「安心して安全に暮らせるまちづくり」を目指して松本地区まちづくり協議会 会長中島 克元 |
連載【コレクティブハウジング 12】大倉山ふれあい住宅と修学旅行生の交流石東・都市環境研究室石東 直子 |
生徒からの便り
昨年の修学旅行で訪ねてきた生徒たち19名は、帰ってからみんなが感想文を送ってくれました。コレクティブ応援団はそれを「岐阜県関市桜ヶ丘中学校3年生の修学旅行/大倉山ふれあい住宅訪問 感想文・写真集」として編集し、生徒たちにプレゼントしました。受けとった生徒の一人から次のようなお手紙が届きましたので、紹介いたします。
『<大倉山ふれあい住宅 感想文・写真集>を送ってくださり、ありがとうございました。この文集をもらった時、みんな驚いていました。ひとり一人の感想やその時の写真が載っていてとてもうれしかったです。わたしたちは神戸に行って、たくさんのことを学びました。代表の石東直子さん、岩崎洋三さんにはとてもお世話になり、バーベキューもしてもらい楽しい時間が過ごせました。あの時、話してくださったお話は今でも心に残っています。そして、1月17日に起きた阪神・淡路大震災のことはこれからも絶対に忘れません。わたしたち3年生は今年卒業しますが、「コレクティブハウジング」「大倉山ふれあい住宅」で学んだことを、高校へ行っても生かしていけるといいと思います。
訪問した時は、本当にありがとうございました。
石東さん、岩崎さんそして大倉山住宅で生活している皆さん、これからも元気で長生きしてください。 代表 吉田桃子』
(030630記)
連載【阪神間倶楽部 3】ホテルと阪神間文化武庫川女子大学教授角野 幸博 |
阪神間倶楽部 第3回研究会(第5回準備会)の記録 ○日 時:2003年7月19日(土)13:00〜 ○場 所:武庫川学院甲子園会館(旧甲子園ホテル) ○参加者:20名弱 13:00から角野幸博さんからの旧甲子園ホテルについてのミニ講義と見学会。14:00から生活美学研究所の定例研究会にご招待いただきました。武庫川女子大学学長山本俊治先生の御講演、「ことばと心の間」をうかがいました。生活美学研究所は開設以来阪神間を舞台に多様な学際研究を続けておられます。今後ともネットワークをお願いします。 |
連載【大大特3】地域商業の再生−「都市観光の再生」について神戸大学大西研究室濱口 善胤 |
木村 拓郎 氏
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山本 俊貞 氏
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石森 秀三 氏
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7月23日ひょうごボランタリープラザにおいて、“地域商業の再生―「都市観光の再生」について”をテーマに第1回大大特(地域経済復興)研究検討会が行われました。その内容と感想について記したいと思います。
1)雲仙、有珠山(昭和新山)などの事例報告 木村 拓郎 氏(社会安全研究所)
観光という視点から火山災害を解説された。今回事例で挙げられた観光地は温泉地でもあり温泉と火山は切り離せない。つまり必然的に火山災害をうける地域であった。しかし、火山災害というのは一度起こってしまうとその被害は単発的なものではなく累積的なものであり、しかも長期間続く。また、観光地特有の問題があることも指摘された。
確かに、私達も旅行先をイメージで決めてしまうことが多く、その悪化は観光地にとって非常に重大な問題であると思った。それに対して実際の被害現場を体験させる方式で復興を試みた事例は、上手くいけば危険なイメージを逆手に取れる部分もあるのではないかと思う。しかし、実際は各機関がそれぞれの思いつきで観光施設を作るため脈絡がとれないという点が非常に残念だ。
2)神戸市・北野地区の事例報告 山本 俊貞 氏(地域問題研究所)
異人館という財産があるために観光地になりつつある住宅地、北野は地域住民と観光事業者側の溝が大きくある。しかし、住民も事業者側も北野という土地が持つポテンシャルに大きく依存していることに気づかずすごしていた。ところが、震災というものを経て大きく意識の上で変化が生まれてきた。
