きんもくせい50+36+10号
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地縁と知縁の協力を 地域と行政を変える柱に

月見山連合自治会事務局長、 西須磨まちづくり懇談会事務局長 佐藤 三郎

 阪神高速3号神戸線下り若宮インターを過ぎ、 大きく右へ曲がると約1キロの上り坂が続く。 この高架下を流れる天井川から、 約3キロ西の一の谷の古戦場あたりまでの地域(面積約3平方キロ、 人口約2万) が西須磨まちづくり懇談会の活動エリアである。 この西須磨地域の東部約四分の一が、 月見山連合自治会の活動エリア(人口約五千)である。

 天井川公園〈面積一万平方米〉の中にある月見山自治会館からは、 北の里山へも南の海辺へも徒歩10分の距離にある。 まちの中にある平安貴族や源平合戦をめぐる史跡、 武庫離宮や財閥別荘の跡地は公園となり、 自然や歴史の豊かさを実感させてくれる地域である。

 それと同時に、 耕地整理や区画整理も行われず、 第二次大戦中の空襲からも焼け残った部分が多く、 阪神大震災では全半壊率61%に達する激震地域であった。

 定年2年前の91年に自治会活動に係わり始めて13年が経過した。 震災直後、 地域内19町から自ら手を上げた82名で西須磨まちづくり懇談会を結成、 「住民参加」から一歩すすめ「住民主体のまちづくり」を目ざして、 道路・環境・福祉の3つの専門部会を設けて活動を続けた。 道路部会は3本の都市計画道路事業化(当初予算220億円)に対し、 環境部会は天井川公園の復興計画(予算2億円)に対し、 福祉部会は地域住民相互間での家事援助を中心とする助け合いに対し、 取り組みを続けている。

 93年4月、 それまで十数年にわたり会長職にあったU氏が病気で退任、 副会長であったI氏が会長となった。 「衆智の結集」「陋習の打破」の呼びかけが励ましとなり、 新しいメンバー、 特に女性の参加が増える中で、 自治会の新しい動きが拡ってきた。

 95年1月の阪神大震災は、 自治会活動の枠組を大きく変えていった。 道路問題での行政と住民のきびしい対立も、 公園復興や福祉分野での協働体制が進む中で、 少しずつ変化し始めた。 三本の都市計画道路のうち、 一本は完成、 新設の一本は手つかず、 残る一本は4〜6車線を2車線に変更しての詳細設計がほぼまとまり、 整備作業が始まっている。

 震災後、 旧い歴史を持つ自治会・町内会と、 特に震災後多く生まれてきたNPOとの協力体制が、 月見山自治会エリアで始まった。 その拠点として、 震災復興基金からの助成を自治会が受けとめ、 いなば公園内に建設した「いなば安心コミュニティプラザ」では、 各種市民団体が参加するふれあい協議会による自主運営が始まり4年が経過しようとしている。

 地縁系とテーマ系の市民団体の協力体制を地域活性化の柱にしたいとの取り組みは、 様々な問題を含みながらも、 一歩ずつ確実に前進している。 新旧の性格や立場の異なる団体の協力がめずらしいと、 03年では守山・犬山・宝塚・名古屋・豊中等、 04年早々には奈良・豊田等の各市でのまちづくりフォーラムで、 私達の事例報告が求められているのは嬉しい出来事である。

 最も身近な行政がスローガンだけでなく、 本当に変わって欲しい。 これが今の私達の願いである。

* * *

 次号は、 被災地NGO協働センターの細川裕子さん、 お願いします。

(小林郁雄→野崎隆一→宮西悠司→佐野末夫→中島克元→中村順子→海崎孝一→某市某職員→前田裕資→佐藤三郎→)


 

連載【私が支援している「まちづくり協議会」の紹介3】

「三木城下町まちづくり協議会」の紹介
−まちづくり支援事業が立ち上げの支えとなったまちづくり協議会−

ジーユー計画研究所 後藤 祐介

はじめに

 三木城下町まちづくり協議会は、 兵庫県三木市の中心市街地を対象に、 城下町としての特性を生かした住み良く活力あるまちづくりを目指し、 平成14年11月に立ち上がった。 面積は約175ha、 約3,300世帯、 人口約9,000人で構成されており、 比較的大きな区域を対象としたまちづくり協議会である。

