きんもくせい50+36+20号
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水害がやってきた

豊岡市ボランティア・市民活動センター 安田 真明

 10月20日夜、 叩きつけるような雨と風が街のノイズを完全にかき消し、 台風23号によって私のまち豊岡は完全制圧された。 インフラ機能が次々と麻痺し、 陸の孤島となった事務所で増え続ける水を前に何も出来ず夜を明かし、 翌朝、 非常事態を告げるヘリコプター編隊の轟音と緊急車両のサイレンが、 街中に響いていた。 私たちは、 ただ、 ただ、 街を飲み込んだ泥水が引いていくのを見ているほかなかった。 既に現地入りしているNPOからのボランティア受け入れ要請が入り、 このときやっとこれから我々が何を成すべきなのか気がついた。 「よし、 ボランティアセンターを開設しよう!」と意気込んだものの、 インフラが機能しない中、 開設の準備は捗らず、 2日後の22日に兵庫県社協、 NGO、 NPOなど災害救援の経験者達が駆けつけ、 ようやく形になり始めた。

 23日市役所隣に豊岡市水害ボランティアセンターを開設したが、 ニーズ受付とボランティア問合せ用に設置した電話は途切れることなく鳴り続け、 あっという間にニーズ書類の山となった。 開設2日目には700人が到着したがニーズを処理するには人も資材も不足しており、 ボランティア確保の対応を迫られた。 そこで、 これまで冷遇していたマスコミの対応を変え、 時間を割きボランティア募集を積極的にアピールした。 新聞に記事が出るとテレビ局が取材に来た。 テレビの反響は大きく、 人が集まりにくい平日でも着実に増え続け10月31日(日)の登録者数は2100人を超えた。

 市の対応は、 災害対策本部との連携を図るため情報担当者を常勤で派遣し、 ボランティア活動拠点の確保、 資材の調達、 ビラの全戸配布、 災害対策本部との情報共有やニーズのフィードバック等々、 裏方に徹しあらゆる面でセンターを支えた。

 

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 センターでは「ボランティアを30分以上待たせない」をモットーにコーディネートを行った。 被災者とボランティアの双方に満足してもらうことが最大の目的だが、 毎日変化するボランティアの人数は予測が難しく、 翌日に備え市内の被災地域をニーズ調査し、 午前中に殺到するボランティアの待ち時間を無くすため毎日入念な準備を行った。 災害経験のない私たちは現地入りした経験者の経験や知恵、 ノウハウに頼るほかなく、 センター開設時の最大の救援物資は「経験者の知恵」であった。

 結果的に、 センター運営を希望する全ての団体、 個人を運営スタッフとして取り込んだことで、 様々な市民団体との連携・協働によって、 ボランティアが何人登録しても、 ニーズの電話が鳴り続けても対処できるスムーズなセンター運営を図ることができた。

 多くのボランティアの協力により暫定的な生活復旧は11月7日に概ね目処が立ったが、 今後は、 地域でのコミュニティが要援護者等の生活支援を大きく左右する。 コミュニティが日常的に機能している地域では、 センターが介入する余地が無いほど地区内での助け合いが行われているが、 水害に因るところも大きいが機能ができていない地域ではまだまだ支援が必要である。

 

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豊岡市での被害状況−建物被害(11月15日現在)
 

 

新潟県中越地震報告

長岡造形大学 澤田 雅浩

 平成16年10月23日(土)に発生した新潟県中越地震において、 長岡市内に居住する一地域住民として、 そして現地の研究者として現地調査により得られたさまざまな情報を元に被害の特徴ならびに災害対応そして被災地の今後について第一報として簡単にまとめてみたいと思います。 しかしながらこの原稿を書いている時点では正確なデータに基づく分析ではなく、 現地の雰囲気を筆者なりに感じたことをまとめるにとどまっています。 その点を踏まえた上でご一読いただければと思います。

被害の特徴

 今回の被害の特徴は、 大きく三つあると思われます。 一つ目は液状化をはじめとする地盤災害が建物やインフラに及ぼした影響が極めて大きかったこと。 二つ目は最初の地震(最大震度7)から30分以内に2度の強い余震が発生したばかりか、 復旧作業を開始しようとした矢先の5日目に起きた余震などによって応急復旧活動に大きな支障を与え、 さらには被災者の避難行動に大きな影響を与えたこと、 三つ目は山古志村に代表される中山間地域における甚大な被害と復旧段階での冬の到来です。 特徴的には9年前の阪神・淡路大震災とは様相が大きく異なるといえるのではないでしょうか。

