きんもくせい50+36+16号
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震災から、 はや10年目。 「市民力」が試されている。

論々神戸 編集長 渡邊 仁

 区切りがいいというのかどうか、 1950年生まれの私。 その年の朝鮮戦争に始まり、 60年は新安保条約締結、 70年の大阪万博及び安保改定にからむ大学闘争、 80年に神戸に転居し、 85年に独立自営、 さらにこの年は、 人心を荒廃させたバブル経済のきっかけとなる前川(元日銀総裁)リポートが準備された年であることも忘れることはできない。

 そして90年には父の死を迎え、 95年の阪神・淡路大震災で否応なく人生の転機を迎え、 2000年には、 まさか参加するとは思わなかったシドニー・オリンピック(トライアスロン競技応援)と、 五年・十年が、 なにがしかの節目となっている。

 なかでも地震以降の約10年は、 地元神戸の人たちとの交流が深まった、 という意味で格別の思いがする。 とはいっても、 なにがしかのことができたとは到底思えないのだが、 ふとしたことがきっかけで「震災」をキーワードにした雑誌『神戸から』を制作し、 そのリニューアル版『WAVE117』を経て、 現在のウエブマガジン『論々神戸』www.ronron-kobe.com)にいたるには、 周囲の人々の支援があってはじめてなしえたことだった。 この十年、 ある意味、 開き直りともいえる手探りでのオピニオンの発信を行ってきたのである。

 また、 この間震災からの流れとはいえ、 一回だけだが2001年の神戸市長選挙にも少し内側から関わった。 神戸空港阻止の最後の機会だと思ったからである。 残念ながら勝利はしなかったが、 これもさまざまな意味をこめての貴重な体験だった。

 かれこれ20有余年に及ぶそんな神戸での生活のなかで、 ずっと頭をつきまとって離れないのは、 草の根の市民的広がりってなんだろう? ということだ。

 私のような、 ある意味ふらふらしながらも、 仕事の合間に「パブリック」について、 なんだかんだと話しあうなかから小さな具体的行動を起こす市民がもっと出てきてもいいと思うのだが、 なかなか新たな顔ぶれにお目にかかれない(もっとも、 私が知らないだけなのかもしれないが?)。 私たちの社会基盤を根底からゆるがせた震災以来、 すでに十年を迎えようというのに、 これはいったいどうしたことだろう? 
 震災が起こるまで、 すべての党派議員が行政と一体になって市政を支えてきたという不思議な自治体「コーベ」という街の歴史をふまえると、 そう簡単には変えられないのかもしれないが、 震災以後の市民力という観点からは、 「コーベ」まだまだ文化的に成熟した大都市とは思えない。

 一方で、 一生懸命、 新たな市民的スタイルを生み出そうと苦闘している人たちもいて、 彼らを見るにつけ、 随分と勇気を与えられるのも確かである。 そんななかで、 『論々神戸』は、 ますます私事の身辺雑記に堕していくか、 それとも言論のうねりや波紋となるか、 10年を越えても、 東北人らしくねばりづよく発信していきたい。

* * *

 次回は、 詩人の季村敏夫さんにお願いします
(小林郁雄→野崎隆一→宮西悠司→佐野末夫→中島克元→中村順子→海崎孝一→某市某職員→前田裕資→佐藤三郎→細川裕子→出口俊一→高田富三→田中保三→高森一徳→渡邊仁→ )


 

連載【コンパクトシティ8】

『コンパクトシティ』を考える8
イギリスの産業革命・工業都市・近代都市計画

神戸コンパクトシティ研究会 中山 久憲

 「コンパクトシティ」の対極にあるのが、 工業化のとともに成長拡大した「工業都市」である。 特に20世紀は「工業社会」のパラダイムで、 豊かな社会を実現させた。 それには、 都市を秩序よく発展させる『都市計画制度』が欠かせない。 今回はその誕生の歴史過程について概説する。

