きんもくせい50+36+2号
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市民エンパワー社会実験としての参画協働

ひょうご市民活動協議会代表

野崎 隆一


 再開きんもくせいで小林さんから「参画協働」というお題をもらいました。「地域主権を支えるのは現場主義である」全く同感です。そして、まちづくりという視点から現場にいる私達が、細部に宿る神をいかに見出せばよいのか考えてみたいと思います。  昨年10月に「草の根NPOの挑戦〜シアトル発日本着まちづくりの思想」というテーマで、インターネットを使ったテレビ会議を開催しました。日本側は、世田谷区、津市、神戸市からNPO・行政が参加しました。その中で印象に残った発言を二つ紹介します。

「協働という新しい結果の見えない取り組みをするに際して、我々は、とにかくやってみる、やって失敗してみるしかない。そして、実験から多くを学ぶことこそが大切だと考えている。」
                      −世田谷区生活文化部 田中参事−


「市民参画というのは、基本的に行政がフレームを決めて市民に参画を求めているのであって、市民やNPOが求めているものではない。市民やNPOのエンパワーを目的に作った協働がシアトルのマッチングファンドである」
                       −前シアトル市ネイバーフッド課 ジム・デアス−


 二人の行政マンの発言は、いまかまびすしく議論されている参画協働の隠れた基本を捉えていると言えます。一般に市民・NPOはプロセス指向で行政は結果(実績)指向であるとよく言われますが、参画と協働の論議は、まさにこの二つの指向性(文化)のぶつかりあいです。だからこそ行政と市民・NPOの「協働」は実験として取り組まなければという世田谷区行政マンの発言は、極めて重要で的を得ていると言わざるをえません。また、ともすれば公共事業の合理化や財政負担の軽減といった結果側面で参画協働が議論されがちですが、ここで「協働」の最終目的は、プロセスにおける市民のエンパワー(地域力向上)であるというシアトルの指摘の重要性が浮き彫りになるように思えます。
 しかし、我々は、ここで過去の社会実験を振り返っておく必要があるのではないでしょうか?かって行政は、必ずしも今のような強い結果指向を持っていたわけではないようです。30年前に手探りの社会実験として取り組まれたコミュニティ構想、真野・丸山はどうだったのか?行政と市民の思いはどのように、交差したのか?今回のことを一過性の参画協働騒ぎにしないためにも、先駆的といわれたこれらの事例を検証することが重要であるように思います。(030502記)
* * *  
リレー論文、次は「石川賞」を受賞された宮西悠司さんよろしく。

(小林郁雄→野崎隆一→宮西悠司→)


野田北部はどこへ行くのか?

