きんもくせい50+36+18号
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ある共生の記憶から

詩人 季村 敏夫

 協働というテーマで何か書けという。 考えあぐねた。 震災以降、 ボランティアという言葉はできるだけ使うまいとした。 心づくしをおもった。 助成金には手弁当で対応した。 ことほどさように、 九年間へそ曲りを通してきた私に難問が舞い込んできたのだ。 やっと強制収容所での労働ということに思い至ったが、 原稿依頼主の思惑から逸脱するだろう。 先ずそのことをおゆるし願いたい。

 1945(昭和20)年敗戦、 内地では戦後復興が始まったが、 戦争責任をいっしんに背負わされ、 北満から連行、 外地シベリアへ抑留された六十万人近い日本人が当時いた。 そのなかの一人、 詩人石原吉郎(1915−1977)によれば、 劣悪な条件のため単独では生きられないという抑留者自身の自覚から、 収容所には一種独特の共生システムが編み出されたという。

 食事の場合。 食器が極端に少ない。 それ以上に量の絶対的な不足。 二人分を一つの食器に配分される。 一つの食器を二人でつつきあう光景は苛酷な神経戦に似ている。 先ず匙の大きさが問題になる。 更に相手の掬い加減の監視。 食器の内容が粥類のときはまだよい。 悲惨なのは豆類などのスープのときだ。 底に沈んだ豆の争奪。 相手より一粒多いと、 それだけで明日の労働に影響する。 一言も発せず、 交互に一口ずつ、 睨みあいながらの格闘が続く。 ところが労働の際、 二人の息は見事にあう。 スコップをとるか、 ツルハシかでその日の消費エネルギーが違うからだ。 結束を固めた行動、 一人は見張り、 もう一人はすばやく工具倉庫に入り、 使いやすい道具の確保に努める。 眠るときはどうか。 乏しい体温の消耗を防ぐため、 互いの背中をしっかりと寄せて温めあうのだ。 しかし明日白昼下で襲われる敵意が早くもぎらつき始めている。 酷寒のシベリア、 毛布一枚の支給しかなかったからである。 奇跡的に生還した結語は次のようであった。

 【孤独は、 のがれがたく連帯のなかにはらまれている。 そして、 このような孤独にあえて立ち返る勇気をもたぬかぎり、 いかなる連帯も出発しないのである。 無償な、 よろこばしい連帯というものはこの世界には存在しない。 】

 震災の明くる年、 石原吉郎に関し石牟礼道子さんと語りあった。 理解不能の記憶をひきずる人を忘れてはなりませんねという私に、 石牟礼さんは静かにうなずかれた。 雷鳴が響いていた。

* * *

 前号ご不在でご執筆いただけなかった季村敏夫さんに今月号にお書きいただきました。

 次号は、 寺田匡宏さんにお願いいたします。

(小林郁雄→野崎隆一→宮西悠司→佐野末夫→中島克元→中村順子→海崎孝一→某市某職員→前田裕資→佐藤三郎→細川裕子→出口俊一→高田富三→田中保三→高森一徳→渡邊仁→黒田裕子→季村敏夫→ )


 

連載【コンパクトシティ9】

『コンパクトシティ』を考える9
E. ハワードの『田園都市』構想について

神戸コンパクトシティ研究会 中山 久憲

 『コンパクトシティ』は工業都市の対極にあるという前提で話を進めているが、 産業革命後の工業化・都市化が一気に進展していたイギリスで、 今から1世紀も前にコンパクトシティの理念に沿った都市の概念が打ち立てられ、 実践されていた。

 今回は、 コンパクトシティのモデルになるエベネザー・ハワードの『田園都市』構想の生まれた背景と内容について、 さらに次回にはその実践として産み出された『田園都市・レッチワース』について考えていきたい。

1. 啓蒙主義による理想都市の運動

 自由主義思想を背景に工業化が進展し、 都市は成長を続けたが、 計画性もなく過度な集中が劣悪な都市環境を作り出した。 貧困にあえぐ労働者家族が集中したスラム街は、 無気力が蔓延し、 若死にする者が絶えず、 道徳観も喪失していた。

