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地震と偶然性−「まちづくり」の前提として−

国立歴史民俗博物館外来研究員、 [記憶・歴史・表現]フォーラム代表 寺田 匡宏

 時とは次々と過ぎゆくものであり、 その過ぎゆく時の中で人間は過去を生みだして生きている。 わたしたちがどれだけ現在にとどまろうとしても、 その現在は、 いつのまにかわたしたちの前をすり抜け、 通り過ぎ、 流れ去ってゆく。 時の流れる三次元空間に定位しているわたしたちは、 現在が過去になるのを押しとどめることはできない。 時はわたしたちの意思とは無関係に存在する。 わたしたちの意思とは無関係に存在するものの中に、 わたしたちはわたしたちなりの文脈を見出しながら生きている。

 すべては偶然である。 わたしがわたしとしてこの世に生まれてきたのも偶然であれば、 わたしがいまここでこのようにしてあるのも偶然である。 だが、 わたしたちはその偶然を偶然とは感じない。 いや、 仮に偶然と感じたとしてもそれを必然だと自分を納得させている。 人間は、 さまざまな偶然の中から、 必然に転化しうるものごとを見つけだし、 それをつづり合わせながら「わたし」という一つの物語をつくる。

 通常、 そのような偶然が必然に転化するメカニズムは、 ささやかでひそやかなものだ。 たとえば、 高校時代、 偶然席替えでとなりになった彼と彼女の好きなバンドがたまたま一致したのが二人がつきあうきっかけだったとか、 旅先で雨宿りした無人駅でたまたま一緒になったのが彼と彼女のなれそめだったとか。 これはとても不思議なことである。 けれど、 わたしたちは本当は不思議なそのことを不思議であると考えずに生きている。

 その「不思議」が一挙にふりかかってきたのが阪神大震災であった。 あの出来事とは、 まさに巨大な「不思議」である。 あのとき、 あの場所で断層が動いたのは偶然である。 それがあの時刻であったことも偶然でしかない。 だがしかし、 どうしてわたしはその偶然に遭遇したのか。

 神戸という場所でわたしたちが何かを考えるとき、 思考の原点にあるべきはこの問いであろう。 偶然が必然であるという謎。 これまで数千年、 いや数万年、 この「不思議さ」に気づいた者がそれについて考え、 そして考えた末の答えを次のだれかに手渡してきた。

 「まち」とは人間の生活空間であり、 「まちづくり」には人間の存在と関わるあらゆる現象を包摂した知識を要する。 今回は少し毛色の変わった文章だったかもしれない。 でも、 神戸で「まちづくり」を考えようとすると、 このような視点も必要ではなかろうか。

※【宣伝】「someday, for somebody いつかの、 だれかに〜阪神大震災・記憶の<分有>のためのミュージアム構想|展 2005 冬 神戸〜」(2005年1月14日〜23日、 神戸元町CAP HOUSE)を開催します。 わたしたちが震災の記憶を伝える方法を、 ドキュメント資料、 映像、 インスタレーションから探ります。

* * *

 次号は、 豊岡・出石・洲本水害と中越地震について書いていただく予定です。

(小林郁雄→野崎隆一→宮西悠司→佐野末夫→中島克元→中村順子→海崎孝一→某市某職員→前田裕資→佐藤三郎→細川裕子→出口俊一→高田富三→田中保三→高森一徳→渡邊仁→黒田裕子→季村敏夫→寺田匡宏 )


 

連載【私が支援している「まちづくり協議会」の紹介4】

「新在家まちづくり委員会」の紹介
−発足15年目の神戸市型まちづくり協議会−

ジーユー計画研究所 後藤 祐介

1、 はじめに

 新在家まちづくり委員会は、 平成2年3月の発足であり、 私が支援しているまちづくり協議会(以下「まち協」と略す)の中では、 岡本のまち協に次で古い長寿のまち協である。 これは、 幸か不幸か、 阪神・淡路大震災をくぐりぬけるなかで会長、 副会長、 事務局長等のリーダーの世代交代が比較的円滑に行われて来たことが大きな要因の一つに挙げられ、 現在は、 発足以来4代目の会長のもと、 比較的活発、 かつ、 有効に運営されているまち協である。 本稿では、 この新在家まちづくり委員会の長寿の背景や活動経過を紹介する。