地盤災害の大きさ

 中越地震が発生する直前、 台風23号による影響で大雨が続きました。 この雨で地盤が多く水を含んでいた矢先に地震が発生したことで、 地滑りをはじめとする土砂災害が山間地で頻発したと思われます。 その様相は1999年に発生した台湾集集地震における原住民集落が多く点在する山間部における様相と極めて似ています。 多くの箇所で土砂崩れが起きた結果、 道路閉塞や道路陥没、 そして河道をせき止めることによる天然ダムの発生や道路への土石流の流出といった二次的な被害も発生したといえるでしょう。 小千谷市から山古志村へ向かうルートの一つに浦柄地区を通り抜けていくものがありますが、 その浦柄地区においては土砂崩れでせき止められた川の水が家の中を通って道路側へ流出し、 さらには土石流を発生させ付近一帯にまるで7.13水害の被災地のような被害をもたらしているのがその典型的な例の一つです。

 加えて、 液状化をはじめとした地盤の被害が建物の被害を誘発しているケースも大変多く見られました。 長岡市の南東部、 国道17号線に程近い場所に立地する高町団地では盛土をした箇所の地盤が完全に崩落し、 外周道路を寸断するだけでなく、 崩れた地盤に引きずられるようにして建物も傾いたりしている状況が発生しています。 加えて土中に埋設されていた各種ライフラインも重大な被害を受け、 高町地区は仮設水道の設置がなされたものの、 本格的な復旧のめどは立っていません。 さらに道路などでも液状化による多くの被害が発生しており、 長岡市東部や小千谷市ではマンホールが30センチ程度浮き上がりその周辺が陥没したり、 電柱が傾いたり沈み込んだりする状況を生み出しています。 これらの被害がさらに上下水道やガスといったライフラインに与えた被害もまた甚大であるといえ、 地震動の強さだけで被害程度を推測できない状況を作り出しているといえます。 これまでは建物の耐震補強が震災対策における被害軽減のための主な手法の一つでしたが、 今回はたとえ耐震性の高い構造物であっても地盤の被害によって大きく影響を受けてしまうことが明らかになりました。 このことは今後の震災対策を考える上で重要なポイントとなりうると思われます。

余震の継続による影響

 発生直後の強い余震に始まる一連の余震活動は、 被災者の心理状況をかなり悪化させてしまいました。 周囲に比べ最も強い震度を記録し続けた小千谷市などでは地震発生後数日の時点で徐々に回復しつつあった自宅に戻った被災者が、 25日の余震で再度屋外もしくは車中での避難生活に戻ってしまい、 今度はなかなか自宅に戻って生活するという気持ちにならなくなってしまったようです。 小千谷市側は応急危険度判定で危険がないと判断された(緑紙をはられた)家屋の住民には避難所から出て自宅に戻るようにと促したようですが、 結局は自宅前にテントを張ったり自動車の中で相変わらず寝泊りをしている状況が継続することとなりました。 そのような状況の中、 「エコノミークラス症候群」と思われる症状が原因となって亡くなられる方も出たことから、 自衛隊などによるテントの提供なども予想より多く実施されました。 「建物の中が怖い」状況が長期にわたることによる避難生活への影響は今後の震災においても留意しておくこととなるのではないでしょうか。