野田北ふるさとネット、野田北部まちづくり協議会

河合 節二


 野田北部地区は99年3月の「コミュニティ宣言」後、いわゆるハード整備からソフト重視へと、まちづくり活動の根幹を移行するという、新たなスタートを切ることになった。
 本稿ではそれからの動きと、今野田北部は、これから何をやろうとしているのかを報告したい。
 99年「コミュニティ宣言」を行うにあたり、まち協内でも様々な想いが交錯した。これは復興宣言と捉えられてしまう不安(支援の打切り)と、今復興を語るにはまだ現実的ではないとの思いがあったからである。(そのため、自治連合会長が宣言する草稿には復興の文字は削除されたのだが、当日の宣言は錯誤により変更前の原稿、すなわち復興の文言入りになってしまった)
 当時の野田北部は、区画整理事業エリアの海運町2、3丁目が、災害公営(受皿)住宅の完成を迎え、仮換地もほぼ指定を受け事業完了の頃であり、また本庄・長楽2〜4丁目は「街並み環境整備事業」による細街路美装化整備事業が、ようやく端緒についた頃でもあった。
 当時を思えば、唐突に「ソフト重視」「さらなるコミュニティ」と云えども、何を何が?の状態で、危うくまちづくりのロストワールドに嵌りかけたのである。しかし地域とすれば、細街路美装化整備事業は、毎年着実に路線を増やし続けているため、余計なことを考える時間もなかったことが幸いした。また、本来ハード事業と思われる細街路整備は副産物として、度重なる説明会等を通じ「近隣同士・まち協・行政」の三位一体というコミュニティを生んだことである。日頃野田北部は、コミュニティの一環と称しイベントばかり精を出しているように見えるが、それだけではないのである。(ちょっとくさいかなあ)
 その後「コンパクトタウン」長田区モデル地区として、地域内の各団体(自治会・婦人会・長寿会・子ども会・NPO等)を、縦割り行政に先んじて、地域をネットワークする組織「野田北ふるさとネット」を創設した。(代表は野田十勇士の智将:林博司である)そのことで同じコンパクトタウンモデル地区と地域間交流の機会を得、現在大沢町(北区)、六甲アイランド地区(東灘区)との出会いが始まっている。
 一方、まちづくりを持続するための先立つものの話しとしては、神戸市のまちづくり助成や、目的を持った事業への助成金(生活復興県民ネット等)を仰ぐ傍ら、自らが稼ぎ出すスキルとして委託事業の受託ほか、まちづくり株式会社コー・プラン小林郁雄先生監修による「ワークショップグッズ」セットの販売等を行い、活動資金を捻出しているところである。それら事業をぶらさげて、これからNPOにすべきか否か、はたまた1円で株式会社を設立したものか、またもや無駄な悩みにあれこれと無い知恵を絞っている。
 最後に最近のトピックスとして「神戸ミニヤード」との出会いを報告しておこう。
 ミニヤードは、元外国航路船長の有限会社ノヴァ研究所代表鈴木清美氏考案の新しいゲームで、当初船上でもできるビリヤードとして開発された直径85cmの回転台でスプリングキューを使用し、コイン状の玉を弾いてプレーするもので、子供からお年寄り障害者の方でも楽な姿勢で遊べ、また指を動かすことでのリハビリ効果や、ゲーム展開を考えることで頭の刺激にもなる楽しいゲームである。人と人とのつながりから出会った話だが、ここからが野田北部のおそろしいところで、この「神戸ミニヤード」の普及に乗り出すことになってしまったのである。(市内の公共・福祉関連施設の方はご用心!じゃなくってご協力のほど)
 鈴木代表の夢は、神戸発の新しいゲーム「神戸ミニヤード」の第1回全国大会を神戸で開催すること。そのため「日本ミニヤード協会」を設立し、本年5月11日注)に地元大国公園で設立記念大会を行うことになった。そんなことで、またまた不安と期待が交錯する始末。まちづくりなるものは、やはり人と人とのつながりから。(雨天のため順延)  つなぎつないで、果して野田北部はどこまで行ってしまうのだろうか。
 そして、その最たるもの「日本ミニヤード協会」初代理事長は、あの総帥こと浅山三郎なのである。


菜の花プロジェクト顛末記(その1)

神戸市

大塚 映二

 

満開になった菜の花を前にした作業メンバー
  神戸に<菜の花ロード>が誕生−ハーバーランドから七宮交差点に抜ける都市計画道路湊町線がついに全線開通した。都市計画決定から57年、事業化から18年のことである。ハーバーランドに隣接した下町密集市街地=西出・東出・東川崎地区の住環境整備事業の一環で整備したものである。
 かの地では協働のまちづくりが進められてきた(と言えばかっこいいが、住民参加のまちづくりのモデルとして神戸市主導で強力に推進してきた)。幅員が27mある都市計画道路が地区内を貫通することについて、地元ではいろんな意見があったが、ともかく行政と住民が協力して事業を進めることができ、めでたく完成となった。
 湊町線の開通を機に、地元としても何らかの記念イベントをしたいという思いはあったが、私は、「せっかくの大きな節目だから、協働のまちづくりにふさわしい取り組みをしませんか」と、みんなで菜の花を育て咲かせることを提案した。湊町線沿道をはじめ、あちこちに空き地が目立つ地区なので、そこを黄色の菜の花で埋め尽くそう、すべて手作りでやろうと呼びかけた。
 花を育てるだけ、しかし、みんなで力を合わせて働かないことには進まない、文字通り身体を使った協働作業である。「みんなで花道をつくろう」−単純さとわかりやすさを前面にスタートした。(このノーテンキさがパワーであり、時には暴走となり、時にはあたふたと走り回ることになる。あたかも“がれきばばあ”こと天川佳美さんの無謀さをまねするかのように。)


