きんもくせい50+36+8号
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事実を前提とした顧客価値による経営をめざして

某市市民活動支援課 某 職員

 9月号で、 CS神戸の中村さんから、 私に対し、 このリレートークのご指名があったんですが、 多忙につき、 甲南本通商店街の海崎さんにピンチヒッターしていただきました。 海崎さんありがとうございました。

 9月号で、 中村さんがNPOの地域・市民代表性の話、 10月号で、 海崎さんが市民参画による商店街経営の話というのを受け、 地域社会における表題のテーマについて、 ふれてみたいと思います。

 11月11日、 (特)キャリアアップサポート主催による、 企業とNPOの協働を探る「宝探しシンポジウム」が開催され、 私も参画しました。 そのシンポジウムで見えたことは、 「企業の社会貢献に関する、 地域社会からの要請は高まっており、 NPOと協働することによってうまく応えていくことができないか。 」しかし、 「現状では、 NPOの企業に対するアピールが弱いため、 企業はどのNPOと、 どう組んでいいのか分からない。 」そういう中で、 ベンチャー・中小企業の経営者たちが、 自らの資源である専門性等を活かして、 自分たちでNPOを作ったほうが早いと考えている、 ということが読み取れました。 「ベンチャー系NPOなど真のNPOに非ず。 」という声が聞こえてきそうですが、 そのシンポジウムでの共通した意見は、 「『経営技術』ということに関しては、 企業もNPOもほとんど変わらないのではないか」というものでした。

 現在、 某市では、 経営品質協議会の経営アセスメントの研修を実施しており、 職員が「現代の卓越した経営とは何か」ということについて学んでいます。 もともと企業用のものですが、 行政にも適用できるはずということで、 3段階5日間のコースです。 行政とNPOは、 どちらも非営利組織ということを考えれば、 NPOにも適用できるはずです。 アセス手順は、 ざっとこんな内容です。

1. 組織プロフィール記述
 (1)顧客・市場に関する認識  (2)競争に関する認識  (3)変革に関する認識  (4)組織の情報

2. 経営品質アセスメント
 (1)リーダーシップ    (2)社会的責任    (3)顧客・市場の理解と対応  (4)戦略の策定・展開
 (5)個人と組織の能力向上 (6)価値創造プロセス (7)情報マネジメント     (8)活動結果

3. アセス時の問いかけ例
 事実を前提として経営していますか? 顧客は誰ですか? 組織で勝手に考えた価値ではなく、 顧客価値を届けていますか? 価値創造プロセスはどうなっていますか? 組織変革がシステム化され自動的にできていますか? 等々です。

 顧客・市場などについての認識が、 事実を前提とせず、 ずれている組織は潰れるし、 経営品質向上に取り組まない組織には成功は無い。 ということがいえると思います。 このような「事実を前提とした顧客価値による経営」というのは、 今や、 企業・行政・NPOすべてに共通のものと考えられています。 9月号のNPOの市民・地域代表性については、 個々の持論の話なので異議を唱えるつもりもありませんが、 顧客認識と市民社会論をごっちゃにすると、 NPOの経営に悪影響を与えないかなという危惧を感じました。 また、 10月号での甲南本通商店街における、 顧客認識や顧客価値志向については、 地域経営の方向性としては、 私は同意します。

 現在、 震災課題の一定の落着きとともに、 NPOの存在意義が再度問われる時期を迎え、 そのなかで、 NPOは、 その経営品質をどう向上させるのかが最重要課題になってくると思います。

* * *

 さて、 バトンを次に誰に渡すべきか考えておりましたが、 一方的な指名は、 私の感覚では非礼なことと考えますので、 今回指名しません。 事務局において、 公募のうえ公開審査していただくようお願い申し上げます。

 (小林郁雄→野崎隆一→宮西悠司→佐野末夫→中島克元→中村順子→海崎孝一→某市某職員→)

 上記、 某氏の御提案のように巻頭リレー論文執筆者を公募いたします。 「参画協働」に関する自由なご意見を1000字程度で12月12日までに事務局までお寄せ下さい。 公開審査はしませんが、 なるべく開かれた形で選定掲載させていただきます(事務局)


 

地域とNPOと企業

コー・プラン 小林 郁雄

 企業とNPOの協働を探るシンポジウムについては、 神戸復興塾メーリングリストなどにいくつか批判的な論評が寄せられています。 神戸市某風月斎氏の指摘するNPOの「経営品質」への危惧には、 同感します。

 NPOの市民代表性を「市民社会論」−ミッション至上主義とごっちゃにすることは、 問題の所在を不明確にすることになると、 私も思います。 さらに加えるなら、 企業(営利組織=PO)の存在意味を、 単に「市場−顧客」価値をめざす営利活動に置くことは、 20世紀的企業社会の残影としか思えません。 21世紀市民社会における企業の姿、 さらには「地域」と「企業」のあり方を考えることは、 地域と「NPO」という現今のもっとも悩ましい関係以上に、 重要な課題がひそんでいると考えます。