2、 公害対策に始ったまちづくり委員会

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位置図
 新在家南地区は、 神戸市灘区東部の臨海工業地帯に位置し、 北側を国道43号並びに阪神高速道路により一般市街地と分断され、 車による道路騒音や大気汚染に悩まされて来た。 加えて、 地区の南側に港湾幹線道路(ハーバーハイウエイ)の建設問題が浮上して来た。 また、 当地区は臨海部の低地であるため、 大雨の際には、 マンホールから雨水が噴き出すなど、 都市基盤施設も充分とは言えなかった。

 このため、 地元の各種団体が中心になって、 住み良い、 働き良いまちをつくるため“新在家まちづくり委員会”を灘区役所等行政の支援を得て発足した。

 こうして発足したまちづくり委員会の第5回委員会(H2.10)において、 私は、 東灘区の“美しい街岡本協議会のコンサルタント”として「住民参加型まちづくりの進め方」についてお話する機会を得、 その後、 地元からの要請もあり、 神戸市から新在家まちづくり委員会へも派遣されることとなった。

3、 新在家まちづくり委員会の構成メンバー

 新在家まちづくり委員会の区域は、 神戸市灘区新在家南町1丁目〜5丁目の区域であり、 同町1〜3丁目が東部町内会、 同町3〜5丁目が西部町内会となっており、 まちづくり委員のメンバーとしては、 両町内会の会長、 副会長、 幹事長等の代表に加えて、 婦人会、 青年会、 PTA、 財産区等各種団体の代表に加えて地元企業としての小泉製麻(株)、 神戸製鋼所及び地場産業である清酒メーカーの団体である西郷会の代表としての沢の鶴(株)と富久娘酒造(株)が参加して、 当初、 26人の委員構成で発足した。

 初代の会長は、 新在家財産区管理会長の鷲尾正夫氏であった。

 平成13年7月に「神戸市地区計画及びまちづくり協定に関する条例」(以下これを「神戸市まちづくり条例」と略す。 )に基づく正式なまちづくり協議会に位置づける段階で、 会の名称についても検討したが、 前述のように各種団体の代表で役員を構成する方針から「新在家まちづくり協議会」とせず「まちづくり委員会」とすることになった。 但し、 これは名称だけであり、 まちづくり委員会の運営にあたっては、 ニュースの配布、 アンケート調査等の実施にあたって全員参加型で運営しており、 平成5年5月には神戸市まちづくり条例に基づく、 “協議会認定”を受けている。

4、 震災前の新在家まちづくり委員会の活動

 震災前のまちづくり委員会としては、 公害対策がきっかけとなって官民協働で発足したまち協であることから、 ものづくりとしては、 行政の灘区役所や当時の港湾局、 建設局等からの支援をうけ、 平成4年に地区南部に位置する運河プロムナードが整備され、 地区中央部に位置する若宮神社境内の一部に新在家地域福祉センターが建設された。 この地域福祉センターには大気汚染観測装置が設置されており、 土地は地元財産区の提供、 建物は神戸市による建設、 管理・運営は地元まち協や各種団体で行っており、 官民協働まちづくりのシンボル施設となっている。

 まち協自身の自律的活動としては、 アンケート調査等による住民意向を反映した(第1次)「まちづくり基本構想」を策定し、 平成5年7月に、 当時の笹山神戸市長に「まちづくり提案」を行っている。