1.産業革命から工業都市の発展へ

 産業革命を達成したイギリスでは19世紀半ばには、 一気に工業化と都市化が進んだ。 首都ロンドンの人口は200万人、 リバプール、 マンチェスター、 バーミンガム、 グラスゴーといった工業都市では人口が10万人を超えた。 1851年の人口調査で都市人口が約900万人となり、 農村人口を初めて超え、 イギリスは農業国から工業国に転換した。 16世紀前半と比較すれば、 ロンドンで人口4万人、 1万人前後の都市が5都市で、 都市住民の人口比率が、 イングランド全体の6%程度にすぎなかったわけで、 産業革命後の工業化が一気に都市化すなわち「集中化」を呼び起こしたのである。

 工業都市としての発展は、 技術革新による新しい機械が次々に登場し、 新たに多数の労働者を雇用できたばかりではなく、 平均実質賃金も、 1815年から50年までに15〜25%上昇し、 後半の半世紀で80%上昇したといわれている。 これは工業の生産量の増大だけではなく、 都市労働者の食糧や生活必需品などの物資の需要が増加することに対して、 運輸通信の革命も起こり、 鉄道や蒸気船が発達し、 国内だけではなく新世界からの余剰農産物が運ばれて需要を満たしたからである。

 都市に居住した人口の大半は、 綿工業を中心に工場労働者とその家族であった。 雇用される労働者の多くは賃金の安い児童と女性であった。 1825年には、 イギリスの綿工業に従事する労働者の61%は婦人と13歳以下の児童で、 彼らは工場で13-4時間の長時間過酷な労働を強いられた。

 賃労働者の必要となる衣料や食料等の生活物資が購入されるため、 都市には庶民的な小売業があらわれはじめ、 常設店舗がまとまって立地する商店街も形成されていった。 商品を常備し、 展示することで、 都市住民の購買意欲をかき立てた。

 また、 地主階層であるジェントルマンも都市に生活基盤を移し、 産業資本家である富裕な商人や医師、 法律家などの専門職業人などの中間階層も出現した。 こうした都市の新しい有閑階層の消費需要に応えて、 劇場、 競馬場、 舞踏場、 遊歩道、 ティー・ガーデンなどがロンドンだけではなく、 地方都市にも建設されていった。 商店街での買い物や劇場での娯楽鑑賞が、 「アーバン・リゾート」として、 都市化の中のレジャーの様式となった。 大衆消費社会の成立でもあった。

 工場の進出や人口の急増する工業都市は、 なすがままに拡大を続けていった。 このため、 現代のような都市生活に基本的に必要となる様々なライフラインや道路・公園などの都市施設の整備が全く欠けていた。 それは、 当時工場を経営していた産業資本家であるブルジョア階級が、 アダム・スミス流の自由放任主義者であったからである。

 物理的空間が限られるところに計画性もなく集中が過度におこれば、 想像を絶する劣悪で非衛生な都市空間が作り出された。 自由に操業を続ける工場からの煤煙、 ガス、 悪臭が空を覆い、 工場排水と家庭排水と屎尿が一緒になって側溝や河川を流れた。 満足な道路空間もない住宅環境では日照、 通風も得られない。 水道も完備せず、 コレラやチフスなどの疫病が繰り返し発生した。 75年当時の労働者階級の平均年齢がマンチェスターで17歳、 リバプールで15歳という信じがたい統計数字が都市環境の劣悪状況を物語っている。

2.近代都市計画の誕生と展開

 無秩序な市街地での過密の問題は、 都市の労働者やその家族の生活上の問題ではなく、 集積によるメリットを享受する産業資本側にも問題となった。 熟練労働力の喪失、 交通渋滞による輸送コストの増大、 労働環境や労働者住宅環境の改善を求める労働組合等との対立の激化などである。

 また、 都市に居を構えた富裕層にとっても、 伝染病の蔓延は耐え難い恐怖であった。 ジェントルマンや、 産業家や商人、 専門職業人(医師や法律家)などの中間層は、 悪化した都市環境に嫌気や生活防衛上から、 郊外に住宅を移し、 馬車等を利用して通勤を開始していた。 工業都市は、 もはや人間の住む都市の形態を喪失しつつあった。

