きんもくせい50+36+17号
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亡き人の声が声として聴こえていますか

阪神高齢者・障害者支援ネットワーク 黒田 裕子

 あの日、 あの時より10年の歳月が目の前に立ち上がる。 「10年・・・」と思っただけで止まらぬ涙が流れてくる。 この涙は10年間の何を意味するのだろうか。

 阪神・淡路大震災は高齢者を直撃した。 世界でもはじめての「高齢社会型震災」であった。 6433名に及ぶ震災犠牲者の半数以上が60歳以上の高齢者であり、 死を免れた被災者の多くもまた高齢者である。 日本の高齢者人口は、 震災の前年に14%を超え「高齢化社会」から本格的な「高齢社会」へと突入していた。 神戸市をはじめ被災地においての高齢者人口は全国平均であった。 しかし、 地域的に見れば被害の大きかった長田地区は市内でも最も高齢化率が高く、 震災時においては18%であったと推定されている。 ちなみに18%とは平成13年の全国数値である。 震災後の様々な調査からは厚生省(当時の)の予測をはるかに上回る高齢者の地域実態であった。

 新ゴールドプランは改定され、 新新ゴールドプランが打ち出されたが、 急速な高齢化社会への対応はいまだ課題が多く問題は深刻である。

 神戸市の場合は、 震災を契機として全国に先駆けて高齢者問題への取り組みがあり、 行政単独でなく市民を含む多方面の分野とタイアップし議論を重ねた。 その成果のひとつに「高齢者にとってのやさしい住環境」がある。 平成18年度には厚生労働省がコミュニティーの中に「宅老所」「グループハウス」「グループホーム」などをNPO法人が設立することを認可する見通しとなった。 震災被災地の現場から声をあげ続けてきたことが実りを得たといって過言ではないと考えている。 生涯を自分の好むところで過ごせることは最高である。 そして、 同時にショートステイの機能も展開できることがうれしい。 これについてはケア者が対象の家に出向く(本人の居場所を変えない)型があってもよいのではと、 現在実践を行いその成果を提言しているところである。

 また介護保険制度についても「問題」とはされているが、 実際現場の中ではもっと深刻である。 ここでも震災で犠牲になられた方々の声が制度の不全を声として残してくれている。

 神戸では、 市民・企業・学者・行政といった人々がそれぞれの立場から10年の検証を進めている。 亡き人の声が反映されているかと問われれば疑問がのこる。 検証は「人を中心に置いた社会」に視点をおいてのもの、 次世代に伝わるやさしい言葉で、 興味が持てて、 日ごろより取り組むことができる成果物でありたい。

 人生を何段階かに分けて考えることができる。 季節のように4段階に、 「第2の人生」というように2段階に、 またデンマークでは3段階にと。 あなたは今どのステージですか?

 亡き人の声がいろいろな場面に登場し、 活かされるならば最後の高齢者のステージは安心して暮らせる社会になるはずです。 現状の高齢社会は鳴かない「カナリア」社会です。 歌わないカナリアを、 私たちはそのままにほっておいてはなりません。

 「豊かな日本」といわれつつ、 被災地でまた全国で高齢者が安心して暮らせる社会がなぜ作れないのか、 日々頭を抱え現場に近い距離で考えながら活動を展開し、 提言も続けていきます。

* * *

 詩人の季村敏夫さんが日本に不在でしたので、 渡邊仁さんから、 黒田さんをご紹介いただきました。

(小林郁雄→野崎隆一→宮西悠司→佐野末夫→中島克元→中村順子→海崎孝一→某市某職員→前田裕資→佐藤三郎→細川裕子→出口俊一→高田富三→田中保三→高森一徳→渡邊仁→黒田裕子→ )


 

