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041023新潟県中越地震・中山間地の復興・再生について

長岡造形大学教授 平井 邦彦

 新潟県中越地震の主要被災地は13市町村、 東西約30km、 南北40kmの範囲で、 被災中山間地集落の数は数百にのぼり、 小水系ごとに形成されていた棚田群の被災数はその数倍であることは確実であり、 数千のオーダーに達しているとも考えられる。

 今回の中越地震は地盤災害であり、 棚田の命ともいうべき水系が崩れ、 埋まり、 消失している。 地下の水系がどうなったか分らないところも多い。 棚田自体も崩落、 陥没により全く形状が変わっているところもある。 地すべりによって棚田群自体がズズッと動いているところもある。 ものすごい棚田破壊も起こっている。 斜面、 崖、 山の崩れあるいは滑りにより、 水路も棚田も農業用道路も一般道路も完全に土砂に埋ったり、 持ち上げられたり、 移動しているところもある。 地元の人でさえ地震前の形状との関係が理解できないところもある。 したがって、 原形復旧や改良復旧がイメージできるところもあるが、 全く新しい復興・再生像を描かなければならないところも数多い。

 中山間地復興・再生が地元農家の意志にかかっていることは言うまでもない。 しかし、 営農継続意思は今のところ不明確である。 営農意欲の強い地権者もいればもはやそれを失っている地権者もいよう。 地震前の権利関係さえ不明確なところもあり、 まして形状が変わってしまった棚田群の権利関係の確定は困難を極めるであろう。

 棚田と集落も含めた中山間地復興・再生計画は、 地元の意向を固めつつ、 しかも権利関係を明確にしつつ作成されなければならないし、 国交省、 農水省、 林野庁につながる諸事業部局の同意も必要である。 計画の実行にあたっては費用負担を明確にし、 諸事業のスケジュール管理が必要不可欠であり、 計画検討から作成、 合意、 事業完了までの期間は最短でも3−5年をみなくてはなるまい。

 棚田の復興・再生は住いと集落の再建と一体不可分の関係にある。 中越地方はこれから雪の季節に入り、 被災地は豪雪に閉ざされる。 被災者は自宅であるいは仮設住宅で、 住い、 集落、 棚田の再生という3つの課題に向き合うことになる。 来年の雪解けまでの今後の4−5ヵ月の間に、 新しい方向、 可能性を見出していかなければならない。

 被災中山間地の復興・再生に関し、 人材、 ノウハウ、 技術が圧倒的不足している。 都市側と農林側の技術者、 実務者、 研究者の一致協力の対応体制を早急に作り上げ、 地元できめ細かく息の長い活動を行い、 自治体、 国との調整を行いつつ合意形成を図るチームを生み出す必要がある。 また、 そうしたチームの活動をサポートするアンカー的機構も必要とされている。

 1923年の関東大震災後の帝都復興は、 耕地整理を都市に適用して土地区画整理という都市整備手法を生み出すとともに、 その後の都市整備、 まちづくりにつながる多数の人材とノウハウを生んだ。 2004年の新潟県中越地震の中山間地復興・再生は、 今度は都市から農村へと向かう大きな還流の生み出しとしなければならない。


 

連載【コンパクトシティ10】

『コンパクトシティ』を考える10
『田園都市』レッチワースの魅力と限界

神戸コンパクトシティ研究会 中山 久憲

1. 『田園都市』の実現に向けて

 E。 ハワードが1898年に発表し、 全国を講演した『田園都市』構想の中心思想は、 独立した職住近接型の新都市の建設を、 都市と農村の統合によって、 アメニティ豊かな調和あるコミュニティを作り上げることであった。 構想に賛同する下層中流階級の直接参加によって、 あこがれのジェントルマンのライフスタイルである「田園生活」を提供し、 大都市の過大な過密を解消しようとした。 ハワードは都市建設を段階毎に進める具体的道筋を示し、 多くの熱心な人を集め、 「田園都市協会」を設立した。