 企業化に成功し、 富を蓄え「新・ジェントルマン」を目指す産業家の中に、 啓蒙主義的経営を目指す者があらわれた。 人間の貧困も罪悪も社会が作り出すもので、 社会制度があらためれば消滅すると確信していた。 イギリスの幼稚園の創始者であるロバート・オーウェンは、 19世紀当初にグラスゴーの近くのニュー・ラナークに理想的の工場を始めた。 営利や搾取を追求しない工場経営、 労務管理、 教育をおこない生産効率と収益を高め、 労働者用に小住宅の計画団地も造った。

 その後、 数人の産業家による社会主義的理想、 温情主義的な規制に基づいた計画的都市コミュニティ建設実験が続いた。 19世紀の第4四半期になると、 緑地と共同施設の配慮、 整然とした配置、 水質汚染を最小限化するなどの労働者用の共同住宅を目指す理想都市建設計画が各地で展開され、 衆目を集めるまでになった。

2. ハワード『田園都市』構想まで

 こうした産業家の善意と経済的能力に依存してきた理想都市運動の性格を一変させたのが『田園都市』構想であった。

 エベネザー・ハワード(1850-1929)は、 ロンドンの小さな小売商の息子として育つ過程で、 産業革命により都市に集中した工場から出る煤煙と、 そこに働く労働者の劣悪な居住環境に対して、 疑問を抱いた。 21歳の時にアメリカの開拓期のネブラスカに定住するつもりで農民であった叔父を訪ねた。 しかし性格的に農民になりきれず、 英国に戻り議会の記録係の仕事に就いた。

 29歳の時、 高い教養と田舎に深い愛情を持つ地方の宿屋の娘と結婚し、 良き理解者で忠告者を得る。 余暇には土地問題に関心を持ち、 改革家ヘンリー・ジョージのサークルに入り研鑽を深めた。 ヘンリーは土地私有権を維持しつつ、 地代を租税で取る土地の国有化をめざす提案をしていた。 ハワードはこのほかに、 モデル工業都市や組織的植民計画を提唱する著述にも触れ、 都市建設の方法に関心を高めていった。 アメリカには仕事でも訪問する機会を得、 開拓地という新しい土地の上に新しいコミュニティを形成する新たな都市の出発が可能である強い印象を持った。

 こうして、 ハワードは発明家的な発想のもとに、 1898年『明日−真の改革への平和な道』を出版し、 理想主義的な新たな工業都市の姿を提唱した。 新たな都市の姿として、 田園の風景と重ね、 分散的な社会におけるコミュニティの協同的な活動によって、 都市がある種の魅力的な特性を持つ可能性を展開した。

 『明日』の出版後、 この主題について全国を講演し、 99年に熱心な人を集めて「田園都市協会」を設立した。 提唱した『田園都市』構想は、 郊外スプロールの懸念と快適な田園生活を望む中産階級に熱狂的に迎えられた。 1902年には『明日の田園都市』と改題して出版した。

3. 『田園都市』構想の独創性

 『田園都市』とは、 一つの田園(garden)のなかにある都市、 すなわち美しい農村に取り囲まれた都市を意味する。 必要とすることは、 都市と農村の結婚であり、 農村にある心身の健康と活動性と、 都市の知識と技術的便益の政治的協同をはかることであった。

 ハワードの理論の独創性は、 独特の「統合」にあった。 都市生活に生気を与え、 他方、 村落生活を知的に社会的に改善するために、 コミュニティ内の都市機能間の相互関係と村落の統合という都市開発の問題全般にわたって取り組んだ。

 新しい都市全体の面積を6,000エーカー(約2,400ha)とし、 そのほぼ中央に半径1,240ヤード(約1,100m)の円状の1,000エーカー(約400ha)の都市を建設する。 人口は都市部が約3万人、 農地部が約2千人の計3万2千人の小都市である。 農業のために使用される5,000エーカーの農地を都市に不可欠な永久の空地帯として設定し、 都市発展による市街地の物理的な広がりを制限した。 田園都市の土地の全てを自治体自身が永久に所有し、 住民は借地により利用する。 都市空間は個人住宅が締まりなく無限に広がるのではなく、 よく引き締まり厳格に制限された都市的集団により形成させる。 一定の地域の土地と社会施設が成長限界まで使用されると新しい都市地域へ産業を誘致するとともに、 新しいコミュニティを建設するため準備する。