中山間地域における被害の大きさ

 連日メディアでも取り上げられていたように、 典型的な中山間地の過疎集落である山古志村などでの被害もまた大きいものとなりました。 山古志村は土砂災害がもたらした被害によって全村避難という状況になっていますが、 川口町田麦山地区などでは地震動によって建物がかなりの割合で倒壊しており、 地区のほとんどの方が避難生活を継続しなくてはならない状況にあります。 被害発生の原因は異なるものの、 これらの農山村の復旧・復興は今回の中越地震においては重要なポイントとなります。 当面特に懸念されるのが、 もういつ降ってもおかしくない「雪」の問題です。 地震によって被害を受けた建物が冬の積雪によってその被害が拡大することへの懸念や、 春が来て雪解け水となったときに新たな土砂災害が発生してしまうのではないかという不安感が避難者の方々に重くのしかかっているというのが現状です。 山古志村の人々は、 この冬を自宅で過ごすことはあきらめたものの、 とりあえずできる限りのことはしておきたいと願っています。 集落ごとに車の台数を制限しながら一時帰村を行っていますが、 降雨などによって突然中止が決定されるなど、 思うように家財を持ち出したり最低限の補強や雪囲いを行えない状況が続いており、 心配が続いている状況です。 さらには集落によって被害の程度に差があることが徐々に明らかになっており、 なんとか春から再建への一歩を踏み出せそうな地区がある一方で、 完全に水没し、 風景が変わってしまった地区もあります。 つい「山古志村」としてひとくくりに捉えられがちですが、 冬を越えていわゆる「ユートピア」的な状況が解消された時点で顕在化するであろう問題に対して、 地区毎のきめ細やかな対応が必要となると思われます。 山古志村は平成17年4月に長岡市と合併を行います。 行政の効率化という点では山古志村は今回の被災を契機に一気に縮小される可能性もあります。 その点も踏まえ、 この冬にどれだけの計画を組み立てておくかということもとても大切なことであろうと思います。

 また、 山古志や小千谷には「錦鯉」や「闘牛」があります。 鯉に関しては震災後に大規模な品評会が行われる予定であったたため、 各事業者のもとには多くの美しい鯉が集まっていたようですが、 それが被害を受けたことによるダメージの大きさは、 収入という点からもきわめて大きいものです。 闘牛はそれ自体が対価を得るものではなく、 地域の文化の一つとして存在しているものです。 これら地域のシンボルをどのように復興計画に位置づけるかということもとても重要な問題となるでしょう。

 

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1026 小千谷市役所 1029 川口町田麦山地区 1103 長岡大手高校の山古志村民避難所
 

災害対応状況

 地震発生直後からの行政による災害対応は特に川口町と山古志村において大きく出遅れたといえます。 川口町は役場の建物が被害を受けた上にライフラインの途絶もあり、 地震発生から2週間程度は庁舎前のテント内に災害対策本部を設置し、 不便な状況の中での対応を行わざるを得ませんでした。 山古志村に関しても全村避難に伴い役場も移転せざるを得ず、 少ない資料のみで長岡市や新潟県の施設に間借りする形で役場機能と災害対策本部を設置しての対応となりました。 さらにこの二つの町村は行政職員そのものの人数も少なく、 本来は考えなくてはならない各種の対策についてすべてには手が回らず、 緊急対応とそのための情報収集にのみ労力を傾注せざるを得ない状況となっていたようです。 その結果、 川口町では仮設住宅の入居希望者の把握や敷地の確保などが他の市町村に比べて遅れるなどの問題が発生することとなりました。 周辺自治体も同様に被災しているため、 なかなか協力体制を構築することができませんでしたが、 これらの地域にはまだコミュニティの力が厳然と維持されており、 避難所の運営や各種連絡についてはそれが大きく機能しました。 特にそれぞれの部落における区長(自治会長のような存在)や消防団長は重要であったといえます。 地域の人も県の職員などの意見よりも区長さんの指示に従う傾向があり、 今後も区長さんはさまざまな場面で重要な役割を担うこととなりそうです。

 少ない人数で何とか対応する行政の支援として、 川口町には姉妹都市協定を結んでいる東京都狛江市が多くの仮設トイレと行政職員を送り込み、 支援を実施しています。 職員に関してもローテーションを組みながら職員が常駐し、 川口町の職員が手の回らない仕事を継続してサポートし続けています。 他にもいくつかの都市が行政支援を行っており、 それらの協力を得ながらの復旧・復興活動となっています。 さらに川口町には自衛隊がかなり早期のうちに現地入りし、 炊き出しやテントの設営、 入浴施設の設置などを行いながら復旧活動を支援しています。 これらの支援はきわめて有効であったといえます。

今後の動向について

 被害状況のところでも触れましたが、 現時点で一番懸念されているのは雪の問題です。 積雪によって被害がさらに拡大した場合の取り扱いに関する懸念が払拭されていません。 雪によりさらに被害が拡大した場合、 その被害を震災によるものと認定されることが明らかとなれば、 建物の補強などよりも家財道具の持ち出しや雪囲いによる内部の保護に傾注できますし、 そうでない場合には何かしらの補強をしながらなんとか積雪加重に耐えるような対応を限られた時間でしておきたいという思いの間で判断に迷っている被災者がかなり多くいらっしゃいます。 それだけでなく、 仮設住宅での雪の処理も問題となりそうです。 一応積雪地域用のスペックや配置で仮設住宅は建設されているようですが、 陸屋根形式の仮設住宅では一定以上の積雪で雪下ろしの必要が発生しそうです。 その場合のスペース的な問題や人手の問題などへの対処は現時点では定かではありません。