 「地域と企業」について、 私達市民まちづくり支援ネットでは2002年度より大大特プロジェクトで「地域経済復興」の支援方策研究にとりくんでいます(きんもくせい03年4月号参照)。 兵庫県の被災者復興支援会議IIIの現在の最重要なテーマのひとつが「地域と企業の新しい関係」です。 阪神大震災からの「震災復興と企業文化」をいくつもの優れたケースを発掘し、 地域復興のなかでのこうした企業の役割が、 これからの「市民活動社会」における新たな企業文化となることが期待されているからです(復興かわらばんIII第11号参照)。

 

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菜の花プロジェクト顛末記(その4)

 

●「ひと+まち+花+みどり」

 旧住宅局で西出・東出・東川崎地区のまちづくりを担当していた僕にとって、 大塚氏の発案で始まった「菜の花プロジェクト」は、 本来業務以外のイベントという意識でした。 僕は植物に接する趣味も興味もさほど無かったし、 いったい何から始めればいいのか…
 西出・東出・東川崎地区は古き良き人情味あふれる下町です。 地域のコミュニケーションは外部の人間が心配しなくても、 もともと存在しているのです。 それを何かの目的に合わせ活発化させる仕掛けを提供するのが行政や専門家の役割だと感じました。 毎週の現地作業にまちの人々の参加が増える中で、 当初の不安も次第に薄れていきました。

 我々は自然体で元気あるまちの姿を継続するための支援部隊です。 外部の人間だから見える部分を分かりやすく説明することが大切なのです。 その仲介を「花とみどり」がやってくれました。 思い返せば、 これはマニュアル化できない本来業務でした。 当地区では現在も、 菜の花プロジェクトを契機に住民主体で無理なく続けられる取組みが進行中です。

ディレクター1号 小林 健(神戸市)



●「くらしにとけこむ黄色い花を・春の色を」

 昨年秋に始動し、 3月の湊町線開通イベントでは目を奪われるような一面の黄色いじゅうたんのお披露目が行われた「菜の花プロジェクト」。 ほぼ同時進行となったまちのみなさんとのセルフビルド公園「まちなか緑地」企画とあいまって、 実は私は「ディレクター2号」の華々しい称号は頂いたものの、 「菜の花」実働隊としてはあまり役に立たなかったのではないかと…省みています。

 さて現在は、 まち協体制見直しやさまざまなまちづくり活動の今後のあり方を実際的な側面から模索している中で、 この「菜の花」にまつわる仕掛けやお楽しみの機会をどのような形で継続するのかを今後も地域一丸となって考え続けるには、 「私たちではちと工夫が必要だねえ」とみんなで考え中です。

 それがささやかで弱いものであれ、 熱く強いものであれ、 地域の力量に沿い無理のないかたちでこの美しい試みを継続してゆくこと――解決や進展を待つ地域の様々な課題や期待と、 菜の花の可憐な姿を愛でる楽しみとを、 糸を紡ぎあわせるようにごく自然なかたちでこれからも続けられる土壌をつくろう――それが今年のまちの目標です。 さて、 来春はみんなでどんな花を咲かせられるでしょうか。

ディレクター2号 野口志乃(北野工作室)
 
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菜の花撤収作業後の打上げbbq@まちなか緑地 実際に収穫した菜種の油絞り体験
 

 

連載【コレクティブハウジング13】

「災害復興公営住宅団地のコミュニティ調査」の調査員が『現場で感じたことを語り合う』ワークショップ

石東・都市環境研究室 石東 直子

はじめに

 阪神・淡路大震災の県下の復興公営住宅をほぼ網羅した約27000戸を対象に、 「災害復興公営住宅団地コミュニティ調査」が2002年9月〜03年3月にかけて実施された。 国の緊急雇用対策事業によって採用された40人の調査員が各戸を訪問し、 居住者の声に耳を傾けた。 その調査員のうち20名が参加して『現場で感じたことを語り合う』ワークショップが7月2日と5日に、 「人と防災未来センター」の専任研究員によって企画・実施され、 私は傍聴させてもらった。

 ここでは、 調査員が感じたことから復興公営住宅の現状と課題等を探ってみるために、 ワークショップで共通して出され、 それについて多くの賛同があった意見をまとめた。

 なお、 当調査は、 県から委託を受けて「人と防災未来センター」が実施し、 膨大な分析結果が報告書にまとめられている。

○復興公営住宅の居住者像

 居住者像を調査報告書のデーターからみると、 年齢構成は40歳未満が3割強、 40歳〜65歳が3割、 65歳以上が4割弱である(02年11月の一般県営住宅の高齢化率は16%)。 居住者調査の回答者の世帯人員は一人世帯が4割弱で最も多く、 二人世帯を合わせると7割になる。 震災前の住まいは「木造住宅が7割」、 建物形態は「集合住宅が4割弱」、 所有関係は「借家が7割強」である。 震災が都市部の下町に甚大な被害をもたらしたことからみると、 「下町の木造賃貸アパートや長屋に住んでいた一人暮らし、 二人暮らしの高齢者」が、 居住者に多いといえる。これらの人たちが住み慣れた地域を離れて、 高齢になって初めて鉄筋コンクリートの集合住宅に移り住んだために、 今までの下町暮らしとは全く異なる建物構造、 住宅設備、 隣人や地域との交流接点やしかけ等に戸惑っているようだ。

