きんもくせい50+36+3号
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真野から生れた神戸市まちづくり条例

まちづくりプランナー

宮西 悠司


 野崎さんは「参画協働」を過去の事例から学ぶ必要性を指摘して、バトンタッチをされた。
 はからずも、このたび宮西は平成14年度日本都市計画学会石川賞を貰った。推薦者の推薦の内容は置くとして、学会の選考理由は「神戸市真野地区における一連のまちづくり活動」を表題として、以下のように述べられている。
 宮西悠司氏がコンサルタントとして、そしてまちづくりの実践的指導者として、1970年から現在まで一貫して取り組んできた神戸市真野地区における継続的な一連のまちづくり活動は、我が国都市計画の進歩、発展に顕著な貢献をした独創的、啓蒙的な業績であると考えられ、石川賞にふさわしいものである。
 現都市計画法が制定され都市計画の計画体系が漸次整えられつつあった時期、地区レベルの都市計画のあり方が、重要課題とされていた。1980年には地区計画制度が創設され、その後も多様に発展、制度の充実が図られてきたところである。この地区計画制度創設、制度充実のプロセスにおいて、真野地区の実践は常に先行指標の一つとして影響を与えつづけるとともに、現在においても全国各地区の実践をリードする存在でありつづけている。それは、真野地区の実践が、常に制度を超え制度にとらわれない創造性豊かな先見的内実を持ちつづけてきたからである。
 1978年から始められた地元住民による“真野地区まちづくり構想”策定というまちづくり提案は、神戸市の地区計画・まちづくり条例の制定に生かされるとともに、最近の都市計画法改正における都市計画提案制度の嚆矢をなす事例となった。
 このように、宮西氏の神戸市真野地区における一連のまちづくり活動の業績は、草の根運動でありながら一地区の成果のレベルをはるかに超えて、我が国都市計画の進展に大きく寄与したものと評価する。 神戸市における「まちづくりの市民参画のフレーム」の一つには神戸市まちづくり条例がある。この条例は、真野の構想づくりの経過を下敷きにしている。正確には地区計画の手続き条例として位置付けられるが、他都市に先駆けて1981年に制定されている。(82年施行)
 2001年5月に都市計画法が改正され、市民に都市計画(地区計画)の発議権があたえられた。具体的には都市計画法第16条(公聴会の開催等)の3項に「市町村は、前項の条例において、住民又は利害関係人から地区計画等に関する都市計画の決定若しくは変更又は地区計画等の案の内容となるべき事項を申し出る方法を定めることができる。」というものである。神戸の条例は20年以上前の当初から市民の発議権を認めていた。いかに先行的な条例であったかがわかる。
 発議権というのは市民の要望を行政が条例に基づいて受取る、受止めるということである。「参画協働」を考えるうえで神戸市民にとって貴重な先人の贈り物といえる。
 震災後、8年半を経過し100以上も設立されたまちづくり協議会の多くは、当初の目的を遂げ、自然消滅しようとしている。しかし、神戸市から与えられた「市民の発議権」までも手放してしまうのはどうか。「参画協働」制度を身近なモノにして行くために、具体的な論点を提供させてもらった。

* * *

 リレー論文、次は東灘区深江地区まちづくり協議会の佐野末夫さん よろしく。

(小林郁雄→野崎隆一→宮西悠司→)


連載【新長田駅北(東部)まちづくり報告・第2部 1】

まちづくりシステムの研究(1)

久保都市計画事務所

久保 光弘


 1.「新長田駅北地区(東部)土地区画整理事業まちづくり報告・第2部:まちづくりシステムの研究」にあたって
 ――「復興」とはなにか、そしてどこまでをいうのであろうか。