 こうした状況下に、 工業化による生産と所得の持続的成長による国富の蓄積で恩恵を受けてきた国家としても、 もはや都市問題を自由放任主義に任せることができない局面と理解し、 重い腰を上げた。 最も急がれたのは、 都市衛生の問題であった。 事後的、 局所的であったが、 改善策の先陣を切って48年に『公衆衛生法』が制定された。 下水・排水・街路の清掃・給水の責任を持つ政府の衛生当局の全国規模の措置が定められた。

 一方で深刻さを増していたのが住宅環境問題であった。 採光や排水の義務づけの法制度化は、 私有財産への干渉に踏み込まなければならなかった。 議会主権が確立していたが、 実権は地主階級であるジェントルマンが握っており、 彼らの抵抗を受けた。 また、 権利制限の代償としての補償が財源不足もあり実現を拒んだ。 しかし、 工業化によって力を付けた産業資本家であるブルジョア階級と労働者階級の政治参加が選挙法の改正で着実に進んでいた。 やがて、 地主階級の抵抗を受けながらも、 都市の物的空間をコントロールし、 財産権の制限と補償に踏み込む法律が制定された。 68年の『労働者住宅法』では、 地方自治体が所有者負担で非衛生的な住宅の修繕または解体を命令できるようになった。 75年の『市民と労働者の住宅改善法』では、 自治体にスラムの改善と不良住宅の接収や撤去の再建計画作成の権限を認めた。 やがて、 90年に労働者住宅関係法の合体法としての『労働者住宅法』などの法律が登場し、 ようやく「集中化」した都市の住宅環境を改善することができることになった。

 ここに、 「近代都市計画」が誕生し、 歴史上の第1歩を踏み出した。 各種衛生法規や建築住宅規制に始まる規制的立法と、 それを担保する政府や都市自治体に責任と権限を与えるものであった。

 産業革命は交通革命を伴い、 蒸気機関車による鉄道網が19世紀半ばまでにイギリス全土を網羅していた。 ロンドンでは36年に鉄道が初めて登場し、 63年にはすでに地下鉄も開通した。 鉄道時代の到来で、 51年からの半世紀で人口は270万人から660万人へ、 約400万人も増加した。 このため郊外へ市街地が拡大し、 市街区域は40%も増加していた。 この背景には、 鉄道通勤者の利便に対して、 鉄道会社に労働者を対象に特別運賃制度の導入を義務づけた83年の『低運賃法』があった。 鉄道網の整備が、 都市集中と無秩序な郊外スプロールの「郊外化」を推進した。

 イギリスにおける都市を計画的に建設する「都市計画」の実質上の出発点となったのは、 1909年の最初の都市計画法といわれた『住宅・都市計画法』であった。 この法律では「都市の望ましい衛生状態、 利便性の確保、 アメニティの供給」が都市計画の全体的目標の柱とされた。 郊外開発予定地の計画区域に地方計画当局が作成する「都市計画書」の適用により郊外新規開発の土地利用規制を前面に出した。 都市開発に公共側が直接介入するため、 都市計画の基本となる土地利用計画のコントロール手法である「ゾーニング(地域制)」が初めて用いられた。 「郊外化」すなわち、 郊外に住む人の数が増加するにつれ、 都市と農村の対立が先鋭化する中で、 新規開発を規制しつつ都市空間をコントロールしようとするものであった。

 『近代都市計画制度』の登場によって、 20世紀には一貫して国家が主導して都市計画規制できる対象範囲を拡大し、 さらに再開発などの事業手法も創設して、 工業化による成長と拡大を続ける都市を何とかコントロールし、 『工業社会』を発展させる道具とすることができた。


 

連載【たるみレポート2】

たるみレポート(その2)「たるみ子ども和太鼓教室」

神戸市 大塚 映二、 村上 一徳

 播磨の国からこんにちは。 2回目は、 入社2年目の若手職員=村上くんが担当します。 (大塚映二)

 「ドンッ、 ドンッ、 ドンッ」思いのほか大きくおなかに響き、 でもどこか懐かしい感じのする音色―垂水に住む人々の暮らしを紹介するシリーズ2回目は、 「たるみ子ども和太鼓教室」をとりあげます。

