きんもくせい50+36+15号
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震災の記録を残そう

阪神大震災を記録しつづける会 代表 高森 一徳

 私たちは地震直後の平成7年2月から震災体験手記を募集し、 5月に第1巻を出版し、 以来毎年1巻ずつ発行しています。 これまでに1,078編の手記が寄せられ、 そのうちの396篇を掲載して9巻を編集しました。 来年の1月にはいよいよ最終巻を出す予定です。

 地震直後、 だれもが「自分に何かできることはないか?」と模索したのですが、 私たちは地味な活動ながら、 被災者の手記を集めようと被災地各所にポスター(日本語、 英語、 中国語、 朝鮮語)を貼りました。 外国人の方々の手記を集めようとしたのは、 「発言弱者」の声を残したかったのと、 日本人とは違う視点の被災記録がほしかったからです。

 おかげで、 第1巻には240通もの手記が寄せられました(うち43編が外国人)。

 本音の記録
 手記の選考基準は、 「文章のよしあしや被害の大きさではなく、 記録としての価値」としました。 手記には、 「自分の意思やプライバシーを自己責任で開示する」という性格があります。 「記録としての価値」は、 言い換えれば、 「借り物ではない、 本音を語っているか?」「いかに自己のプライバシーを開示しているか?」といってもよいかもしれません。

 他人のプライバシーを語った手記は裏づけが取れないので掲載を見送りましたが、 ご自身のプライバシーについて書かれたものは、 かなり大胆に掲載しました。

 「未来の被災者」へのメッセージ
 私たちの活動を支えているのは、 「歴史に立ち会った者には、 それを記録する義務がある」という意識を持った投稿者、 賛助会員、 編集スタッフとその活動を伝えるマスメディアの方々です。

 しかし、 記録の即効性は期待していません。 記録を見て人間が賢くなるのでしたら、 世界から戦争はとっくになくなっているでしょう。 現存の人たちの役に立たなくてもよい。 教訓を無理に引きずり出す必要もない。

 だが記録は残さなければ残りません。 そして残らなければ後世の歴史ではなかったことになります。 「未来の被災者」に記録を残せば、 「自分たちと同じ経験をし、 同じ思いをした先人がいた」と分かり、 励ましや癒しになるかもしれません。

 会のホームページでは、 手記募集要項と既刊9巻の全文を公開しております。
  
「阪神大震災を記録しつづける会」 http://www.npo.co.jp/hanshin/

 最終巻(原稿は9月末締切)には、 今まで以上に多様な方々の手記、 記録、 感想を収めたいと考えております。 奮ってご応募ください。

* * *

 次回は、 『論々神戸』の発行責任者の渡邊 仁さんにお願いします
(小林郁雄→野崎隆一→宮西悠司→佐野末夫→中島克元→中村順子→海崎孝一→某市某職員→前田裕資→佐藤三郎→細川裕子→出口俊一→高田富三→田中保三→高森一徳→ )


 

連載【新長田駅北(東部)まちづくり報告・第2部 5】

まちづくりシステムの研究(5)

久保都市計画事務所 久保 光弘

4. 部分組織

1)自然発生的な小規模協議会
 神戸市の震災復興区画整理事業区域で区域面積10haを超える事業区域でのまちづくり協議会の設立状況を表−1に示す。

 

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表−1 神戸市震災復興区画整理区域でのまちづくり協議会設立状況(10ha以上の区域)
 
 新長田駅北、 鷹取東第二、 六甲道駅北等の区画整理事業区域では、 いずれも震災後徐々に2ha程度の小規模協議会が数多く設立されている。 これは、 震災直後の混乱の中、 生活の復旧のための近隣の助け合いから始まり、 区画整理事業の網がかけられたことへの対応等、 個々の住民にとって明確な動機に基づく、 個から始まる自己組織化の結果であった。

 森南については、 当初一つであったまちづくり協議会が序々に4つに分離独立した。

 従来の考え方からすれば、 区画整理区域全体に1つの協議会を作るべきということになるが、 震災直後という混乱の中、 そのような計画的コントロールが働かなかったことが逆に、 自然なまちづくり組織のあり方を我々に示した。