 本稿では、 旧市街地域の活性化を目指す、 このまちづくり協議会の立ち上げの経緯を中心に現在の活動状況等を紹介することとする。

 

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位置図
 

1)まちづくり協議会立ち上げの経緯

 当協議会立ち上げの発端は、 当地区の長年の懸案である滑原(ナメラ)商店街活性化のための平成13年の本町・上の丸まちづくりを考える会の取組みからである。

 この取り組みのまちづくりアドバイザーとして私が担当することになり、 ひょうごまちづくりセンターの支援を得て本町・上の丸まちづくりを考える会として勉強会をスタートさせた。

 ナメラ商店会のメンバーと、 まちの活性化を中心に勉強会を重ねた結果、 当地区は湯ノ山街道をはじめとする歴史街道や三木城跡公園、 美の川等のまちづくり資源が豊富にあり、 まず、 三木城下町としての魅力づくりから取組むことが有効との方向づけから、 平成14年に入り範囲を広げてまちづくり協議会を立ち上げるべく準備にかかった。

 この時点で、 三木城下町活性化協議会立ち上げのため、 準備会として組織づくりを進めていったが、 この過程で区域について三木城下町の「上」地域の約10町(自治会)に対し、 「下」地域の約10町を加えて取組むべきだとの意見が集約され、 最終的に約20町の自治会が母体となって三木城下町まちづくり協議会を平成14年12月に設立した。

 

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まちづくり協議会立ち上げの経過
 

2)兵庫県と三木市独自の街づくり支援制度の併用

 当初の本町・上の丸まちづくりを考える会においては、 平成13年度事業として、 ひょうごまちづくりセンターからアドバイザー派遣の助成を受けた。

 平成14年度の三木城下町まちづくり協議会の設立にあたっては、 前半の立ち上げ段階は、 ひょうごまちづくりセンターよりアドバイザー派遣を、 後半はコンサルタント派遣を受け、 まちづくり活動助成は三木市独自の街づくり活動助成の適用を受けた。

 平成15年度はまちづくり協議会助成は、 ひょうごまちづくりセンターと三木市街づくり助成制度の併用で受け、 コンサルタント派遣は三木市独自の街づくり助成を受けている。

 このように当地区のまちづくり活動の支援は、 ひょうごまちづくりセンターの助成と三木市独自の街づくり助成制度が併用して活用されている。

 

※三木市街づくり助成要綱

施行:平成13年6月1日 所管:三木市都市整備課
主な支援内容:1.初動期のアドバイザー派遣 2.初動期のコンサルタント派遣 3.街づくり活動組織の立ち上げ支援 4.街づくり活動支援 5.活動期のアドバイザー派遣
 

3)三木城下町まちづくり協議会が目指すこと

 当まちづくり協議会が目指すことは、 衰退傾向が著しい旧市街地の商店街を中心とした活性化である。

 当地区は美の川や三木山に代表される「自然」と湯ノ山街道や明石みち等の歴史街道に代表される「歴史」及び三木の金物としての地場産業に代表される「伝統」があり、 これらの資源を生かした活性化が期待されている。 また、 生活道路の整備や老朽家屋の改善、 少子高齢化への対応としての都市環境整備やふれあいのまちづくりの取組みも期待されている。 これらを包含してまちづくりの基本目標を「自然と歴史・伝統を生かしたコミュニティ豊かな活力のある街」としている。

 

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昭和初期の三木中心市街地図
 

4)まちづくり協議会の進め方

 当まちづくり協議会の特徴の一つとして、 当地区が歴史ある中心市街地であることにより、 三木市の行政課題が多く積み上げられていることがあげられる。 即ち、 住民主体の街づくりに取組むことにより行政と住民の協働のまちづくりが円滑に進められる可能性を秘めている。 これを受け、 まず当地区の「まちづくり基本構想」の策定にあたっては、 三木市の上位計画を充分反映した「まちづくり構想」の策定に努めることとしている。 また、 一方で身近なところから「まちづくりを実行していく」ことも留意し、 歴史街道の説明看板を設置する等の「1町1事業」のプロジェクトに取組んでいる。

