を都市に、あるいは都市景観に織り込んでいくことが重要であるように考える。

 ブラジルに来るに先立って、ベルリンを訪れてきた。 ベルリンでは、かって東西に分かれていた時代に形成された環境的な差を無くするプロジェクトが進められている。 景観的な問題にも同じように取り組まれている。

 差を無くすることが、一方の排除につながるのではなく、共に活かされることが望まれる。

 同じような観点で、このブラジルの地に生きた、日系の市民の環境的な痕跡が、ブラジルの景観の中に織り込まれて生き続けることに期待したいと思う。

 最後に、この重要な会議に参加する機会を与えていただいたことに深く感謝します。

1999.7.30 SBPNにて講演

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