連載【地域の再生と企業文化6】

企業文化と地域社会イノベーション
加速する企業の生産システム再編は地域社会にどのような影響を及ぼすのか

神戸商科大学 加藤 恵正

 企業活動を地域との関係から整理するために、 ここで「分業」といういささか古典的な視角から考えてみることにする。 実際には、 それは「企業内分業」、 「産業内分業」、 「社会的分業」という3つのタイプによって整理することができる。 企業内分業は企業中枢の意思決定に基づいて権威による資源配分が行われる。 実際には、 こうした企業による複数事業所の配置・再配置の動きは、 いわゆるブランチ型経済の盛衰とダイレクトに結びついており、 企業の機能的分化が結果として企業と地域との関係に様々な課題を生み出す契機となったことは否めない。 産業内分業は一産業、 一市場内部における分業を、 社会的分業は社会全体における複雑に入り組んだ取引連関の総体を指している。 都市や地域の経済からみれば、 地域内部に形成される稠密な取引連関こそが社会的分業の実態となる。 したがって、 企業活動発展の過程は、 企業内分業の深化が及ぼす産業内分業、 社会的分業へインパクトにあるといって過言ではない。 とりわけ、 新たな地域産業集積の台頭といった近年における地域経済潮流のなかで、 単なる経済関係だけで形成される分業構造だけではなく、 地域における社会的関係をも含む広義の社会的分業のあり方を構想することは企業自身にとってもきわめて重要な課題となりつつある。 グローバリゼーション・情報化の急進は、 企業の空間組織自体の再編を加速化しており、 このなかで従来のブランチ活動はその存立基盤を大きく変えようとしている。 地域と企業の相互的関係を示唆するより広義の「社会的分業」のあり方こそが重要である。

 被災地において見られた「地域と企業」の新たな関係の形成は、 今後より深化すると考えてよい。 ここでの目的は、 こうした先進的かつ野心的な試みを発掘・紹介することにあり、 その目的は達成されたと考えている。

 ただ、 こうした事例は一部を除くと被災地内においても知られていないのが実態である。 次世代のまちづくりを考える上で、 地域の主体としての企業が重要な役割を担うことは論を待たない。 そのためには、 かかる活動を広く市民に伝えていくことが必要である。 こうした点を鑑み、 ここでは次の2点を課題として指摘しておくことにしたい。 第1は、 県や市、 経済団体等の様々な媒体を用いて企業の地域貢献活動を紹介していくことである。 これまでここで取り上げた事例は特殊なケースではない。 この他にも、 多くの企業が地域や社会との新たな関係を模索しつつある。 市民の側からみると、 同じ地域におりながら相互の連携が欠落し、 場合によっては「不信」の対象であったことは否めない。 多様な主体間の情報共有は、 今後のまちづくりを考える上で不可避の課題である。 第2に、 企業の地域貢献活動にたいする顕彰の仕組みづくりも有効であろう。 企業の地域貢献活動を広報するという点からも、 顕彰制度は有効に機能すると思われる。 企業にとっても、 戦略的フィランソロピーを機能させるうえでメリットはあると考えられる。


 

震災復興住宅団地の6年を検証する記録誌
「暴力とカスタマイズ」

生活環境文化研究所 橋本 敏子

●あの試みは今・・

 みなさまは、 南芦屋浜コミュニティ&アート計画のことを覚えておられるだろうか?芦屋市の臨海部の埋め立て地に建設された最大規模の震災復興住宅団地で行われた、 アートワークを介してコミュニティ形成のきっかけをつくりだすプロジェクトである。

 このプロジェクトの特徴は、 生活の場に導入したランドスケープ彫刻としての「だんだん畑」を、 住民が協働して耕し草花や野菜を育てることを通して、 新たな近隣関係を構築し、 土地への愛着を育てるとともに、 住民自身で生活環境を維持管理してゆくシステムに代表される「アートワークを介した人と場の関係の創造」である。

 人が再び生きる力を見いだすための環境づくりにアートはどのように関われるのか?
 このような問題意識を背景に、 この記録誌は、 団地完成後から現在まで、 計画に関わった有志が住民の活動に応援団として関わりながら見守り続け、 見えてきた実態を詳細に記録したものである。

 

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住棟間につくられた“だんだん畑” 毎年秋に行われるサツマイモも収穫祭 2001年の収穫祭に登場した住民手づくりの屋台
 

●暴力とカスタマイズ

 プロジェクトの主旨と一見違和感のあるタイトルは、 美談に仕立て上げられがちなこの種のプロジェクトの本質を、 6年間のフォローで実感したこととして端的に示したものである。

 ここでいう「暴力」とは、 天災がもたらした「暴力」、 アートワークが住環境に組み込まれたことによる「暴力」、 アートワークを受け入れてゆく人々の関係に生じる「暴力」など様々な暴力性の存在をさす。 それらに対して、 だんだん畑の土や植物を育てるという自然の営みがもたらす楽しみや喜び、 自分の住む環境を自分たちで育てる、 協働作業というシステムなどによって、 私たちの場所として「カスタマイズ可能な仕組み」が組み込まれていたことが、 このプロジェクトの重要なキーになっていることを読みとっていただければと思う。 震災10年で学んだことのひとつとして、 そしてこれからのまちづくりのキーワードとして参考になれば幸いである。