 また冬を経てしまえば村を離れる決心がつくかもしれないという思いを被災者が少なからず持っていることが今後の再建に際して影響を及ぼすかもしれません。 現時点でも少なからずそのような思いを持っている人はいるものの、 部落全体の意見として現地での再建が前面に出ている現在はそのような行動に移ることははばかられるというのが実情です。 コミュニティの力は避難生活を円滑に進めるために有効に機能するものの、 そのような個々人の意見を封じてしまう力も反面持っているのです。 それが冬を越すことで多少それぞれの判断が尊重され、 町が縮小していくことを許容してしまうのかもしれません。

さいごに

 新潟中越地域、 特に中山間部の人々の我慢強さ、 慎ましやかさには感心するとともに、 今後行政が提示してきた復興策を特に文句もなく受け入れてしまいそうな恐れを感じます。 自分たちの本当に望む復興のすがたをなんとか作り上げられることができないだろうかとおもいます。 ただ、 よそ者はなかなか信用しない地域性を持つ今回の被災地において外部からの支援はなかなか難しいかもしれません。 相手のことを理解しながらうまく協力できる方法を模索して行こうと思います。 なお、 被災地の状況ならびにこれまでの活動に関しては筆者による
「中越ホープダイアリー」http://sawada-lab.cocolog-nifty.com/hopediary/にアップしてあります。 興味のある方はたずねてみてください。

(文中の写真は筆者が撮影したものです)

 

連載【たるみレポート4】

たるみレポート(その4)
地域で子どもどうしの交流を進める

神戸市 大塚 映二・野口 千晶

 かつては当たり前だったことですが、 子どもは家庭や学校だけでなく、 地域の中で様々な人々と関わり合いながら育ちました。 その「地域の教育力」を復活させようと、 神戸市内でもふれあいのまちづくり協議会を中心に地域での子育て支援の取り組みが盛んです。 垂水区ではほとんどのふれまち協で子育てサークルができています。 いま一歩進み、 地域における子どもどうしの交流〜年齢差を超えた関わり合い〜を図る動きが出ています。

 今回は、 わが課のヤンママ職員=野口千晶がその一端をレポートします。   ※ヤンママ:ヤングママ、 ヤンキーママ。 彼女は○者?

(大塚映二)

 夏休み直前の土曜日、 つつじが丘ふれあいのまちづくり協議会主催で「高校生の話を聞く会」が開催されました。

 この会は、 地元の中学校を卒業した高校生が、 後輩の中学3年生へ、 高校生活について話をする、 というものです。

 当日は、 17名の中学生と8人の保護者、 15校・19名の高校生、 また中学校の先生も参加しました。 高校生は、 自分たちの学校の制服を着て、 校則、 授業・テスト内容、 クラブ活動、 現在の高校の志望理由や、 通学方法・通学時間、 1ヶ月の定期代、 携帯電話の使用の可否、 学食の人気メニューなどについて話してくれました。

 あまり人前で話す機会がないのか、 最初は緊張した面持ちで、 小さな声で原稿を読み上げるのが精一杯でした。 しかし、 時間が進むにつれ、 会場の雰囲気も和やかになり、 飾らない、 高校生らしい自分自身の言葉で話すようになりました。 また、 直接勉強していない授業や、 入部していないクラブ活動などについても、 事前に先生や友達、 先輩に取材をし、 自分たちの学校についてとても詳しく調べていました。 オープンキャンパスではなかなか聞くことのできない内容に、 中学生も興味深く耳を傾けていました。

 続いて懇談の時間になり、 中学生の保護者より「今の学校に満足していますか?」との質問。 これには、 8割以上の高校生が「満足しています。 」と答えていました。

 恩師でもある中学校の先生からは「学校で流行しているものは?」と聞かれ、 制服の着こなし方、 筋肉トレーニング(!?)、 などユニークな答えがかえってきました。

 この会に参加したことがきっかけとなり、 夏休みの終わりに行われた地域の夏まつりには、 高校生がポップコーンの屋台を出すなど、 地域行事へ積極的に参加するようになりました。