○調査員が感じた「良好なコミュニティ運営が行われている団地」とは

 (良好と感じた団地を、 上位順に数団地列挙して、 その理由をあげてもらった)

(1)まとめ役がしっかりしている団地。 そこは居住者も穏やかである。
 (自治会長等の人格に負うところが大きい・きめ細かな準備をして住人に対応している・LSA(生活援助員)と自治会長等の連携ができている・集会所が自主管理されており、 外部からの文化活動にも積極的に利用されている)。

(2) 震災前の人の繋がりが継続している団地。
 (再開発住宅は従前居住者が多く、 近隣付き合いがよい・震災で全壊して再建された団地は、 居住者の結びつきが強く、 再建に際して行政とも交渉を重ねたので、 入居後も行政とのパイプがある)。

(3)コレクティブ住宅はまとまりが感じられてとてもよい。 特に若い世帯のいるコレクティブ住宅がよい。

(4)住宅棟の下層階や近くに高齢者福祉施設があり、 LSAもそこから派遣されている団地は居住者に安心感がある。

○「コミュニティ運営に?がつく団地」「問題があると感じたこと」とは

(1)自治会がない団地
(2)民間借上げ公営住宅は自治会もなく、 ただ住んでいるという雰囲気。とくに街中の10戸ほどの小規模住宅は、 外部環境も汚く、 行政から見捨てられたような雰囲気がある。

(3)公団と公営住宅の同居団地はコミュニティの形成を阻害している(公営居住者は公団居住者の圧力を感じて惨め。 公団居住者は家賃格差に対して不満が大きい)。

(4)住宅の立地条件が悪い団地(急坂がある・辺鄙な場所・日常利便施設がない・見回り員の派遣がない)。

(5)自治会費の収支が不透明で、 役員の使い込みや自治会の物品を役員が私用している。

(6)自治活動のための公的助成金の受領が、 金銭トラブルになり、 コミュニティを悪くしている。

(7)シルバーハウジングの高齢者ばかりの住宅は居住者が外に出てこない。 居住者にエネルギーがない。

(8)共同空間が汚く、 ゴミが散乱しており、 共用廊下の端の住宅前に私物が放置されているような団地は、 居住者が排他的で居住者のコミュニケーションもない。 集会所も荒れている。

(9)各戸の扉にインターホーンがない。

○「課題と感じたこと」とは

(1)入居システムのまずさが居住者の元気アップをなくしている。
 震災前の居住地から離れた地域に入居した人たちは地域に馴染めず、 知り合いもなく寂しい、 元の地域に帰りたいと言う人が多い。地元に住宅が建設されると知らされていたら、 入居を待っていたのにという声が少なくなかった。 元の地域に帰りたいが、 転居制度がないと言われている。

(2)鉄筋コンクリートの鉄の扉が孤独を募らせている(鉄の扉の向こうで、 どんな生活をされているのかと思いながら調査をした)。

(3)集会所が使われていない。 建物だけを建設してもだめだ。 居住者にエネルギーがないと、 自主的に活用できないので、 外部サポートが必要。

(4)ペットの問題は大きい(ペットが生きがいとなっている人もある反面、 飼い方のマナーが悪く近隣トラブルが多い)。

(5)男性の一人暮らしが特に問題(仲間に入っていけない。寂しいという声が多い)。

(6)高層住宅や大団地は高齢者には馴染めない。 せめて4階建てぐらいまでが望ましい。

(7)住宅設備が近代化すぎて使いこなせない。戸惑いが大きい。

(8)団地により行政サービスに不公平がある。 モデル団地のHAT神戸に比べて、 民間住宅と同居の民間借上げ住宅、 街中の10戸未満の小規模1棟借上げ住宅、 公団と公営の同居住宅等は、 行政サービスが届いていない。 これらの団地は自治会も結成できない。

○「あればいいなと感じたこと、 必要と感じた支援策」とは

(1)近隣にある複数の団地が連絡をとりあえるようになればいいと思う。 そのきっかけづくりのサポートが必要。(例えば、 イベントを共同でしたり、 何か問題があれば相談しあえるような連絡会の結成)。

(2)寂しいという声を到るところで聞いたので、 そこに行けばいつでも誰かと会えるという雰囲気の「ふれあい喫茶」のような場の運営が必要。 居住者自らが運営ができない場合は、 外部サポートによる運営が必要。

(3)買い物サポートやその他の生活ニーズの支援ができるような体制が必要。

(4)月に2、 3回の見守りが欲しいという声があり、 見守り制度の拡充、 充実が必要。 反面、 「いきいき県住推進員」の態度が威圧的で悪いという声も多かった。

○その他の感想

(1)いつまで「復興」という冠がつくのか。 マイナス面が大きいように感じる。居住者の甘えも続くし、 反面、 嫌がっている居住者も少なくない。また、 近隣の一般公営住宅居住者との精神的ギャップを感じるという声もある。