 区画整理事業は、従前の借家層を残すことは難しく震災前に6割を占めた借家世帯の大部分はこの地から去らざるを得ない。それでも換地手法は地権者の権利を継続させるもので住民主導のまちづくりの手法になりえる。
 区画整理地区の地権者は、土地を売却することも可能であり、建物移転補償費(金は建物再建に限らず何に使っても良い。)も発生する。地区に居住しない多くの借家を所有していた地主にとっては、長く塩漬けされていた土地が開放されることになる。この結果、区画整理は、大きく土地の流動化を促すことになる。
 震災被害や区画整理はこれまでの積み上げてきた個人の蓄積や生活設計の予定をリセットする。この結果は生活弱者にはとりわけ厳しいものであり、この点は明らかにされるべき研究課題であるが、ここでは触れない。まちづくりは前向きにとらえるものであるとすれば、流動化した土地や金が新しい資源として、地域産業の再構築や住環境に再投資される機会であり、地域に固定化して内在していたひずみの是正の機会でもある。まちづくり協議会によるまちづくりビジョンは、個々の地権者の力の結集を願ったまちづくりの方向を示すものである。
 しかし、個々の土地は、個人または、個々の事業者が利害を判断し、利用や処分を決定するものであり、換地時の社会的環境も大きく影響する。  居住者やケミカルシューズ等事業者の高齢化が進む新長田駅北地区東部(以下当地区という。)にあって、震災以降のますますの経済環境の悪化という状況下での土地利用は、個人の生活設計や企業経営を色濃く反映したものとなる。経済環境の悪い状況での区画整理は、個人のハッピーリタイアの道への選択と企業のリストラの進行を促す側面がある。高齢居住者が住宅再建より、土地を処分してこれを今後の生活資金に借家に入った方が良いとの判断するケース、事業者がこれまでの借金を返し、事業の縮小や廃業を行うケースは、特殊なものでない。(経営者が高齢化し、仕事が少なくなり、単価が切り下げられ、借金もあることが稀でないコンサルタント業界人にはよくわかる話。)
 神戸化学センタービル、神戸シューズサークルビルなどの大型シューズ協同組合は組合を解散し、長田特有の民間工場アパートは姿を消し、大手の靴卸商社も本社機能を地域外に集約し当地区から去った。増し換地となる新長田駅北区画整理区域の飛び地・鷹取北エリアに移転した事業所もある。これらはいずれも企業にとって合理的なリストラの選択、身動きできなくなってきた状況の解消のチャンスであったとも言える。かくして、町からはケミカル事業所は目に見えて姿を消しつつあり、空き地が残り、町は持家住宅地の方向に向かっているようにみえる。町は社会的環境とあいまって「変わり続ける生きもの」であり、元に戻すなどというものでない。
 そうしたら、5年ほど前に企業や土地所有者らが集まり、その実現を信じて作られたシューズギャラリー構想やアジアギャラリー構想は意味が無かったかといえば、そうとは言いえない。これらの構想が、協議会活動の多面的展開を促し、協議会の商工部会の地道な活動につながり、シューズプラザやアジアギャザリー神戸が苦戦しながらも新しい展開を模索している。ケミカルシューズ事業所は、見えて少なくなったといえ、建物の奥でケミカル関係の事業はまだ根強く残っている。これらの種火は、ニッチ(隙間)産業を生み出し、空き地の新しい活用と関係して,新しい展開に開花するかもしれない。未来のことは誰にも予測できない。長田には地域産業が必要であり、そのためには、部分的でも継続して最善を尽くすしかないのである。
 多数の個と社会的環境の中で進むまちづくりは、まちづくり構想を機械的に実現できるものでなく、構想の予定調和を図るものでない。PLAN・DO・SEEの循環であり、ビジョンをつくり続けることがまちづくりであるといえる。
 震災前の借家住民や事業所に変わり、新住民が入りつつある。当地区の復興に献身的に活動されてきた役員の中にもこの町から離れていった人も多く、それに連れて協議会への参加する役員も減り、まちづくりの経過を知らない住民の割合も増えていく。町は土地利用や構成員を入れ替えつつも生きて続けるものである。
 町の進化に影響をもたらせる協議会は、またも新しいターニング・ポイントの時期を迎えつつあるといえる。単一協議会の中には、新住民を取り込んで活動を初めているところがあり、新しい兆しも感じられる。
 さて、当地区のまちづくり報告は、きんもくせい誌において16回にわたる連載をさせていただいた。* まちづくりと同時進行的な記述は客観的な「まちづくり報告」といえるものでなく、地区に関わるコンサルタントの私的なノートでしかないと早い段階で気づいたが、そのままにしておいた。この連載は混沌とした私の頭の整理であった。読み返すと気になるところが多々あるが、その時々の状況と気持ちを反映しており、今からでは決して書くことはできない。
 この連載や多くのフォーラム等を通じて、まちづくりとは何なのか序序に考えるようになってきた。
 まちづくり協議会が活動を停止するとまちづくりはそれで終わること、しかも協議会活動は容易に活動を停止しやすい生きものであること、しかしその中にあって小規模協議会どうしの連携による活動は、地区の秩序と協議会活動の活力をつくるものであること、震災復興まちづくりのプロセスは不可逆で一旦タイミングを失うと取り返しのつかないものであること、まちづくりの結果は計画の予定調和でなく予測はできないものであること等々。
 そのような折、土井幸平先生に当地区のまちづくりについて論文としてまとめることをお勧めいただいた。先生から数々のアドバイスをいただきながら、コンサルタントとしての実践の理論化を試みた「新長田駅北地区(東部)区画整理事業における住民主導のまちづくりシステムの研究」を学位論文(大阪市立大学)とすることができた。
 本稿「まちづくり報告・2部」では、研究論文のポイントを提示しながらも、その時々の状況と考えを自由にノートし、その内容を更新していきたい。今回からの連載では、映画で言えばカメラを思い切り引いた視点から、マクロにまちづくりの全体やまちづくりシステムについて考えるものとする。といってもコンサルタントである私自身がまちづくりの現場で実際に役に立つもの、現場から感じるリアリティをモデル化したものとして書き留めたい。
 「月刊きんもくせい創刊号」(03年4月号)で小野幸一郎さんが提案された復刊きんもくせいのテーマ「スタンダード」に供することができれば幸いである。