 1903年には、 協会は十分な援助と資金を集め、 9月に「第1田園都市会社」が誕生し、 『田園都市』の実現を目指す運びとなった。 ロンドンの中心から約56km離れたレッチワースの土地が選ばれ、 3,818エーカー(約1,544ha)の広大な農地が会社により買収された。 1904年2月に、 基本計画のため指名設計競技が行われ、 レイモンド・アンウィンとバリー・パーカーのプランが採用された。

2. レッチワースの都市設計

 アンウィンとパーカーの両氏は、 ハワードが提示した新しい型のコンパクトな都市のスケッチ(前号で紹介)を、 一つのダイヤグラムとして理解し、 『田園都市』の理念を十分に理解し、 その諸原則を設計上に反映させた。

 具体的なレッチワースの設計は、 都市部の中央にロンドンとつながる鉄道のレッチワース駅を置いた。 全てが借地という条件の下、 駅の周辺にはショッピングセンター、 線路沿いには工場等を配置し、 住民のほとんどがそこに勤め先をもつことができるよう多様な企業をバランスよく誘致した。 それを取り囲む形で、 人口32,000人のための住宅と庭園によるまちが広がり、 活気ある地域社会を形成させようとした。 都市の骨格は、 既存の道路や丘陵の尾根線と谷筋の小川に配慮したため、 道路網は曲線となり、 まちの街区は表情豊かな構成となっている。 また、 会社の持つ土地の約半分を、 都市部を取り囲む不可侵のグリーンベルトとしての農業地帯とし、 会社が農業従事者を雇用し、 市場作物としての小麦栽培を中心とした農業が営なまれている。

 ハワードの構想の重要な鍵である全土地の会社による単一所有を実現したことで、 田園都市開発による地価の上昇を個人が占有することなく、 開発利益はコミュニティの便益のために充てる諸原則が完全に維持された。 これによって、 グリーンベルト機能の農地が、 都市化の波を受けて、 収益性の高い土地利用に売却処分されることもなく、 美しい田園都市を維持することができた。 つまり株式により土地所有を小口化し、 たくさんの市民を株主として結集させて大地主にすることで、 美しいまちの成長の理想像を共有する一方で、 株主への配当を低く抑え、 痛みを分かち合いながら「持続ある社会」を築くことに成功した。

 ただし、 現在までに、 土地の所有者は会社から、 公社を経て、 財団法人へと変遷しているが、 レッチワースの大地主であることには変わりない。

 

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図1 1904年のレッチワースのオリジナル設計図 図2 現在のレッチワースの平面図
 

3. コミュニティ重視の住宅地設計

 アンウィンにはさらにいくつかの重要な課題を解決しなければならなかった。 下層中流階層が購入可能で、 様々な家族構成に応じ、 さらに新しい土地の上に強い絆で結ばれたコミュニティを築くことができる、 田園的雰囲気の感じられるアメニティ豊かな住宅の設計であった。 経済性の追求と、 彼自身が「過密から得られるものは何もない」と論証する相矛盾する命題の解決を迫られた。 住宅地設計は全く革命的なものとなった。

 1)宅地はスーパーブロック方式を採用し、 街路形態に曲腺の街路やクルドサックを多用し、 必要な街路面積を最小化するとともにオープンスペースを生み出す。
 2)宅地開発のみならず、 さらに日常生活上必要とされる各種のコミュニティ施設の充実を図る。
 3)住宅建設は低所得階層の入居を可能ならしめるためコストの軽減を図るだけではなく、 デザインコードを策定しまち並み景観に配慮する。
 4)「民主的コミュニティ」を形成すべく、 共同で利用する必要な施設を整備に際して、 住民の組織化を図る。