(2)8年経っても、 生活復興ができていないと感じた。 このままではより深刻な状態になっていくと感じた。

○私のコメント

 (ワークショップの最後に、 専門家としての立場から石東がまとめのコメントを求められた)。

 今回のワークショップで出された数々の指摘は、 居住者の叫びであり、 真摯に受け止めて、 課題解決のための具体策を打ち出していかなくてはならないと痛感した。 調査員が居住者の目線に立って感じられたことは、 研究者や行政職員が調査するとつかめなかったこと、 語ってもらえなかったことも少なくないと感じた。

 復興公営住宅の自律的で持続したコミュニティ運営・形成を図るためには、 コミュニティの活性化を支援するような社会的システムが不可欠である。 コミュニティに関わる課題を包括的に取り上げ、 暮らしとそれに関わる環境全体を対象にした総合的な支援が必要である。単に個別の生活支援に留まらず、 自治会運営の支援、 団地や住宅の環境管理や改善の支援、 まちづくりやコミュニティ・イベントの支援、 更には防犯やセキュリティ活動の支援等を一体的なものとして展開することが望まれる。
 地域の多様なニーズに速やかに対応できるような包括的コミュニティ支援は、 住民と行政あるいはさまざまな組織やグループの連携が必要で、 NPOのような組織体が適していると思う。 このような包括的なコミュニティ支援の先進事例としては、 イギリスのHA(住宅協会 )やアメリカのCDC(コミュニティ開発法人)等がある。

 私は、 ワークショップを傍聴しながら思い出していた。「きんもくせい 03年4月創刊号」の巻頭に小林郁雄さんが記している師・水谷頴介さんから学んだ『現場に真実はあり、 細部に神は宿る』という視点の大切さを。


 

連載【コンパクトシティ4】

『コンパクトシティ』を考える4
−中世城壁都市の消滅そして近代へ

神戸コンパクトシティ研究会 中山 久憲

1. コンパクトシティのモデル−中世城壁都市

 ドイツの南部バイエルン州のビュルツブルグからアルプスの北麓のフュッセンに至る観光道路であるロマンチック街道は、 我々旅行者に中世都市の遺産文化を楽しませてくれる。 ローテンブルグ、 ディンケルスルビュール、 ネルトリンゲンなどの都市は、 今なお中世の城壁都市の営みを現実の姿の中に残す貴重な歴史的遺産である。

 中世城壁都市は、 2000年に翻訳した「コンパクトシティ−持続可能な都市形態を求めて」(M・ジェンクス編)の中でも、 コンパクトシティのモデルとして取り上げられている。 シンボルである市壁である城壁によって、 外部からの攻撃を防衛できるだけではなく、 外部との関係が隔離され、 限定された都市空間が人工的に作り出される。 公共施設は市民たちの手、 あるいは負担で整備され、 常に修復された。 これは、 力を付けた商業者を中心とした市民が、 封建領主や司教らと争って自治権を獲得し、 都市を自らの力で維持し、 発展させようとした力が働いていたからである。 つまり、 そこに「公共」の概念である「コミューン」=「市民自らの共通するもの」という新しい概念が作り出されたところに特徴がある。

 都市の生活空間は、 かなり密度の高い居住空間が、 ごみごみとした路地の迷路でつながれている。 まちの中心の広場や教会、 市役所に通ずる大通りは舗装され、 常に美しく保たれ、 通りに面する建物の窓は花によって飾られている。 広場では、 市場が開かれ、 城壁の周囲に広がる農地から農民たちによる新鮮な食材の持ち込みや、 市内の手工業者の作った製品、 あるいは、 毛皮商、 砂糖や香辛料を商う商人、 小間物屋、 小道具屋、 貨幣の両替商人が店を出し常に賑やかである。 まさに、 全てがコンパクトにまとまっていた。

2. 中世城壁都市の消滅

 コンパクトシティの典型であり、 繁栄の象徴であった中世の都市は、 しかしながら、 中世の末期から衰退し、 徐々に姿を消し始めた。

 第1の要因は、 13世紀からの地球の寒冷化による農業生産の長期的な落ち込みで収縮経済となったこと、 あるいは黒死病(ペスト)の流行、 または頻繁に起こる戦争による大幅な人口減少で都市の活気が喪失したためである。 中世都市のシンボルであった市壁を維持補修する経済的負担力が減退し、 やがて荒れるままに放置されていった。

 第2には、 国王の集権化が進み、 都市は自治権を制限され、 あるいは奪われ、 中世都市特有の自由自治・自主防衛の精神を喪失していったためである。 都市を支配する封建領主が、 地方に割拠し、 自己都合で戦争に明け暮れ、 社会を無秩序に陥れていた。 都市の商人は自由と平和と自治を望んだ。 国王と都市商人たちの利害は一致し、 国王は都市に特許状を与えて、 封建領主による支配から解放し、 直接国王の保護と支配の下においた。 都市も喜んで受け、 国王に租税その他の金銭的な援助を行い、 時には軍事上の助けもした。 初めて多くの貨幣を手にした国王は、 国内に官僚をおき傭兵軍隊を使用して集権化を強めることとなり、 結果的に都市の自治権を奪うこととなったのである。