 そして、 中学生は、 先輩のアドバイスを聞いて、 これからの受験勉強の励みとなったものと思います。

(野口千晶)
 
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「なんか照れるやん・・・・」 「赤ちゃんが抱けた!!」(本多ブ聞子育てサークルでのひとコマ)
 

 

連載【コレクティブハウジング18】

ふれあい住宅(復興公営コレクティブ住宅)の検証(その4)
住人のふれあい活動のうつり変わり

石東・都市環境研究室 石東 直子

 

 ふれあい住宅の財産は、 豊かな協同室と協同室を核にした住人の日常的なふれあい活動と言えるが、 これらが住人の加齢によってその輝きを失いつつある。 震災の辛い体験をした人たちは入居当初は、 新しい住まい方に戸惑いながらも自治会役員の奮闘や外部サポーターの協力を得て、 希望を膨らませて和やかに食事会やお茶会をスタートさせた。 幾つかの住宅では住民間のトラブルも発生したが、 しばらくすると住人たちの自律した協同の生活運営がなされるようになった。 住宅によって多少のちがいはあるが、 月ごとの食事会、 週ごとのお茶会やモーニングサービスなどがあり、 クリスマス会、 忘年会、 お餅つき、 新年会、 雛まつり等々の節季行事が行われていた。 2ヶ月ごとの「ふれあい住宅連絡会」にも各住宅から有志の多くが参加されていた。 これらのふれあい活動を通して短期間のうちに住人たちは親しくなり、 信頼関係を育んできた。 「誰かのお葬式を重ねるごとに皆の気持ちが寄り添っていくわ」という声も聞かれた。 その後住人の加齢とともに少しずつ定例の行事は減少されてきたが、 それでも2001年の時点では表あるようなふれあい活動が続けられていた。 それが2004年5月実施の第二次ふれあい住宅カルテをみると、 様相はかなりちがっている。 一部の住宅をのぞいて多くの住宅が定例的な食事会やお茶会はやめており、 節季の行事も少なくなっている。 ゴミステーションや共用廊下の清掃を人材センターに外注した住宅もある。 また、 ふれあい住宅独自の活動をやめて地元の自治会や老人会の行事に参加するようにしている住宅もある。 そんな中で外部サポートの協力でお茶会を継続している、 または再開した住宅がある。 元気な住人がボランティア登録をして活動助成金を得て友愛訪問や安否確認をしたり、 同一敷地内の隣接の住宅と一緒にお茶会を続けている住宅がある。

 住人の自律したふれあい活動の減少の要因は、 何といっても住人の加齢によって活動エネルギーがなくなってきたことや自室にこもる人が出てきたこと、 新しく入居してきた人がふれあい住宅の住まい方を知らないことなどがあげられる。 なお、 住人の中には定例の食事会を楽しみにしていたと言う人は多く、 行事は減ったがこれまでの行事を通して住人同士の信頼が深まり、 人間関係は良くなったという声も少なくない。 ひとつ屋根の下に暮らしているという連帯感があり、 夜中に救急車で運ばれていくような時は誰かが付き添って行く。 また、 自分たちだけでやるエネルギーはないが何とかして住民同士のふれあいの場を持ちたいという願いをもっている人もいる。 住人が自分たちでふれあい活動を行うエネルギーがなくなった時、 継続した外部サポートの導入が望まれている。

 

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県営岩屋北町住宅の「お茶屋いわや」 04年2月14日 神戸市営真野ふれあい住宅のモーニングサービス 04年7月18日(神戸芸工大・石井清己さん撮影)
 
 真野ふれあい住宅では今春の新役員から新たなモーニングサービスが再開された。 神戸芸術工科大学の学生と教師が特別講義で真野ふれあい住宅を訪れたのをきっかけにサポートするようになった。 これまでの居住者だけを対象にしていたモーニングサービスを地域の人たちもオープンにして、 第1と第3の日曜日に開かれている。 来場者は40〜50人で「花が咲いたみたいねぇ」と喜びの声をあげている。 岩屋北町ふれあい住宅では神戸大学総合ボランティアセンター灘地域活動センターの学生が隣接の復興住宅も対象にした「お茶屋いわや」を毎週土曜日の午後開いており、 毎回50人以上の来場者があり、 もう何年も続いている。