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図3 住宅地・道路配置例
 具体的な宅地設定及び住宅の建設は、 ハワードが設定した標準敷地である間口6m、 奥行き40mという規模にこだわらず、 間口や奥行きの長さに多様性を持たせた。 ブロック毎に、 テラス式の数戸の連続住宅の建設を基本として、 大きな1戸建住宅や2戸建住宅を組み合わせながら、 通り毎の細かい建築デザインのルールを決めることや、 道路から様々な距離で後退させ、 共有のオープンな前庭空間をとることで視覚的にも開放させ、 ゆったりした個性豊かな家並みの景観を作り出した。 現在の約13,000戸の住宅形式の内訳は、 テラス式5,400戸、 戸建2,600戸、 2戸建2,700戸、 共同住宅2,300戸になっている。

 アンウィンたちは住宅の設計に始まり、 前庭空間の取り方、 裏庭の使い方、 街区の構成、 道路や家並みの景観について、 住民の参加によってルールを作っていった。 住民は生活を成立させながら、 個々のコモンを処理することで、 コミュニティ(Common+Unity)としての結束を強めることができるようにしたのであった。

 アンウィンが提言の手本としたのは、 中世ドイツの丘の町の不規則な配置のまちづくりの伝統であった。 『田園都市』のイメージを、 中世の都市のスケールを持つ自律的な都市の姿に求めた。

4. 『田園都市』構想の発展の限界

 田園都市の基本である職住近接による自己充足性の理念も、 1930年代以降に崩れ去った。 鉄道で当時も1時間かからない中心都市のロンドンが発展拡大し、 職種の豊富さと便利さから、 通勤して働きに行く人が増えたからである。 当初描いた自律性の高い本来の「衛星都市」の意義が徐々に変質していった。

 また、 下層中流階層に豊かな職住環境を供給する目的の民間による住宅事業も、 当初は公共による補助金もなかったことや、 アンウィンらの努力の結果、 豊かなアメニティと利便性のため、 かえって皮肉にも富裕者の優雅な生活の場になってしまった。

 田園都市構想は、 第2の田園都市ウェルウィンに続いては建設されず、 結果的には母都市の大工業都市の都市問題を解決する自律的な衛星都市群を形成するまでには至らなかったのであった。

<参考文献> 齋木崇人「最初の田園都市・レッチワース」、 造景No.16、 1998年


 

連載【阪神間倶楽部9】

環境循環型都市:阪神間の農

兵庫県立 人と自然の博物館 中瀬 勲

農へのこだわり

 昭和23年2月に農家の長男として生まれました。 農へのこだわりは、 子どもの頃からの農地、 ため池、 河川での、 近所の子どもたちとの遊びが原点になっています。 我が家のにわ、 野原、 田畑周辺でのツクシ、 ヨモギ、 イタドリ、 スギノミ、 クワノミ、 グミとり、 河川やため池でのウナギ、 ナマズ、 フナ、 モロコとりなどは懐かしい思い出です。 今から思うと、 祖母、 祖父をはじめとした家族や近所のガキどもが遊びの師匠でした。

 しかし、 高校、 大学になるにつれて、 農家では、 春、 秋の休日毎に労働しなくてはならなかったので、 余り良い思い出はありません。 嫌で嫌で、 逃げていたように思います。 しかし、 今から思うと、 懐かしい農の風景です。

 そのころ、 社会では、 科学技術の飛躍的な進展と共に、 快適、 利便、 安全、 健康な都市環境の構築を成し遂げたともいえます。 しかし、 その過程で、 意識的、 無意識的に自然環境をないがしろにしてきたことも否めません。 同時に、 田畑は都市的土地利用に転換されていったのです。 今日、 原風景、 循環、 生物多様性、 自然再生、 環境学習などが重要なテーマになりつつあるように、 成熟社会、 少子・高齢社会の今、 自然や環境、 さらには農に対する私たちの価値観が問われています。