 田園都市の運営のために借地人である住民からこれまでの概念にない「地方税地代」を徴収し、 地代の部分で土地買収費の利息と、 元金の償還に充て、 地方税で公共施設の建設・維持に充てる。 30年で元金を償還した後は、 老齢年金や災害・疾病保険の目的で多額の剰余金を積み立てる。

 『田園都市』は大都市の混乱を救済する試みであるばかりか、 土地の価値を引き下げ、 大都市の改造への道を準備することであった。

4. コンパクトシティとしての『田園都市』

 1,000エーカーの都市部の設計は、 中心に2.2haの円形の花園があり、 そこから幅員36m延長1kmの広いの並木道が6本周辺部に放射状に延びている。 花園を囲むかたちで大きな公共建築物の公会堂・大ホール・劇場・図書館・博物館・美術館・病院などが建ち並ぶ。 その外側には円環状の58haの中央公園があり、 その周りに公園に向いて「水晶宮」と呼ばれる広いガラスのアーケードを持つ商店が建ち並ぶ。 住民は最大でも600mも歩けば、 雨の日も苦にならず買い物ができる。

 

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田園都市構想 都市部設計図
 
 1番通から5番通の環状道路の間に5,500の宅地があり、 1敷地は標準サイズで間口6m奥行40mの240m²である。 3番通と4番通の間に、 「壮大な並木道(Grand Avenue)」と呼ばれる130mの幅、 長さ5kmの環状の緑の帯が作られ、 都市部を二つの帯に分割する。 この中に学校や教会が建設される。 この緑地帯まで最も隔たっている宅地からでも距離は220mである。 広くたっぷりした都市空間には、 妨げられることなく日光が輝き、 空気が流動し、 道路に植えられた樹木と灌木と草花は、 村落を思わせる景観を作り出す。

 都市部の外環の1番通の外側の33haの土地には、 工場・倉庫・酪農場・市場・石炭集積場・木材置き場などが7.2kmの環状鉄道に面して配置されている。 鉄道敷地には貨物が工場や倉庫から直接貨車に積み込まれ、 遠方の市場へ輸送され、 他方、 他の市場から輸送された貨物は、 直接貨車から倉庫や工場に運び込まれる。 したがって、 包装や運賃の点で非常に大きな節約ができ、 貨物の破損を最小限にくい止めることができる。 都市部の道路の(当時は馬車の)交通量を減らし、 道路の維持費を著しく減少させることができる。

 都市部で発生するの塵芥は農業部門の肥料として土壌に返され肥沃性の向上に利用される。

 『田園都市』構想は、 「成長管理」「歩いて暮らせる」「ゼロ・エミッション」社会、 まさに『コンパクトシティ』のモデル構想でもある。

<参考文献> E.ハワード(長素連訳)「明日の田園都市」、 鹿島出版会、 1968年


 

連載【箱根山上からの便り4】

「震災後−7」

元まち・コミ代表、 雲水/修行僧 小野 幸一郎

 以下の文章は、 私が開設している「震災検証メーリングリスト」に投稿したものです。

 「震災後」というタイトルは、 震災によって露わになった現実が、 その後の日本や世界の出来事といかに関連しているかを検証するという趣旨のもとにつけました。 つまり、 震災前は曖昧だった社会への理解も、 震災後はかくも明白である、 ということであります(私が)。 まあ結局、 震災はその後の世界に、 微妙に、 されど確実に影響している(はず)、 ということを、 私節で好き勝手に書いている訳ですが。

 突然に「7」でありますが、 つまりそれ以前にも以後にも書いてる訳です。 読んでみたいという奇特な方はhttp://soukou.air-nifty.comをご覧下さい。 余計な文章もありますが。

 内容的には参院選の前に書いたものですのでちとずれてるのですが、 文章の趣旨には全く影響してないので小林さんのご厚意に甘えて、 転載させていただきます。

 「年金の未納」というとんでもない理由で、 ついに民主党の管さんが代表を失脚しましたね。 これで、 ここ数年リベラル(←死語?)なイメージのもてる著名な国会議員のほとんど全てが、 国政の影響力あるステージから姿を消した事になるんじゃないでしょうか。