2. まちづくりの定義
 「まちづくり」という用語は、ノンフィジカルな住民活動の領域や官公庁が主導する都市計画事業などにも使われており、その意味は多様で曖昧である。
 小野幸一郎さんが言われるように、その解釈はいろいろあってよい、ただ、きんもくせい界隈では、ある程度共通して理解できる解釈が無いと議論が進まないことになる。
 すでに震災復興の現場から小林郁雄さんが「まちづくり」の定義として、「地区の改善を持続的に行う住民主導の活動」と定義された。越沢明先生は小林さんの「まちづくり」の定義をうけて、「都市計画」とは、「整備によって都市または、地域全体の社会資本、都市環境を改善する。同時に土地や建物の使い方についてのルールづくりを法律により行うこと」が本質であるとされている。(市民まちづくりブックレットNo.7,p92)
 復興まちづくりは、まちづくりと都市計画の双方がどのように役割分担をし、連携をすべきかを問いかけた。  小林さんの「まちづくり」の定義は、端的にまちづくりの本質を示しているが、区画整理まちづくりを中心に論ずる本稿では、さらに以下のような点を踏まえて定義を詳細化する。
 まず、個々に異なる利害を集約し調整する地区の合意形成組織の存在が重要な要件である。第2に合意形成組織の活動が、具体的に地区の空間形成、物的な施設の計画・実現・管理やコミュニティ形成に発現させるプロセスまで含めて、まちづくりにおける命題を明らかに表示する必要がある。
 以上から、本稿における「まちづくり」の定義を、「市街地形成、コミュニティ形成に関する地区住民の活動、及びその活動により計画や市街地の姿へと発現するプロセス」とする。
* 報告(1)〜(4)は「きんもくせい」(創刊号〜50号)を、(5)は「論集きんもくせい」第4号を、(6)〜(16)は「報告きんもくせい」第3〜33号を参照してください


連載【地域の再生と企業文化 2】

震災復興で加速する企業と地域の新たな関係を考える

インナー神戸再生と新しい企業文化

地域との「普段」の交流を目指す:三ツ星ベルト

神戸商科大学

加藤 恵正

 

   神戸のなかで早くから市街地を形成し、用途的には住・工・商の土地利用が混在している地区をここではインナー神戸と呼ぶことにする。インナー神戸の形成は、明治期にある。神戸の開港場としての地の利を背景に、マッチ、ゴムなどの輸出雑貨工業が発展したが、その後合成樹脂を素材にファッション性が高いケミカルシューズ産業が発展した。同時に、1909年にはダンロップ護謨(住友ゴムの前身)が設立され、タイヤ製造技術の向上に大きく貢献するとともに、日本ゴム工業の本格的発展の契機となった。神戸に本社を置く三ツ星ベルトやバンドー化学など日本の産業用ベルトのトップメーカーも、こうした海外の進んだ技術の刺激と第一次世界大戦による需要増は背景に基礎がためを行った。
 しかし、インナー神戸の産業空間は、大きな転換期にあることも閑却できない。ひとつには、1995年における阪神・淡路大震災によるダメージである。インナー神戸に立地する中小零細事業所群は、一時的にせよ壊滅的な状態に陥り、その後の復興も業界・地区による格差をともないつつ、全体としては必ずしも順調ではなかった。第2に、近年における急速なグローバリゼーション・情報化の潮流のなかで、多くの産業・企業がその存立基盤を弱体化させている。こうした影響は、従来から形成されてきたいわゆる地域産業コンプレックス(職住一体型地域)の再編を必然化している。 今回は、こうした急速な変化の渦中にあるインナーシティにおいて、地域との普段の交流を続ける三ツ星ベルトを紹介することにしたい。
 従業員約1300人を擁する三ツ星ベルト鰍ヘ、国内外13ヶ所に工場を持つ屈指の産業用ベルトメーカーである。神戸本社及び事業所が立地する真野地区は、長田区南東部に位置し、住工混在問題への取り組みを全国的に先駆けて試みてきたところでもある。真野地区は、阪神・淡路大震災において大きな被害を受けた地区のひとつであるが、震災直後に発生した地区内の火災にたいし、同事業所の消防隊がいち早くこれを消火し地域内での延焼を防いだことはよく知られている。 1980年以降、同社では総務部長が「真野まちづくり推進会」役員として参加。いわば企業市民としてまちづくり活動の一翼を担ってきた。一時ハーバーランドへ移転していた本社を、震災後真野にもどすことを契機に、地域住民にも開放したコミュニティ・レストラン「エムエムコート」を開設している。昼食時には、同社社員と地域住民が一緒に食事をする光景が見られるという。また、ジャズ・フェスティバルなども行われている。さらに、新築された本社玄関ホールを使ったコンサートや「たなばたまつり」の開催など、地域と連携したイベントが絶えず行われている。
 また、同社は「人を想い、地球を想う」というスローガンのもと、神戸市内の小中学校にビオトープを設置する活動を行っている。もともと、震災前に小学校からの依頼に応じて、自社の遮水シートを用いてビオトープを無償提供したことがきっかけであったが、震災後子供たちへのプレゼントとして、ビオトープの設置から環境形成までをすべて社員によるボランティアによって行っている。
 同社ははやくからまちづくりにたいし大変協力的な姿勢を持ちつづけてきた。震災時には、同社の消防団が地域の火災を食い止めると同時に、それは自社への被害をも食い止めたことも意味している。「企業と地域の普段の交流こそが重要」との同社幹部の指摘は、地域の防災や安全を考えるうえで大変示唆的である。いまひとつ印象的なことは、地域イベントやビオトープ設置は、同社社員のボランティアによってすべて運営されていることだろう。社員がこうした活動に参加することにたいするインセンティブはないが、参加者の満足度は大変高いという。それは、ボランティア活動自体の満足とともに、たとえば同社他部署で勤務している同僚と新たに知り合うきっかけとなるなど、企業内での社員の融和にも貢献していることもあるという。また、社会的責任投資という観点からも、かかる活動が及ぼす地域へのインパクトは大きいし、こうした観点からの地域における企業にたいする評価と支援のあり方なども今後重要な課題となろう。