 

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まちづくり協議会等の検討区域図
 

5)まちづくり協議会の活動状況

 当協議会は、 平成14年11月に発足以来、 丸一年余りが経過したところであるが、 活動状況全般としては、 官民協働のまちづくりを進める中で、 考える作業としての「まちづくり構想」の共有と「身近なことから実行」の方針に基づき、 順調に盛り上がって来ている。

 この他、 まちづくりニュース(かわら版)としての「釜山城」の発行(4回−約3,500全戸配布)、 まちづくりセミナーの開催(2回)、 まち並みウォッチングの開催、 先進地バス見学会の実施(2回)、 まちづくりアンケート調査の実施等を行ってきた。

6)今後の課題

 当協議会は、 立ち上げに1年半をかけ、 旧市街地の歴史のある20町を母体として組織体制が敷かれており、 一応順調に進んでいる。 しかし、 今後は各町自治会において、 区長等に異動がある場合、 一定の連続性が必要なまちづくり協議会にあって、 運営上の問題が出てこないかと懸念されている。

 同じく、 当地区のような活性化を目指すまちづくり協議会にあっては、 「継続的な取組み」が不可欠であり、 そのため、 行政の支援制度≒「三木市街づくり助成要綱」の実状に応じた対応が期待される。


 

連載【コンパクトシティ5】

『コンパクトシティ』を考える5
大西洋を渡ったコンパクトシティのDNA

神戸コンパクトシティ研究会 中山 久憲

1.中世の都市時代の終焉と国家優先の時代

 『都市の時代』であったヨーロッパ中世時代は、 ローマ・カトリック教会の精神支配の網の目がめぐらされ、 世俗の神聖ローマ帝国の集権力が弱く、 ヨーロッパが緩やかな統合体として続いた時代であった。 その特徴は、 国境もはっきりせず、 国家の主権がどこにあるかが明確でなかった。 このため、 この時代の人々はどこの国の国民かという自覚はなく、 問題としたのは自分の属する小さな共同体としての村や都市であった。

 都市の時代の終焉は、 中世の後期に、 封建領主の中から、 力をつけ集権化した地域国家の台頭から始める。 そして、 1517年カトリック教会の免罪符の販売に疑問を抱いたルターにより始まった宗教改革により決定的となった。

 ルターの改革は、 プロテスタントの3原理により訴えた。 第1は、 心の平和は教会に対する善行という行為ではなく、 「信仰のみ」によって神から与えられるとした。 第2は、 法皇や教会が持つと言われる権威に根拠はなく、 「聖書のみ」を最高の権威とするものである。 第3には、 人間は完全に自由であり、 他の人々を愛し、 これの奉仕することにだけ縛られるとする信者の生き方の「万人司祭性」を示唆した。 スイスでは、 教会(宗教)と国家(政治)を分離し、 教会権の自立による厳格な規律を求めるカルバン派が生まれた。 こうした宗教改革の波は、 瞬く間に新興市民層や中産的生産者に担われて各国に広まっていった。 力をつけてきた封建領主の王権は揺さぶられ、 新教か旧教かを巡る争いが勃発して、 西ヨーロッパ全体が30年戦争(1618-1648)に巻き込まれていった。 戦争は、 カトリック側の敗北に終わり、 神聖ローマ帝国は弱体化し、 スイスやオランダは独立し、 各国と諸侯国は独自の宗教の選択が認められることとなった。