 「たるみ子ども和太鼓教室」は、 子どもたちが和太鼓を通じて地域のまつりに参加し、 地域で一定の役割を担えるようにすることを目的として、 平成13年から毎年実施しています。 垂水を拠点に活躍する、 全国的に有名な「和太鼓松村組」の指導の下、 バチの握り方や和太鼓に対する心構えといった基本的なことの習得に重点を置いています。 今年は6月12日(土)26日(土)の2日間、 開催しました。 区内の学校に通う小学4年生から中学2年生までの生徒を対象に、 広報紙等で呼びかけたところ、 27名の応募がありました。

 さて、 和太鼓教室当日。 初めて参加する子どもたちは、 少し不安そうな表情で集まって来ました。 「うまくたたけるかな?」「誰か友達はいるかな?」・・でも、 一度太鼓をたたき始めると、 すぐに緊張がほぐれます。 やはり実際に太鼓をたたいて自分で音を出すというのは楽しいものなのでしょう。 松村組の先生方の丁寧な指導もあり、 たたき始めのころはバラバラだった音もだんだんと揃ってきました。 最後には、 「メロディ」と「裏打ち」にパート分けをして曲を演奏、 ピタッと決まった瞬間には、 見ていたお父さんお母さんから思わず拍手が沸き起こりました。

 今回の和太鼓教室には親子での参加が多かったことが特徴的でした。 子どもよりも張り切って太鼓をたたくお父さんも見られ、 子どもたちからは「普段家にいるときとはまったく違うお父さんお母さんの姿を見ることができてよかった」という感想が聞け、 とてもうれしく思いました。 和太鼓に限らずさまざまな活動を通じて家族の違った一面が垣間見られる機会をもっと提供していきたい、 と感じました。

 最後にアンケートを実施したのですが、 その中で「もっと練習の回数を増やして曲を習得し、 ステージで発表したい」という意見が多く見られました。 こうした意見も踏まえ、 今年度は冬にも和太鼓教室を開催しようと企画中です。 今度は6〜7回の練習をし、 5月に行う神戸まつり<たるみっこマリンフェスタ>でのステージ演奏を目標とします。

 子どものころに味わった体験は大人になってもいつまでも残るもの。 和太鼓教室に参加した子どもたちが大人になり、 遠い昔に練習した和太鼓の懐かしい音色を思い出す、 そんな思い出づくりを私たちがサポートできれば、 と願ってやみません。

(村上一徳・垂水区まちづくり支援課)
 
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和太鼓教室の様子 同左
 

 

連載【大大特7】

大大特2003年度報告と2004年度計画

コー・プラン 小林 郁雄

 大都市大震災軽減化特別プロジェクト(大大特)の研究(IV−3復旧復興)に「地域経済復興支援方策の開発研究」というテーマで参加して、 2年が経過した。 5年間の計画で
 当初年度・2002年度(平成14年度):地域経済復興の検証
 第2年度・2003年度(平成15年度):地域商業の再建
 第3年度・2004年度(平成16年度):地域工業の再建
 第4年度・2005年度(平成17年度):地域業務/地場産業の再建
 最終年度・2006年度(平成18年度):まとめ−地域産業の再建復興評価と地域経済復興支援方策・プログラム提案
という、 予定である。

 2003年度の研究内容は、
 (1) 近隣商業地区の再建/水道筋−上山卓
 (2) 都市観光地区の再建/北野−山本俊貞
 (3) 土地区画整理事業における商業再建/新長田北−久保光弘
 (4) 市街地再開発事業における商業再建/新長田南−天川雅晴
 (5) 小売市場の再建/神戸市−大西一嘉
 (6) 地域商業の再建と活性化/一般−中沢孝夫
という項目であるが、 過程での検討会の内容など順次「月刊きんもくせい」に連載してきた(03年4月号、 6月号、 8月号、 10月号、 12月号、 04年2月号)ので参照頂けたらと思うが、 6月19日土曜に2003年度/平成15年度大大特研究発表会(神戸)を人と防災未来センターで、 神戸で研究を進めている他のチームと一緒に行った。