2)小規模協議会の連鎖と共振化、 そしてネットワーク化
 新長田北駅地区東部の場合で、 小規模協議会設立後の動向をみると、 以下のように連鎖、 共振化、 ネットワーク化のプロセスを見ることができる。

(1) 最初にできたまちづくり協議会が組織づくりのモデルを作った。 これには区画整理に反対するにも賛成するにも協議会を作らなければ行政は聞いてくれないとする動機が基本にある。 この協議会が周辺の街区に影響し、 それに連鎖するように、 12協議会が半年をかけて序々に結成されたが、 それぞれは独立したものであった。

(2) 住工商が混在する当地区は、 それぞれの街区おいて事情が異なることもあり、 協議会ごとの意見も相当に異なるものであった。 それぞれの協議会内の意見の調整とともに独自の利益の追求といえるものである。

(3) しかし、 徐々に隣接協議会の検討内容が、 住民やコンサルタントを通して影響しあい、 適切と考えられる意見を取り入れられ入れ替わっていく。 また地区幹線道路、 コミュニティ道路など各協議会に跨る施設に対して共通した考え方が、 徐々に形成されていった。

 街区公園の確保など小規模な一つの協議会では対応が困難な問題に対応するため、 隣接協議会と共同で検討することも起こってくる。 それぞれの協議会から提案された「まちづくり提案」(H7.12〜8.4の「基本まちづくり提案」)は、 同一コンサルタントの文章化の影響もあるが、 各協議会からの提案における類似性は、 むしろ上記のプロセスによる結果である。

(4) その後、 地区計画、 共同建替、 商工それぞれの産業ビジョンづくり等をとおして、 関連協議会どうしの連携が行われ、 やがては、 いえなみ基準の策定や自主運用を通して新長田駅北地区東部全体の組織、 「新長田駅北地区東部まちづくり協議会連合会」に至る。

(5) さらに今日のトピックスを加えれば、 協議会連合会の環境部会での水笠通近隣公園交番設置問題の議論から端を発し、 16年5月、 北を中央幹線、 南をJR線、 東を新湊川、 西を須磨区界とする地域のまちづくり協議会、 青少年育成協議会、 婦人会、 老人会、 保護司会、 民生委員、 保育所、 小中学校及びPTA、 各種団体等の約30の地域団体からなる「新長田北安心安全コミュニティ推進協議会」が結成された。 また協議会連合会の商工部会は、 地区内のNPOから提案された地域通貨について検討されているが、 これは既に実施されているJRの南側の地域通貨とは異なった仕組みのものであり、 その両者において議論が起こる可能性がある。 このことが、 北と南の連携の契機となるのではないかと注目している。

 ファーマーは、 「進化は、 柔軟性を保障するボトムアップ方式の組織を持ったシステムでよく起きる」という。

 そしてカウフマンは、 「複雑性の成長は、 より高い組織化のレベルへと階段を上るようにして、 自己を組み上げていく平衡からほど遠いシステムと、 実際なんらかの関係があるはずだ。 しかし肝心なのは、 より高いレベルのものがいったん創発すると、 そのより高いレベルのものどうしで相互作用することもできることだ」と述べている。

3)部分組織
 話を初期のまちづくり組織の設立の段階に戻そう。

 まちづくり協議会が拓く将来の姿は、 「予定調和」でなく、 「開放系の未来」であり、 誰にもわからない。 そのような中で、 それぞれの地区の持つ複雑で矛盾する問題に対応した最善の結果を得るためにはどうすればよいか。

 カウフマンは、 彼のNKモデル理論により、 複雑な問題を含む社会組織において、 多数の解から最善の解を得るための組織について言及し、 「部分組織」という概念を出している。

 彼の比喩的な表現によれば、 部分組織を持たず個を直接支配する大きな全体組織を「スターリン主義者」の領域としている。 スターリン主義者の領域は、 問題が単純な場合効率よく良い解答が得られる。 しかし、 スターリン主義は、 「固定的な秩序」の世界であり、 複雑な問題を多く含む場合その最善な結果を求めるための試行錯誤を行う柔軟性に欠け、 多くの可能性を放棄してしまったり、 全体の中のある部分にとっては悪い結果をもたらしたりする等の恐れがあるという。