 ここに完全に中世時代は終焉し、 諸国王のもとにそれぞれの領土を確定し、 主要言語と、 独自の宗教、 民族を持つ主権国家である「国民国家」システムが胎動を始めた。 相当数の中規模国家がバランスよく競い合う独特の新たな国際システムの誕生である。 これらの国家の中から、 新しい軍事技術を取り入れた常備軍と、 国王の意志を伝える集権化した行政組織と官僚組織を装備した絶対君主国家が確立し、 やがて市民革命を経て、 近代国家へ成熟していったのであった。 ここに、 ヨーロッパの都市の時代は終わったが、 そのDNAは大西洋を渡り新大陸で新たな芽を育んでいた。

2.海を渡ったコンパクトシティのDNA

 絶対君主国となった英国では宗教改革によって、 ローマから独立した英国国教会を実現した。 プロテスタントに区分されるが、 国王が首長となり、 カトリック以上に体制的な宗派であった。 その中で、 国家による締め付けに反発し、 聖書だけを信じて「ピュア」な教義を確立すべきとするカルバン派の新興宗派がピューリタンであった。 反体制宗派として激しく弾圧された。 弾圧されたピューリタンは2つの道を選んだ。

 第一は、 信者を増やし、 王権を制限し国民の権利を主張する他の政治勢力と手を結び、 1642年から始まるピューリタン革命を起こした。

 第二は、 本国からの分離派で、 自由を求めて北米大陸へ亡命した。 英国はフロリダ半島以北の北米大陸に国王の特許を与え1607年のヴァージニアを皮切りに植民地の建設を進めていた。 1620年メイフラワー号に乗った102人の入植者は、 ニューイングランドのプリマスに上陸した。 上陸に先立ち「メイフラワー誓約」を結んだ。 それは互いに自由な人間として、 同意に基づいた法の支配を受け、 自治的政治団体を構成する契約であった。 最初の冬に病気と飢餓で半数が死亡し、 残ったものが苦難に耐え植民地の基礎を築き、 彼らは「巡礼始祖(ピルグリム・ファーザーズ)」と呼ばれた。 その後、 1630年に国王の特許状を得て設立されたマサチューセッツ湾会社によって、 ピューリタン革命までの10年間に約2万人の「大移住」が続き、 ボストンを中心に植民地を建設し発展した。 移住したピューリタンは会衆派と呼ばれ、 団結力が強く、 排他的で、 かつ政治性を持っていた。

 開拓は「タウン」と呼ばれた村落共同体によって進められた。 移住者がタウンの住民となり、 中心には教会が建てられ、 住民の生活は宗教面から規律が求められた。 タウンの自治が重んじられ、 アングロ・サクソン流の必要な秩序の維持は、 地方共同体が保障し、 外からの余計な干渉を排除する「ローカリズム」がそのまま移植された。 運営は自由民全員が出席するタウンミーティングにより決定された。 実質的には、 タウンの住民資格を、 共通する信仰や倫理観を持つ人に限定した排他性が強い小共同体であった。 集会においての決定は、 慣行に従い既得権を尊重する全員一致が原則であった。 そのため、 植民地政府の介入による権利や自由を侵害するタウンの調和を乱しかねない政策は、 決定を回避するか、 無効として拒否を表明するのが原則であった。

 18世紀になるとタウンは成熟し、 社会の流動化と、 人口の増加などによって、 利害の対立が顕著になり、 既得権は挑戦を受け、 伝統的慣行での平和的な解決は難しくなった。 そのために、 共同体の中に生じた各分派を独立した共同体として認め、 それぞれの中でコンセンサスを達成する方策がとられた。 コンセンサスの中身は厳格でなく、 幅のある緩やかなものとし、 各自が責任を持ってあたるものであった。 それでも解決できない場合には、 個々人が訴訟において解決するに任せ、 判例はコモン・ローとして解決の基準となった。

 これは、 タウンの求心力を喪失させたが、 カルバン派の「神に選ばれたものは神の意に適い規律正しく、 隣人に尽くす」とする『神の予定説』に従う成員の調和と一体感でカバーされた。 そこから逆に、 個人の勤勉と節約の倫理に基づき、 上昇を目指し、 競争に励むことが広く容認されることとなった。 M.ウェーバーが見た「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の原点である。 また、 共同体の中に一つの共通目的で集まる排他的集団としてコミュニティ(Common+Unity)が認められ、 地域はそれらを多元的に包含する緩やかな集合体へと変貌していった。 「自分たちのことは自分たちで解決する」ニューイングランドでの植民地の展開が、 その後のアメリカ精神の形成に大きな影響を残した。