○被災集合住宅の復旧・復興
 概要/大西一嘉(神戸大学助教授)
 災害が家計に及ぼす影響−住宅再取得の可能性/塩野計司(長岡工業高専教授)

○復興政策総合評価システムの構築
 概要/林 敏彦(人と防災未来センター)
 被災マンション再建の法的諸問題/千葉恵美子(名古屋大学教授)

○住宅再建支援プログラム
 概要/北後明彦(神戸大学助教授)
 大規模災害後の復興プロセスにおける住宅再建支援に関する教訓/北後明彦(同)

○地域経済復興支援方策の開発研究
 概要/小林郁雄(市民まちづくり支援ネットワーク)
 都市観光地区の再建−北野・山本地区の復興市民活動/山本俊貞(地域問題研究所)

○住宅に関する総合的な防災対策システムの開発
 概要/牧 紀男(地震防災フロンティア研究センター:EDM)
 被害認定トレーニングシステムの開発/堀江啓(EDM)

 2004年度は、 震災復興における地域経済の再建のなかでも、 産業再生の基本としての地域工業の再建課題と活性化方策をテーマとして、 以下の各項目について既存の調査研究の再整理を行うと共に、 被災地の復興実態の把握について以下の研究を計画している。
 (1) 地場産業地区の再建/台湾と阪神の比較−上山卓
 (2) 酒蔵地区の再建/灘五郷−山本俊貞・天川雅晴
 (3) ゴム工業・シューズ産業地区の再建/新長田北−久保光弘
 (4) 震災公営工場による中小工業の再建/神戸市−大西一嘉
 (5) 地域工業の再建と活性化/一般−中沢孝夫

 各メンバーの研究にあわせて、 コミュニティベースドエコノミーに詳しい加藤恵正教授(兵庫県立大学)や台湾大震災の地場産業再建に詳しい都市計画学者・事業支援者などの参加を得て、 「震災復興と地域産業(コミュニティビジネスへの新たな展開)」というテーマのシンポジウムを11月27日土曜13:30〜17:30に「こうべまちづくりセンター(or 人と防災未来センター)」で開催する予定である。


 

連載【街角たんけん7】

Dr.フランキーの街角たんけん 第7回
JR・阪急 神戸高架鉄道物語(その2)

プランナーズネットワーク神戸 中尾 嘉孝

 工事が進む省線の高架を睨みつつ、 関西私鉄の雄・阪神急行電鉄株式会社(以下、 阪急)は、 神戸市の東端で止まっていた神戸線の、 三宮地区直接乗り入れのプランを練り直していた。

 大正9(1920)年7月の神戸線(起点:大阪梅田、 終点:神戸上筒井)開通よりも約1年半前、 阪急は建設中の神戸線の終点を三宮3丁目とする延伸許可申請を国に提出し、 延伸部分の過半を地下式にするという条件で許可を取り付けてはいた。

 しかし、 その後の景気後退と高額の工費で阪急が二の足を踏んでいる間に、 好敵手・阪神電気鉄道(以下、 「阪神」)が、 兵庫電気軌道(後に宇治川電気電鉄部を経て山陽電車)との接続も視野に、 三宮から湊川公園までの延伸を大正13年に出願。 紆余曲折はあったものの、 まずは阪神国道の三宮駅前までの延伸に合わせて、 灘・岩屋から三宮までの地下式での乗り入れの許可を昭和4(1929)年に得て、 工事を進めることになる。

 一方の阪急は、 乗り入れルートを見直し、 昭和3(1928)年5月に、 原田付近から線路を分岐して、 高架式で乗り入れ、 終点も省線三ノ宮駅付近とする変更計画を申請した。

 ところが、 省線に引き続く高架鉄道建設に、 「狭い市街地に、 高架鉄道はこれ以上不要」と、 市議会が猛反発。 高架建設反対は広く市民の賛同を得て、 ついには古宇田實神戸高等工業専門学校教授と、 阪急の建築顧問・阿部美樹志が高架式の是非について誌上論争するなど、 高架建設反対運動は熱を帯びた。