『コンパクトシティ』を考える1−今なぜコンパクトシティか

神戸コンパクトシティ研究会

中山 久憲

 

 地方の時代がさけばれてから久しい。東京ばかりが注目を浴び、ますます東京への一極集中が進んでいるようだ。これでよいのか。
 日本の社会構造を変えなければならない。それまで築いてきた日本の成長神話が、バブル崩壊で崩れ、日本は将来の方向を示す指針を失った。それまで日本が歩んできたパラダイムを一から見直さなければならなくなった。経済構造、政治構造、教育構造など、戦前から、あるいは戦後から一貫して貫かれてきたシステムを変える構造改革が必要だ。
 90年代に入り、構造改革は政治命題として、常に内閣の優先課題として、取り上げられてきた。国民は変革を期待しつつも、遅々としてしか進まぬ改革の実態ぶりに、あきれつつも、決して期待をやめたわけではない。確かに、大きな変革は、既得権益との調整を図るという、きわめて日本的な政治風土の中にあって、思い切った成果が見られていない。しかし、いくつかの選挙や地方での制度創設の中にあって、国民の意思が形になった現象が広がりつつある。
 ところがである。構造改革が漸進的に進んでいる中で、経済改革だけは、急激に進んでいる。グローバル・スタンダードといわれる米国経済のやり方が、今や世界標準になって、それに合わない経済体制や制度は、生き残れないからだ。戦時体制下に始まり、高度経済成長を誘導し、80年代には世界的にも評価された護送船団方式や系列方式と呼ばれた政府主導型の金融・産業システムは、皮肉にも一転して、日本の経済構造の癌となった。様々な内部からの膿が顕在化中で、不良債権や隠蔽工作の問題が明らかにされたからである。
 米国からの外圧を受け、結局経済改革だけは進み、銀行などの再編や、企業の合併、合理化という名の下の雇用環境の見直しというより切り捨てが起こっている。終身雇用どころか、会社自体が定年までに存続しているかが怪しくなった。
 結果的に何が起こったか。市場原理が機能し、大きな企業がより大きくなって(必ずしもより強くはなっていないが)、東京に再集中し始めた。品川駅の再開発、汐留の再開発、六本木等の再開発で、超高層ビルがあれよあれよという間に建設された。都市再生という手法が後押ししている。確かに、不良債権問題の空き地が、再開発されて、惨めだった都市の姿は改善された。一方で、東京では2003年問題だという。何をか況やである。
 こうした東京の“光”の部分に対して、地方は“陰”の部分が問題になってきた。東京への企業再編のあおりで、本社機能ばかりか、銀行に代表される支店機能すら地方部で統廃合化され、地方都市からなくなっていく。中心市街地のビルは空き室が目立つようになり、就業者は減る一方である。増えるのは外資系のファースト・フード店やコーヒーショップと、100円ショップである。フリーターとパート労働者だけが増加している。地方経済はバブル時代を頂点に、下り坂を止まることなく、下がり続けている。
 地方都市及びその周辺地域は存立基盤自体すら怪しくなっている。本来農業を中心とした産業から、経済成長時の工場の地方進出により、工業出荷額、雇用が確保され、所得の拡大、消費の増大で、3次産業が下支えする産業構造に転換した。しかしながら、バブル崩壊に併せて、冷戦の終焉で、安価な労働力を求めて、生産基盤はとりわけ中国に移転を余儀なくされた。かつての、安い地価と労働力を地方都市に求めた構造が、日本の数十倍、いや百倍も安い中国へ、そのまま移動している。百円ショップで驚きを持って手にする商品は、こうした産業構造の変化があるからだ。工業だけではない。農業も同じ緯度や気候の中国の農業地帯で生産されると、はるかに安い穀物どころか、生鮮食物すら輸入されるという。
 構造転換の行き先には、地方の時代の到来があるはずだが、現状ではそれどころではない。どういうことなのか。
 日本の戦後経済は、冷戦構造に支えられる形で、日米安保を基調に、米国市場に工業製品を売るための効率的な資本活用と生産システムで、高度成長を図ってきた。日本独自の『開発型資本主義』と呼ばれた、政府主導による、いわゆる『工業化社会』の実践であった。東京と大阪を2眼レフと呼ばれた集中構造により、そのツリー構造の中に、政令都市をサブ中心として、地方を一つの大きな構造の中に組み込むものであった。政府は護送船団方式で、1番歩みの遅い産業や企業系列が確実に生産性を上げられるように、規制をしながら、支えてきた。これを可能にしたのは、冷戦構造と日本が極東の島国であり、厳しい国際競争力にさらされなかったからである。
 こうして繁栄は永遠に続くものと錯覚した。特に地方は、経済成長の間に、中央政府の支援をよりどころとしたシステムに安住してしまい、かつての徳川時代の“藩”のような独自性と創造性を見失ってしまった。“金太郎飴”化した地方は、何を構造改革すればよいのか、まさに茫然自失である。
 構造改革は否応なく進むであろう。必ず、東京一極集中から地方分散・分権の確立がなされなくてはならない。かくなる上は、中央に頼らず、地方自体が自らの足下から見直さなければならない。あらためて、地方や地域の特徴は何か。いかなる優位性を持っているか。地方として成り立つための規模はいかなるものか。主権者として“市民”の責任と行動を生み出すことができるのか。
 これらの課題を取り組む都市のあり方として、私たちは『コンパクトシティ』というテーゼにぶつかることとなった。コンパクトシティは欧米では決して新しい概念ではないが、前市長の笹山氏が、神戸の震災復興後の新しい都市のあり姿として理念を取り入れたものである。神戸は、コンパクトシティを実現できる要素を十分に持っている。その具体化が復興後のその先の神戸の姿を示すものであるに違いない。
 私を含めて、何人かで、コンパクトシティの概念の整理や、日本的あるいは神戸的なモデルを模索をするべき勉強会を、過去数年間地道に細々とであるが、活動を続けている。その中から、コンパクトシティは、単なる都市構造のコンパクト性だけではなく、日本の地方が求めなければならない、あるいは明治維新後、戦後経済システムの過程で喪失してしまった自立性の追求を、3つの“COMPACT”に求めることとした。まだまだ荒削りな考え方に過ぎないが、連載できる機会を得たので、問題提起型でチャレンジさせていただきたい。
神戸市総合計画課発行のパンフレット 2000年3月発行