 一昨年、 秘書の給料流用が発覚して衆議院議員を辞職した社民党の辻元清美さんを皆さん覚えておいででしょうか? 私、 彼女とは旧知の仲でございます。 と、 いうのも1986年から89年までピースボートのスタッフをしてたからで、 まあ、 いわば「同じカマの飯を食べた仲」ということになる訳です。 ただし、 彼女は私より随分年上ですし、 当時すでに「雲の上」とまではいかないまでも、 18歳の何も知らない男の子にとってはだいぶ遠い存在ではありましたけれども。

 そもそもなんで私が長田に来たのかというと、 「印刷機を持ち込んで新聞を作ろう」と発案したのが私が当時勤めていたあらばき協働印刷のおばちゃんこと関根みい子さんであったからであるというのが一番の理由ですが、 その話をピースボート(以下PB)に持ち込み、 さてどこに入ろうという話になった時、 PBの古参スタッフによる「一番被害のひどい長田に行くべきだ」の一声で長田入りが決まった事がそもそもの発端なのでありました。 その古参スタッフが実は長田出身者であり、 そして田中社長と高校・大学が一緒なのであります。

 辻元清美さん(以下清美ちゃん)はまだ当時は議員ではなく、 PBの責任パートナー(PBでは責任者の事をこう呼ぶ)の一人として活動していました。 神戸の救援活動では現場の活動には直接携わらなかったですが、 頻繁に視察にはこられてました。 PBが自転車やコンテナをチャーター船に積んで神戸に来れたりしたのは彼女の交渉の賜物ではないかと思います。

 やがて兵庫商会駐車場跡地にPBのプレハブが建ち、 そこでPBの跡を継いだ「すたあと長田」が生まれ、 そこに「出戻り」で私が合流し、 その隣にSVAが引っ越してきて浅野幸子さんらがやって来ると、 まち・コミ設立まであと一歩ということになる訳です。

 清美ちゃんは震災の翌年、 分裂した社会党改め社民党から立候補し見事当選を果たします。

 「PBの清美ちゃん」ではなく「国会議員の清美ちゃん」に私たちが会う事になるのは元日銀神戸支店長のかの遠藤勝裕さんと繋いでもらった時でした。 私と田中社長が初めて遠藤さんとお会いしたのは実は霞ヶ関の清美ちゃんの議員事務所であったりします(ちなみになんで繋いでもらったのかというと、 遠藤さんに「神戸市長になって下さい」というとんでもないお願いをする為でした)。

 その後清美ちゃんが被災地の視察に来たときには案内をさせていただいたりもしました。

 と、 そんなに濃密な関係にある人とならば、 さぞかし被災地の問題も共有できていただろうと思われるかもしれませんが、 残念ながらそうとはいえません。 そんなに接していながら伝えきれなかった私たちの力不足は勿論ですが、 正直私は彼女の問題意識の中での被災地の比重はそんなに重くなかったんだと思っています。 それもそのはず彼女には取り組まなければいけない問題や国会の議題は山ほどある訳で、 被災地にだけ関わるわけにはいくはずがありません(別に嫌味で言ってるわけではありません)。 彼女はNPO法成立に向けても尽力されていましたし。

 でも、 しかし、 なのであります。

 私は冒頭「リベラルなイメージのもてる著名な国会議員」という表現をしましたが、 管さんにせよ、 土井さんにせよ、 そして清美ちゃんを始めとした社民党の「土井チルドレン」と呼ばれている人たちにせよ、 共通して言えるのがその行動を支える思想的・精神的バックボーンというのは人権思想を軸とした社会運動にあるんじゃないかと私は思ってます。 護憲の土井さんは言うに及ばず、 管さんの名前は天皇制問題を議論する雑誌で拝見した事がありますし、 清美ちゃんは「べ平連の小田実」のお弟子さんです。 つまりどの方も戦後から連綿と続く、 つまるところ反体制的な、 社会運動の流れの中から生まれたスターであるとも言えるわけです。