 これら経済的あるいは政治的な要因が、 中世都市の衰退の大きな要因であるが、 もう一つ物理的な要因があった。 それは皮肉にも14世紀から16世紀にイタリアで端を発し、 都市を中心とする商業活動や文化的な活動を推進したルネサンスの影響から生まれたものであった。

 ルネサンスの3大発明の一つである火薬の製造が14世紀になると、 火矢(ロケット)の推進用や砲弾の発射用として普及することとなった。 筒先から火薬と石弾を詰めて火薬を爆発させ、 ものすごい音とともに、 石弾を飛び出させる大砲が作られた。 当時のヨーロッパ諸国の各地で勃発する戦争に活用され、 旧来の戦法を一新してしまうことにもなった。 当初のものは、 射程が300mで、 直径15cm程度の石弾を飛ばす程度で、 砲の寿命が短く、 10発打てば砲身が破裂し、 取り扱いは非常に危険であった。 しかし、 当時の投石兵器に比べると、 数倍の衝撃力を持ったことは確かであった。 15世紀になると、 冶金術の進歩で真鍮の鋳造砲が製作されるようになり、 石弾に代わり鍛鉄弾や鋳鉄弾となり、 射程距離も1000mに達し、 耐久性も10倍まで改良された。

 この大砲の利用で、 それまで戦法では城門を閉じ籠城してしまえば難攻不落であった中世の城壁都市の防衛能力を完全にうち砕くこととなった。 大砲から発射された石弾や鉄弾が、 濠や城壁を簡単に飛び越えて飛び込んできて、 凄まじい音と破壊力で中世城壁都市の防衛隊を襲った。 長らく築いてきた中世時代の主役の座であった都市の安全で平和な空間は粉砕されるか、 城門を開けて軍門に降らざるをえなくなったのである。

3. 都市の時代から国家中心の時代へ

 この火薬を用いた圧倒的威力は、 都市だけではなく、 城壁や騎馬に依存してきた封建領主の安全保障能力も無意味なものにした。 16世紀には、 戦争のあり方も、 砲兵隊が確立し、 それまでの密集隊形の歩兵や騎兵に替わる戦術を展開することとなった。 機動的な常備軍を装備するためには、 大きな経済力が必要である。 そのために、 広い範囲での政治統合が起こり、 国王の領土支配権を強化する方向に歩み始めた。 時代は権力が分散していた封建時代、 ある意味で都市の時代から、 近代の扉が開かれようとする国家中心の中央集権化時代へと進むことになった。

 特に、 イギリスとフランスのように、 国家が都市に対し圧倒的に優位となり、 近代に移行する際に、 早くから国家統一を達成し、 絶対主義への道を進んだ国家が、 近代史の主役に躍り出ることとなった。 それに対し、 ドイツとイタリアは国家としての権力の長い間分裂状態が続き、 都市の自由と自治が持続し、 19世紀になってようやく絶対主義・国家統一という遅れを経験しなければならなかった。

4. 中世都市の変貌

 このような過程を経て、 中世都市はかつての自治と華やかさを失い、 荒廃化していった。 あるいは、 中世都市の面影を失いつつも、 絶対主義王権の中心都市としての地位を獲得したものもある。 政治・経済・文化の中心として発展し、 より人口が集中し、 都市として成長拡大し変貌した。 ハプスブルグ家の中心都市となったウィーンは、 市内に『リンク』と呼ばれる都市内環状道路があるが、 これは都市拡大のため、 かつての城壁を解体して跡地に建設されたものである。 パリも19世紀半ばまで城壁に囲まれていた。 城壁が取り除かれた跡は、 『並木大通り(ブールバール)』になっている。 ウィーンとパリ同様の変貌を遂げた都市は、 現在のヨーロッパの都市の大半である。

 一方で、 中世の面影を持つ城壁都市がドイツ地方のロマンティック街道などを中心に残存している。 それは、 ドイツが19世紀に国家統一するまで長い間分裂状態が続いたことと関係している。 ローテンブルグに代表される都市は規模が小さく、 都市の公共施設を維持するためのコストが一般的な中世都市に比べて少なかったことや、 山間部などに位置し中心から距離があったため、 近代文明の影響をそれほど受けずに、 農業経済を中心とする営みが続いたことも要因であろう。

 古代ギリシャ・ローマ時代は都市国家、 そして中世時代は都市の時代であり、 その中心は城壁と市民であった。 市壁建設と維持に込められた市民主体の活動が、 ヨーロッパの人にとって『コンパクトシティ』のモデルとして考えさせる原点ではないだろうか。


 

団塊の世代に未来はあるか?