 私が考えているアイデァのひとつに介護保険制度の活用がある。 家事ヘルパーの食事づくりを依頼している人たちが寄って協同室でまとめて食事を作ってもらって一緒に食べる。 ある会合でこの話をしたら、 介護保険制度に係わっている人たちから「そんなことはできない」と一笑に付されたが、 ひとりのヘルパーさんからはこんな話が披露された「一人分の食事づくりは作りにくいし無駄が多い。 例えば『肉じゃが』を一人分作る場合の食材は、 ジャガイモ1個、 玉ねぎ半個、 しらたき少し、 牛肉30〜50グラムぐらいで十分だが、 こんな買い物はしにくし、 少量を作るのは味も良くない。 3、 4人分まとめて作ると作りすいし味も良くなり、 調理時間はそんなに変わらない。 同じ介護保険制度を利用している近隣の人たちが集まって食べられるようなことができればいいのに」と。 これはふれあい住宅なら実現できそう。 協同室で一緒に食事を作ってもらって皆でいただく。 他の住人たちも一緒になって作れば定例の食事会が再開されたことになる。 現行の制度上では難しくても、 まず運用面で工夫をしできそうな住宅で試してみたいと思っている。 あるいは、 希望者たちが食事づくりの有償ヘルパーを共同で雇うことも一法であるし、 それを元気な住人が有償ヘルパーとして行うことも考えられる。

 このような方策を提案して実現化していくコーディネイトの人材と、 継続したふれあい活動をサポートする制度が必要である。

 豊かな協同室を閑散としておくのは宝の持ちぐされである。 住人が自室にこもらないで日常的に隣人たちとふれあうことは楽しみをもった暮しであり、 健康保持につながる源のひとつである。

 

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ふれあい住宅の主なふれあい活動(「第一次ふれあい住宅カルテ」2001.7診断より)
 

 

連載【大大特8】

地域工業復興−「酒蔵地区の再生」

コー・プラン 上山 卓

 

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 大都市大震災軽減化特別プロジェクト(地域経済復興)研究検討会の第5回研究検討会が、 平成16年10月14日(木)18:30から、 こうべまちづくり会館6階会議室で開催された。 今年度は「地域工業復興」をメインテーマにして研究を行っており、 今回は阪神間の伝統産業の一つである酒造業を取り上げ、 「酒蔵地区の再生」をテーマに2つの事例報告と講演を行った。

事例報告1:魚崎郷地区の取組

 山本俊さん(地域問題研究所)からは、 灘五郷の一つである「魚崎郷」の事例報告が行われた。

 魚崎郷地区は、 震災で木造蔵を中心に壊滅的な被害を受け、 震災を契機とした魚崎郷の変化として、 (1)酒造企業の減少など地場産業(酒造業)の低迷、 (2)ホームセンターの進出、 観光蔵や酒造記念館などへの転換による産業の多様化・観光化、 (3)震災前から増加傾向にあった人口・世帯数が、 大規模敷地へのマンション立地によって拍車がかかったことなどが紹介された。

 このような急激な土地利用とまちなみの変化を住民としてどのように考えるべきかということで、 まち歩きなどを通じて検討を行い、 平成10年に神戸市と「魚崎郷地区・景観形成市民協定」を締結し、 「魚崎郷清流プラザ」の整備と管理・運営、 ゲートポイントのモニュメント整備、 新住民も含めてまちの歴史を再発見する「まちなみウォーク」の実施など、 酒蔵地区にふさわしい景観形成とコミュニティ形成に向けた取組が報告された。

事例報告2:西郷(新在家)地区の取組

 浜村吉昭さん(神戸市地域支援室)からは、 灘五郷の西端に位置する「西郷地区」の事例報告が行われた。

 西郷地区では、 平成2年に結成された「新在家まちづくり委員会」を中心に、 酒蔵と住環境の共生をテーマとしたまちづくりの検討を進めていたことと、 まちづくり協定を締結しようとした矢先に震災があり、 その内容を再検討したうえで、 平成8年に神戸市と「新在家南地区まちづくり協定」を締結したことが報告された。

 そして、 「酒蔵の道」整備も進み、 和風を基調としたデザイン誘導が進むなかで、 2年前くらいから土地利用転換の動きが見られ始め、 遊休地にホームセンターなどの立地が進み、 地域としても酒造企業としてもまちづくりのむずかしさが見え始めており、 まずは市内の灘三郷が一体となった取組が必要であるという話があった。