 時に、 震災時の日本の首相は社会党のトンちゃんこと村山富市氏でありました。 すでにして社会党が連立与党となっているご時世であった訳ですが、 さてその村山首相が震災という事態に迅速かつ的確に対処できたかというと、 ご存知の通りであります。 それは村山氏個人の能力の問題なのか、 社会党という組織の問題なのか、 政府という機能の問題なのか、 もしくはその全てなのかは知りませんが、 問題があったのは間違いありません。 まあ、 あの時に必要だったのは社会問題意識云々とは全く無関係の危機管理能力であったとだけは言えますが。

 ではでは、 震災直後のことはともかく、 その後の復興を巡る問題にはどうであったかというと、 これも言わずもがなでありましょう。 そうこうしている内に社会党は下野してしまい、 分裂し社民党となり、 「土井チルドレン」の方々が政界に乗り込むことになったのでありました。

 震災に伴う、 もしくは震災で見えてきた様々な問題に、 既存のイデオロギー対立や社会運動のノウハウでは対処できない、 できなかった。 と、 いうことはどういうことかというと、 これからの日本の有り様に対処できないということでもあるというと言い過ぎでしょうか? しかし、 直視しなければいけないのは実はそのことではないかと思うのです。

 一応は「革新」を標榜する政党で被災地の現場で姿が見えたのって、 共産党か新社会党ぐらいじゃありませんでしたか? しかし共産党は、 もうとことん我が道しか行かないし、 新社会党は濃厚に傷を引きずりながらのたうちまわってる感じで、 まあどちらも「現場にいながら現場を見ず」という印象を禁じえませんけれども。

 本当は現場の中からニーズを拾って何を為すべきか再構築していくというごく当たり前の作業が、 政治を担う自覚のある方々には求められたと思うのですが。

 リベラルの旗印華やかなる方々が表舞台を降り、 参議院選挙が近づくなか心中複雑なる思いををもたれてる方もいらっしゃるでしょうが、 私たちは現在の政局などには目を奪われず、 これからのための「土台づくり」を模索すべきだと思います。 そのための材料は震災から10年目の被災地には累積してるはずですし、 清美ちゃんはなんと思うかわかりませんが、 落とし種のまち・コミは今も活動を続けているし、 御蔵のまちは今もその鼓動を止めてないし...。


 

連載【たるみレポート3】

たるみレポート(その3)「窓口に来られるお客様」

神戸市 大塚 映二

 私は区役所のまちづくり支援課という職場に属していますが、 まちづくりを総合的に推進するという趣旨でまちづくり推進課とともに一つの窓口を設けています。 行政にとってまちづくりの最前線と位置づけられるわけですが、 今回はここを訪れるお客様(区民の方)がどんな用事で来られるのか、 ある日の様子をちょっと紹介します。 (案外知られていないのでは?)

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 まず“一見さん”で一番多いのが、 公営住宅に関するお問い合わせ。 「市住・県住の募集はいつですか?」「母子家庭なんやけど、 申込資格は?」「常時募集やと聞いて来たけど、 年4回しか募集してないのはおかしいんとちゃう?」たいていの方は、 職員の簡単な受け答えと“詳しくは住宅募集(管理)センターに聞いてください”という説明で納得して帰られます。 が、 中には細かな入居条件まできちんと答えられないと「おまえらは税金泥棒か!」と怒り出す方もおられます。 それだけ切実なんだと思います。 窓口で見る限り、 公営住宅に関する需要はかなり高いようです。

 続いて、 区役所や行政の各種サービスに関するお問い合わせもたくさんあります。 「身体障害に関する窓口はどこ?」「住民票をとりたいんやけど」「福祉パス(バス無料乗車証)を落とした・・・」「垂水区の地図が欲しい」「絵や習字の教室に行きたい。 どんな講座があるの?」「ゴミの分別方法が変わると聞いたが、 具体的な方法を知りたい」「老人クラブに入りたいが、 どこでどんな活動をしているか教えて欲しい」などなど。 とりあえず区に来れば情報が得られるだろうという期待の表れです。