 反対に適切に組織化がなされていない状況を「イタリアの左派」の領域とし、 「カオス的」領域としている。

 そしてカウフマンは、 問題が複雑で矛盾する制約条件を持つ問題に対して、 適切な部分組織に分割することが、 「カオスの縁」として状況とともに変化する柔軟性を持ちながら共振化し、 部分そして全体に最善の結果をもたらすこととなるだろうとしている。

4)小規模連鎖によるまちづくり
 都市化社会から都市型社会への転換が進む中、 今後多くの都市において都市計画道路など根幹的道路の見直しが課題となってくると予想される。

 この問題は都市計画道路沿道関係者の利害や意見で決まるものでなく、 その計画道路の影響を受ける地域住民等の意見が反映されなければならないから、 まちづくり協議会よるまちづくりは不可欠となる。 この場合協議会は、 地区の将来像を定め、 その結果から地区住民の総意として都市計画道路の変更を行政に提案するプロセスが必要となる。 しかし、 地区住民が地区のまちづくりをするには、 まちづくりをすることについての強い動機がなければ始まらない。

 このような問題に対して、 行政は地元に入って新しくまちづくりを誘導する場面が出てくると考えられるが、 この課題の性格上、 大方は大きな区域が対象となる。 このとき十分に考慮しなければならないことは、 行政がまちづくりを誘導したい動機と実際に住民がまちづくりを起こすことになる動機にズレがあるということ、 また大きすぎる区域でのまちづくりは、 不毛になりやすいということである。 重要なポイントは、 「部分組織」の概念への認識である。 それは大きな区域全体の中から、 まちづくりの意思を持つ小さな地区を見つけ出し支援し、 良いモデルを作るということからスタートし、 その後如何に他の部分組織をまちづくりへと連鎖させるかというプロセスである。

 千葉桂司さん(元・都市基盤整備公団)は、 小規模単位の連鎖により、 面的な整備に至った事例から「連鎖のまちづくり」を論じられている(http://web.kyoto-inet.or.jp/org/gakugei/judi/semina/s0305/index.htm)。

 中沢孝夫さん(姫路工業大学教授)は、 全国の地域活性化の事例からの知見として、 「まちづくりは、 やる気のある一つのお店からの連鎖が必要で、 広い区域での取り組みにあまり実がない」というような趣旨のことを伺ったことがある。 いずれも共感する見解である。

 神戸市灘区におけるまちづくりも観察のインターバルを長くしてみれば、 まちづくりの連鎖といえる。

 平成60年から2年間ほど、 木造賃貸住宅地総合整備事業の計画調査に関連して、 原田、 岩屋、 灘中央、 灘南部(味泥地区)の広い区域で、 4つの自治会連合会役員が集まりまちづくりの勉強会を行ったことがある。 この時は、 まちづくりの具体的な展開が無いまま終わったのであるが、 平成元年、 灘区役所にまちづくり推進課が生まれたのを契機に、 先の勉強会でまちづくりに関心を持っておられた灘南部自治会の会長が味泥地区のまちづくりを立ち上げた。 味泥とは、 灘南部区域の旧村名である。 その後、 新在家南地区、 灘中央地区、 大石南地区と次々にまちづくり協議会ができ、 現在、 まちづくり区域は大きな範囲で連坦している。

 元来、 古い地域での各コミュニティは隣接したコミュニティどうしで競争心が強く、 このことがかえって近くにまちづくりのモデルが一つできると、 まちづくりについての具体的な情報が、 隣接又は周辺コミュニティに伝わり、 まちづくりの連鎖が起こることになる。 それにしてもこのような展開には、 相当長い年月を要するものであることをこの事例は示している。

参考資料
 ・ スチュアート・カウフマン「自己組織化と進化の論理」日本経済新聞社、 1999
 ・ M・ミッチェル・ワールドロップ「複雑系」1996


 