 この当時は、 鷲尾氏が高齢のため引退され、 西部町内会長の見掛武氏が会長を引き継がれていた。

5、 阪神・淡路大震災復興まちづくり

 平成7年1月17日、 兵庫県南部地震が起り、 地区内で39人が死亡、 約8割の家屋が全半壊した。

 復旧と復興にあたっては、 まちづくり委員会が中心となるとともに、 RC造2階建ての地域福祉センターが避難所兼情報センターとして機能した。

 私自身も被災したが、 当地区のコンサルタントとして、 同年2月1日から地域福祉センターの片隅で復興まちづくりの協議や小規模住宅の共同再建計画の勉強会を始めた。 この取組みが早かったことにより、 地区内では4棟約120戸の共同建替え住宅や3棟約100戸の公的支援のある民間賃貸集合住宅が建設された。

 また、 神戸市から重点復興地区に指定されたが、 任意事業としての密集住宅整備促進事業並びに住宅市街地総合整備事業地区に編入されただけで、 原則、 自主、 自立的復興地区として、 任意の共同再建や個別再建を基本に復興まちづくりを進めて来た。

 その中で、 当地区の都市計画用途地域が準工業地域であることから、 健全な市街地形成にふさわしくないファッションホテルやパチンコ店等の風俗営業店の立地を防ぐため、 平成8年6月に神戸市長と“まちづくり協定”を締結し、 適正な復興の誘導を図って来た。

 そして、 当地区が旧西国浜街道沿いに立地し、 灘五郷の酒造地区であることから、 「まちづくり協定」の中に、 “意匠配慮道路”を設定し、 新在家らしい街なみデザインの誘導を行っている。 また、 この取組みを支援するため、 行政では、 平成9年から街なみ環境整備事業の適用が図られている。

 この間に、 震災の心労等から、 平成8年に見掛武会長が、 平成10年に小西千代治会長が相次いで亡くなられ、 その後、 現在の麻生俊雄会長に引き継がれている。

 

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新在家南地区「まちづくり協定」審議案件プロット図(H8〜H16)
 

6、 ポスト震災復興と第2期まちづくり基本構想

 平成13年8月には、 ポスト震災復興まちづくりとして、 今後の10年間の重点整備、 誘導項目を定めた「第2期まちづくり基本構想」を策定し、 実行に努めている。

 (1) まちづくり協定の健全かつ、 有効な運営
 (2) 酒蔵のまちとしての景観整備の促進
 (3) 緑花推進活動の継続
 (4) 被災空地等を活用したイベント等の継続
 (5) 住宅密集ゾーンの住環境改善の促進
 (6) 国道43号横断のための施設整備の促進
 (7) 水と緑のモール構想の推進
 (8) 国道43号沿道整備への取組み
 (9) 旧西国浜街道の美装化の推進
 (10) 酒蔵の道の整備とネットワークの促進
 (11) 魅力的な集客施設の整備充実
 (12) 都賀川・運河プロムナードの充実と灘浜緑地へのアクセスルートの整備

7、 おわりに:工場跡地の土地利用転換期を迎えて

 当まちづくり委員会は、 公害対策で始まり、 神戸市まちづくり条例に基づく“協議会認定”、 “まちづくり提案”、 “まちづくり協定の締結”を図って来た。

 この間、 阪神・淡路大震災の復旧と復興まちづくりに対応するとともに、 最近は、 企業のリストラの波をかぶり、 工場の閉鎖、 縮小、 用地の売却が続いており、 大規模な土地利用転換が進んでいる。 そして、 この問題に対して「まちづくり協定」により、 計画の協議、 調整を図っているところである。

 このように当まちづくり委員会は、 神戸市との協働のもと、 “神戸市まちづくり条例型まちづくり協議会”として、 その役割は、 増々重要になって来ている。


 

連載【新長田駅北(東部)まちづくり報告・第2部 6】

まちづくりシステムの研究 (6)

久保都市計画事務所 久保 光弘

 なぜこの稿で複雑系を持ち出すことになったか。 その理由をすこし述べておきたい。

 まちづくりによる市街地整備計画は、 まちづくり協議会から出てくる意見などの情報をまちづくり提案に発現し、 制度の対応によってなされるといってよい。 まちづくりによる計画形成には従来の計画形成とはまったく異なった特質がある。 第一は、 協議会活動が終わればまちづくりによる計画形成は終わること、 第二は専門家の役割が、 従来の「計画をする」ことでなく、 まちづくり協議会に「計画を促す」ことである。