連載【菜の花プロジェクト 2】

菜の花プロジェクト顛末記(その2)

神戸市

大塚 映二

 

  まずはおめでたいお知らせから。6月は、国土交通省等が推進する「まちづくり月間」であるが、その行事として行われる「まちづくり功労者・大臣表彰」に、西出・東出・東川崎地区まちづくり協議会が選ばれた。15年以上の長きにわたる一連のまちづくりが評価されたものだが、協働のまちづくりの集大成とも言える今回の菜の花プロジェクトのインパクトは大きかったと思っている。関係者一同で喜び合いたい。
 さて、単純で取っつきやすいということで始めた菜の花プロジェクトだったが、今回は、それを証明するかのようなまちの人々のうれしい反応の数々をあげておくことにしよう。
・まず、草ぼうぼうの空き地がきれいになるものだから、いままで閉口していた近所の方が喜んでくれて、差し入れが相次いだ。ジュース、パン、コーヒー、みかん、せんべい、などなど。みんなで汗を流しての作業が報われるひとときであった。(作業皆勤賞の大塚は一番の恩恵を受けた。)
・これまで「まちづくり」と言えば、何かむずかしいことを議論していると受け止めて参加していなかった住民の方々が、次々と輪に加わってくれた。ずいぶんおおぜいの方と知り合いになれた。
・たくさん育つ苗を見て、うちにも分けてほしいという方が続出した。また、「あそこにも植えてあげる」という申し出も多く、文字通りまちじゅうが菜の花でいっぱいになった。
・3月1日に開催した「菜の花フォーラム」では、東川崎町婦人会のみなさんが菜の花を使った料理に挑戦してくれた。菜の花寿司や間引いた苗を使ってつくったマヨネーズ和えなどが会場に並び、みんなで舌鼓を打った。
・そして、一番のすばらしい展開は、「菜の花せんべい」の誕生である。稲荷市場にある宝栄堂という煎餅屋さんを営む大畑さんが、実った種(なたね)をせんべいの材料に取り入れたのである。その名も<菜の子ロール>。人通りの少ない市場で細々と売るよりも、思い切ってハーバーランドに店を出せば大ヒットするのではないかと思うくらい、実においしいせんべいの誕生だ。
ちなみに、この大畑さん、まちの名物として「ビリケンせんべい」を出しましょうよと言う提案を受け止めてくれて、みごとに商品化した進取の精神旺盛な方である。この二つの新商品を武器に、インターネットを使った販売戦略もあるかなと思う。
※菜の花プロジェクトの概要は、神戸市「協働と参画のプラットホーム通信」第4号を参照されたい。


”菜の子ロール”と”ビリケンせんべい”を手にした大畑夫妻
これがうわさの”菜の子ロール”


連載【阪神間倶楽部 2】

阪神文学と阪神間文化

文芸評論家

河内 厚郎

 