 最終的には、 小林一三ら阪急側の働きかけなどもあって、 阪急側が、 省線と隣り合わせて高架橋を建設する計画に変更することで、 昭和8(1933)年8月、 市議会も高架による延伸を受け入れ、 県知事からの諮問に、 高架式賛成の答申を行った。

 阪急は、 建設予定地の買収の後、 昭和10(1935)年3月に延伸工事に着手。 翌11(1936)年3月には、 終点三ノ宮駅ビルとともに、 高架橋などの施設が竣工、 十数年越しのプロジェクトは完成を見たのだった。

 阪急三宮駅ビルは、 アーチから列車が滑り出すという奇抜なアイデアと、 階段室のガラスシャフトが、 モダンな時代の空気を見事に体現していた。 そして、 この後、 三宮から元町までの延伸を果たした阪神と、 阪急、 そして省線との間で激烈なスピード・サービス競争が展開されることになる。 次号は、 いよいよその夢の跡を現地に確かめに行こうと思う。

(つづく)
 
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基礎工事中の阪急三ノ宮駅 完成直後の阪急三ノ宮駅全景(西口にもビルがあることに注意) 阪急会館(設計:阿部美樹志、施工:竹中工務店、昭和11(1936)年竣工、平成7(1995)年取り壊し)
 

 

連載【まちのものがたり16】

看板綺談・4
靴かくし

中川 紺

 洋タンス、 座イス、 トースター、 やかん。 俺の軽トラックに積んであるものの共通点はただひとつ。 捨てられたもの、 ということだけだ。 町中のゴミ捨て場や空き地をまわると、 あらゆるものが荷台に吸い込まれていく。 その吸い込まれたものをリサイクルショップや中古家具店の知合いに卸すのが俺の毎日だ。 今朝は空き地で冷蔵庫と自転車を拾った。 最近はこの業界も生き残りが大変だから、 いい拾い場を日々さがしてまわらなきゃならない。

 午後三時。 マンションの粗大ゴミ捨て場にいい具合の一人掛ソファーが転がっている。 使えるな、 と早速荷台に積むべく手をかけた。

 「それ動かしたらだめ!」

 かん高い声に驚いて振り返ると、 小学生になったばかりという感じの少女が俺を睨んでいる。 「みつかっちゃうでしょ!」と指差す先をよく見れば、 ソファーの下にピンクの小さな靴が押し込まれている。 少女の片足にも同じ靴があった。 隠した靴をオニに見つけられると負け。 たしかそんな遊びがあった。 少女はこの辺りで友達と『靴かくし』をして遊んでいるらしい。 「ごめんごめん、 こっちに入れとくな」と俺は横に積み重ねてある段ボールの隙間に靴をはさんだ。 しっかり隠れたことを確認すると少女はマンションの中に戻っていった。 オニがちょうど五十を数えた。 やれやれと思ってお目当てのソファーを積み込みながら、 ある靴のことをふと思い出した。

● ●
 
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 小学校三年生の一学期だ。 俺とクラスの男子数人で体育倉庫の奥に靴を隠したことがあった。 その白い上履きの持ち主は、 東京から来た転校生の男の子だ。 軽いイタズラのつもりだった。 ところが返す前に、 上履きは誰かが間違えて履いていったということになってしまって、 俺たちは何となく隠したことを言い出せなくなってしまった。 その子は夏休み明けにまたすぐ転校してしまい、 結局靴はそのままになった。

 今になってこんなことを思い出すとは……どうやら返せない靴の存在がいつまでも俺の心の端にしがみついていたらしい。

● ●
 掘り出し物を求めて車を走らせていた俺は、 一方通行の表示を確認してハンドルを切った。 次の角にはまた青い矢印。 それから何度か青い表示に従って角を曲がる。 しまった。 軽く舌打ちする。 一方通行の路地に入り込んだらしい。 まわりを見ても通ったことのない道だ。 住所を確認するために車を止めて外に出ると、 前に少年が一人立っていた。 半袖半ズボン。 見覚えのある紺色のランドセルだ。

 「あいつ」だ。 すぐに分かった。 いつの間にか俺の手にはあの靴があった。 ゆっくり近づくと、 持っていたあいつの上履きを差し出して「ごめんな」とだけ言った。 あいつはこくりと頷いて、 靴袋にそれを仕舞った。