 このための専門家の計画技術として、 協議会活動のプロセスにおける情報をまちづくり提案に発現する計画技術、 制度への対応を図る技術があるが、 これは従来技術の延長線上にある。 しかしこれらの前提にあってかつ重要なのは、 生命体ともいえる協議会が、 継続的に創造的活動ができるよう支援する技術である。 言い換えれば、 協議会活動における現象に注意し対応する技術であるが、 これが未解明であるどころか、 現在の都市計画の技術では、 共有できる言語すら持っていない。 私はこの手がかりを「複雑系」に求めようとしている。

5.情報やビジョンによる揺らぎ

1)摂動敏感性
 まちづくりによる計画形成は、 協議会活動のプロセスの結果の発現であり、 まちづくりを支援する行政やコンサルタントによる計画の作成・管理・制御ではない。 それでもコンサルタントなどに影響力があるとすれば、 小さなビジョンや情報の揺らぎによる影響力である。 たった一人の住民や専門家が生みだした小さな情報やビジョンの揺らぎであっても、 これが共感を得られるものであれば、 増幅されて伝播し、 まちづくり全体に大きな影響を与える。 これは複雑系でいう「摂動敏感性」(初期値の鋭敏性、 揺らぎ)、 すなわち「部分の小さな揺らぎにより、 全体が大きな変動を生じる」という性格、 又は「わずかな初期値の差異に対して結果が大きく異なる」という性格に類似している。

2)復興初動期の情報
 特に住民に情報が少なく且つ情報の伝達力が強い復興まちづくりの初動期において、 マスコミ、 学者やコンサルタントなど専門家の情報が、 まちづくりの将来に良くも悪くも影響したことは事実である。

 コンサルタントは、 例えば、 区画整理の是非、 道路は狭いほうがよい、 公園は小さい方が良い、 共同化をすべきである等、 個人の「思想」で語るべきでない。 思想は思想の対立を生む。 初動期に必要なのは、 区画整理とはどのようなものか、 道路の幅員構成の意味、 公園の機能、 選択できる住居形態の種類など、 基礎的でスタンダードな情報を地道にできるだけ多く提供することである。 これが話し合いの土俵をつくることになる。 基礎的でスタンダードな情報による技術移転こそが、 その後の協議会の自立的な発展につながる。

3)小さなビジョンの揺らぎ
 摂動敏感性の比喩としてよく持ち出されるのにバタフライ効果がある。 これは、 中国の北京で蝶が羽ばたくとその大気振動が増大して伝達しブラジルでハリケーンが発生するというものである。

 これとよく似たことが長田の戦後まもない時期でのケミカルシューズの誕生時にみられる。

 昭和20年代前半、 それまで長田の地域産業であったゴム長靴などのゴム履物は、 生ゴムの急騰、 ゴム履物の市場価格の著しい低落により中小企業の半数が倒産した。 その混乱の状況の中、 塩化ビニールを靴の素材に活用するという小さな揺らぎが起こった。 塩化ビニールを素材とする靴製造の発端が誰であったとは特定できていない。 それほど小さい揺らぎであった。 これが長田のケミカルシューズ産業へと発展させた。 まさに上で見たバタフライ効果である。 当時を知るケミカルシューズ業界の人に聞くと、 当時の長田地域には「混乱に近い熱気」があつたという。 この混乱に近い熱気の環境が強い情報の伝達力をつくりだし、 これに社会的、 経済的背景とうまく合致し、 地域において大きく共振化した結果であろう。