 


Dr.フランキーの街角たんけん
第1回 兵庫南部のレトロ・モダン

プランナーズネットワーク神戸

中尾 嘉孝


 
写真1:JR兵庫駅(設計:鉄道省、竣工:昭和5年)

「兵庫津の道」に隠れがちな近代化遺産を訪ねようと思い立ち、JR兵庫駅から歩き始めることにした。(写真1)
 JR神戸駅やJR三ノ宮駅のこれ見よがしのレトロ演出に隠れがちだが、ここのホームや通路も、昭和初期の面影を色濃く伝える。(この間、改札前コンコースが大幅に改装されたが。)昭和5年竣工の駅舎は、鉄道省営繕本来のテイストであるインターナショナルスタイル。駅南のキャナルタウンの高層街区のプロムナードを抜けて、堀上橋へ向かう。
 キャナルタウンの南西端には約10年前まで明治20年代に山陽鉄道の機関車庫として造られた煉瓦躯体が倉庫上屋になって残っていた。そこで使われていたカーネギー社製鉄骨は、現在プロムナードの入り口にモニュメントとして残され、跡地の芝生公園にはイメージ保存なのか煉瓦造風のオブジェが点在する。その向こう側には、巨大なサイロ。明治39年に増田増蔵により開設された増田製粉所の本社工場である。(写真2、3)