 北米に展開した英国植民地は、 基本的には国王の統治大権の下にあったが、 地理的距離と官僚制の未発達のために、 統合する機関もなく、 13の植民地はばらばらに政治的・経済的発展成長した。 18世紀半ばに本国はそれまでの『有益な怠慢』を転換し、 統制や課税を強化したため、 「代表なくして課税なし」等を訴え抵抗運動を続けたが、 1775年に戦争に突入した。 開戦当初は、 各植民地は共通の民族・言語・歴史的伝統を持たず、 一つの国家としての独立の意識が弱かったが、 戦争を共同で戦う中、 連帯することが必要と認識し、 76年に「独立宣言」した。 それは単なる独立ではなく、 連邦共和制の国家を創造し、 自由、 平等、 立憲主義、 人民主権を国家理念とした。 83年に戦争が終了し独立が承認された。 13の植民地がそれぞれ独立共和国(州)であり、 連邦制により国家としてまとまりを持ち、 連邦政府の権力は極力抑えコンパクトな政府とすることとした。

 アメリカ合衆国は、 ここに誕生した。 共和制という政治体制は、 ギリシャ・ローマ時代以来である。 中央の集権力が弱く、 自治権を持つ各州の緩やかな統合体は中世ヨーロッパを彷彿させるものであった。

 ギリシャやローマの都市国家を経て、 中世城壁都市で成長したコンパクトシティのDNAは、 大西洋を渡り北米大陸に組み込まれた。 その後アメリカの地で、 新たな進化を遂げていくのである。


 

連載【菜の花プロジェクト5】

菜の花プロジェクト顛末記(その5・最終回)

神戸市 大塚 映二

まちおこしの花が咲いた

 菜の花プロジェクトは、 震災後に神戸市の「西出・東出・東川崎地区」で展開されてきた一連の「歴史を活かしたまちづくり」の一区切りをなすものであった。

 当地区は狭隘道路と老朽木造家屋が密集した地区であり、 震災以前から住環境の改善事業に取り組んできたが、 震災後しばらくしてからは、 地域の人々のよりどころとしてわがまちの歴史を活かしたまちづくりも進めてきた。 具体的には次のようなものがある。

 ・まちづくり協議会活動の一環で「入江の歴史委員会」を結成(2000年9月)
 ・「潮の香りと歴史をたどるまちなみウォーク」を開催(2000年10月)
 ・「入江ぶらり探訪マップ」(地区の史跡紹介)を発行(2000年10月)
 ・セルフビルドで「まちなか倶楽部」を建設(2001年10月完成)
 ・「アートイベント/まちのリズム場所のリズム」開催(2002年3月)
 ・「高田屋嘉兵衛本店の地記念碑/ポケットパーク」整備(2002年4月完成
 ・「町工場マップ」発行(2003年3月)

 

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セルフビルドで建てた「まちなか倶楽部」(工事中) さりげなく育てられる菜の花の苗
 

<継続は力>なるか?

 このような積み重ねの上に、 高田屋嘉兵衛ゆかりの菜の花でまちじゅうを飾ろうとしたのが、 菜の花プロジェクトであった。 同時に、 長年進められてきた都市計画道路湊町線の開通を記念するものでもあり、 併せて、 まちなかになお残る空地活用の試みでもあった。

 <花育ては、 まち育て、 夢そだて>を合い言葉に、 住民、 専門家、 行政マン、 その他ボランティアのみんながいっしょに育て、 花開くことができた。 汗を流してくださったみなさん、 本当にありがとうございました。