連載【地域の再生と企業文化5】

震災復興で加速する企業と地域の新たな関係を考える

神戸商科大学 加藤 恵正

まちなみ形成と企業市民 −魚崎郷まちなみ委員会 神戸市東灘区−

 阪神・淡路大震災による酒蔵地域への影響は甚大であった。 古い木造の酒蔵だけでなく、 資料館や記念館のほとんどが倒壊した。 現在、 こうした記念館はすべて復興し、 神戸市内の魚崎郷、 御影郷、 西郷全体で9ヶ所の資料館・記念館がオープンしている。

 近世後期から急速な成長を見せた酒造業であるが、 その後幾多の変化に直面してきた。 とりわけ、 第二次世界大戦において酒蔵の7割を失ったことは、 その後の酒蔵地域のあり方に大きな影響を与えた。 さらに、 四季醸造と呼ばれる酒作りの技術革新は、 これまでの伝統産業から近代産業へと衣替えする契機となり、 酒蔵地域の景観も黒壁の酒蔵からコンクリート造りの工場へと変化していった。

 さらに、 1995年の阪神・淡路大震災による昔ながらの景観はほとんど壊滅的な打撃を被ったといって過言ではない。 生産が比較的早く回復したこともあり、 震災前からの懸案であった「酒蔵が醸し出す景観」を重視したまちづくりがスタートしたのである。

 神戸市内に所在する三郷のそれぞれでまちづくり委員会や協議会が設置され活動が行われつつある。 たとえば、 魚崎郷は「居住・生産・商業機能が調和し酒造りを代表とする地区の伝統を引き継いだ個性あるまち」を目標として、 1998年に魚崎郷まちなみ委員会が設置された。 同地域において興味深いのは、 こうした委員会に魚崎郷に所在する9つの酒造メーカーすべてがメンバーとして参加している点である。 従来、 こうした活動には事業所が積極的に関与するということは稀である。 言うまでも無く、 景観上の課題が酒造メーカーの遊休地での新規事業にともなって発生するという事情は大きいが、 景観のコントロールが場合によっては地主である企業にとって必ずしもメリットばかりではないであろう。 こうした事情にもかかわらず、 酒造メーカーが地元自治会さらに神戸市が連携をとりつつ、 町並みを保存し新たなまちなみ形成を誘導しようとする試みは興味深い。

 もともと、 灘の酒造家は地域との結びつきが強く彼らの文化活動はよく知られている。 報徳学園や甲陽や灘中・高校の設立、 さらには白鶴美術館や辰馬考古資料館などもその例としてあげることができる。 灘の酒造メーカー各社が、 地域文化の担い手であるとの伝統が、 震災復興のなかで地域の景観保全への取組みを促しているのかもしれない。


「信頼」による新たな中小企業融資の仕組みを作る −日本トラストファンド(株) 神戸市中央区−

 2001年11月、 日本で初めて中小企業が連携し「信頼」をベースにした新しい資金調達の仕組みである「神戸コミュニティ・クレジット」が誕生した。 この仕組みの母体が「日本トラストファンド」で、 同社を含む15社の企業グループが拠出する信託財産にたいして、 みなと銀行・日本政策投資銀行がほぼ同額の融資を行い、 参加企業が資金調達によって新規事業にチャレンジするというものである。 もともと、 日本トラストファンドの設立は、 企業同士の結束によって難局を打開しようという目的はあったが、 こうした地域金融の仕組みを発案したものではない。 日本トラストファンドの設立を知った日本政策投資銀行からかかる仕組みの実施について提案を受けたことからスタートしたものである。

 以下、 まず神戸コミュニティ・クレジットの仕組みについて示しておく。

 

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神戸コミュニティ・クレジットの仕組み
 
 実際に借り入れを希望する企業の審査においては、 銀行は参加せず出資15社で行っている。 借り入れ企業は、 事業の進捗状況等について絶えず報告があり、 15社は監視すると同時に事業の課題や悩みについて提案・アドバイスを行っている。 部分保証を行っていることもあり、 チェックは厳重かつ真剣である。 銀行は担保主義で貸し出した後は冷淡だが、 この仕組みではその後を全力投球で面倒をみることになるということだろう。