都市が育む農

 高度成長期以前の阪神間では、 地形上の影響で、 都市、 森林、 農地が近接して分布していました。 この近接して分布していることが、 阪神間が、 「環境循環型都市、 有機農業都市であった」と言及したい理由です。 都市から農地に様々な有機物が供給され、 森林からも、 肥刈り、 しば刈りとして農地に有機物、 そして水が供給され、 農業生産物としての農産物が都市に還流していたのです。 まさに、 環境的に健全な循環を形成していたのです。

 都市と農地の間で、 有機物を循環させる装置の役割を、 生産活動としての農業は担っていたのです。 循環装置として、 農業生産活動を中心にして、 それを支える牛馬の飼育、 水路、 ため池、 野ツボなどの維持・管理・運営があげられます。 農文化の再発見、 循環のための仕組みや装置などは、 今の私たちの町づくりに多くの示唆を与えてくれるものといえます。

 宝塚の植木産地は、 武庫川とその支流から供給される水、 砂、 河川からの湿気が背景となって形成されているといえます。 さらに、 扇状地地形、 瀬戸内気候は、 二毛作としての阪神間農業に影響しています。 これに関連して、 ため池かんがいの仕組みが見られます。 取水樋門の工夫を通じた水温調整機能、 他に、 ため池の、 底樋、 堤体のはがね、 水路やサイホンなどがあります。 これらは重要な農業文化ともいえるでしょう。

阪神の農・森林あれこれ

 かつてから、 阪神間の農地は住宅などの開発適地であったといえます。 例えば、 鳴尾浜などでは海水面が埋め立てられ、 新田が造成されてきました。 その後、 住宅地、 工場地へと転換が進んでいます。 かつて、 景観計画(鹿島出版会)を翻訳したとき、 1900年当初、 T.チャーチの時代、 「カリフォルニアは呼んでいる」とのキャンペーンで住宅開発が進行したことを記憶しています。 まさに、 「阪神間は呼んでいる」とのテーマのもとで、 山林、 農地、 ため池、 海水面が住宅地へと土地利用転換されたといえます。

 一方、 阪神間の森林は、 欧米型森林レクリエーションのパイオニアといえます。 まず、 後背地の森林は、 本多静六(1900)らによる緑の回復のフロンティア、 応用生態学のはじまりであり、 近代日本の緑の回復の原点なのです。 この森林を舞台に総合的保養地整備が森林型のレクリーションとして進展しています。 ウイーンの森、 フォンテーヌブローの森、 リッセンの森、 エピングフォレスト、 セントラルパークなどに匹敵する都市林といえます。 欧米型の森林レクリエーションの芽生えと成熟がみられます。

未来に向けて

 かつて、 「神戸市エコポリス計画」の策定をお手伝いしたことがあります。 自然との共生へ、 ビオトープネットワークの回復など、 当時としては画期的な内容であったと自負しています。 水系、 流域を基礎にして、 水、 生きもの、 有機物などの流れの関係性の再構築を通じて、 再び環境循環型都市に向かうことを期待します。 特に、 神戸市西区、 北区、 宝塚市などにはまだまだ農地が健在です。 地産地消、 地域内循環、 グリーンツーリズムなどの仕組みを通じて、 市民主体で進めたいものです。

 

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植林前の六甲山(明治36年) 植林後1年目(明治37年) 植林後10年目(大正2年)
 

阪神間倶楽部 第9回研究会の記録
○日 時:2004年10月16日(土)14:30〜16:30
○場 所:相楽園会館
○参加者:6名

 この日は天候にも場所にも恵まれたのですが、 何と!参加者が、 お願いいたしました講師も含めて6名という驚きの研究会でした。
 中瀬先生のご幼少?のころの原風景から話しが始まり、 阪神間のとても興味深い結末まで時間を忘れた半日でした。
 少人数ではなんともったいないことだったか、 と反省しきりでした。

当日、 中瀬先生がご用意下さったレジメを少し載せさせていただきます。

はじめに
○原風景から、 農へのこだわり/農家の経験から、 原風景、 農風景、 水循環
1、 20世紀に失った自然環境の回復、 修復/科学技術の残したもの、 私たちの価値観

   成熟社会、 高齢化社会って何?