  阪神大震災の折、黒岩重吾(故人)、藤本義一、小田実、陳舜臣、筒井康隆、宮本輝、田辺聖子、山崎正和、永田耕衣(故人)といった被災文士のなまなましい肉声が現地から届けられて、阪神間には今も多くの文学者がいることを知らしめてくれた。
 パリのポンピドゥー・センターでは、世界の名作をフランス語に訳して自国の名優に朗読させたカセットテープを売っている(今はカセットテープではないかもしれない)。日本文学ではどんな作品が選ばれているのかと見れば、最初に出たのが井上靖の『猟銃』で、芦屋を舞台にしたメロドラマ風の書簡体小説である(同じく阪神間を舞台にした、谷崎潤一郎の『卍』や、宮本輝の『錦繍』も、手紙のやりとりで心の秘密が明らかになるという構成だ)。他には野坂昭如の『火垂るの墓』、谷崎潤一郎の『猫と庄造と二人のをんな』、遠藤周作や川端康成の作品もある。『火垂るの墓』は御影や夙川、遠藤周作の『黄色い人』は夙川や仁川、『猫と庄造と二人のをんな』は阪神沿線の打出が舞台で、どれも「阪神文学」と呼んで差し支えない。足元の文学が欧米でこれだけ翻訳されているということを、阪神市民はほとんど意識していないであろう。
 なぜ、阪神文学が盛んに翻訳されているのか?
 芦屋市に虚子記念文学館を建設した稲畑汀子氏(虚子の孫)から話をうかがう機会があった。彼女は小林聖心女学校で遠藤周作の母にあたる女性から音楽を習ったという。二年上級には『ミラノ 霧の風景』で女流文学賞をとる須賀敦子がいた。ヨーロッパで何十年と生活して日本文学を翻訳していった須賀敦子は、自身が芦屋・夙川で育ったせいか、井上靖、遠藤周作、谷崎潤一郎ら阪神地域を舞台にした小説をイタリア語やフランス語に翻訳してくれていたのである。すぐれた翻訳があったから広まったわけだ。
 それにしても、阪神間はもっと自らの文化を外へ発信すべきだと思う。滋賀県の豊郷小学校の件で建築家ヴォーリズの遺産が注目されているが、夫人が神戸女学院の第一期生だったこともありヴォーリズの名建築は阪神間に多数存在している。西宮にはヴォーリズ村ともいわれたほどの町(雲井町周辺)もあるにも関わらず、こうしたことへの情報発信や報道が少ない。戦前は、日本初のファッション誌『ファッション』や映画誌『キネマ旬報』が阪神間から刊行されて全国レベルで話題を集めたことを考えると、この地の情報発信力を向上させていくことが重要であろう。
 また、観光地としては地味な印象を持たれている尼崎ですら観光タクシーが走っているのだから、芦屋や西宮で営業しているタクシー会社も観光集客サービスに挑んでくれないものかと思う。街で人気のケーキ屋、関西学院をはじめとするキャンパス街、オルゴールの美術館、酒蔵レストラン、えべっさんや門戸厄神など由緒ある寺社、有名料亭の「播半」……魅力的なコースはいくらでも考えられる。「細雪エレガント・ツァー」とでも銘うったら如何? 本当は、観光用のループバスがあってもおかしくないくらいの環境をそなえていると思うのだが。

阪神間倶楽部 第2回研究会(第4回準備会)の記録
○日 時:2003年6月1日(日)14:00〜16:30
○場 所:白鷹禄水苑ホール
○参加者:20名(うち新聞記者2名)
 阪神間倶楽部の第2回研究会は西宮の白鷹酒造、禄水苑ホールにて開催いたしました。
 14:00に河内厚郎さんのお話のあと、谷崎の足跡を稲畑汀子さんの解説でたどるビデオ鑑賞。次に1959年の「細雪」の1部、その後にたつみ都志さんがお持ち下さったサンテレビの番組のビデオを拝見し、「鎖欄閣」復元に向けての話をお聞きしました。
 河内さんからは、細雪に代表される阪神間が舞台の映像の数々や、その風景や暮らし振りに影響を受け阪神間にあこがれた関東の方々の話や、「細雪」はプライベートな世界を描いた60年前のトレンディドラマではないかというお話。今後の宝塚映画祭のことなどを伺いました。
 また、この日お借りしたホールの辰馬朱満子(たつうま すみこ)さんからホールを創られた経緯や活動、今後のこととして、このホールが単に民俗資料館としての役目だけではなく、かつて造り酒屋の旦那衆が地域文化の応援団だったように時代が変わっても「旦那語り」として文化を地域に残し、活用したいという意気込みをお聞きしました。
(天川佳美・記)