 ただ、 この仕組みをそのまま一般化することは困難という。 15社の「信頼」がベースになっており、 これを醸成することが先決ということであった。 神戸コミュニティ・クレジットの場合、 ここに1年半を費やしている。 日本トラスト・ファンドは、 「神戸駅前大学」と称して中小企業経営のあり方を勉強してきた。 こうした基本的な経営のあり方、 地域企業のあり方に関する考え方を共有しようとする姿勢とともに、 自ら出資すること、 自ら運営に参加すること の3条件が不可欠であるとのことであった。 出資している企業群はいずれも中小零細規模であるが、 それぞれ独自の経営哲学と技術を持っており、 こうした「クラブ」による信頼がこれまでにない融資モデルをつくりあげた。

 近年、 わが国における地域金融は大きな困難に直面している。 金融機関サイドからみると「借り手」の情報が少なく融資額も少額であるため、 高度な与信ノウハウが必要となる。 従来からの担保主義から抜けきれていない。 一方、 地域の中小零細事業所サイドは情報開示が不足・欠落し、 金融機関とのコミュニケーションも必ずしもスムーズではない。 こうした需給双方の問題から、 地域に資金が回らないのが実情である。 こうした事態は、 その要因に差異があるが、 わが国に限ったことではない。 たとえば、 米国ではマイノリティへの差別を背景とするこうした状況にたいして、 地域再投資法(Community Reinvestment Act)を整備し、 監督当局による格付けを行い店舗新設や合併時における評価項目として使用される。 この他、 低所得者への住宅供給を行うCDC(Community Development Corporation)に資金やノウハウを提供するLISC(Local Initiative Support Corporation)、 負担者自治を実施するBID(Business Improvement District)などがあげられるし、 わが国においても「市民株式」「グリーンファンド」「コミュニティ・ボンド」といった試みもある。

 地域金融の問題は今後ともきわめて重要な課題である。 神戸コミュニティ・クレジットの設立は、 地域における企業間の信頼や共有する地域企業のあり方といった「ソシアル・キャピタル」をベースにしている。 今後地域産業活性化においてかかる視点も配慮していく必要があろう。


 

連載【街角たんけん6】

Dr.フランキーの街角たんけん 第6回
JR・阪急 神戸高架鉄道物語(その1)

プランナーズネットワーク神戸 中尾 嘉孝

 山と海に挟まれた東西に細長く広がる神戸の旧市街地を縦断する、 JR阪急の高架鉄道。 昭和初期に築かれた鉄筋コンクリートの「長城」は、 このまちの背骨に喩えられよう。

 また高架の内部は、 岩屋から新湊川あたりまで、 区間ごとに表情を変えながら「高架下」と呼ばれる独特の商業空間を形作っている。

 しかし、 いまや私たちの原風景となっている「高架」も、 その誕生までは紆余曲折があった。 そのあゆみを辿ってみよう。

 明治7(1874)年に、 大阪神戸間に鉄道が開通した。 約1時間で阪神の地が結ばれるという絶大な恩恵の一方で、 山と海に挟まれた市街地が、 鉄道敷によって南北に分断されるという問題が、 日を経ずして顕在化した。

 やがて、 東京より少し遅れて、 神戸でも明治中ごろから、 人口急増などを背景として、 市区改正の議論が始まるが、 鉄道の改良は、 その中心的事項であった。

 大正7年、 神戸市議会は、 政府に対して省線の改良を申し入れする。 その内容は、 山際または海岸線へのルート変更、 地下式、 そして高架式、 いずれかの方法により、 道路と鉄道の平面交差を解消しようというものである。

 鉄道院側は、 複々線電化による輸送の高速化、 大量化を図るべく、 高架式による改良を計画した。

 南北交通の障害が残ることを恐れた市側は、 地下式での改良に変更するよう、 再考を求めたが、 工費の増嵩を嫌った鉄道省(大正9年に組織変更)はこれを受け入れず、 一旦は地下式での改良を求める建議を決議した市議会委員会でも、 最終的には、 僅差で地下式による改良を求める建議案が決議された(大正15(1926)年)。 ここに至って、 道路との交差部分の拡幅など、 条件闘争で、 市も高架式による改良を受け入れざるを得なかった。