 新長田駅北地区東部の協議会でシューズギャラリー構想を検討する組織が生まれた契機も少数の役員たちとの雑談の中から始まり、 それではということで当地域の主要な2つの企業の経営者に会いに行き始まったものである。 この発端、 いいかえれば、 小さなビジョンの揺らぎから、 シューズギャラリー構想、 アジアギャラリー構想などの地域産業ビジョンが立ち上がってきた。 このときこれを後押しする外からの影響もあった。 シューズプラザやアジアギャザリー神戸の建設前後の時期には、 これらの産業ビジョンに共鳴する地区内の地権者も少なからずいた。 だからこそ民間資金でアジアギャザリー神戸がつくられたのであり、 続いて飲食店などをつくりたいという地権者やシューズプラザ周辺に進出したいというメーカーもいるという状況をつくっていた。 しかし、 仮換地や道路整備に時間が要する一方で、 時間とともに経済的環境の悪化がますます進んだ。 区画整理の進捗とともに当地区におけるケミカルシューズ事業所の減少が進み、 シューズギャラリー構想やアジアギャラリー構想の共鳴力は失われつつある。 このような状況から14年に当地区の協議会連合会は現実に対応した第2次産業観光構想を提案している。

 震災後10年を迎えるにあたって現在、 新長田駅北地区東部協議会連合会は復興誌に取り組んでいるが、 平成9年頃にシューズギャラリー構想を検討したときの協議会合同による産業地区創造懇談会のことを語ることができるシューズ事業者が既にこの地区に誰もいないという現実がある。

 しかし、 シューズギャラリー構想やアジアギャラリー構想がいえなみ基準の生まれる契機になり、 小規模協議会の林立した状況から地区全体のまちづくり組織へと発展する契機をつくった。 シューズプラザは、 手作り工房へのリニューアルや各種イベントの開催など経営努力がされているし、 協議会の会議にもよく利用されている。 シューズプラザがあると無いとは大違いである。

 複雑系に「自己組織的臨界現象」というものがある。 砂山にゆっくりとした一定速度で砂を加えていくとやがては雪崩が起き始めるというものであり、 雪崩の多くは小さいものであるが、 稀には地滑りを起こすこともある。 そしてこの地滑りはいつ起こるかわからないというものである。 これは小さくても漸進的にビジョンを積み重ねることが必要であることを教えている。 このような中から、 共鳴力のあるビジョンを語り、 これを戦略として展開することによって地域を大きく変えることになる起業家やNPOが現れる可能性もある。

 シューズギャラリー構想やアジアギャラリー構想を失敗であるとか、 無残な結果であるとか評する人がいるが、 これは予定調和に固守する機械論的な見方である。 まちづくりにとって重要なのは、 プロセスであって結果でない。

6.ポジティブ・フィードバック

 かつて灘区味泥地区まちづくりで、 まちの「悪循環」を「善循環」に変えていこうという合言葉のもとにまちづくりに取り組まれたことがある。 この「悪循環」も「良循環」も「ポジティブ・フィードバック」である。

 「ポジティブ・フィードバック」とは、 発信した情報がフィードバックしながら変化し、 増幅する状況へ働くことを言う。

 例えば、 シューズギャラリー構想、 アジアギャラリー構想、 いえなみ基準が相次いでまちづくり提案された平成9〜10年頃、 協議会の多様な組織からのまちづくり提案とそれを受けた行政の対応との間の循環的なフィードバックが、 協議会活動を良循環させ、 当地区が事業型協議会からビジョン共有型協議会へと大きく変わることになった。 いえなみ基準の作成は、 各協議会での街区計画の検討や部会活動による共同建替・協調的建替、 産業ビジョンづくり等のそれぞれの検討と互いに並行して行われ、 それぞれの情報のフィードバックがいえなみ基準だけでなく、 それぞれのプロジェクトを進化させた。 この動きは同時に、 林立した協議会どうしでの「自己組織化」を進め、 いえなみ委員会という地区全体の組織を生んだ。 「自己組織化」とは、 混沌とした状況の中から自発的に秩序を生み出す現象をいう。

 田坂広志(「複雑系の知」講談社)の引用によるイリア・プリコジンの説では、 「自己組織化」を生じるためには、 三つの条件が必要だとし、 「オープン(開放系)であること」「ダイナミック(非平衡系)であること」「ポジティブ・フィードバック(自己加速系)であること」を上げているが、 これは、 上で述べた当地区の当時の状況を説明することを容易にするものである。