2、 都市・森林が育む農地/阪神間は循環型都市、有機農業型都市、 農文化の再発見
   (『地図:神戸』『灰小屋』『地図:大久保、 須磨』)

3、 地図から読み取る阪神の農・森林あれこれ/平地の住宅開発、 森林レクの開発
   (『地図:鳴尾浜、 有馬』)

4、 未来にむけて、 再び循環型都市へ/水、 生きもの、 有機物などの関係性確立へ



 

連載【街角たんけん10】

Dr.フランキーの街角たんけん 第10回
消え行く阪急西宮球場

プランナーズネットワーク神戸 中尾 嘉孝

 今年は、 何かにつけ激動の年であった。 プロ野球も例外ではなく・・・っと、 年末モードの書き出しである。 パ・リーグの再編が賑々しくマスコミ各メディアで報じられていた9月、 或る球場の解体工事が始まった。 今回は、 近鉄と合併したオリックスの前身、 旧阪急ブレーブスの本拠地で、 現在解体工事が進む西宮球場について触れたい。

 阪急ブレーブスの前身・大阪阪急野球協会が、 日本で5番目の職業野球チームとして結成されたのは昭和11(1936)年1月のこと。 ライバル阪神電鉄を意識した小林一三の意向があったと伝えられる。 本拠地となる西宮球場は、 阪急西宮北口駅南東の面積二萬五千坪の用地を買収し建設された。 工事は同年12月から開始され、 翌昭和12(1937)年4月末、 工期5ヶ月の突貫工事で完成した。

 私の手元にある竣工当時の工事概要を見ると、 球場面積七千八百坪、 構造は鉄骨鉄筋コンクリート造五階建、 収容人員五万五千人の、 堂々たる大スタヂアムであった。

 設計は、 阪急梅田駅ビルや阪急神戸線西灘〜三宮間の高架橋、 阪急会館等を手がけ、 すでにこのシリーズでも幾度かその名が登場している阿部美樹志である(施工は竹中工務店)。

 阿部は明治16(1883)年、 現在の岩手県一関市に生まれた。 明治38(1905)年、 札幌農学校土木工学科を首席卒業後、 鉄道院に入る。 その後、 農商務省海外実業練習生に選抜され、 米国イリノイ大学大学院に留学。 鉄筋コンクリート構造を学び、 博士号を取得。 大正3(1918)年に帰国し、 東京〜万世橋間に建設された本邦初の高架橋建設の設計を取り仕切った、 わが国の高架鉄道設計の権威であった。 その後、 官を辞して、 阿部美樹志設計事務所を設立。 浅野総一郎の仲立ちで小林一三と出会い、 阪急関係の主要な建築物・造営物の設計に関与。 その後、 戦災復興院総裁等の公職を歴任し、 昭和40(1965)年に亡くなった。

 もともと土木が専門の阿部は、 外観のデザインにあたっては、 装飾で飾り立てず、 たとえばこの西宮球場のファサードに見られるように、 柱型を意識的に配置することで垂直性を強調したり、 階段室を等間隔に配置し、 丸窓を最上階に連ねたりするなど、 構造と意匠とを融合させるように意識したように思われる。 派手さこそないが、 印象的な作品を残した。

 ブレーブス、 オリックス、 そしてアメリカンフットボール、 にしのみや競輪と幾多の名勝負を見つめてきたこのスタヂアムも、 来年8月には完全に姿を消す。 跡地には商業施設が誘致されるという。

 【参考文献】
  「阿部美樹志と阪急の構造物」
  小野田滋(「鉄道ピクトリアル」No663所収)平成10年「京阪神急行電鉄五十年史」茂原庄三編、 京阪神急行電鉄株式会社、 昭和34年

 