 南芦屋浜コミュニティ&アートプロジェクト記録誌制作チーム・代表 橋本敏子


●主なコンテンツの紹介
 ・プロジェクト・ガイド
 ・1998〜2004の経緯・変化
 ・だんだん畑の人々(住民の活動・意見など)
 ・7年目の検証(中川理京都工芸繊維大学教授との対談)


■お問い合わせ・購入ご希望の方は下記に。
 ・MACA事務局

  〒541-0047
  大阪市中央区淡路町4-4-5 文化農場内
 ・TEL/FAX:06-6231-1748 (担当:虎石・橋本)
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連載【コレクティブハウジング17】

ふれあい住宅(復興公営コレクティブ住宅)の検証(その3)
居住者の動態と年齢構成

石東・都市環境研究室 石東 直子

はじめに

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第二次ふれあい住宅カルテ
 10地区341戸のふれあい住宅は、 97年8月〜99年4月にかけて入居した。 入居時の居住者特性のデーターは入居後のサポート活動の中で居住者の協力を得て把握したが、 入居後4年〜2年半経った2001年7月にふれあい住宅の状況を詳しく知るために「第一次ふれあい住宅カルテ」を作成した。 その内容は居住者動態と年齢構成、 協同居住の運営状況と課題、 協同スペースの維持管理と共益費、 自治会、 住み心地等。 それからほぼ3年後の04年5月に「第二次ふれあい住宅カルテ」を作成するために第一次とほぼ同じ内容の調査をふれあい住宅連絡会の協力を得て行った。 なお、 脇浜ふれあい住宅は02年度から連絡会を脱会したので、 04年5月の調査はできなかった。

 入居から現在に至る経年データー等の整理とコレクティブハウジング事業推進応援団の継続した居住サポート活動を通して、 ふれあい住宅の現状の課題に加えて将来を見通した新たな展開が見えてくる。 「きんもくせい」の誌上を拝借して順次報告します。

居住者の動態

 まずのっけからになるが、 入居後亡くなった人が多い。 神戸市営住宅居住者の年間平均死亡率は1.5〜2.0%だそうだが、 この値に比べてかなり高い住宅が多い。 久二塚西は入居から5年半が経つが19名が亡くなり死亡率は6.0%/年で、 真野は8名の死亡で3.3%である。 この2住宅は多世代居住であるが神戸市長田区の下町にあり入居時に既に70代後半代から80代の人が多かったからであろう。 この他死亡率が2.0%以上は3住宅あり、 反対に金楽寺は0.6%、 久々知は0.9%と低い。 ふれあい住宅ではお葬式を居住者が参列して協同室で行うことが多く、 居住者は先人を送って自分もこのように送ってもらえると思うと、 今を安心して生きられると言う。 これはふれあい住宅のメリットのひとつであると言えそうだ。

 加齢によって自立生活ができなくなり、 特別養護老人ホームやケアハウスへ移った人も少なくない。

 第一次入居当時からの居住者の割合は住宅により差がある。亡くなった人が多い久二塚西と真野は、 当初からの居住者率はそれぞれ58%と65%で居住者の入れ替わりが大きいが、 反対に金楽寺と久々知はそれぞれ94%と95%で居住者の変動は少ない。

 ふれあい住宅は1DKは単身者、 2DKは2人家族、 3DKは3人以上家族の入居であるが、 2DKで一人が亡くなって一人住まいになっている住戸(2DK入居戸数に対するひとり住まい率)が32%ある。 今後このような状況は増えてくるし、 3DKでも同様な状況になり、 居住者数が減少すると計画人口に対応して設けられた協同スペースの維持運営も難しくなる。 同一住宅内で家族人数に見合った住戸の住み替えができれば、 新規入居世帯によって全体の居住者数が増え協同居住の活性化に繋がるだろう。 なお、 新しい入居者を迎えた時には各住宅ではふれあい生活に早く溶けこむようにと、 食事会やお茶会などをして歓迎している。

平均年齢、 高齢化率の推移

 入居当初の平均年齢は、 福井と金楽寺は多世代型住戸が多くかつ高齢者向け住戸の未入居が多かったので50歳代前半で、 同じ多世代型住宅でも久二塚西は神戸市長田区の下町にある再開発住宅で入居当初から平均年齢は70歳近い。 高齢者向け住宅の平均年齢は70歳前後で住宅による大差はない。