 下図は、 まちづくりにおけるイベント、 ビジョンづくり、 事業との間においてもポジティブ・フィードバックの関係があることを示したものである。

 ポジティブ・フィードバックは、 並行する課題を相互に関連付けることにより、 情報を相互にフィードバックさせて、 良循環を行うものである。 これには個々の問題だけ取り上げて解決するということでなく、 同時水平的に問題に対応するという水平的思考が大切となる。

 

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まちづくりのスパイラルアップ
 

 

連載【街角たんけん9】

Dr.フランキーの街角たんけん 第9回
再見 豊岡「中枢街区」の建築

プランナーズネットワーク神戸 中尾 嘉孝

 台風23号、 新潟県中越地震で被災された皆様に、 衷心よりお見舞い申し上げます。

 この9月下旬、 県建築士会有志主催の見学会で、 豊岡市役所のご好意により普段立ち入りが困難な豊岡市役所本庁舎(旧同町役場、 昭和2(1927)年、 原科建築事務所)とその周辺の市関係の近代公共建築をつぶさに見学する機会に恵まれた。 関係者の皆様には、 この場をお借りして厚く御礼を申し上げたい。

 北但大震災の復興都市計画で旧町役場庁舎を中心に設定された「中枢街区(シビック・ゾーン)」には、 昭和初期に警察署・税務署・郵便局等が相次いで建設された。 移転に伴い姿を消した警察署以外の庁舎は、 用途を変えつつ建設後80年近く経った今日でも現役で活躍している(注1)。 中でも、 大開通りを挟んで向かい合う市南庁舎と山陰合同銀行豊岡支店は、 市内の近代建築の中でも横綱的存在だろう。

 現在は市建設部が入る南庁舎は、 昭和2年8月に完成の旧豊岡郵便局庁舎である。 豊岡郵便局は明治5(1872)年に開設。 後に電信電話局も併設し、 大正14(1925)年5月の北但大震災を契機に、 中枢街区に恒久建築の庁舎を建設した。 モルタル仕上げの平滑なファサードに、 階段室上部には表現派特有のカーブ。 スクエアな開口部の処理も印象的だが、 竣工当初はアーチ型であった(現在のフラットアーチに改造された時期は不明)。 内部は改造されているが、 吉田鉄郎や山田守の影響下にあった、 逓信省営繕組織の作品として貴重である。

 山陰合同銀行豊岡支店の建物も、 当初は兵庫県農工銀行豊岡支店として昭和9年に竣工した。 タイル貼や擬石仕上げを多用し、 正面に付柱を4つ連ねるところは、 神戸朝日会館(旧神戸取引所、 昭和9(1934)年)、 側面の連続するアーチ窓は日本綿業会館(昭和6(1931)年)を、 それぞれを想わせるが、 この建物の設計者は他ならぬ戦前関西建築界の名手・渡邊節である(注2)。 内部は間仕切りの追加など手が加えられているが、 当初は擬石仕上げの古典的な空間であった。

 山陰合同銀行の建物は、 広域合併後の市役所機能充実のため、 市による買収が既に決まっており、 将来は中心市街地活性化の核施設とすることも検討されているという(注3)。 付け加えての提案だが、 山陰合同銀行ビルと元豊岡税務署庁舎(昭和4(1929)年)である市西庁舎も含め、 中枢街区の歴史的建造物をリニューアルし、 一体的に活用する「平成中枢街区」構想を提案したい。 更には、 市内の他の震災復興期建築についても、 再評価され新たな活用の道が探られることを期待したい。

(注1)大正14(1925)年に起きた北但大震災で大きな被害を受けた豊岡町(現豊岡市)中心市街地において、 県・町当局主導による復興都市計画が展開される中、 官庁街「中枢街区(シビック・ゾーン)」の形成や、 民間に対する公的な建設費助成により、 戦前の地方都市としては異例の数のRC造建築が目抜き通りを中心に建設された。 詳細は拙稿「温故知新−豊岡に見る約70年前の震災復興まちづくり−」(復刊きんもくせい50号+36号)を参照。