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写真1 阪急西宮球場全景(「阪急西宮球場会場記念」絵葉書より) 写真2 阪急西宮球場内景/戦時中に供出された幻の大銀傘に注目(「阪急西宮球場会場記念」絵葉書より) 写真3 阿部美樹志(出典:「阿部美樹志と阪急の構造物」小野田滋(「鉄道ピクトリアル」NO663 P120)より)
 

 

連載【まちのものがたり21】

交差点の落とし物・3

中川 紺

 実をひろった。

 何の実かは分からない。 コンビニを出たところで落とした小銭のそばに転がっていた。 クレヨンで塗りつぶしたようにしっとりとしたオレンジ色で、 形は小さな桃に似ていた。 ピンポン玉くらいなのに、 手に持つと硬式野球ボールくらいの重さはあるように感じた。 まわりに同じ実をつけた木は見当たらなかった。 俺は何気なくリュックのポケットにそれをつっこみ、 そのままバイトに向かった。

● ●

 帰宅は深夜になった。 いつものキムチ味のカップ麺をすすりながら、 実のことを思い出し、 リュックから取り出して机に置いた。

 艶のあるオレンジ色だ。 きんかんに似ている、 と思った。 鹿児島の実家はきんかん農家で、 子どもの頃はいやになるくらいきんかんを見ていた。 こっそりボールの代わりに転がして遊んで、 親父に何度も叱られた。

 

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 ボールが昔から好きだった。 そういえばスーパーボールが流行ったことがあった。 ちょうどきんかんくらいのゴムボール。 見飽きたオレンジは大嫌いで、 青いのや透明でラメが入ったのばかりを集めていたけど、 たしか一つだけオレンジ色のボールがあった。 そうだ。 あれはアベちゃんにもらったんだった。 小学校のときの大親友だ。

 小さな小学校だったけど、 楽しかったことしかおぼえていないな。 あ、 そうでもないか。 一度ジャングルジムから飛び下りて足にヒビが入ったことがあった。 あの時は先生にずいぶんと怒られて、 そしてすごく心配された。 田上先生、 年齢は父親くらいだった印象があるから、 多分、 三十代だったんだろう。 いつもスーツを着ていて、 ちょっと他の先生と違っていた。 それがまたカッコ良くて、 男子に人気があったな。 俺もその一人だった。

 思い巡らしているうちに、 ちょうどカップが空になった。 俺はそのままコタツで眠りについた。

● ●

 ある日家に帰ると、 しばらく放っておいた実はすっかり乾燥して茶色く変色していた。 それだけでなく、 弾けてちょうどイガに入った栗のような状態になっていた。 栗のかわりに小さな種が三つ、 きゅっと詰まっていた。 ひとつを取り出してみて、 ふと思い付いた。 そうだ、 これを植えてみよう。

 植物を育てた記憶は、 夏休みの「朝顔の観察記録」をやったときにさかのぼるほど、 俺には無い。 元々何かと育てることは苦手だ。

 でもこの種は何が出てくるのか、 少し興味をそそられる。 あとで、 カップ麺の容器に土を入れて来ることにしよう。

 実に残っている種をつまんでみる。

 二つ目、 三つ目。

 最後の種だけ、 感触が違った。 試しに振ってみると乾いた「からから」という音がした。

 少し力を入れると難無く割れた。 中から出てきたのは、 使い古した小さな金ボタンだ。 表に獅子の絵がついている。 その獅子を、 見たことがある気がした。 あの頃の先生のスーツのボタンにとても似ていた。

 今年の年末、 実家に戻ったら小学校を見にいこう、 と俺は今、 決めた。 (完)

(イラスト やまもとかずよ)


情報コーナー

 