連載【大大特 2】

大大特合同研究発表会開催される

神戸大学大西研究室

濱口善胤、藤原祥子、吉田明弘

 

 5月2日人と防災未来センターにおいて大大特合同研究発表会が開催されました。内容とその感想について述べたいと思います。

1)地域経済復興支援方策の開発研究
概要/小林郁雄
地域経済復興と中心市街地活性化/中沢孝夫
 帯広市屋台村の数々の取り組みや兵庫県上郡町における事例等から、中心市街地活性化に結びつく「まち」と「ひと」との多くの「物語」のもつ地域再生への力が重要であるという指摘がなされました。
 中沢先生から、路地空間での高揚、見通せない道での発見のすばらしさについてお話がありました。私たちも下町のあたたかさというものに共感し、憧れを抱いています。しかし、整然としたビジネス街・住宅街で育ち、それがよいとされ、実感を持っていない世代でもあります。中沢先生も紹介されていたJ.Jacobsの「アメリカ大都市の死と生」にあるような混用性のあるまちはいいまちだという理論は、頭では理解できるのですが実感がわかず、それに回帰することがよいことなのか疑問を感じるところもあります。

2)災復興政策総合評価システムの構築に関する研究
概要/林敏彦
間接被害概念を用いた復興評価指標開発について/永松伸吾
 行政・法学・経済学の分野からそれぞれアプローチし、震災復興政策総合評価システムの構築を目指されるということでした。今回の研究会では、直接被害の裏に隠れてそれほど議論されることのない間接被害に着目し、その軽減を考える為の第一段階として評価モデルに関する発表がありました。
 復興評価指標として間接被害という基準は当然研究されるべきものなので、感心しました。ただ、いまだリアリティをもったものではないので概念的な研究から現実味を帯びたプログラムの実現へとつながるよう期待しています。

3)災集合住宅の復旧・復興に関する研究
概要/大西一嘉
8年目を迎えたマンション再建/大西一嘉
 災害時における、集合住宅の建替えや補修には様々な問題を抱えていました。今後、社会問題となっていくであろう集合住宅の老朽化に備えて法律・専門家の職能・理事会の運営等から適正な運営システムを考えることが課題でした。
 災害直後という非常事態で、マンションの補修・建替えの決定が急がれる際、住民が十分な情報を得、正確な判断を下すのは難しいものです。迅速かつ円満な意思決定のため、事前のシステム構築が望まれます。

 およそ2時間半の研究発表会の後、ロビーにて懇親会が行われました。学生の身ではたくさんの専門家の方々とお話する機会は少なく、貴重な体験でした。石東さんからの「研究者のための研究」という指摘があり、なんと正直に意見が述べられる場なんだと思いました。私たち学生も、研究者とそうでない人との中間的立場からの視点を持てる存在として、熱意をもって研究会に参加したいです。
研究発表会(左端が中沢孝夫さん/姫路工大) 懇親会(中央が大大特IV-3代表の熊谷良雄さん/筑波大)



都市回帰に未来を託せるか

神戸山手大学

小森 星児

 

1) 近年、都心人口の回復が注目されている。たとえば東京の場合、都心3区の人口はほぼ半世紀ぶりに増加に転じた。大阪市の人口も、この2年間、40年ぶりに年間1万人を越える増加があり、最盛期の4割まで減じた都心6区の人口も回復に転じた。この現象は地方の政令指定都市クラスにも認められ、長く続いた都心のドーナッツ化=郊外のスプロール化は転機を迎えたかのように見える。
 神戸でも、昨年、新築戸数で中央区が首位を占めた。三宮駅前には43階の超高層マンションが近く着工され、居留地や北野でも10階以上のマンションの建設が進んでいる。他方、かつて花形だった六甲アイランドや西神中央では、神戸市住宅供給公社が売れ残りのマンションを5割引、6割引で再分譲している。
 周知のように、クラッセンは都市圏の人口集中・分散の循環モデルにおいて、再都市化でサイクルが完結するとの見通しを示した。しかし、この現象が持続的な都市発展にとり好ましいものかどうかの検討抜きに、クラッセンモデルに結びつけるのは危険であろう。

2) まず用語について吟味しよう。Googleで都心回帰を検索すると、3千件以上ヒットする。もはや一般用語として定着しているので無用の詮索かもしれないが、回帰とは「もとの所に(ひとまわりして)戻ること」(新明解)であり、鮭の回遊や子どもの身長がしばしば例に挙げられる。しかし、都心で増加している人口が回帰と言えるかどうか裏づけの資料は乏しく、幼少時の生活体験からの説明(故郷回帰)は難しいと思われる。したがって都心回帰という表現は必ずしも適切ではない。