写真2:増田製粉所のサイロ
写真3:増田製粉所の煉瓦塀
写真4:東池尻町の町並み

兵庫運河の延伸部分をまたぐ堀上橋を渡ると、震災後の神戸では滅多に目にしない高い煉瓦塀が見えてくる。城山三郎の「鼠」に、米騒動の頃、三井物産がこの会社をダミーにして穀物の買占めを展開したという話が紹介されている。鈴木商店焼き討ち事件の「隠れた震源地」だったわけである。工場施設は神戸大空襲で大きな被害を受けたが、煉瓦塀や正門脇の煉瓦造タンクが往時の姿を偲ばせる。付け加えると工場の西側のキリスト教会は、昭和8年に竣工した元同本社屋で置塩建築事務所の設計。
 東尻池の交差点を目指して歩く。周囲は戦前の面影を残す長屋が軒を連ね、数百メートルだけ「昭和の神戸の下町」を味わえる。(写真4)
 大型車がひっきりなしに行き交う国道を小走りで横断。町工場の間の細い道を抜けて尻池橋から兵庫区へ戻る。和田山通・御所通一帯は、維新の頃には水田だったが、兵庫運河開削以後、川崎造船所(現川崎重工業)兵庫工場や川西機械製作所(現富士通テン)、阪東調帯(現バンドー化学)などの工場が建設された。
 いまや「世界の鉄道車両工場」の様相を呈する川重兵庫工場の敷地の内には、河合浩蔵が設計したと考えられる明治末期の煉瓦造上屋のファサードが一部残っている。川崎重工業の航空機部門が設立された当時の、昭和初期の機能主義的デザインのRC造事務所建築が集中して残っているのも特徴で、これらはいずれも置塩建築事務所の設計、中島組の施工である。(写真5、6)
 また富士通テンの「祖先」・川西機械製作所は、中島知久平と袂を別った川西清兵衛が大正14年に航空機製造を目指して設立した経緯を持つ。というわけで、ここは関西の航空機産業胎動の地といえよう。(写真7)
 いるか設計集団設計の市立浜山小学校を右に、JR和田岬線の旋回橋を左に見て材木橋から兵庫運河の本線を渡る。ウイングスタジアムのドームが眩しかった。

写真5:川崎重工兵庫工場の創建期の遺構

写真6:川崎重工兵庫工場事務所
(設計:置塩建築事務所、竣工:昭和8年頃

写真7:富士通テン本社(川西機械製作所、設計不詳、竣工:大正14年?)

中尾嘉孝(「ドクターフランキー」)
1970年、兵庫区山田町小部生まれ。15の春、近代化遺産の魅力に開眼、以来、学業、部活、本職の合間を縫って、京阪神間のまち探険に勤しむ。「港まち神戸を愛する会」世話人。「全国町並み保存連盟」会員。

 


あしや散策 阪神間倶楽部発足

芦屋市立美術博物館

河崎 晃一


 何となくあやしげな? 何をするのか名前だけではわからない集り「阪神間倶楽部」。その設立にむけての準備会が始動したのが、昨年の秋のことだった。メンバーの顔ぶれを見るとなんとなく納得できる人は、参加すべき集いかも知れない。日本の歴史上まれにみる住民文化が栄華を極めた1920〜30年代の阪神間地域(と、言っても過言ではあるまい)を研究し、好む人たちがいて、その時代に勝るとも劣らないこれからの阪神間文化を生み出していこうする人たちの集いである。今後何回かの地域の散策、研究会を経て阪神間文化の現状を踏まえ、21世紀に発信する新しい阪神間を創造していくことにつながればと願うばかりである。
 その第1回の散策は「あしや散歩」。4月6日、日曜日昼。快晴。桜満開の芦屋川沿いの散策には、30数名が集った。最初の訪問地山手町の旧山邑邸(ヨドコウ迎賓館)では、大阪芸術大学山形政昭氏によるフランク・ロイド・ライト(旧山邑邸設計者)の時代的背景に基づく解説にはじまり、続いて邸内の見学を行った。3階のテラスから見た芦屋川の桜は、絵に描いたような「芦屋俯瞰図」の趣きであった。
 再び阪急芦屋川駅を経て右岸を南下、JR線沿いの仏教会館を見学。昭和2年に建てられた仏教(宗信会)の寺院であって財団法人、造りはキリスト教会風とユニークな建物である?しも花まつりの甘茶のサービスを受け、内部を自由見学。圧巻は、屋上からの芦屋360°のパノラマだった。海側は、埋め立てが進み、高速湾岸線が走りその風景は変わってきたが、山側は、東の甲山から連なる六甲の稜線が昭和初期と変わりない姿を見せている。写真で知る昔の山並みと違うところは、はげ山だった当時と比べ緑が多くなったこと。そして住宅地が這うように山を登ってきていることだろう。毎日この前を通りながら、この屋上からの風景があることを知らなかったのは不覚だった。
 その後自由行動で美術博物館まで徒歩約30分の道のりを歩いた。そこで不肖私が1954年に芦屋で始まった前衛美術グループ「具体美術協会」についての話をさせていただいた。気がつくと旧山邑邸を出て数名が早退したにも関わらず、参加者が増えていたことに驚いた。途中に出会った友人を巻き込んでの散策の終点となっていたのである。熟年層の参加の多いなか、学生や若い層の参加が多かったことは将来への期待が持てる。
 春の空気と青空のもと「いいところ」を見ながらの散策は、ゆったりとした一日を提供してくれた。「阪神間倶楽部」は、引率者らしき人はいるものの、個人の行動にまかせるスタンスがある。参加者それぞれが阪神間の印象を語り、街を見極めていくことこそ「勘違い」のないこれからの阪神間文化を育んでいくことになるだろう。数年後には「阪神間倶楽部」が、その活性化に一役買うことを期待している。
 次回の散策は、6月1日河内厚郎氏の企画で西宮の酒蔵の中心『白鷹緑水苑』(2Fホール13:30受付〜16:30)へ出かけることとなっている。

