サンフランシスコ:まちの話題第9号 2000年11月サンフランシスコの景観ワースト・セブン |
1999年6月から前回までの連載では、 サンフランシスコの町並みや街づくりの仕組みについて、 革新的で素晴らしい面ばかりを紹介してきましたが、 今回はそれとは正反対に、 サンフランシスコの町並み形成の上で「取り返しのつかない誤り」であると私が日頃から強く感じている失敗作、 または開発計画のいきさつ上、 特に劣悪な環境を創り出すに到った例を、 私自身の独断と偏見に基き「ワースト・セブン」として槍玉にあげてみようと思います。
その前に、 まず公共空間と私有財産権ということについて考えてみると、 それらの例を見ていくうえで役立つかと思われます。
一方では、 デザインに対する個人的な主観の問題や、 いったいグッド・デザインを法制化できるのか、 できるとすれば、 どの程度まで表現の自由を制約できるのか、 できないとすれば、 プランニング・コードや開発ガイドラインは、 アーバン・デザインの上で何を達成できるのか、 などというクラシックな問題もあります。
たとえば、 新コミュニティ計画のガイドラインの中に「外壁の色は自然色を用いること」という条文を見かけることがあります。 その結果、 竣工した建物の色は多くの場合、 くすんだ緑や暗い土色であったりするのですが、 大自然にはもっと素晴らしい鮮やかな赤や青や黄が豊富に存在することは周知のとおりです。 ここに、 通常のガイドラインの重大な虚偽性があるのではないでしょうか。
私自身、 グッド・デザインは法制化できないと信じています。 「グッド・デザイン」そのものが主観的な制約から逃れられない上、 たとえ最大公約数的な常識があったとしても、 市場の力などの圧力がこれに対応すべきであって、 「常識」に反する表現を法で規制すべきではありません。 もっと端的に言えば、 たとえ他から「悪趣味」と見えても、 市民はそれを表現する固有の権利を持っています。 デザインの問題は、 日照や眺望にかかわる高さ制限や容積制限などとは、 本質的に異なることを再認識する必要がありそうです。
市民参加のプロセスについても多くの問題があります。 有名なミッション・ベイ計画のように、 何十年もの長期にわたって計画変更が行われ、 その工程の後半になって集約的な市民参加のプロセスを経たために、 それまで段階的に洗練されてきた計画が、 より妥協的であいまいな結果に終ってしまうような例も見られます。 また、 最終的な物理的成果よりも市民参加のプロセス自体の方が重要であるという考え方もあるでしょう。 一般の公聴会では、 市民に3分間の発言の機会を与えることだけに意味を見出しているのが、 昨今の「市民参加」の現状のような気もします。
いかなる開発主体にとっても、 サンフランシスコは、 ベイエリアの他の多くの地方自治体に比べてかなりの困難を強いられる町です。 市内には近隣グループや環境団体をはじめ、 さまざまな弱者の支援団体や動物愛護団体まで、 あらゆる非営利団体や利益団体が活発に活動を続け、 機会あるごとにその影響力を行使しています。 主要な計画についての適否を市議会に進言するかなめの機関である都市計画委員会は、 現在のところ、 やや開発推進派寄りのように見受けられますが、 サンフランシスコの許認可プロセスは、 既得権の確認による認可ではなく、 基本的に自由裁量プランニングのシステムに則っているため、 例えば、 自宅の裏庭に木造デッキを作る程度のことまで、 半径150フィート以内の近隣各戸に通告の上、 公聴会を通さねばならないのが実情です。