講演:西宮郷の酒蔵再生

 辰馬朱滿子さん(白鷹禄水苑)からは、 西宮郷における「白鷹禄水苑」の事業の紹介を中心とした、 「酒文化再生」に向けた取組について話をしていただいた。

 白鷹禄水苑は平成13年に設立され、 「灘の酒のアイデンティティ」を明確にすることが酒蔵地区の再生につながるという考え方のもと、 (1)酒蔵と住居が一緒になった内蔵形式の「蔵元のくらし」の紹介、 (2)酒質の原点である「生?造り」「宮水井戸」の紹介、 (3)華美ではないが、 ものを大切にする「造り酒屋」のさまざまな道具の展示、 (4)地域文化を応援し、 自身も文化人であった「旦那衆」の紹介などを行っていることが報告された。

 そして、 「清酒」を今に活きる酒としてPRするために、 (1)四季折々に旬の美酒を提供する、 (2)日本酒の楽しみの幅を広げる、 (3)地域文化の応援者を継承する文化アカデミーを開催する、 (4)地域の人々が集まるコミュニケーションの場として、 各種イベントを開催するなど、 さまざまな取組が紹介された。

 出席者との意見交換では、 「灘五郷の酒造業の連携が必要。 」「地元の人が灘の酒に愛着が薄い。 」「地域として一体的な取組が必要。 」「観光業はあくまで副業で、 生産を基本とするべき。 」「外国人観光客への対応もきちんとして、 酒文化を世界に紹介するべき。 」といった、 酒蔵地区の再生に向けた意見が出された。


 

連載【まちのものがたり20】

交差点の落とし物・2

中川 紺

 布をひろった。

 黄色い地に小さな水玉模様の布で、 手触りから綿だと思われた。 よく見れば水玉模様の「水玉」は円形をしておらず、 ひとつひとつが花のシルエットを描いていた。 コスモス、 桜、 パンジーくらいは判別できるがあとはよく分からなかった。 珍しいけれど、 なかなかかわいい模様で、 こういう布でなら裁縫が苦手な私も何かつくれそうに思えた。

 広げると正形をしていない。 何かに使った残り布のようだ。 それなのに拾ってしまったのは、 とてもていねいに折畳まれていたからだった。 捨てたものとは思えない。 ついさっき、 パッチワークを趣味にしているおばあさんが材料の入った袋からそっと落としていった、 そんな雰囲気だった。

 元に戻しておこうか、 どうしようか。 もうすぐ学校へ行く子供たちがたくさん通る。 踏まれて足型をつけられるかもしれないし、 溝に蹴飛ばされるかもしれない。 私は布をすぐそばの生垣の枝に、 道から見えるように引っ掛けておいた。 きっとお昼までには持ち主が来ますように、 そして布に気付きますように。 ささやかに祈って私は会社に向かった。 電車を一本遅らせることになってしまったけれど。

● ●

 会社に着くと私の頭の中に「黄色い布」の居場所はほとんどなくなり、 仕事が始まるとそれは消えて無くなってしまっていた。 担当していたプロジェクトに問題が発生してそれどころではなかった。 その日から数日、 残業で帰宅は深夜になった。 布のことを思い出したのはトラブルがようやく片付いた翌日の朝、 最初の日から五日も経った時だった。

 

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 あの花水玉の黄色い布は、 生垣から跡形も無く消えていた。 持ち主に拾われたのか、 小学生にいたずらに持ち去られたのか、 今となっては分からないことだけれど、 私は前者であると信じることにした。

 あの布は何に使われるだろう。 はぎれを大事に扱う人だから、 きっと素敵なものをつくるに違いないと思った。

● ●

 数カ月が過ぎた。 入学式が済み、 新しい小学生たちが家の前を通る季節になっていた。 私は三月に仕事をひとつやり終えて、 久しぶりに週末を家でぼんやりと過ごしていた。

 縁側で母親が入れたお茶を飲みながら、 うつらうつらと小さな庭を眺めていると、 モッコクのつややかな葉の間に、 見覚えのある黄色を見つけた。

 近づいてみれば、 それは作りかけの鳥の巣で、 あの花水玉模様の布が巣作りの材料に使われているのだった。 庭の木に巣を作られるのは、 私が知っている限りでは初めてだった。 何より、 あの布とこんなところで再会したことに驚いてしまった。