 高架鉄道の工事は、 昭和6(1921)年に、 まず上り側が完成、 昭和12(1937)年に下り側も竣工し、 市内各所での混雑問題は、 鉄道開通から60年を経て漸く解決を見たのである。

 このとき、 鉄道省は、 高架下の半分(北側)を区画して倉庫として賃貸し、 南側は市の要望を受けてオープンスペースとした。 この空間を利用して、 終戦後に設けられた「自由市」が、 現在の高架下商店街の根源である。

 一方、 関西私鉄の雄も、 三宮への直接乗り入れを狙っていた。 だがそのあゆみは、 またしても平坦ではなかった。

(つづく)
 
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明治中ごろの相生橋付近の鉄道線の様子 高架工事中の省線(花隈付近)(出典「神戸100年」) 完成直後の省線三ノ宮駅南改札口(出典「工事画報昭和12年」大林組)
 

 

連載【まちのものがたり15】

看板綺談・3
文字

中川 紺

 「おい、 何やってる」

 店長の声が隣のレジから聞こえて俺は我にかえった。 目の前にいた客が「ビニル傘、 ありませんか?」と聞いてきた。 急に雨が降ってきて傘は数分前に見事に売り切れてしまっていた。 慌てて「申し訳ありません」とその事を告げて、 俺はまたレジを続けた。

 最近、 集中力を欠く原因が自分ではよく分かっていた。 俺が所属する劇団の公演の配役オーディションが近づいているからであり、 俺が受けるつもりの『身に覚えのない理由で命を狙われる男』の役がどうしてもうまく演じられないからだ。

 オーディション一週間前、 台本の一部が配られた。 その台詞は一言一句頭に入っているというのに、 何度言葉を発してみてもしっくりいかない。 台詞が空回りしている。

 こんなことで役を取れるだろうか。 夕方、 コンビニのバイトを終えた俺は、 稽古場に向かう電車の中でそう思っていた。

 稽古場は阪神沿線の駅から歩いて五分の古いビルにある。 ビルに入ろうとして、 隣の空き地に何か白いものがあることに気がついた。 それは無地の看板で、 幅は一メートルくらいだろうか。 最近不法投棄された自転車と冷蔵庫に立て掛けるようにして置いてあった。 (またゴミが増えてる)と俺はつぶやいた。

● ●

 居残りで練習を続け、 最後に部屋の鍵を閉めて俺はビルを出た。 空き地の前を過ぎようとして違和感をおぼえた。 少しの間を置いて、 原因があの白い看板にあることに気がついた。 いや看板は白くはなかった。 四角い板面にびっしりと文字が書かれていた。 いつの間にこんなものが。 何が書いてあるのかと思い、 その文字を読んでがく然とした。 それは俺がすっかりおぼえてしまった明日のオーディションの台本の台詞そのままだった。

 

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 まさかそんなバカな。 そう思った途端、 看板が小刻みに揺れた様に見えた。 違う。 文字そのものが震えていた。 信じられない光景に俺は声すら出せなかった。 文字の震えはどんどん大きくなり、 そのうちに流れ落ちるように看板から離れ、 そして俺の足元に向かってきた。 文字の水たまりの中に俺はいた。 台詞の一文字一文字が俺を見ている気がした。 先頭の「も」の字が靴の上に滑るように乗った。 (やめろ!)そのまま俺は気を失った。

● ●

 翌朝、 俺は部屋で目覚めた。 もうろうとしたままオーディションに向かう。 空き地の前に停まっている廃品回収業者の軽トラに自転車と冷蔵庫が積んであった。 しかし看板は見当たらない。 業者の男は「そんなものは無かった」と言う。 あれは何だったんだ。 俺は得体の知れない感覚に包まれてぞっとした。