 切実な話としては、 悪徳商法がらみの相談。 オレオレ詐欺まがいのものから、 催眠商法など人ごとではないと感じます。 被害にあった、 遭いそうになった方の気持ちを受け止めて、 丁寧に迅速に対応すべき瞬間です。 また、 隣の空き地の管理を何とかして欲しいという相談もかなり多いです。 「草ぼうぼうで、 害虫に困っている。 市で何とかして欲しい。 」たいていは遠くにいる不在地主の所有地で、 市民個人の力ではいかんともしがたいというお気持ちはよくわかります。 市民の方と手を組んで良好な環境を守っていきたいとは思うものの、 なかなか実効性のないのが現状です。 新しい政策提案が求められます。

 あとは、 “固定客”の方々。 日頃からおつきあいのある住民組織の代表の方々がいろんな用事で来られます。 ふれあいのまちづくり協議会委員長が活動助成申請書や地域行事の案内を持ってこられたり、 市民花壇のお世話をされている方が「助成金の振り込みはまだか?」と催促に来られたり、 老人クラブの方が「老人美術展」の申込用紙を取りに来られたり・・・。 「ちょっと印刷機を貸して!」と隣の地域活動交流コーナーに導入した印刷機を使って印刷しに来られたり。 (紙を持ち込めば印刷代はタダというこのサービス、 地域団体の方には好評です。 )

 ・・・いったいどこが「たるみレポート」やねん!というツッコミがきそうですが、 垂水区の場合、 窓口でのトラブルはほとんどありません。 区民の方と区役所が比較的いい関係を築いている証しと思っています。 表面的すぎるでしょうか。


 

連載【まちのものがたり18】

看板綺談・6
いつかの風景

中川 紺

 あの場所に近づくと知らないうちに早足になってしまう。 今日は何が見れるかしら、 そう思って空地に放置されている看板を一つずつ目で確認する。 ペンキが剥げた定食屋の看板、 つぶれたのかしら……「あっちゃん」……聞き覚えのあるその名前、 それは女学校時代の親友のあだ名と同じだった。

● ●

 朝夕のクロの散歩コースを変えたのは最近のこと。 いつも床屋の前をまっすぐに行くのにその日に限ってクロはどうしてもその角を曲がりたがって小さく吠えた。 私ももう年だし、 あんまり長く歩くのも疲れるのだけれど、 珍しいと思ってそこを曲がって、 そしてこの場所を見つけてしまった。

 たぶん隣の看板屋の駐車場兼物置き。 撤去した看板が頻繁にやってきてまるで粗大ゴミ置場みたいに積まれていく。 古いのもあれば随分新しいのもある。 お店の入れ替りが早いみたい。 その中の一際新しい看板に目がいった。 看板の金融会社の名前が子どもの頃によく行った母の田舎の町と同じ読み方だったから。

 

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 それから毎日のように、 私にとって懐かしい名前や風景が隠された看板を見つけるようになった。 郊外の住宅地の看板の時は……そう、 家並みの背景に描かれた山が、 通っていた小学校の裏山と同じ形だった……まん中の山がお椀をふせた形をしていて。 どうしてあんなことが起こるのか分からないけど、 これもクロのおかげかしら。 でも前よりも散歩に出るのが楽しくなっていた。

● ●

 あら、 私は思わず声をあげた。 そこにあるのは交通整理に使うガードマンの人形。 こういう類のものが置いてあるのは珍しかった。 でも声を出したのはそのせいでなく、 人形の顔に学生時代の初恋の人の面影を見つけてしまったから。 若くして戦地で亡くなってしまったけれど、 名前を忘れたことなどなかった人。 懐かしさ以外の気持ちが込み上げてきて、 私はずいぶんと長い間、 立ち止まっていた。

 次の日、 いつもより随分早めに朝の散歩に出かけた。 人形は変わらずにそこに立っていて、 そして、 あまりに普通に言った。

「マサちゃん、 元気だっだ?」

 人形は、 彼になっていた。 ずっと片思いで私は彼と話したことなどほとんどなかったのに、 思い出は何て都合いいんだろう、 そう思った。 今、 幻を見ているなら、 もうしばらく消えないでほしかった。 彼と私は昔住んでいた町の思い出をゆっくりと話した。 日が高くなってきて道行く人が増えはじめると、 彼は元の人形に戻ってしまった。

● ●

 〈誰かの独白〉この日の夜、 彼女は自宅の寝室で、 静かに息を引き取った。 とても穏やかな顔をしていたという。 近所の人から知らせを聞いて、 親族がやってくる前に、 犬のクロはそっと姿を消した。 首輪ははずしてあった。 親族はクロを探したが、 結局見つけることはできなかった。