 01〜04年の平均年齢の推移をみると意外な発見があった。 各住宅とも大きな変化がなく、 3住宅で平均年齢が下がっている。 これは一般論として年齢の高い人が亡くなり、 その後に亡くなった人よりは若年者が入居して来るからであろう。 この3年間で平均年齢に大きな変化はないのに、 すべての住宅で前期高齢化率はかなり上昇しており、 高齢者向け住宅では04年は85〜100%で、 多世代型住宅でも65〜82%である。 しかし後期高齢化率の推移は住宅によって差が大きく04年の値は24〜58%の幅がある。 3年間の推移は無変化型は3住宅、 上昇型は4住宅、 下降型は2住宅である。 これは住宅固有の事情を反映しており、 例えばこの3年間に75歳ラインを超える人が多かったか否か、 新規入居者が75歳ラインの上か下か等にもよるものと思われる。

 平均年齢や高齢化率の値だけをみて、 協同居住を維持するパワーの有無を判断することはできない。 真野は平均年齢が65歳、 後期高齢化率は24%で他の住宅に比べると元気そうな値だが、 居住者37人のうち85歳以上が4人いる。 久二塚西も同様の傾向にあり、 老老サポートは続かない。

ふれあい住宅の活性化に向けての模索

 各住宅で現在行われている協同居住の内容(行事)については次回に記すが、 居住者の加齢によって入居当初の意欲や元気がなくなり、 餅つきなどの力のいる行事はできなくなり、 定例の食事会やお茶会、 節季の行事の回数がずい分と減ってきている。 住宅全体に活気が失せ、 居住者が自室を出入りする回数も減り、 廊下や庭に人影がなくシーンとしており、 居住者同士がふれあうことが少なくなっているという。

 ふれあい住宅の財産である居住者同士の日常の相互ふれあいと豊かな協同スペースを活用して、 協同居住の活性化のための新たな方策を発掘していかなければならない。 居住者の元気アップと安心居住を継続するために、 多分野からの知恵を得て、 時代のニーズに対応したふれあい住宅の新しい住まい方を提案していく必要があると考えている。

<追記:9月10日発行の「CO・OP ステーション 10月号」に関連記事が掲載されます>


 

連載【街角たんけん8】

Dr.フランキーの街角たんけん 第8回
JR・阪急 神戸高架鉄道物語(その3)

プランナーズネットワーク神戸 中尾 嘉孝

 現在の王子公園駅の手前で高架に切り替わった阪急神戸線の軌道が、 山手幹線と交差する地点に建設された原田拱橋は、 歩道用の小スパンのアーチを両側に備える優美なデザインのコンクリートアーチ橋で、 少し西にある灘駅前及び灘拱橋とともに、 度重なる改修や補修で擬石の装飾が失われたものの、 いまや西灘の一大ランドマークとなっている。

 原田・灘両拱橋は、 共にスパン約33メートル。 この規模の橋を鉄製桁で造る場合、 中間に支柱が必要だが、 それは橋下の道路の障害物となる。 設計者の阿部美樹志は、 支柱の必要のないコンクリートアーチ橋の利点を積極的に活かし、 結果として稀有な都市景観を生み出した(写真1)。 このあたりから、 阪急の高架軌道は、 割塚通のJR軌道敷との合流点めがけて大きくカーブを描きながら降下を始める。

 

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写真1 原田拱橋 写真2 阪急三宮駅ホーム 写真3 阪急三宮駅西口
 
 昼下がり、 阪急三宮駅のホームに降り立つと、 年代物の上屋の明り取りから淡い光が降り注ぐ。 この上屋は阪急会館と同じ、 昭和11年の建設。 ごついリベットで繋がれた鉄骨が支える大きなホームの空間は魅力的である(写真2)。 また、 西口コンコースには駅に出入りする乗客の視野を意識してデザインされたと思しき連続したアーチ型の梁や灯具など、 1930年代の「未来派」の残り香が感じられる空間がいまなお残されている(写真3)。

 一方のJR線の高架で見所といえば、 三宮から神戸駅まで多彩に表情を変えながら続く高架下商店街と、 いまなお現役の昭和建築・兵庫、 神戸の2つの駅舎だろう。

 