 布自身もこんな使われ方をされるとは思ってなかっただろう。 でも黄色は巣にとても似合っていた。 どんな経緯で巣になってしまったのか……あの日持ち去ったのがこの巣の鳥なのか、 布の持ち主から巡り巡ってこうなったのか……いろいろ想像していると、 何かをくわえた一羽の鳥が戻って来た。 お腹の白い小さな鳥だった。 (完)

(イラスト やまもとかずよ)


第72回・水谷ゼミナール報告

 

 今回のテーマは「震災復興各種共同住宅の入居者の特徴について」で、 10月29日(金)ひょうごボランタリープラザで行われました。 まず、 進行役の小林郁雄さん(コー・プラン)よりテーマ解説が行われたのち、 以下の報告がありました。

 (1)「民間コレクティブ住宅等の入居者について」/野崎瑠美(遊空間工房)
 (2)「公団震災復興再開発住宅の入居者について」/田中貢(大阪府都市整備推進センター)
 (3)「震災復興公営住宅等の入居者について」/立木茂雄(同志社大学文学部社会学科)

 野崎さんからは、 ご自身が手がけられた民間コレクティブ住宅である「ココライフ魚崎」(神戸市東灘区)、 「ココライフ御影」(同左)、 「芦屋17℃」(芦屋市)について、 建設のきっかけや、 地元NPOによる運営、 建物のコンバージョンによる種々の課題などが語られました。 特に「芦屋17℃」では、 様々な居住者が協同居住によって気持ちや行動が変化していく様子の報告が印象的でした。

 田中さんからは、 震災復興区画整理地区などで建設されてきた共同建替住宅7棟について、 居住者の特徴(年齢、 家族形態、 収入、 共同建替への参加意識、 現時点の満足度や課題など)から様々に調査し分析している様子が、 中間報告として話されました。

 立木さんからは、 まず震災後5年及び10年検証として行われた草の根ワークショップから生活復興過程を俯瞰した上で、 震災後大量に供給されてきた復興公営住宅について、 「LSA活動実態調査(2001年)」や悉皆調査が行われた「災害復興公営住宅コミュニティ調査(2002年)」を社会学的に分析し、 多様な“重要他者”とのかかわりが重要で、 そこからあらためて自己が形成されるということが報告されました。 (中井都市研究室 中井 豊)



情報コーナー

 

●第73回・水谷ゼミナール

・日時:12月27日(月)18:00〜19:45(〜22:00忘年会)
・場所:北野ガーデン(神戸市中央区北野町2-8-1)
・テーマ:「今年できた私の作品、 私たちの作品」
・内容:未定
・会費:1,000円(資料代、 学生無料、 忘年会は4,000円)
・問合せ:ジーユー計画研究所(TEL.078-251-3593、FAX.251-3590)
(2005年2月11日に記念事業を行います。 詳細は次号にて。 )

●被災者復興支援会議III連続フォーラム「自律と連帯−まちづくりは運動である」

・日時:12月18日(土)14:00〜16:00
・場所:県立神戸学習プラザ第5会議室(阪急・阪神三宮駅すぐ、 交通センタービル4階)
・内容:映画「野田北部・鷹取の人々」の上映、 「自律と連帯」についてのワークショップ、 他
/小森星児(ひょうごボランタリープラザ所長)、 青池憲司(映画監督)、 日比野純一(たかとりコミュニティセンター専務理事)、 岩堂美智子(大阪私立大学生活科学部教授)、 コーディネーター/小林郁雄(復興市民まちづくり支援ネットワーク)
・問合せ:被災者復興市民会議III事務局(TEL.078-362-4218)

●震災10年 市民とNGOの「防災」国際フォーラム

12月11日(土)13:00〜15:00、 神戸市勤労会館7階大ホール、 出演者/柳田邦男(ノンフィクション作家)、 他

●台湾−神戸 震災被災地市民交流会

<震災映像上映会>
1月16日(日)10:00〜17:00、 ピフレホール(神戸市長田区)
<シンポジウム「台湾−神戸 震災と復興」>
1月17日(月)14:00〜17:00、 こうべまちづくり会館(神戸市中央区)

●1.17ひょうごメモリアルウォーク2005

1月17日(月)、 神戸市・芦屋市・西宮市内の山手幹線、 HAT神戸

●国連防災世界会議

1月18日(火)〜22日(土)、 神戸ポートピアホテル、 神戸国際会議場、 他


  ※中山久憲さん連載「『コンパクトシティ』を考える」は、 災害関連の記事が増えたため12月号に掲載します。

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