 さて、 大きく花開いたあとはどうなっていくのであろうか?
 現状はというと、 昨年のようなパワーあふれる取り組みは行われてはいない。 もとの草ぼうぼうの空き地に戻ったところも少なくない。 ・・・だが、 確実に次の芽は育っている。 目立たないが、 地区のあちこちに菜の花の苗を見ることができるのだ。 住民のみなさんが菜の花の「里親」となって、 ていねいに育てていることを見てとれる。 継続は力なりと言うが、 継続させることがどれほど大変か。 あの町に行けば菜の花がさりげなくも誇らしく咲いている・・・地域の花として確実に根付いていくことを願っている。

(顛末記は今回をもって終わります。 )


 

連載【まちのものがたり10】

夜の小さなあかり(2)
バスに乗って

中川 紺

 真夜中の五時すぎに、 私は待っていた。

 バス停には他に人はいない。 手袋をした手をこすりあわせていると、 かすかなエンジンの音がした。 真っ暗な道の先から二つのヘッドライトがゆっくりと近づいてきて、 私の前にぴったりと停まった。

 バスの車内にはすでに十数名の客がいた。 中ほどの座席で、 緑のマフラーをした弟がこちらに手を振っているのを、 私はすぐに見つけた。

 「今年は見えるかな」

 隣に腰を下ろして私は言った。

● ●

 近所の山にのぼって初日の出を見る、 というのは五年ほど続いている家族行事だ。 三年前までは両親と四人だったが、 父母が急病と事故で相次いで他界してからは、 たった二人きりの家族になった弟と、 この一年に一度のイベントを続けることを決めた。

 「仕事忙しい?」

 「うーん、 まだ一年目だしなあ」

 「あんたがお父さんと同じ銀行員の道に進むとはねえ」

 毎日同じ時間に出社していた父を思い出す。

 「いいだろう、 別に」

 「ご飯、 ちゃんと食べてんの?」

 「昼メシ以外はほとんど寮の食堂だよ」

 三つしか違わない弟と、 親子のような会話をしながら「お昼もパンだけで済ますのはやめなさいよ」と付け加えた。

 

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● ●

 「ねえ、 何でお父さん、 元旦にこういうことをしようって思ったのかな」

 「さあな。 ちょっとは家族っぽいことをしとこうって思い立ったか……それとも」

 「それとも、 何?」

 「やろうっていうのをずっと言い出せなかったのかもしれない」

 (そうかもしれないね)と私はかすかにうなずいた。

 停留所ごとに数人が乗り込んでくるが、 降りる人はいない。 元旦臨時便のバスはもうすぐ満員になろうとしていた。 乗客の目的地は同じところ。 もちろん私たちもそこへ向かっている。

 ほどなく終点であるケーブル駅前に着いた。 駅前には行列が少しできていた。 ここからはケーブルとロープウェイで山をのぼる。

● ●

 三十分後、 私たちは展望台に立っていた。 すでに初日の出を待つ人たちであふれている。

 まだ日の出までは半時間近くある。 空気が澄んでいるのか、 夜景がくっきりと見えた。

 「今年は見えそうだな」

 弟が言った。

 「去年は途中で雨になったもんね」

 そういえば両親と来た時も、 三回とも雲が多くて、 おせじにも「初日の出」と呼べる状態ではなかった。

 「来年は三人で来るんだろうな」

 白い息を吐きながら弟が言う。

 春には私の結婚が決まっていた。 弟は新しい兄弟ができることを楽しみにしている。 彼と弟はやたら気が合うのである。

 空が薄く赤く、 染まってきていた。 (完)

(イラスト やまもとかずよ)


情報コーナー

 

●震災10年市民検証・9年シンポジウム − 専門家の社会的役割を検証する

・日時:1月26日(月)13:30〜
・場所:ラッセホール5階サンフラワー(最寄り駅:JR元町駅または地下鉄県庁前駅より北へ徒歩)
・パネリスト:岩崎信彦(神戸大学文学部長)、 中辻直行(神戸福生会理事長)、 永井幸寿(弁護士)、 室崎益輝(神戸大学都市安全研究センター教授) 
・問合せ:震災10年市民検証・9年シンポジウム実行委員会事務局(TEL.0798-36-6679、FAX.36-5114)