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写真4 JR神戸駅全景 写真5 JR神戸駅コンコース
 
 神戸駅(竣工:昭和6年、 設計:鉄道省)の外観は、 お隣のモダンスタイルの兵庫駅とは対照的なスクラッチタイル張りのシックな佇まいである。 大きな庇を備えた玄関からコンコースに入ると、 軌道敷のスラブを支える列柱を生かして重厚な空間が形作られている。 現在のコンコースは、 ショッピングモールを整備する際に大きく手が入れられているが、 総じて昭和初期の竣工時のコンコースの意匠が随所に取り入れられ、 統一されたレトロモダンな雰囲気を醸し出すことに成功している。 そして、 旧駅長室にあたる(幻の「ミカドホテル」ゆかりのみかど食堂から経営が替わったが)レストランの一角に、 玉座も含めて当時のまま保存されている貴賓室は、 東海道本線と山陽本線の終・発着点という、 この駅の「格」を感じさせるのである。

(この項の結びに代えて)
 前号の出稿直後、 阪急神戸線の市営地下鉄乗り入れと三宮駅の地下化構想が報道された。 当初、 阪急の三宮乗り入れが地下式で構想されていたことを考えれば、 歴史の綾を感じなくもないが、 何を今更というのが率直なところだ。 小林一三と阿部美樹志が残した神戸線の高架と梅田阪急ビルを活かした営業戦略を考える方が、 阪急にとっても余計な金がかからず、 他社との差別化に有利に働くと考えるのだが、 どうだろうか。


 

連載【まちのものがたり17】

看板綺談・5
線路の先に

中川 紺

 「サキちゃん、 どこにいるの?」

 そう言うと同時にあやかは目を覚ました。 小学校に通いはじめてから一ヶ月、 頻繁に同じ夢を見ていた。

 原因は、 小さい頃から毎日一緒に遊んでいたサキと引っ越しで別れ別れになったこと。 夢にはサキの家にあった赤と青と白のねじりん棒の看板がたくさん出てくる。 あやかは並んでいる家を一件ずつのぞく。 でもどの家にもサキはいない。 がらんとした部屋に鏡とイスが置いてあるだけ。 落ち込むあやかは小学校でもなかなか友達ができないでいた。

● ●

 サキちゃんのとこに行こう。 ある日学校から帰ったあやかはそう決心した。 方法は決まっていた。 家のそばの線路をたどっていけばいい。 電車に乗ればどこにでも行けるのだから、 線路はきっとサキちゃんの家につながっている、 そう信じていた。 電車に一人で乗るのは怖いけど線路沿いの道を歩いて行くことならできそうな気がした。 小さな羊の形の雲がゆっくりと線路の先に向かって流れていくのを見て、 必ずうまくいくと、 あやかは自分に言い聞かせた。

 少し汗ばんだ額を掌で拭って、 また歩く。 歩き始めてまだ十分ほどしか経っていないのに、 あやかにはもう一時間以上歩いているように感じた。 この道であっているのかな、 夜までに家に帰れなかったらどうしよう、 ふとそんな不安が頭をよぎると、 もう心細くて仕方なくなってきた。 あと少しで涙が出そうになった時、 坂の下に三色のねじりん棒が見えた。 思わず涙を吸い込んで、 坂の下の看板に駆け寄った。

 

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 ちがう。 あやかはがっかりした。 看板はそっくりでも店の構えはサキのところとはまったく違ってずっと新しい感じだった。 サキはいない、 そう分かっていても店の中を覗いた。 中には白い服のおじさんとシャンプーしてもらっているお客さん(これもおじさん)の二人しかいなかった。

 肩を落としたあやかは、 店の前のねじりん棒の、 三色の帯がぐるぐるまわりながらのぼっていく先を見つめていた。 宅配便のトラックの青年も、 犬を散歩中の老婦人も、 床屋の前でじっと動かないあやかを不思議そうに眺めていった。

● ●

 「あのさきっぽはどこにきえるのかな?」

 いつの間に現れたのか、 あやかの横に女の子が一人立っていた。 同じように棒の先を見つめて、 あやかがいつも思っていることをつぶやき、 あやかの方に振り返ると聞いた。

 「なんねんせい?」

 「……Yしょうがっこうのいちねん」

 「えー、 あたしもおんなじだよ。 あたしナナミ。 なまえは? どこにすんでるの?」

 ナナミは立続けにあやかに質問をした。 あやかは驚きながらも、 不思議といやな気分ではなかった。

● ●

 ほどなく二人は一緒に遊ぶようになり、 遊ぶ人数は次第に増えていった。 ナナミは靴をかくす鬼ごっこやほかの新しい遊びをあやかにおしえた。 もうあやかはねじりん棒の夢は見なくなっていた。 (完)