第31回 都市公団まちづくり研究会
2003年9月24日/講師・深尾健造(元八尾市職員)

都市公団 太田 亘

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深尾健造氏
 9月のゲスト深尾さんは、 八尾市で総合計画も作成されていたという元行政マン。 住宅行政の先頭に立って、 まちづくりラウンドテーブル等「住民参加」のまちづくりを実践されてきた。 しかし市職を定年までかなり残して退職する道を選び、 現在は大学院に通いながら団塊の世代の多様な生き方を模索されているのだという。 なぜそのような人生の選択をされたのか?その想いを語ってもらった。

 まず下のグラフを見てほしい。 4年前の八尾市行政職員の年齢別構成である。 異様にとびでている50歳前後の年齢が「団塊の世代」である。 逆ピラミッド型の年齢構成は日本全体の傾向ではあるが、 リストラのなかった公的セクターでは特にその傾向が顕著に顕れている。




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 団塊の世代とは、 第2次世界大戦後の1947年から1949年までに生まれた世代をさす。 800万人から1000万人の団塊をなして、 これまでの高度経済成長時代を通じた日本社会の変化を誘導してきた。 曰く「時代のリーダー」「大量消費の世代」・・・。

 しかしここに来て邪魔者扱いされているマスコミ報道が目立つ。 例えば2001年2月5日AERAでは「団塊はずしが始まった」として、 団塊の世代をすっ飛ばして、 トップの座が60代から40代へと若返りをしようとする姿を伝えている。

 また、 2002年1月4日の朝日新聞社説では、 次のように書かれている。

『・・・団塊の世代が将来を決める。 』

 堺屋太一氏がこの近未来小説「団塊の世代」を発表したのは76年のことだ。 それから四半世紀、 オムニバス形式で描かれた人生ドラマが今、 現実化しつつある。

 戦後間もないベビーブーム時代に生まれた団塊の世代は総勢1千万人にもなる。 年金危機が叫ばれる中、 彼や彼女たちが「逃げ切る」側になるか、 それとも「支えつつ支えられる」側になるかで、 この国の将来は大きく違ってくる。

 生涯純受益額という指標がある。 年金、 医療、 教育など一生の間に得る公的な給付から、 税金、 年金や医療の保険料など公的負担を差し引いたものだ。 現在の制度を前提に政府がはじいた試算では、 60歳以上の世代は5700万円の受益超過になる。 一方、 20歳代は1300万円、 19歳以下となると4200万円の負担超過、 団塊の世代が属する50歳代はわずかながらプラスになる計算だ。

 放っておいたら、 若い人たちは負担の重さにつぶれてしまうか、 あほらしくなってこのシステムから離れてしまうだろう。 将来への不安から子どもを産まなくなる。 見切りをつけたヒトやカネが海外に逃げていく。 そんな日本に未来はない。 ・・・』

 この社説は今後10〜15年後の老人人口比率が高まったときの「安心」の仕組み作りを主張するものだ。 そして、 こう結んでいる。

 『理論上の処方は簡単だ。 分母の支える人を増やす一方、 支えられる分子を軽くする努力をするのである。 分子にいる人が分母に回れば理想的だ。

 ただし、 社会保障政策の枠内だけでは、 その実現は難しい。 「安心」の仕組み作りに住宅政策や産業政策などを総動員し、 政策同士を有機的に結びつけるグランドデザインを描かなければならない。

 たとえば、 中古住宅の価値をきちんと評価する制度や流通市場の整備である。 ・・・』

 現在50歳代半ばに達した団塊の世代は、 数年後には定年の時期を迎える。 再任用というシステムもあるが、 大半は現役時代に比べてやりがいのある職業にはつけない。 それでもまだ職にありつけるのはましなほうだ。 その一方、 どこが不況やねんと思わせる元気な地域活動や窓口に来る市民がいる。 深尾さんはそうした現実を見てきて、 時代の大きな構造変化の只中にいるという実感、 コミュニティの再生が日本社会の再生に不可欠という想いを強くされたそうだ。 例えば、 互いに助け合って年収200万くらいの小さい仕事をいかにたくさんうみだし、 お金が地域で廻る仕組みをつくるかが大事なのだという。

 「若者文化、 友達夫婦、 ニューファミリー、 カルチャーブーム、 スニーカーミドル、 マチュアー(成熟)」(2002年1月5日、 読売新聞が特集した「団塊の世代」の中で紹介されたキーワードより。 )
 団塊の世代はこうした新しい文化を生み出し、 社会に多くのショックを与えてきた。

 今後、 団塊の世代のライフスタイルに応じた居住環境の改善が、 消費不況の克服と同時に地域循環型経済の確立に不可欠となるだろう。 例えば、 まちなかの連棟戸建の共同建替、 コーポラティブ・・・。 個人のライフスタイルに応じた個別の対応が必要となる。 そのためには複雑に絡み合った問題を解きほぐし解決へと導く、 個人と専門家、 個人と組織の連携が必要だ。 実験的な取り組みと基礎自治体との連携など、 多様な公的セクターやNPOが連携してコミュニティの再生に取組むこと、 地域で息長く関われるシステムを構築していくことが望まれる。 その一翼に、 公団も関わっていきたい。


 