このような状況下で、 最近特に憂慮すべき事態は、 私有財産権に対する公共機関の干渉が拡大しつつあることです。 先日も、 我が家の近隣であるジャパン・タウンで長年経営を続けてきたボーリング場が、 経営上の理由で閉鎖されることになり、 市議会議員を巻き込んでちょっとした論争になりました。 市民が施設の存続を願って運動するのは自由ですが、 事業を継続すべきかどうか、 あるいはその施設を誰に売却するかなどの私的な権利に関することがらを税金で成り立っている市議会で論議すべきではないと感じざるを得ません。 私企業の事業の存続や不動産の売買に対する干渉は、 政府の役割をさらに拡大しようとする民主党主導の現在の市の政治環境と無縁ではないように思われます。
前置きが長くなりましたが、 以上のようなことを念頭において、 以下に挙げる「ワースト・セブン」について、 読者がそれぞれの判断を下されることを願っています。 また、 これらの例は、 アーバン・デザイン上の反面教師として役立つこともあるかも知れません。 なお、 これらの7つの計画の中での順位は特にありません。
このフォンタナ・タワーズの横を通ると、 いつもある記憶がよみがえります。 以前私が東京の都心、 たぶん元麻布界隈を散歩していた時、 ある小高い丘の斜面にスラブ状の高層マンションが相前後して2棟建っていました。 前棟が後棟の眺望をブロックしていたのを覚えています。 ところが、 その前棟の前に空地があって、 そこにもう一棟建設される予定らしく、 後棟の眺望をさえぎっている前棟の屋上から大きな垂れ幕が下がっていました。 その垂れ幕には「眺望をさえぎるマンション建設反対」というスローガンが書かれていたのです。 近隣エゴの典型的な例として印象的でした。
現在サンフランシスコのジェネラル・プラン(都市計画の憲法にあたります)には、 眺望権に関する「ビュー・コリドール」を確保する義務が明記されており、 特に湾への眺望をさえぎる計画はほとんど実現不可能になっています。 新たに窓をひとつ開けるだけでも、 公聴会を経て近隣の承認を得なくてはなりません。 このように貴重な眺望は、 もちろん不動産の価格にも反映し、 住宅の場合、 眺望の価格だけで20万ドル以上のプレミアムがついているようです。
ストリート・ウォールは、 高密度の中心市街地を計画する上での常套手段ですが、 これに固執し過ぎると、 いわゆる「四角いドーナツ」と呼ばれる中庭型の単調なブロックになり易い、 という考え方もあるかも知れません。 しかし、 それは図面上だけの出来事で、 実際に歩行者の目のレベルおよび上階の住人やオフィス・ワーカーの目のレベルでは、 単調さを破る巧みな空間処理は、 いくらでもあり得ますし、 またプランニングの領域を超えた建築家の独創性に期待するのも、 真に優れた計画のひとつの特長ではないかと思います。
ジャパン・タウンの中心ともいうべき広場がピース・プラザです。 二階建ての屋内モールの入口に位置しているため、 毎日買い物客などで賑わい、 お祭りの時には種々のパフォーマンスの会場にもなります。 この広場の一角に、 コンクリート造の何とも不思議なプロポーションのパゴダが、 日本ではちょっと見られない「日本」を空高く誇示しています。 私は、 この塔のことを決して好きにはなれないのですが、 先日ある人から聞いたエピソードをきっかけに、 米国における「日本建築」という問題に関して複雑な気持ちを抱くようになりました。
そのエピソードというのはこうです。 サンフランシスコのシビック・センターに新しい市立図書館が竣工したのに伴って、 旧図書館が現在アジア美術館に改築中ですが、 その入口ロビーの大きな空間が立派なメキシコ美術の壁画で囲まれています。 ところが、 この計画を推進している中心人物である中国系の女性が、 その壁画を中国美術に取り替えようとしているというのです。 私は、 そのエピソードを話してくれた米国人と共に、 その偏狭さにあきれました。 たとえ、 美術館の陳列品の大半が中国美術であったとしても、 ここは中国ではありません。 そういう訳で、 先のパゴダについても、 純正な日本建築でないというだけの理由ではむやみに退けられないことが分った次第です。