●「灘百選の会」設立記念フォーラム

・日時:2月7日(土)13:30〜15:00
・場所:灘区民ホール5階 マリーホール
・内容:(1)「灘百選の会」の発足について、 (2)記念講演「『町おこし』から『町いかし』へ」河内厚郎
・問合せ:灘区まちづくり推進課(TEL.078-861-0033、 FAX.861-0417)

●国際防災・人道支援フォーラム2004−大震災を語り継ぐ−(国連防災世界会議2005プレイベント)

・日時:2月8日(日)13:30〜17:50
・場所:神戸国際会議場 国際会議室(ポートライナー市民広場駅下車)
・内容:
<問題提起> 河田惠昭(国際防災・人道支援協議会会長、 人と防災未来センター長)/テーマ「災害を『語り継ぐ』ことの意義」
<事例紹介> ファシリテーター/室崎益輝、 事例検証/「阪神・淡路大震災」村井雅清、 「雲仙・普賢岳噴火災害」鐘ヶ江管一、 「バングラデッシュ(サイクロン水害)」サンデュール・ラーマン、 他
<パネル討論>「大震災を語り継ぐ」コーディネーター/住田功一(NHKアナウンサー)、 パネリスト/イアン・デイビス(英国クランフィールド大学教授)、 河田惠昭、 上総周平(内閣府参事官)、 黒田裕子(しみん基金KOBE理事長)、 室崎益輝
・問合せ:国際防災・人道支援フォーラム2004事務局(TEL.06-6348-8830、FAX.6348-0175)

●第8回震災対策技術展・学術展・シンポジウム

・日時:1月29日(木)、 30日(金) 10:00〜17:00
・場所:神戸国際展示場(ポートライナー市民広場駅下車西へ徒歩10分)
・シンポジウムの内容(抜粋)

「第4回比較防災学ワークショップ−みんなで防災の知恵を共有しよう」
29日10:00〜16:00、 30日10:00〜12:00
基調講演「WTCテロ災害の教訓」デビットマメン、 報告「日米共同研究による都市地震災害の軽減」他、 パネルディスカッション「これからの日米国際共同研究のあり方」ケネストッピング、 河田惠昭、 他

「地域に文化財を守る活動を」
29日13:00〜16:00、 基調講演「文化財保護にとって地域住民の活動の重要性」室崎益輝、 他

「復旧・復興から減災・防備へ」
29日13:00〜16:00、 講演「台湾集集地震後の住宅再建過程からの教訓と課題」呉毘茂(台湾政府復興委員会)、 「阪神淡路大震災の住宅再建過程からの教訓と課題」垂水英司(こうべまちづくりセンター)、 パネルディスカッション「次の大地震に対する減災と事前防備−神戸大学都市安全センターによる問題提起と討論−」

※上記の他に29、30日両日に計12のシンポジウムが開催されます。

・主催:震災対策技術展・学術展・シンポジウム実行委員会(TEL.078-303-0029、 FAX.302-1870)


◇◇ 書籍の紹介 ◇◇

「火の鳥の女性たち―市民がつむぐ新しい公への挑戦―」
(中村順子・森綾子・清原桂子 共著、 ひょうご双書、 600円)

 復興に顕著な活動をされてきた女性3人の思いをつづった本が出版されました。 お問い合わせは、 兵庫ジャーナル社(TEL.078-333-7560)まで。


◆「iウォークもどき」

 1999年1月17日から始まった「こうべiウォーク」を覚えておられる方も多いことと思います。

 今年、 2004年1月17日(土)朝9時に大国公園を出発し、 御菅までの約10kmを約40名で歩きました。

 雪まじりの寒さではありましたが、 当時とすっかり様変わりした「まち」を清々しい思いで見学し、 御菅では新しい公園と集会所開きに参加する企画は山口一史さんの案でした。 あのころと同じ皆のカンパはCODEを通じてイランに届けられることになりました。

(まちづくり(株)コー・プラン/天川佳美)

 

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鷹取商店街にて
 
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(C) by 阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク

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