北野という街と住民がいるからこそ魅力的な町並みがあり,観光地として神戸を代表する街だからこそプライドを持ってそこに住みつづけることができる。この事実は今後、観光とは、住民とはといった多くの視点で,町並み保存やまちづくりに影響を与えるのではと思われる。
3)講演:震災復興における都市観光再生の課題 石森 秀三 氏(国立民族学博物館)
観光とはなんたるものか、現在の問題点、今後の観光はどう変容していくか等についてまず指摘され、その後、神戸観光が置かれている厳い現状と、今後についての展望についての意見を述べられた。
先生のご指摘にもあった様に、神戸には観光名所やエンターテイメント性はないのかもしれない。ガイドマップを開くと店舗紹介ばかりだというのも納得である。しかしそれが神戸の姿であり、神戸にくる旅行者は店舗を回ることや、目当てのレストランに行くことを楽しみにやってきているのではないか?こういった形はいわゆる観光とは少し異なるかもしれないが、それが訪問の動機付けになっていることは確かだろう。神戸の観光は他と少し違ったお買い物、お食事ができる。それが立派な財産で、そこから何を見出すか。まさに“民産官学”にうってつけ??
講義風景
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連載【街角たんけん 2】Dr.フランキーの街角たんけん 第2回 第三の山手通プランナーズネットワーク神戸中尾 嘉孝 |
「都心回帰」の時流に乗って、神戸でも三宮周辺を中心に、時ならぬマンション建設ラッシュである。
中山手6丁目、中華同文学校北西角から、山本通1丁目の一宮神社前まで続くこの通り界隈も、ここ数年、比較的大規模で高いグレードのマンションが相次いで建ち上がっている。これらの敷地は真珠産業の業務用地等であったが、さらに遡れば、その多くは神戸財界人の御屋敷跡であった。この通り、名は、「上山手通」という。
山手通りは「下・中」が居住表示にもなって知名度が高いが、「上」は影が薄い。とはいえ、山手の市街地開発に密接に関わる役割と歴史をこの「第三の山手通」は背負っていた。
開港後、居留地建設の遅延もあり、西は宇治川、東は生田川北は山際迄の範囲で、政府は外国人と日本人の雑居を認めた。しかし、その区域の大半は田圃であり交通は畦道に頼らざるをえず不便であったため、兵庫県が国に対して山手を連絡する新道の建設を願い出て、許される。1872(明治4)年、まず下山手通・中山手通、現在のトアロードなどの開鑿が始まる。上山手通、山本通等が建設されたのは、それから16年後の1888(明治20)年である。
この時期以降、北野・山本地区での外国人住宅(異人館)の建設が本格化するが、上山手通界隈は日本人実業家が好んで居宅を構えた。その嚆矢が、明治10年代に建設が始まったと考えられる中山手通5丁目の小寺泰次郎邸(現相楽園)である。長らく、諏訪山ゴルフセンターがあった敷地は、貿易商・湯浅竹之助(湯浅商店主)邸跡で大正初期の和洋併置型の大邸宅があった。最近、マンション建設で姿を消した鉄平石貼のユーゲントシュティール調の外構は、空襲で焼失した湯浅邸唯一の遺構だった。
山本通4丁目には、川崎造船所の松方幸次郎邸が居宅を構えた。東の中山手2丁目には鈴木商店を金子直吉とともに支えた柳田富士松の邸があった。文教施設も多く、明治27年には神戸女学院が松方邸西隣に創設されている(現神港学園高校)。小寺邸東側には諏訪山・中山手小学校(現こうべ小学校)、トアロード沿いに北野小学校(現北野☆工房のまち)が開かれた。中山手カトリック教会、神戸ムスリムモスクもこの沿道にある。
神戸大空襲、高度成長期、阪神淡路大震災とこの地域にも幾多の時代の波に洗われた。高層マンションが壁のように聳え立つ通りの界隈には、しかし御屋敷街の片鱗がまだ遺されている。
昭和10年の上山手通界隈
(出展:写真集「神戸100年」) |
集合住宅の集会所となっている旧K邸洋館
(山本通4丁目、明治32年頃竣工) |