3) 都心回帰の直接の原因が、既成市街地における民間中高層住宅(マンション)の大量建設にあることは疑問の余地がない。たとえば東京都区内のマンション建設戸数は、平成5年まで年間5千戸で推移していたが、7年に2万戸を越え、12年には3万5千戸に達した。20階以上の超高層マンションに限ると、平成14年まで4千戸/年であったが、今後3年は1万戸/年、18年には2万戸になると予測されている。大阪市内でも、今年の20階以上のマンション新築戸数は2500戸を越えると見込まれている。このような変化の背景には、地価暴落、リストラによる企業の遊休所有地の放出、容積率の緩和、商業業務床需要の低迷などの要因が指摘されている。その結果、大阪市内のマンション(75平米)分譲価格は9000万円から3500万円に下がったという。

4) 需要側に眼を転じると、シニア世代の購入意欲の高さが注目される。子育ての間は郊外に向かった流れが、都心の便利さや老後の安心を求めて都心に還流したものと考えられる。ファミリー向けに特化した郊外は、住宅ストック、ショッピング、生活リズムなどの面で画一化が著しく、遠距離通勤は耐え難くなる。配偶者に先立たれると郊外戸建に住み続けるのは重荷であり、阪神大震災では老朽戸建住宅の耐震性についての不安が高まった。関西圏の45〜64歳にたいして都市公団が実施した調査によると、ついの住処として都心を選ぶ回答は男48%、女65%であったのも頷ける。団塊の世代が引退の時期を迎えるここ数年は、老後の安住の地を求める動きが一層顕在化するものと考えられる。

5) 都心高層マンションは、行き届いたサービス、耐久性、耐震性、温熱環境、プライバシー、眺望、可変間仕切り、バリアフリーなどさまざまな付加価値を商品化し、また劇場、美術館、音楽会、ショッピング、レストラン、カルチャーセンターなどへの利便性、病院や老人福祉施設の整備などを謳っている。また、クルマを必要としないのもメリットであろう。なお、首都圏白書(平成13年度)は、都心マンション入居者の分析から、これまで結婚・育児を契機に郊外に流出した層が職場に近い場所を指向する傾向を明らかにしたが、土地神話の崩壊にともない資産形成としての持家取得動機が失われたことも見逃せない。

6) いわゆる住宅双六説では、郊外の庭付き戸建住宅が上がりであった。しかし、欧米ではリゾートや田園地域への移動がその先に生じている。都心回帰と田園志向が両立するマルチハビテーションも、さまざまな形態で展開している。なぜ、わが国では都心回帰に傾くのであろうか。高齢社会にとって、都心居住はそれほど魅力的で、経済的にも有利であろうか。物理的には100年持つと保障している超高層マンションでは、フィルタリングダウン現象は生じないのであろうか。次世代継承についての明確なプログラムを欠いた千里や明舞など第一世代ニュータウンがかかえる課題、それは高齢入居者が多い災害復興公営住宅が直面している課題でもある。高度成長を支えたシニア層に生き甲斐と安心を提供する環境をいかに整備するか、いま改めて検討することが必要であろう。



連載【まちものがたり 3】

空き地からはじまる物語 3

 切り株の気持ち

中川 紺

 

 いつものようにワシは空き地で昼寝をしていた。昼間からこうやってごろごろしていても、道ゆく人は誰も気にしている様子はない。何せワシはニレの切り株だ。気にするのは散歩中の犬くらいだろう。
        ● ●
 一ヶ月くらい前に、地主のばあさんが業者を連れてきて、この空き地を売ってしまった。業者のマンション計画でどうやらワシも処分されるらしい。とうとう、ここともお別れだ。まあ、いいだろう。八十年前、新居を建てた男と家族に植えられて…その息子が事業に失敗して土地を売って…切られてから四十年ほどになるかな。ここも駐車場や資材置き場になったりしたが、よくまあ今まで処分されずに残ってこれたもんだ。ワシは思い出に浸りながら、あとわずかな空き地での時間をゆっくりと過ごすことにした。
        ● ●
 昼寝から覚めた時、一人の男が空き地にやってきた。歳の頃は五十すぎくらいか。驚いたことにこちらに向かって「藤島」と名乗って話し掛けてきた。どうやらワシは昔の夢を見ながら、人間の姿になっていたらしい。
「こんなところで何をされてるんですか?」
「ほう。ワシが見えるかね」
「ええ…ただ…不思議ですね。腰掛けている切り株が透けて見えますよ。こういうのって、何ですかね、幽霊っていうんですかね。もっともあなたはあんまり怖そうじゃない。いや、何だか親しみさえ感じますけどね」