このピース・プラザをサンフランシスコのワースト・セブンに選んだ決め手は、 広場の入り口部分のシーティング・エリアです。 大小さまざまな彫刻やベンチが数多くのプランターや照明塔と共に床に固定され、 しかもそれらの材料が、 コンクリート、 御影石、 砂岩、 鉄平石、 タイル、 自然木など、 おもちゃ箱をひっくり返したような乱雑さで、 何ら必然性もコンセプトも感じられません。 床に障害物をまき散らしたのは、 ボール遊びやスケート・ボーダーの集結を防止する意図もあるのかも知れませんが、 せっかくの広場なのに人が大勢集まることもできない上、 石やコンクリートの角が鋭利で危険この上もありません。 数年前に行われたコンペの一等案が実現したものですが、 広場のデザインとしては現代感覚からずれた作品だと思います。
その理由として、 まず場のアイデンティティがないことが挙げられます。 広場といっても、 基本的にはアスファルトの駐車場であり、 所々にある窪みに水やゴミがたまっているだけです。 ウォーターフロントの一等地に広大な青空駐車場があること自体が奇妙ですが、 この場所に立つと、 フォーカスも方向性もありません。 水辺にも遠すぎます。 あえて言えば、 カニ売りの屋台に面して建つ八角堂のようなパビリオンがフォーカスですが、 これも公衆便所の外周を売店とカフェで囲んだもので、 ハトのふんと排気ガスにまみれています。 また、 埠頭には第二次大戦に利用された潜水艦USSパンパニートや、 時たま寄港する帆船の展示があるだけで、 決してインバイティングな環境ではありません。
フィッシャーマンズ・ワーフは、 細々と漁業が営まれている以外、 地元の生活をほとんど感じさせない作られた観光地の代表ともいえるでしょう。 そして、 何十年も旧態依然とした施設を利用して、 それをただ老朽化させているのは寂しい限りです。 何もしなくても、 新しい観光客が次々と訪れてくれて、 収益も十分得られるからかも知れません。 サンフランシスコの観光産業も、 時代に対応しようとしない観光名所にいつまでも依存している訳にはゆかない筈です。 カニ売りの屋台をはじめ、 シーフード関連の施設をもっと広場全体に拡張して、 前都市計画局長も視察に行ったシアトルのパイクス・プレイスや水辺のボートの上で魚を焼いて食べさせるイスタンブールのような本物の活気を創出するのもよいかも知れません。
ところがサンフランシスコには、 いかなる開発にも反対する人々がいます。 これは、 自分たちより後から来た人々には開発権を認めない「先住権者」とも言えます。 また「商業開発」と聞いただけで、 誰かが大儲けをするのではないか、 それよりも安い住宅をもっと建てるべきだ、 などと公共政策と民間開発を混同している人々もいます。 彼らは、 埠頭に新しい商業施設ができるくらいなら、 何にも利用しないで放置し、 朽ち果てるに任せた方がましだ、 と本気で考えています。 そして今、 本当に第24埠頭が朽ち果てた姿がこの写真です。 「周辺住民」の保守的な選択によってこの戦場の残骸のようなドラマチックで詩的でさえあるウォーターフロントが実現しました。 これを「利益団体の対立の不幸な記念碑」として永久保存するのも一案です。
医療施設の経営の維持発展を図るためには、 近隣の不動産を買い占めて、 時宜を得た投資を行い、 他の施設との競争に勝ち残ってゆく必要があるのでしょうか。 この結果、 写真のように、 不釣合いなスケールの建物が突然、 向こう三軒両隣りに出現することになります。
UCSFのキャンパスがもとより狭いのは分りますが、 キャンパス内の高密化や郊外への移転を検討する時期にきているのではないでしょうか。
そして、 被害者は近隣住民に限りません。 住宅としての用途を奪われた敷地は、 市内で有数の良好な環境に将来建てられたかも知れない集合住宅の機会が永久に失われたことを示します。 市の公共政策が、 住宅不足に対する対策を最優先課題のひとつとするならば、 このように横柄な開発を許すべきではありません。 医療制度の見なおしは、 米国でもいま大きな政治的課題になっていますが、 伝統ある既存の住宅地区がこれ以上その混乱の犠牲になるのは、 食い止めなくてはなりません。