中尾嘉孝(「ドクターフランキー」) 1970年、兵庫区山田町小部生まれ。 15の春、近代化遺産の魅力に開眼、以来、学業、部活、本職の合間を縫って、京阪神間のまち探険に勤しむ。 「港まち神戸を愛する会」世話人。「全国町並み保存連盟」会員。 |
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諏訪山ゴルフセンター時代の旧湯浅邸外構(山本通5丁目、2002年14階建マンションの建設により姿を消した。) |
連載【まちのものがたり 5】ある駅のホームの上で (1)蜃 気 楼中川 紺 |
二〇〇一年三月三日、午前十時。
土曜出勤になってしまった。もうこれで連続三回目だ、と思いつつ阪神西宮駅に向かう。低めのヒールがコンコースのタイルの上でカツカツと音を立てる。入社する時に買った革靴は一年使い込んで小さな傷が無数に出来ていたが、履き心地は抜群にいい。
東改札のある二階のコンコースから三階のホームまで、エスカレーターがゆっくりと私を運んでいく。駅舎には工事中の箇所も残っていたが、どこも新しい匂いがした。昨日までは一つ東隣の西宮東口駅から各駅停車に乗る、というのが日課だった。高架工事が完成したことで、東口駅は西宮駅に統合された。
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私は東口駅が結構好きだった。普通電車しか停まらない小さなホーム。高架工事が進んで下り線が先に地上を離れた時は、仮設ホームが高架上につくられた。エレベーターまでついていたけど、やっぱりそれも幅の狭いこじんまりとしたホームだった。そして上り線完成と同時に、役目を終えてしまった。
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下りホームには電車の姿はなかった。今、出たばっかりだ、という雰囲気だけが残っている。人の姿もまばらだった。ホームの東端にある自動販売機でお茶を買う。線路の先に東口駅下りホームの小さな屋根がまだ残っている。残っている、と思って、少し違和感をおぼえた。たしかに駅間の距離はすごく近かった。駅同士が見えるし、歩いても五、六分程度。でも、ここまで近くはない。今、私が見える東口駅は、徒歩一分くらいで行けそうだ。しかもホームの上に人がいる。五、六人で男も女も混じっているが工事関係者には見えない。何かが変だ、と思っていると、さらに向こうから普通電車の青い車体が近づいてきて東口駅に停まった。
そう、停まったのだ、廃止されたはずの駅に。もう何かが変、ではなく、確実に変だった。停まった電車に、ホームの人が乗ろうとしていた。いすに座っていた一人の女性が立ち上がってドアに向かう。なぜか靴がカツカツと小気味良い音を立てるのが聞こえた。よく知った音とリズムだった。あれは私の、と言いそうになって、言葉を詰まらせた。私の何だというんだろう。ここからは顔も服もはっきり見えなかった。電車がこちらに向かって動きだした。
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電車が発車したのと、「大丈夫ですか」という駅員の声が耳もとでしたのが、ちょうど同時だった。思わず手に持ったペットボトルのお茶を落としそうになってもう一度見ると、さっきまでのホームと電車は影も形もなく、東口のホームは、やっぱりもっと先の方にあった。いつの間にか私の立つホームに各駅停車が停まっていて、特急待ちをしていた。もちろんそこには私の分身が乗っていたりはしなかった。
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昨日まで使われていた東口駅のホーム。私は最後の残像が蜃気楼のように現れたと信じている。 これが私にとっての東口駅最後の記憶だ。
(完)
(イラスト やまもとかずよ)
阪神白地 まちづくり支援ネットワーク・第33回連絡会報告テーマ:まちづくりと地域空間像日時・場所:8月1日(金)18:30〜、ひょうごボランタリープラザ゙ |
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