山邑邸3階テラスより見た芦屋川の桜
散策で、たつみ都志さんの話を聞く面々


空き地からはじまる物語 2

 明日の匂い

中川 紺


 「匂いの空き地」と私が勝手に呼んでいる場所がある。名付けたのは、もう二十年以上も前のことだ。

 国立大学の文学部に通う女子大生だった私は、天気のいい日は時折、下宿していたアパートから隣町の大学まで、約三十分かけて歩いていた。
 空き地はアパートと大学のまん中くらい、閑静な住宅地の小さな十字路の東南の角にあった。昔は大きなお屋敷か何かだったと思われる大きな雑草の絨毯を、私は「近道」と称して斜めに横切る。同じことをする人が多いせいか、草がほとんど生えない「けもの道」ができていた。
 ある日、いつものように緑の絨毯に足を踏み入れた。中ほどまで来た時だろうか。ふと梅の香が漂ってきた。匂いはすぐにかき消えてしまったが、まわりのどこにも梅の花は見当たらない。次の日、隣の大家さんが「ほら見て。庭の梅が初めて花をつけたのよ」と、嬉しそうに報告してくれた。
 こんなこともあった。空き地で潮の香りがした。海からは十キロ以上も離れているはずなのに。その翌日、入院していた祖母が亡くなり、葬儀の手伝いで田舎に出かけた。小さな漁師町で、家の前まで海の匂いが漂っていた。
 柑橘類の匂いをかいだ次の日には、母から荷物が届き、箱にはぎっしりと実家で栽培している甘夏がつまっていた。
 そのうちに、私は空き地の「匂いの法則」に気が付いた。明日の匂いを私におしえてくれることに。

 今、私は卒業以来二十三年ぶりに「匂いの空き地」に立っている。付近の木造アパートは姿を消して様子がすっかり変わってはいたけれど、三十歳の時に仕事でフランスに渡った私には、久しぶりの日本のまちの空気がとても心地よく、懐かしい。帰国の時には必ずこのまちを訪ねようと決めていた。
 「匂いの空き地」は五階建てのマンションとなり、曲り角にあたる部分に小さな公園ができていた。
 ライオンを模した遊具に腰掛けて、遊んでいる親子連れをぼんやり眺めている私の鼻先に、不意にたばこの匂いが漂ってきた。
 同時に私は、昔ここで同じ匂いをかいだことを思い出した。そうだ。修一と会う前の日の匂い。修一のたばこの匂い。卒業後しばらくして別れた私達は、結局生きて再会することはなかった。……彼は五年前、自動車事故で亡くなっていた。まだ四十の若さで。
 過去の空気に浸る私の横を、一人の大学生がたばこを燻らせながら通り過ぎた。横顔があの頃の修一によく似ている気がした。
 背中を見送りながら、学生の歩き方が修一とそっくりなことに気がついて、私はがく然とした。
 「やっと再会できたんだね」
 間違いなく修一の息子であろう男の子の後ろ姿に私はそっと呼びかけた。
 それから私は「匂いの空き地」に行っていない。
(完)