●創造的復興フォーラム「伝えよう 1.17の教訓−創造的復興から未来へ−」

<復興10年総括検証・提言報告会>
・日時:1月12日(水)〜14日(金)
・場所:神戸国際会議場 国際会議室(ポートライナー市民広場駅下車10分)
・内容:12日/まちづくり(11テーマ)、防災(8テーマ)、13日/産業雇用(8テーマ)、総括検証(8テーマ)、14日/社会・文化(8テーマ)、健康福祉(11テーマ)
<復興10年総括フォーラム>
・日時:1月15日(土)16:30〜18:30
・場所:神戸国際会議場 メインホール
・内容:総括報告/新野幸次郎(復興10年委員会座長)、パネルディスカッション/安藤忠雄(建築家)、井戸敏三(兵庫県知事)、伊藤滋(早稲田大学特命教授)、中村順子(コミュニティサポートセンター神戸)、水越浩士(兵庫県商工会議所連合会会頭)、山崎正和(東亜大学学長)、野尻武敏(復興10年委員会副座長)
・問合せ・申し込み:兵庫県創造的フォーラム実行委員会(TEL.078-362-4040、FAX.078-362-4459)

●メモリアルコンファレンス・イン・神戸]

・日時:1月15日(土)〜16日(日)
・場所:人と防災未来センター(神戸市中央区脇浜海岸通1-5-2、JR灘駅より南へ徒歩12分、tel.078-262-5060)
・内容:
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<メイン会場>
15日(10:00〜16:45)、16日(10:00〜12:00) メモリアルコンサート
<会議会場>
15日(12:00〜16:45)
分科会・・・「被災者の自立とその支援は適切だったのか?」、「市民は地震とどうつきあえばよいのか?」、「すまい・まちの再建は、どう進んだのか?」、他3セッション(危機管理、社会基盤、地域経済)
16日(10:00〜15:00)
分科会(15日と同じ)、こども討論会、総合討論、他
<野外ステージ>
防災ゲーム、防災ファッションショー、他
<炊き出しエリア>
震災10周年炊き出し大会
<屋外展示エリア>
防災関連展示、他
・ 問合せ:メモリアルコンファレンス事務局(tel.0774-38-4273)

●台湾−神戸 震災被災地市民交流会

<震災映像上映会>
・日時:1月16日(日)10:00〜17:00
・場所:シーガルホール(JR神戸駅を東へ徒歩5分)
・内容:<午前の部>「阪神大震災 再生の日々を生きる(青池憲司監督)」上映、舞台あいさつ・対談/青池監督、呉乙峰監督、映画出演者、<午後の部>「生命(いのち) 希望の贈り物(呉乙峰監督)」上映
・入場料:無料
<シンポジウム>
・日時:1月17日(月)14:00〜17:00
・場所:こうべまちづくり会館2階ホール(神戸市中央区元町通4丁目2-14)
・内容:「台湾−神戸それぞれの震災と復興」
・入場料:無料
・問合せ:まちづくり(株)コー・プラン(TEL.078-842-2311 FAX.078-842-2203)

●国連防災世界会議

・日時:1月18日(火)〜22日(土)
・場所」神戸ポートピアホテル、神戸国際会議場、神戸国際展示場(ポートライナー市民広場駅下車)
・内容:「政府間会合」、「テーマ別会合」、「パブリックフォーラム」の3つで構成。「パブリックフォーラム」は一般参加型事業で、シンポジウム、展示などが行われます。

●1.17ひょうごメモリアルウォーク2005

・日時:1月17日(月)
・場所:神戸市・芦屋市・西宮市内の山手幹線、HAT神戸
・内容:
<山手ふれあいロードウォーク>
 西宮市役所(7:30)、芦屋川西運動場(8:00)、県立文化体育館(8:00)、大倉山公園野球場(9:00)、王子公園(9:45)を出発点にして、HAT神戸をめざして歩きます。
<阪神淡路大震災10周年追悼式>
HAT神戸にて、11:45分から行われます。
<ふれあい元気アップステージ>
13:00より、HAT神戸内のひと未来館ウッドデッキにて、出演は高石ともや、ばんばひろふみ、紙ふうせん、イルカ、他
・問合せ:1.17メモリアルウォーク実行委員会(兵庫県復興推移進課内、TEL.078-361-5557)

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