本稿は、 当初「サンフランシスコのワースト・テン」として書き始めたのですが、 調べていくうちに、 特筆すべきほど劣悪な計画がそれほどないことが分って、 「ワースト・セブン」として落ち着くことになりました。 もっとも連邦政府による公共住宅などではかなり劣悪な環境もまだまだ見られるのですが、 開発計画上の失敗とはやや性格を異にするのと、 存在そのものにかかわる問題なので、 敢えて今回は取り上げませんでした。 サンフランシスコの町並みには、 取り返しのつかない失敗が少ないことが改めて分った次第です。
公共空間と私有財産権
私有財産権が最大限認められている米国においても、 町並みを形成する個別の建造物は公共空間に関わるという考え方が根強くあります。 大規模な開発事業はもちろん、 新築の住宅1戸にしても商店のファサードの改築でも、 すべてその私的な内容とは別に「公共の顔」を持っているという考えです。 そして、 それぞれの計画がその影響力の範囲で公共空間である町並みに対して責任を負っているのは言うまでもありません。 さらに重大なことは、 計画がいったん実現すると、 以後50〜100年あるいはそれ以上の不特定な長期にわたって、 それが町並みの既成事実として存在を主張し続け、 周囲に影響を与えてゆくことです。
サンフランシスコの景観ワースト・セブン
A. フォンタナ・タワーズ
60年代の半ばに建設された18階建て2棟のこの中廊下型板状高層アパートは、 その約280戸の半数の住戸から素晴らしい湾の眺めが確保されていると共に、 内陸側にあるガリレオ高校とその背後のほとんどの住宅からの眺めを見事にさえぎっています。 当時から近隣住民の反対もあったはずですが、 道路を隔てた直接の被害者が市立の学校であったこと、 それに60年代末から70年代初頭にかけての環境保護に対する市民の意識が高まる以前の時代であったこともあって、 この問題のタワーが比較的容易に認可されたと思われます。
もと都市計画局の局長アラン・ジェイコブ氏の著書 "Making City Planning Work"(訳書「サンフランシスコ都市計画局長の闘い」蓑原敬ほか訳、 学芸出版社)にも紹介されているように、 この計画は、 「ウォーターフロントに建つ建物は低層で、 かつ他の場所からの眺望をブロックしない」というサンフランシスコにおけるそれまでの不文律を初めて破るものでした。 この問題をきっかけに、 以後ウォーターフロントへの眺望を確保するための条例が整備され始めました。B. バンク・オブ・アメリカ・ビル前の広場
サンフランシスコ出身の銀行家A.P.ジャニーニ氏の創立したバンク・オブ・アメリカの本社を擁するこの52階建てのタワーは、 その近くにそびえるトランスアメリカ・ピラミッドと共に、 70年代の初頭から多くの市民に親しまれ、 あるいは一部では大変嫌われてきました。 共同所有者であるバンク・オブ・アメリカと市内随一の大手ブローカー、 ショーレンスタインは、 このスカイスクレーパーを現在売りに出しています。
各階の平均床面積が3万平方フィートに達するそのエンベロープ(建物の外形容量)は、 大変かさばるスカイラインを際立たせていますが、 より大きな問題は、 その足元に広がる広場です。 高層ビルの起こす乱気流による強風が吹きすさぶ約1エーカーの広場には、 オフィス・ワーカーなどの憩う場所もなく、 流政之(ながれまさゆき)による大理石の巨大な彫刻だけが冷たく光って、 その索漠とした空間にさらに不毛な印象を加えています。 容積率と公開空地の間の計算上だけの取引きが、 いかに無用な公共空間を創り出すかを示す好例といえるでしょう。 日本の都市にも、 誰も利用しないような公開空地がときどき見られるのではありませんか?