(注2)「工事年鑑 皇紀二五九五(昭和10年)」合資会社清水組 写真脚注による。

(注3)平成16年第1回豊岡市議会定例会市長総括説明による。

 
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写真1 竣工当時の豊岡市役所庁舎(旧豊岡町庁舎、出典:「豊岡復興誌」) 写真2 竣工当時の豊岡市南庁舎(旧豊岡郵便局庁舎、出典:「豊岡復興誌」) 写真3 竣工当時の山陰合同銀行豊岡支店(旧兵庫県農工銀行、出典:「工事年鑑 昭和10年」清水組)
 

 

連載【まちのものがたり19】

交差点の落とし物・1

中川 紺

 扉をひろった。

 といっても、 マッチ箱程度の大きさの、 おもちゃの扉だ。 自宅からスーパーに行く途中の一方通行が交わる交差点。 錆びたマンホールのふたの上に、 プラスチックの鮮やかな赤色が映えていた。 身長百八十センチの俺がそんな小さなものに気付いたことは不思議だが、 どうにも気になって家に持ち帰った。

 よくよく眺めてみると、 扉には小窓が四つあいていて、 ドアノブは爪を引っ掛けて開けられるつくりになっていた。 ずいぶん使い込んでいるらしく小さな傷があちこちについている。 おもちゃの家のパーツであることは、 確かだと思ったが、 一体どんな家なのかは皆目検討がつかなかった。 俺が玩具メーカーの社員だったら即座に分かったかもしれないが、 建物の模型ばかりを十年以上作っている独身男が、 子どものおもちゃに詳しいわけがなかった。

 それでも、 その小さな扉がどんな家をつくる部品なのか、 いろいろ想像してみるのは面白かった。

● ●

 次の日の日曜、 俺は朝から電車に乗っておもちゃ専門の大型店に出かけた。 頻繁に広告が入る有名店で、 赤ちゃん用からテレビゲームの類まで、 かなりの種類の玩具を扱っていた。 ここでなら扉のことを解明できるかもしれない、 そんな気がした。

 

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 ビルの二階にあるその店は、 開店早々というのに、 親子連れや子ども同士の買物客で、 すごい賑わいを見せていた。

 店内案内図を見ながら、 俺は人形や家のおもちゃを扱う売場に向かった。 店員に扉を見せて聞けば済む話だが、 それはしたくなかった。 自分で探し出してみたい。 俺は棚の端から商品をチェックしていった。

 しかし、 最近のおもちゃはあまりに種類が多すぎて、 結局見つけることができなかった。 午後から大事な約束があったので、 あきらめて待合せのファミレスに急いだ。

● ●

 「こんにちは、 アサミちゃん」

 ゆみこの隣に座っていた三歳の女の子に声をかけた。 でも女の子はすぐに目をそらしてテーブルにお気に入りのおもちゃを広げて遊びはじめてしまった。

 俺の恋人には子どもがいる。 徐々に仲良くなれればいいなと思って最近は三人で会う機会を増やしているが、 これがなかなか難しい。 ゆみこが言うには、 人見知りが激しいだけで嫌われている訳ではないらしいのだが。

● ●

 「あれ?」俺はアサミちゃんが遊んでいるおもちゃの一つを見て声を上げ、 ポケットから例の扉を取り出した。 きのこを模した小さな家の四角い穴に、 赤い扉は見事に収まった。 女の子は手品でも見たように驚いている。

 「なあ、 最近うちの近くに来なかった?」

 「おとといね、 そばまで行ったんだけど、 アサミがぐずって、 すぐに帰ったの」

 ゆみこの答えを聞いて俺は納得した。

 「すごい、 ねえどうやってだしたの?」

 アサミちゃんが初めて俺に話しかけてくれた。 その笑顔を見て、 小さな赤い扉を拾ったのは偶然じゃないな、 と思った。 (完)