連載【街角たんけん3】

Dr.フランキーの街角たんけん 第3回
「百三十年の重み」 兵庫県庁舎界隈

港まち神戸を愛する会 中尾 嘉孝

 私事ながら、 昼休みに食後の散歩で歩いている場所が続くので気が引けるが、 今日も山手の方をうろうろする。

 鯉川筋から西に折れて、 花隈へと続く丘陵の斜面を緩やかにカーブする下山手通を上がると、 栄光教会前の大楠、 県庁舎、 そして県公館のフレンチバロックのたおやかなファサードが迎える。 昨春、 県公館は明治35(1902)年の竣工から百周年を迎えた。 また、 県庁が、 仲町の現神戸地裁の敷地から、 ここ下山手通4丁目に移ってきたのは明治6(1873)年であり、 実に百三十年の長きにわたって、 県行政の中枢がこの一帯に置かれていることになる。

 明治30年代の英国総領事ジョン・カーリー・ホールの回想によれば、 県庁が移転する以前、 この敷地は、 居留地でオランダ商会を営むコルタルス氏の邸宅だったという。 戦国時代には、 荒木村重がこの西側一帯に花隈城を構えるなど、 神戸の町を見下ろすことが出来る地の利が、 ここを県庁舎の場所として選ばせたのかもしれない。

 4代目県庁舎にあたる現県公館を設計した山口半六は、 建築家として有名だが、 大阪市の市区拡張に際して新街路設計計画を行うなど、 「日本で最初の専門的な都市計画家」(村松貞次郎)でもあった。 そうした山口の経歴と、 県公館のファサードに沿って歩くとき、 他の同時期の都市建築より「まちに寄り添う感覚」が強く感じられることと、 あながち無関係ではないように思われる。

 県公館の北、 現県民オアシスの辺りには、 明治15(1882)年、 初代の県議会議事堂が建設された。 明治初期の神戸には、 いわゆる「擬洋風建築」は少なかったようだが、 この県議会議事堂は、 八角形の平面、 正面2階バルコニーの菊水を思わせるファンライト、 宝塔を思わせる屋根上のランタンなど、 強烈な個性を放っていた。

 さて、 いまや官庁街の性格が強い県庁周辺だが、 コルタルス氏のほかに、 明治初期に活躍した長州出身の実業家・光村弥兵衛なども、 この界隈に屋敷を構えていた(光村の嫡子・利藻(としも)は、 道楽から写真撮影に没頭、 日露戦争にカメラマンとして従軍し、 やがて本邦写真印刷の先駆者となる。 光村印刷(株)創業者)。 県警本部南西角のお不動さんや、 この界隈に多い桜の老木は、 あるいはその頃の名残か。

 また、 明治から大正期に神戸で活躍した2人の建築家、 河合浩蔵、 設楽貞雄が、 北長狭通5丁目、 下山手通6丁目にそれぞれ事務所を構えるなど、 日本の近代建築史と浅からぬ縁がある界隈でもある。

 終戦まもなくに建った貿易会社のオフィスビル、 旧めの石垣など、 マンションやオフィスビルの合間に残る記憶の断片をたどって歩くと、 また違った、 このまちの表情が見えてくるかもしれない。

 

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県公館(旧兵庫県庁舎、明治35年竣工) 初代県議会議事堂(設計者・施工者不詳、明治15年竣工、宮西悠司氏提供)
 

 

連載【まちのものがたり8】

ある駅のホームの上で(4)
てんとう虫

中川 紺

 各駅停車に乗り換えると扉のすぐそばの席に腰を掛けた。 電車は数分ごとに駅に停まる。 窓の外はすっかり暗く、 灯がともった家並みが連なっている。 しばらくするとトンネルに入り白い電灯が左から右へと流れていく景色がはじまった。 腕時計を見ると八時十分を少しまわったところだった。

(こんな時間に帰れるのは久しぶりやな)

 俺は肩凝りをほぐすように首を左右にひねった。 疲れが抜けないせいで体全体が重かった。 四十が近づいてきてほんとうに無理がきかなくなってきた。 徹夜仕事もそろそろ控えていくか、 と足下に目をやると、 黒いゴミのようなものが動いているのが見えた。

 見るとゴミは小さなボタンくらいの大きさで赤い斑点が二つ、 きれいに並んでついていた。 ふたつぼしてんとうだ。 どこからか紛れ込んできたらしい。 その模様を見て、 よみがえる遠い記憶があった。

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 昔、 てんとう虫に凝っていたことがある。 まだ小学校の一年生くらいだっただろうか。 つくりもののようなあの模様と丸さに惹かれて図鑑を調べてはノートにいろいろなてんとう虫の模様を描き写していた。 斑点がないものから二十もの点を持つものまであり、 実際に見つけることができるとそのノートに印をつけていった。 圧倒的に多いのがななほしてんとうとふたつほしてんとうだった。 ななほしてんとうは確かにかっこいい、 と思っていたが、 俺は密かにふたつぼしてんとうが一番のお気に入りだった。 いつだったか、 学校で昆虫を描くという授業があった。 カブトムシや蝶々が人気だったが、 クラスの何人かがななほしてんとうを描いていて、 それを横目に、 俺はふたつほしてんとうばかりを描いていた。 いくつもいくつも。