● ●
 自分の鳴らしたクラクションで俺は我に返った。 車を路肩に止めたまま眠っていたらしい。 景色も見覚えのある場所だ。 夢か。 だが掌にはまだ靴の感触がしっかり残っていた(やっと返せたんだな)

 俺は目を閉じてもう一度「ごめんな」とつぶやいた。 (完)

(イラスト やまもとかずよ)


第70回・水谷ゼミナール報告

 

 6月25日(金)、 元町のこうべまちづくり会館6階会議室において、第70回水谷ゼミナールが行われました。 今回は、 「今時の集合住宅アラカルト3題」をテーマに、 最近竣工した、 あるいは竣工予定である通常の集合住宅とは一味違った集合住宅の事例報告がありました。

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会議風景
 ゼミの冒頭、 進行役の上山卓さんから「兵庫県におけるコレクティブハウジング等の取組」についての紹介があった後、 (1)「西宮の長屋」/森崎輝行さんからは、 西宮の閑静な低層住宅地を舞台とした定期借地権方式による16戸の長屋(コートハウス)の取組の報告があり、 「個」から全体をつなぐ中で、 自然共生やコミュニティ形成などをテーマとしたさまざまな工夫について説明がありました。

 (2)「北野らしさを表現した北野町コーポラティブハウス」/天宅毅さんからは、 旧フロインドリーブ邸跡地を舞台とした、 9世帯のコーポラティブ方式による多世代共生型集合住宅の取組の報告があり、 北野というブランドの中で、 いかに建築としてそれを表現して物語をつくっていったかということについて説明がありました。

 (3)「苦悩する神戸市住宅供給公社−新長田再開発地域に市公社が建設した学生向けワンルームマンション−」/西川靖一さんからは、 財務改善に向けた公社のさまざまな苦労・取組について紹介があった後、 新長田駅南の再開発地区を舞台とした住戸内設備フルセット型の学生向けマンション84戸の取組の報告があり、 実際には入居者が多世代にわたるなかで、 今後の公社の取組の一つとしての可能性等について説明がありました。

 そして、 報告を受けて、 それぞれの場所性(空間性)の魅力をいかに表現して物語をつくっていくか、 環境、 文化やコミュニティ等をテーマとしたさまざまな共生のあり方などについて意見が交わされました。

(コー・プラン/上山 卓)


情報コーナー

 

●第71回・水谷ゼミナール

・日時:8月27日(金)18:30〜21:00
・場所:未定
・内容:テーマ「ランドスケープ作品の紹介」、 コーディネータ/辻信一(環境緑地設計研究所)(詳細は未定)
・会費:1,000円
・問合せ:ジーユー計画研究所(TEL.078-251-3593、FAX.251-3590)

●「日中交流・復興クルーズ2004」

・日時:8月13日(金)〜25日(水)計13日間
・場所:神戸→天津(8/16)→玉村(8/17)→唐山(8/18、19)→北載河(8/20)→天津(8/21,22)
・内容:76年の大地震で24万人が亡くなった唐山を訪問、 玉村では農家にホームステイ、 天津の子供たちと震災ワークショップ、 など
・費用:98,000円(18歳未満)、 128,000円(学生)、 158,000円(大人)
・企画/後援:日中交流・復興クルーズ2004実行委員会/神戸市
・連絡先:マイチケット(TEL.06-6304-7800)

★久保光弘さん(久保都市計画事務所)が、 都市計画学会賞論文賞受賞!

 「きんもくせい」の常連執筆者である久保光弘さんが、 栄えある都市計画学会賞論文賞を受賞されました。 ネットワークとしてもともに喜び合いたいと思います。
 受賞論文は大阪市立大学学位論文「長田駅北地区(東部)震災復興土地区画整理事業における住民主導まちづくりシステムの研究」で、 住民が参加する「まちづくり」の概念が充分体系化されていない中で、 コンサルタントとしておよそ10年間にわたるまちづくりプロセスを客観的に記録し、 都市計画制度の中での「まちづくり」の役割について考察してきたことが評価されました。

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(C) by 阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク

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