(イラスト やまもとかずよ)


阪神白地まちづくり支援ネットワーク・第40回連絡会報告

 今回のテーマは「テーマパーク型まちづくり/らしさの都市像を求めて」で、10月18日(月)こうべまちづくり会館で行われました。まず、後藤祐介さん(ジーユー計画研究所)よりテーマ解説(副題が「こだわりのハード型まちづくりの取り組みについて」)が行われたのち、以下の報告がありました。

 @「戦前郊外住宅地“武庫之荘”の保全と再生」/岩崎光正(尼崎市都市計画課)
 A「緑にこだわる“甲陽園目神山”のまちづくり」/前田豊稔(甲陽園目神山地区まちづくり協議会)
 B「近代神戸の原点“旧居留地”のまちづくり」/山本俊貞((株)地域問題研究所)

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左から、後藤さん、前田さん、岩崎さん、山本さん

 岩崎さんからは、昭和12年に開発された武庫之荘住宅地について、その概略の歴史を述べられたのちに、若い女性を中心とした「武庫之荘まちなみ倶楽部」の活動や、用途地域等の都市計画の課題(特に駅前の近隣商業地域)、景観形成上の課題や対策などのお話がありました。前田さん(まちづくり協議会会長)からは、西宮市の山麓部で昭和の初め頃より開発され始めた“緑豊かな住宅地”である甲陽園目神山のまちづくりについて、先進的な自主的ルールによってまちづくりがなされてきたことや、それが年を経るにつれて機能しなくなってきたことで地区計画(最低敷地のルール:330u!、他)に取り組んできたこと、などのお話がありました。山本さんからは、神戸の都心部である旧居留地の震災後のまちづくりについて、大正から昭和初期の近代洋風建築によるまちなみを原点として景観形成を図ることとし、これを地区計画(壁面後退や段階的な高さ制限など)によって担保すること、などについての詳しい説明がありました。(中井都市研究室 中井 豊)





情報コーナー

 

●第72回・水谷ゼミナール

・日時:10月29日(金)18:30〜21:00
・場所:ひょうごボランタリープラザ(クリスタルタワー10Fセミナー室、JR神戸駅前すぐ)
・テーマ:「震災復興各種共同住宅の入居者の特徴について」
・内容:「民間コレクティブ住宅等の入居者について」/野崎瑠美(遊空間工房)、「公団震災復興再開発住宅の入居者について」/田中貢(大阪府都市整備推進センター)、「震災復興公営住宅等の入居者について」/立木茂雄(同志社大学文学部社会学科)、コーディネーター/小林郁雄(コー・プラン)、コメンテーター/太田尊靖(UR神戸事務所)
・会費:1,000円(資料代、学生無料)
・問合せ:ジーユー計画研究所(TEL.078-251-3593、FAX.251-3590)

●芦屋市総合公園オータムフェスタ

・日時:10月31日(日)10:00〜15:00
・場所:芦屋市総合公園(芦屋市陽光町、浜風大橋南バス停すぐ)
・内容:グランドゴルフ大会、フォークダンス、フリーマーケット、コーラス、花の講習会、キッズワークショップ、他
・主催:PMOあしや
・問合せ: 芦屋市公園緑地課(TEL.075-753-6099)

●神戸大学震災文庫展示会「阪神・淡路大震災の記録と記憶」

・日時:11月8日(月)〜14日(日)10:00〜17:00
・場所:神戸大学社会科学系フロンティア館3階プレゼンテーションホール(市バス36系統神大正門前前下車徒歩5分)
・内容:<展示会>4万点近い資料のなかから約100点の展示。
 <記念講演会>「震災文庫から<震災>を読み解こう」/岩崎信彦(神戸大学文学部教授)、「震災文庫の足跡―10年を振り返る―」/渡辺隆弘(神戸大学付属図書館)
・入場料:無料
・問合せ:神戸大学付属図書館震災文庫(TEL.078-803-7315)

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