 この犬はのちに二人の奇術師に拾われることになる。 そしてまた物語は続いてゆく。 (完)

(イラスト やまもとかずよ)

 

阪神白地まちづくり支援ネットワーク・第39回連絡会報告

 今回のテーマは「震災10年まちづくり〜様々な検証」で、 9月3日(金)こうべまちづくり会館で行われました。 野崎隆一さん(遊空間工房)のコーディネートで、 3氏から報告がありました。

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左から、野崎さん、光安さん、藤室さん、永井さん
 (1)「建築関係4団体10周年記念事業〜フォーラム」光安善博(実行委員会副委員長)
 (2)「震災10年市民検証研究会〜出版」藤室玲治(震災10年市民検証研究会事務局)
 (3)「阪神・淡路まちづくり支援機構・付属研究会〜報告書」永井幸寿(弁護士)

 光安さんからは、 平成17年2月に「建築家・建築士の責任と果たすべき役割」をテーマに兵庫県下の建築4団体が共同で行うパネルディスカッションについてや、 各団体独自のテーマで計画している討論会や講演会についての報告がありました。 藤室さんからは、 震災で生まれた「もう一つの生き方」や「新しい市民社会への動きや仕組み」について検証し、 これを出版する計画(岩波新書など)についての報告がありました。 永井さんからは、 地元の復興を専門的にサポートするために弁護士、 司法書士、 土地家屋調査士、 建築士、 税理士、 不動産鑑定士などで構成する「阪神・淡路まちづくり支援機構」について、 同様の組織を全国行脚を行いながら呼びかけている活動について語られました。 (中井都市研究室 中井 豊)





情報コーナー

 

●「日中交流・復興クルーズ2004」中間報告会

・日時:9月25日(土)13:30〜15:30
・場所:神戸市青少年会館6階工作室(中央区役所隣り、 神戸市中央区雲井通5丁目1-2、 TEL.078-232-4455)
・内容:青池監督の映像報告「日中交流・復興クルーズ2004の記録」、 日中交流・復興クルーズ2004参加者の見た中国、 天津、 唐山地震報告、 日中交流・復興クルーズ2004上田耕蔵さんのまとめ
・問合せ:日中交流・復興クルーズ2004事務局(TEL.06-6304-7800)

●阪神白地まちづくり支援ネットワーク・第40回連絡会

・日時:10月8日(金)18:30〜21:00
・場所:神戸市勤労会館406号室
・テーマ:「テーマパーク型まちづくり/らしさの都市像を求めて」
・解題:「こだわり型のまちづくりの取り組みについて」後藤祐介(GU計画研究所)
・報告:(1)「戦前郊外住宅地『武庫之荘』の保全と再生」岩崎光正(尼崎市都市計画課まちづくり担当)、 (2)「緑のこだわり『甲陽園目神山』のまちづくり」前田豊稔(甲陽園目神山地区まちづくり協議会)、 (3)「近代神戸の原点『旧居留地』のまちづくり」山本俊貞((株)地域問題研究所)
・会費:5000円
・問合せ:ジーユー計画研究所(TEL.078-251-3593、FAX.251-3590)

●2004日本造園学会関西支部大会

<シンポジウム>
・日時:10月9日(土)13:00〜16:30
・場所:相楽園会館(JR元町駅より北西へ徒歩8分)
・内容:語り部のお話、 パネルディスカッション
<研究発表会・講演会>
・日時:10月10日(日)10:00〜16:30
・場所:神戸芸術工科大学(市営地下鉄学園都市駅より徒歩7分)
・内容:研究発表会、 ポスターセッション、 講演会
・問合せ:日本造園学会関西支部事務局 (TEL.075-753-6099)

●第72回・水谷ゼミナール

・日時:10月29日(金)18:30〜21:00
・場所:こうべまちづくり会館
・テーマ:「再開発住宅の入居者」
・内容:コーディネーター/小林郁雄(コー・プラン)、 詳細の内容は未定
・問合せ:ジーユー計画研究所(TEL.078-251-3593、FAX.251-3590)

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