(イラスト やまもとかずよ)

 

連載【阪神間倶楽部8】

メディアイベントと阪神間 海水浴・飛行機・スポーツ

大阪市立大学 橋爪紳也


阪神間倶楽部 第8回研究会の記録
 ・日時:2004年7月24日(土)14:00〜16:30
 ・場所:鳴尾公民館
 ・参加者:16名

 以下はその橋爪さんに阪神間のお話を伺ったレジュメ、 語りからのまとめです。 (天川佳美)


 戦前期における阪神間でのイベントは、 新聞社、 放送局といった情報産業、 電鉄会社など輸送に関わるメディアが深く関与した。 いわゆるメディアイベントであった。 出来事をつくり、 人々の移動を促し、 流行をつくりだして、 従来になかった生活を呈示し、 新たな消費を喚起するものであった。

 とりわけ阪神間には未利用地が多くあった。 その活用策として、 まずイベントが開催された。 その跡地が住宅地となり、 またリゾート都市となっていく。

 海水浴場は、 新聞社と鉄道会社が経営した新たな行楽地である。 甲子園では、 さまざまなスポーツ施設を集積、 多様なスポーツイベントが展開された。 鳴尾の競馬場は、 しばしば飛行機の曲芸飛行を見せるイベントスペースになった。 いまだ飛行機が珍しかったころ、 民間航空大会といった航空啓蒙の催しを新聞社が主催、 多くの人が集まった。

 このような実績があったからだろう、 昭和初期には鳴尾に夜間離発着ができる国際空港の計画が提唱される。 大阪市内、 木津川尻に日本で最初の民間飛行場である大阪飛行場が開場した。 その移転先をめぐって大阪市と神戸財界が衝突し、 連日新聞をにぎわすことになる。 移転先としては、 大阪南港の大和川尻飛行場、 鳴尾川左岸、 住吉川尻、 武庫川尻などが候補地にあがった。 なかでも主要候補地は鳴尾川尻左岸のゴルフリンクの用地である。 阪神築港が航空機営業の認可申請をしたが、 用地買収が思うようにいかなかったらしく、 最終的には伊丹に新空港が建設された。 鳴尾空港は幻となり、 のちにその近傍に軍が使用する飛行場ができたが、 戦後は公団団地となった。

 仮に鳴尾に本格的な国際空港ができていれば、 おそらく伊丹空港はなかっただろう。 また関空は?神戸空港は?と考えさせられる。 未完の計画、 失敗した構想に学ぶことも重要だろう。



情報コーナー

 

●第71回・水谷ゼミナール

・日時:8月27日(金)18:30〜21:00
・場所:こうべまちづくり会館6階会議室(神戸市中央区元町通4丁目、 TEL.078-361-4523)
・内容:テーマ/「ランドスケープ アラカルト」、 報告/(1)「公園の利活用最前線」長谷川利恵子(環境緑地設計研究所)、 (2)「高木公園の公園づくり」〜西宮北口駅北東地区震災復興土地区画整理事業〜白井治(まち空間研究所)、 (3)「ボランティア・リーダーを育てる」門上保雄(門上環境計画事務所)、 コーディネーター/辻信一(環境緑地設計研究所)
・会費:1,000円
・問合せ:ジーユー計画研究所(TEL.078-251-3593、FAX.251-3590)

●阪神白地まちづくり支援ネットワーク・第39回連絡会

・日時:9月3日(金)18:30〜21:00
・場所:こうべまちづくり会館6階会議室(TEL.078-361-4523)
・内容:テーマ/震災10年まちづくり〜様々な検証、 報告/(1)「建築関係4団体10周年記念事業〜フォーラム」光安善博(実行委員会副委員長)、 (2)「震災10年市民検証研究会〜出版」松本誠(市民まちづくり研究所)、 (3)「阪神・淡路まちづくり支援機構・付属研究会〜報告書」永井幸寿(弁護士)、 コーディネート/野崎隆一(遊空間工房)
・会費:500円
・問合せ:ジーユー計画研究所(TEL.078-251-3593、FAX.251-3590)

★「復興クルーズ」元気に出航!

 
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 8月13日(金)、29名の団員は、 燕京号で神戸から中国に向け出発しました。 そして、 震災でつながった日中友好の輪をおみやげに、 25日(水)元気に帰神しました。















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