C. ブッシュ・ストリート1番地
ブッシュ・ストリートがマーケット・ストリートに斜めに交叉する繁華街にあるこの「近代的な」ピロティ式のオフィス・ビルは、 都心の歩道環境を完全に無視した建築物という意味では、 市内随一でしょう。 ピロティというものがまだ新鮮で、 もてはやされていた時代の遺物のようにも見えます。 確かにそのおかげで、 反対側の道路の動きも見えて、 ビルの足元に軽快な透明感が意図されているのは分りますが、 どちらの通りに対しても、 町並みに何ら貢献していません。
ダウンタウンに建つ他の新旧さまざまなオフィス・ビルは、 すべて歩道レベルの環境を創り出す「ストリート・ウォール」を形成しています。 つまり、 上階の構造にかかわらず、 歩行者のための空間を演出すると共に、 各種のサービスを提供しているわけです。 ところがこの建物は、 地面をはうキヅタに囲まれて歩道環境から孤立するだけでなく、 複数の地下駐車場の入り口などで歩道を分断し、 見事に「敵対的」な歩道環境を創り出しています。D. ジャパン・タウンのピース・プラザ
サンフランシスコのジャパン・タウンは、 ロスアンジェルスのリトル・トーキョーやシアトルのインターナショナル・ディストリクトの一角に比べると、 かなりアイデンティティの強い日系人の町です。 大正生まれの私の父が初めてここを訪れたとき「まるで大正時代のようだ」と驚いただけあって、 とても時代がかった懐かしい面も持っています。 ところが、 歴史保存の仕組みもないまま、 世代交代や業種交代のため、 本当に大正デモクラシーの時代からある老舗が消えてゆきつつあります。 日本の現代都市では見つけ難い舞台の書き割りのような店、 たとえば「金時食堂」、 文具と雑誌の「五車堂」、 和菓子の「山田製菓」などが店をたたんでしまったのは残念です。
ところで、 このユニークな商店街は、 我が家から歩いて約3分のところにあるので、 日本の食料品や本の買い物などで日頃から恩恵をこうむっています。 その反面、 日本町商店会が十分な駐車場を確保しないで年に何度もお祭りを開催するので、 主に路上駐車に頼っている我々近隣住民にとって、 それらの日には、 逆に不便をこうむることになります。 つまり、 いったん車を動かすと二度と駐車場が見つからないので、 どこにも外出することができないのです。E. フィッシャーマンズ・ワーフの広場
サンフランシスコへの観光客が必ず一度は訪ねる定番の名所のひとつがご存知フィッシャーマンズ・ワーフです。 このワーフは本来、 シシリー島からの移民漁師たちが、 毎日その日の漁獲を水揚げしてきた第45埠頭の付根の部分を指すと思うのですが、 現在では、 観光客用の店が軒を並べるジェファーソン通り沿いのエリアも通常含んでいます。
そのジェファーソン通りが、 海岸通りともいうべきエンバルカデロに交わる地点に三角形のオープン・ブロックがあり、 その一角に有名なカニのマークのランドマークが建っています。 ところが、 この三角形の広場が、 高名な観光地にしては何ともお粗末な場所なのです。F. 第24埠頭(ベイブリッジの下)
前回の「水辺の新球場」の号でも少し紹介しましたが、 ベイブリッジの真下にある第24埠頭は、 かつて港湾局が積極的にマリーナ・ホテルの建設を計画し、 デベロッパーが決まり、 ファイナンシングが準備され、 設計者が決まって本格化し始めたところで、 住民の強い反対に会い(埠頭の周辺には、 当時住民などいなかったのですが)、 港湾局主催の公聴会が何度も開かれた後、 結局住民投票によるプロポジションの裁決によって完全に葬られた経緯のある場所です。
40-60フィートのヨットのバースが100余りと、 商業用ドックやヒストリック・シップ用の埠頭を含むこの4階建て170室のホテルは、 サンフランシスコで初めての水辺のホテルとして第24埠頭の上に計画されました。 版権の都合で、 図面を紹介できないのが残念ですが、 客室や地上階の店舗スペースだけではなく、 コンフェランス・センターやセーリング・ミュージアムなども擁し、 パブリック・アクセスを水辺の全長にわたって12,600m2も確保した大変公共性の高いものでした。G. 住宅地区を侵食する医療施設
ロウアー・パシフィック・ハイツは、 市内随一の高級住宅街パシフィック・ハイツから坂を少し降りたところにあり、 パシフィック・ハイツほどの豪邸はありませんがビクトリアンやクイーン・アン様式の住宅、 それにおしゃれなコンドミニアムが数多くある落ち着いた住宅地区です。
最近この住宅地区に異変が起っています。 最寄りのゲイリー大通りやディビザデロ通りに以前からある医療施設やオフィス、 たとえばカイザーやUCSF(カリフォルニア大学サンフランシスコ校)の病院や研究施設が、 まるで囲碁の陣取りのように少しずつ侵食してきて、 町並みを壊しはじめているのです。
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