 

阪神白地まちづくり支援ネットワーク・第31回連絡会報告

 

 今回のテーマは、「持続するまちづくり−『タウンマネージメント』の事例について−」。4月11日(金)ひょうごボランタリープラザで行われました。
 まず、ネットワーク世話人の後藤祐介さん(ジーユー計画研究所)から趣旨説明があった後、次の3名から実例を報告していただきました。所属とテーマは以下の通り。
@出口幸治さん(神戸市産業振興局商業課)/「『神戸ながたTMO』中心市街地活性化・新長田の事例
A吹田徹治さん(みなとがわ未来梶j/「『ハートフルみなとがわ』商業再開発ビルのマネージメント」
B古田篤司さん(新開地まちづくりNPO事務局長)/新開地のまちづくりとタウンマネージメント

 出口さんからは、まず中心市街地活性化をめぐる法制度や課題について概略を述べられたあと、(株)神戸ながたティー・エム・オーがこれまで行ってきた、全国リサイクル商店街サミットや修学旅行の誘致、お好み焼き・ぼっかけマップづくりなど、地域資源を生かした取り組みについて報告されました。
 吹田さんからは、小売市場の再開発ビルを管理運営する株式会社の専従職員という立場で、これまでの多くの経験を語っていただきました。「再開発が終わって自分の権利が確定したらその後の運営に関わらない商売人が多い」「商売人の気質が分からないとマネジメントが出来ない」など、実感のこもった発言が印象的でした。
 古田さんからは、かつての神戸の中心地であった新開地のまちづくりについての報告がありました。これまでのまちづくり活動の経緯を総括的に述べられたのちに、新開地まちづくりNPOが行ってきた数々の事業−新開地にふさわしい店舗の誘致や音楽イベント、行政との協働の状況など−について、バイタリティあふれる報告を行っていただきました。(中井 豊/中井都市研究室)

報告者の方々。向かって左から出口さん、吹田さん、古田さん。



情報コーナー

 

阪神間倶楽部 第2回見学会・研究会
・日時:6月1日(日)13:30受付開始,16:30終了予定
・場所:白鷹禄水苑2Fホール(西宮市鞍掛町5-1、TEL.0798-39-0235、阪神西宮駅南出口より南へ徒歩7分)
・テーマ:阪神間の文学・映画、トレンディドラマについて
・内容:谷崎に関するビデオ2本上映予定、阪神文学史年 表等の資料を用意しています。
・参加費:700円(ビデオ,資料代)
・問合せ:河内厚郎事務所(TEL.06-6345-8271、FAX.06-6345-8272)、まちづくり会社コー・プラン(TEL.078-842-2311、FAX.078-842-2203)

灘中央まちづくり協議会/第5回まちづくりマーケット
・日時:6月8日(金)10:00〜14:30(雨天中止)
・場所:稗田公園
・内容:フリーマーケット、模擬店、淡河の特産品、「なつかしき心のまちかど」イベント、他
・問合せ:灘中央まちづくり協議会 新・まちづくりハウス(TEL.078-882-3457)

第32回阪神白地まちづくり支援ネットワーク連絡会
・日時:6月13日(金)18:30〜
・テーマ:公的住宅の実状と役割
・場所、内容:未定
・問合せ:ジーユー計画研究所(TEL.078-251-3593、FAX.251-3590)

トピックス

・・・・宮西悠司さん、都市計画学会賞・石川賞受賞!
 住民まちづくりの草分けである真野地区(神戸市長田区)で30年以上にわたってコンサルタントとして携わってこられた宮西悠司さん(コー・プラン取締役)が、本年度の都市計画学会賞・石川賞を受けられました。大変名誉なことで、ネットワークとしても共に喜び合いたいと思います。




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