「幽霊じゃあない。本体はこれだよ」
 ワシは切り株を指し示してやる。
「……そうするとあれですか……あなたはこの木の……ニレの精とでも?」
「何とでも。どうせもう先は長くない」
 藤島はしばらく何か考えるような顔をしていたが、「お邪魔しました。それでは、これで」と一礼して立ち去っていった。
 数日後、藤島がやって来て持っていたマンション計画のラフスケッチを見せて言った。
「ほら、残すことにしたんですよ。あ、実は私、今度のマンションの設計担当なんです」
 設計を変更したという。図面の中の中庭の様な空間に「切り株(既存)」とある。
「工事の邪魔にならんのかね?」
「何せ、あなたと、こうやって話までしてしまいましたからね……それに、大好きだった祖父によく似てるんですよ。まあ、これからもここに居て、時々私と話をしてもらえませんか」
 そう言って差し出された手を握った瞬間、ヤツの幼い頃の記憶が流れ込んできた。
(ああ、昔ここで遊んでいたあの子か…)
● ●
 ワシを植えた男の孫と業者は、「ニレの切り株」を上手く中庭の設計に取り込んでデザインして、マンションを売ってしまった。
 完成したマンションに住民が住みはじめると、来る、と言っていた藤島はぱったり姿を見せなくなった。もしかして販売促進に利用されたかな、と思わないこともないのだが、毎日たくさんの家族がワシのまわりでにぎやかに過ごしていて、こういうのもまあ悪くないかなと思う今日この頃である。   (完)
(イラスト やまもとかずよ)

 

 

阪神白地まちづくり支援ネットワーク・第32回連絡会報告

 

 今回のテーマは「高齢者住宅の最近の話題」で、6月13日(金)ひょうごボランタリープラザで行われました。
 まず石東直子さん(石東・都市環境研究室)より、テーマ解説があったのち、次の2つの報告がありました。
報告@:「最近の高齢者向け住宅の状況」/石東直子(前掲)
報告A:「復興公営住宅のコミュニティ調査について」/上山卓(まちづくり(株)コー・プラン)、菅磨志保(人と防災未来センター専任研究員)、福留邦洋(同)
◇報告@について
 高齢者住宅を巡る最近の状況として、「神戸市営の復興公営住宅の高齢化の状況」「高齢者住宅事業における新たな展開」「変わる不動産事業−不動産活用と高齢者住宅事業」の3点について、統計資料や新聞・雑誌等からの資料を示しながら報告されました。
◇報告Aについて
 「災害復興公営住宅団地コミュニティ調査」は、県下の復興公営住宅(約27,000戸)を対象にしたコミュニティに関する大規模な調査で、国の緊急雇用対策事業による計40人の調査委員の各棟・各戸訪問により、「団地環境調査」「居住者調査」「自治会代表者調査」「外部支援者調査」の4つの調査(2002年9月〜03年3月)が行われました。
 居住者が超高齢化している実態や自治会運営における問題点及びうまくいっている場合の条件など、多岐にわたり報告されました(最終まとめは現在作成中)。
 討論の中では、「統計的なものだけではなく、コミュニティがうまくいっている具体的な事例が知りたい」、「被災地で起こっていることは、10年後の我が国の高齢社会の問題を先取りしていると言われるが、今回の復興公営住宅の実態は、必ずしも今後の一般的な高齢社会のモデルケースとはならない」などの意見が出されました。
(中井 豊/中井都市研究室)


向かって左から管さん、福留さん 向かって左から石東さん、上山さん



情報コーナー

 

●第64回水谷ゼミナール
・日時:6月27日(金)18:30〜21:00
・場所:こうべまちづくり会館6階(神戸市中央区元町通4丁目2-14、TEL.078-361-4523)
・内容:「地域経済のマネージメント」
 @生きがいしごとサポートセンター阪神の活動/金森康(宝塚NPOセンター、神戸商科大学)、A<まち育て>を運営・経営していく組織と仕掛けづくり/岩崎俊延(プランまちさと)、Bタクシー会社は地域企業である/森崎清登(近畿タクシー)
・会費:1,000円(学生無料)
・問合せ:ジーユー計画研究所
(TEL.078-251-3593、FAX.251-3590)

●阪神間倶楽部 第3回研究会
・日時:7月19日(土)14:00〜
・場所:旧甲子園ホテル(現武庫川学院第3学舎、西宮市戸崎町1-13)
・内容:生活美学研究会に参加
・参加費:無料
・問合せ:コー・プラン(TEL.078-842-2311、FAX.078-842-2203)

●大大特第1回検討会
大都市大震災軽減化特別プロジェクト
「地域経済復興支援方策の開発研究」
・日時:7月23日(水)18:30〜21:00
・場所:ひょうごボランタリープラザ(クリスタルタワー(JR神戸駅南側)10階セミナー室)
・テーマ:「都市観光の再生」
・内容:北野地区の報告/山本俊貞((株)地域問題研究所)、他
・問合せ:コー・プラン(TEL.078-842-2311、FAX.078-842-2203)



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