 台本の台詞を口にするたび、 昨晩の出来事を思い出さずにはいられなかった。 オーディションを終えた後、 劇団仲間は口々に「お前の怯える演技は、 真に迫ってた」と告げた。

● ●

 そして俺は主役の座を射止めた。 今、 机の上には舞台稽古に使う台本が乗っている。

 だが俺は、 また文字が向かってくる気がして、 台本を開くことができない。 稽古の時間は容赦なく迫っていた。 (完)

(イラスト やまもとかずよ)


阪神白地 まちづくり支援ネットワーク・第38回連絡会報告

 

 今回のテーマは「共生型住まい/民間コレクティブ住宅と公営ふれあい住宅」で、 6月11日(金)、 神戸勤労会館において行われました。

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報告者の皆さん。左から、石東さん、岩崎さん、宮前さん
 はじめに、 石東直子さん(石東・都市環境研究室)より「注目をあびてきた共生型住まいの動向について」と題したテーマ解説が行われました。 「共生型住まい」に関する定義や、 最近の動向などが紹介されました。

 次に、 2氏から報告が行われました。 岩崎洋三さん(県営大倉山ふれあい住宅代表)からは、 「公営コレクティブ住宅・ふれあい住宅の生活」というタイトルで、 約6年間32戸の代表としてお世話されてきた、 実感のこもったお話がありました。 代表としての苦労話や、 協同して住まう様々な工夫、 入居時に対する提案など、 大倉山ふれあい住宅での生活が手に取るようにわかる内容でした。

 宮前眞理子さん(NPOコレクティブハウジング社事務局長)は、 「コレクティブハウジングで暮らそう」と題して、 「コレクティブハウスかんかん森」に関する報告をされました。 この施設は、 12階建ての「日暮里コミュニティ」の2・3階部分にあり、 住戸数28戸(25〜62m²)、 コモンキッチンやランドリールーム、 菜園テラスなど、 協同で住まう様々な仕掛けが施されています。 入居前からワークショップで施設計画がされており、 また世帯や年齢のバリエーションのある居住者同士が、 柔軟なルールを決めながら共同の食事や、 掃除、 花の世話、 近隣住民との交流など、 豊かな共同生活が行われている様子やその仕組みが報告されました。 (中井都市研究室 中井 豊)



情報コーナー

 

●第70回・水谷ゼミナール

・日時:6月25日(金)18:30〜21:00
・場所:こうべまちづくり会館6階(神戸市中央区元町通4丁目)
・内容:テーマ「今時の集合住宅アラカルト3題」
(1)西宮の長屋/森崎輝行(森崎建築設計事務所)、 (2)北野らしさを表現した北野コーポラティブハウス/天宅毅(株式会社キューブ)、 (3)苦悩する神戸市住宅供給公社〜新長田再開発地域に市公社が建設した学生向けワンルームマンション〜/西川靖一(神戸市住宅供給公社)
・会費:1,000円
・問合せ:ジーユー計画研究所(TEL.078-251-3593、FAX.251-3590)

●空間像研究会第3回オープンセミナー「景観法とまちづくり」

・日時:7月12日(月)18:30〜20:30
・場所:こうべまちづくり会館2階ホール(神戸市中央区元町通4丁目)
・内容:パネルディスカッション「景観・まちづくりの今日的課題」荏原明則(関西大学)、 三輪康一(神戸大学)、 森崎輝行(森崎建築設計事務所)、 山本俊貞(地域問題研究所)
・問合せ、 申込先:こうべまちづくりセンター(FAX.078-361-4546)

★阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワークが「21世紀のまちづくり賞」受賞

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左から、貝原理事長、小林、村井さん。加藤審査委員長
(財)兵庫地域政策研究機構(理事長・貝原俊民前兵庫県知事)の主催する第2回「21世紀のまちづくり賞」の研究活動賞を受賞しました(なんと副賞は20万円!)。 社会活動賞は村井雅清さん(被災地NGO協働センター)でした。

(地道な活動に対する支援としての受賞とうけとめ、 副賞の半分は「きんもくせい」の赤字補てんに使わさせていただきます。 )









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