● ●

「かすがのみちー、 かすがのみちです」

 車内放送が入って電車は俺がおりるべき駅に着いた。 あざやかな斑点を背負ったそいつはじっと扉のそばにいて動かない。 扉が開いた拍子に巻き込まれるんじゃないか。 そう思って手に取ろうとしたとき、 半円の羽をぱっと広げると開いた扉からするりとホームへおりた。 ベンチを置くスペースもないような狭いホームを挟んで、 電車が停まっていた。 ちょうど上りと下りの電車が同じ時間に着くタイミングだったらしい。 向かいの電車の扉が閉まる瞬間、 小さな黒いものが飛び出した。 もう一匹のふたつぼしてんとうだった。 風が強い地下のホームで、 二匹のてんとう虫は連れ立って飛び立ち、 階段のそばの換気口の中へと消えていった。 本当に一瞬の出来事だった。 二つの電車をおりた乗客は次々に階段をのぼってゆく。 あのてんとう虫たちに気が付いた人は誰もいないようだ。

 俺は通行人の邪魔にならないように除けながら、 まだホームに立っていた。

● ●

「信じられへんなあ」

 独り言のようにつぶやいて、 ゆっくり階段に向かった。 それからふと、 同級生の妻とよくこのホームで待ち合わせていたことを思い出した。 この話を彼女は信じるだろうか。 そう思いながら俺は帰路に着いた。  (完)

(イラスト やまもとかずよ)



第66回・水谷ゼミナール報告

 

 今回のテーマは「今区画整理は・・・・」で、 10月31日(金)、 こうべまちづくり会館で行われました。

 まず、 後藤祐介さん(ジーユー計画研究所)より主題説明があり、 続いて次の3つの報告がありました。

(1)我が国の土地区画整理を振り返って/野中 保(野中テクニカ研究所)

(2)西宮市甲東瓦木地区区画整理の取り組み/松尾 進(西宮市区画整理課長)

(3)神戸市西区玉津地区民間区画整理の取り組み/藤田豪一(都市・計画・設計研究所神戸事務所)

 野中さんからは、 土地区画整理事業に関する沿革や法に関する基礎的な“講義”をしていただいた上で、 “区画整理100回”(会場からは“再開発は50回”という意見)、 “区画整理は人の整理なり”などの区画整理事業における住民参加に関するこつや、 最近の区画整理を取り巻く話題について、 長年の経験に基づいて、 ちょっぴり辛口のコメントも加えながら語っていただきました。

 松尾さんからは、 西宮市における区画整理事業の概略説明の後に、 現在進行中の甲東瓦木地区の区画整理事業について、 主に保留地処分に関する報告がありました。 近年の土地価格下落の進行は保留地処分にとって相当深刻な問題であり、 様々に工夫を行いながら事業を進めてきていることが報告されました。

 藤田さんからは、 神戸市西区玉津町出会地区で進めている1ha弱の民間区画整理事業について、 長期の土地価格下落や非補助事業という悪条件下で、 民間参入による一括の保留地処分という方法で、 様々な課題をクリアしながら事業を進めてきている状況をリアルに報告していただきました。

(中井 豊/中井都市研究室)



情報コーナー

 

●ひょうご協働フォーラム

・日時:11月25日(水)13:30〜16:30
・場所:兵庫県民会館11階パルテホール(JR・阪神元町駅、 地下鉄県庁前駅)
・内容:
 <第1部:講演>「協働が生み出す新たな可能性」〜いま、なぜ協働なのか〜/早瀬昇(大阪ボランティア協会理事・事務局長)
 <第2部:鼎談>「NPO・行政 これから」〜協働の可能性を探る〜/野崎隆一(神戸まちづくり研究所)、 清原桂子(兵庫県理事)、 早瀬昇
・問合せ:ひょうごボランタリープラザ事業部(馬場・菅原)
 (TEL.078-360-8845、FAX.360-8848)

●第3回・ひょうごまちづくり団体交流会

・日時:11月26日(水)10:30〜16:30
・場所:神戸市教育会館大ホール(JR・阪神元町駅、 地下鉄県庁前駅)
・内容:
<第1部:基調報告> 「まちづくり活動継続のための課題」/灘中央地区まちづくり協議会(神戸市灘区)、 中村町むらづくり協議会(中町)
<第2部:活動紹介> 「まちづくり活動事例紹介」/4〜5団体の報告予定
<第3部:意見交換> ミニアンケートをもとにテーマを設定し、フリーディスカッションを行う。
・問合せ:ひょうごまちづくりセンター(TEL.078-367-1263、FAX.367-1264)

●阪神白地まちづくり支援ネットワーク・第35回連絡会

・日時:12月19日(金)18:30〜21:00
・場所:ひょうごボランタリープラザ(クリスタルタワー(JR神戸駅南側)10階セミナー室)
・テーマ、 内容:詳細は未定
・問合せ:ジーユー計画研究所
 (TEL.078-251-3593、FAX.251-3590)

●第67回水谷ゼミナール

・日時:12月26日(金)18:30〜
・場所:こうべまちづくり会館6階会議室(中央区元町通4丁目、 078-361-4523)
・テーマ:「私の(建築)作品」(内容は詳細未定)
・問合せ:ジーユー計画研究所
 (TEL.078-251-3593、FAX.251-3590)

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