041023新潟県中越地震・中山間地の復興・再生について長岡造形大学教授 平井 邦彦 |
新潟県中越地震の主要被災地は13市町村、 東西約30km、 南北40kmの範囲で、 被災中山間地集落の数は数百にのぼり、 小水系ごとに形成されていた棚田群の被災数はその数倍であることは確実であり、 数千のオーダーに達しているとも考えられる。
今回の中越地震は地盤災害であり、 棚田の命ともいうべき水系が崩れ、 埋まり、 消失している。 地下の水系がどうなったか分らないところも多い。 棚田自体も崩落、 陥没により全く形状が変わっているところもある。 地すべりによって棚田群自体がズズッと動いているところもある。 ものすごい棚田破壊も起こっている。 斜面、 崖、 山の崩れあるいは滑りにより、 水路も棚田も農業用道路も一般道路も完全に土砂に埋ったり、 持ち上げられたり、 移動しているところもある。 地元の人でさえ地震前の形状との関係が理解できないところもある。 したがって、 原形復旧や改良復旧がイメージできるところもあるが、 全く新しい復興・再生像を描かなければならないところも数多い。
中山間地復興・再生が地元農家の意志にかかっていることは言うまでもない。 しかし、 営農継続意思は今のところ不明確である。 営農意欲の強い地権者もいればもはやそれを失っている地権者もいよう。 地震前の権利関係さえ不明確なところもあり、 まして形状が変わってしまった棚田群の権利関係の確定は困難を極めるであろう。
棚田と集落も含めた中山間地復興・再生計画は、 地元の意向を固めつつ、 しかも権利関係を明確にしつつ作成されなければならないし、 国交省、 農水省、 林野庁につながる諸事業部局の同意も必要である。 計画の実行にあたっては費用負担を明確にし、 諸事業のスケジュール管理が必要不可欠であり、 計画検討から作成、 合意、 事業完了までの期間は最短でも3−5年をみなくてはなるまい。
棚田の復興・再生は住いと集落の再建と一体不可分の関係にある。 中越地方はこれから雪の季節に入り、 被災地は豪雪に閉ざされる。 被災者は自宅であるいは仮設住宅で、 住い、 集落、 棚田の再生という3つの課題に向き合うことになる。 来年の雪解けまでの今後の4−5ヵ月の間に、 新しい方向、 可能性を見出していかなければならない。
被災中山間地の復興・再生に関し、 人材、 ノウハウ、 技術が圧倒的不足している。 都市側と農林側の技術者、 実務者、 研究者の一致協力の対応体制を早急に作り上げ、 地元できめ細かく息の長い活動を行い、 自治体、 国との調整を行いつつ合意形成を図るチームを生み出す必要がある。 また、 そうしたチームの活動をサポートするアンカー的機構も必要とされている。
1923年の関東大震災後の帝都復興は、 耕地整理を都市に適用して土地区画整理という都市整備手法を生み出すとともに、 その後の都市整備、 まちづくりにつながる多数の人材とノウハウを生んだ。 2004年の新潟県中越地震の中山間地復興・再生は、 今度は都市から農村へと向かう大きな還流の生み出しとしなければならない。
図3 住宅地・道路配置例 |
アンウィンたちは住宅の設計に始まり、 前庭空間の取り方、 裏庭の使い方、 街区の構成、 道路や家並みの景観について、 住民の参加によってルールを作っていった。 住民は生活を成立させながら、 個々のコモンを処理することで、 コミュニティ(Common+Unity)としての結束を強めることができるようにしたのであった。
アンウィンが提言の手本としたのは、 中世ドイツの丘の町の不規則な配置のまちづくりの伝統であった。 『田園都市』のイメージを、 中世の都市のスケールを持つ自律的な都市の姿に求めた。
また、 下層中流階層に豊かな職住環境を供給する目的の民間による住宅事業も、 当初は公共による補助金もなかったことや、 アンウィンらの努力の結果、 豊かなアメニティと利便性のため、 かえって皮肉にも富裕者の優雅な生活の場になってしまった。
田園都市構想は、 第2の田園都市ウェルウィンに続いては建設されず、 結果的には母都市の大工業都市の都市問題を解決する自律的な衛星都市群を形成するまでには至らなかったのであった。
<参考文献> 齋木崇人「最初の田園都市・レッチワース」、 造景No.16、 1998年
阪神間倶楽部 第9回研究会の記録 ○日 時:2004年10月16日(土)14:30〜16:30 ○場 所:相楽園会館 ○参加者:6名
この日は天候にも場所にも恵まれたのですが、 何と!参加者が、 お願いいたしました講師も含めて6名という驚きの研究会でした。
当日、 中瀬先生がご用意下さったレジメを少し載せさせていただきます。
はじめに
2、 都市・森林が育む農地/阪神間は循環型都市、有機農業型都市、 農文化の再発見
3、 地図から読み取る阪神の農・森林あれこれ/平地の住宅開発、 森林レクの開発
4、 未来にむけて、 再び循環型都市へ/水、 生きもの、 有機物などの関係性確立へ |
連載【街角たんけん10】Dr.フランキーの街角たんけん 第10回
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今年は、 何かにつけ激動の年であった。 プロ野球も例外ではなく・・・っと、 年末モードの書き出しである。 パ・リーグの再編が賑々しくマスコミ各メディアで報じられていた9月、 或る球場の解体工事が始まった。 今回は、 近鉄と合併したオリックスの前身、 旧阪急ブレーブスの本拠地で、 現在解体工事が進む西宮球場について触れたい。
阪急ブレーブスの前身・大阪阪急野球協会が、 日本で5番目の職業野球チームとして結成されたのは昭和11(1936)年1月のこと。 ライバル阪神電鉄を意識した小林一三の意向があったと伝えられる。 本拠地となる西宮球場は、 阪急西宮北口駅南東の面積二萬五千坪の用地を買収し建設された。 工事は同年12月から開始され、 翌昭和12(1937)年4月末、 工期5ヶ月の突貫工事で完成した。
私の手元にある竣工当時の工事概要を見ると、 球場面積七千八百坪、 構造は鉄骨鉄筋コンクリート造五階建、 収容人員五万五千人の、 堂々たる大スタヂアムであった。
設計は、 阪急梅田駅ビルや阪急神戸線西灘〜三宮間の高架橋、 阪急会館等を手がけ、 すでにこのシリーズでも幾度かその名が登場している阿部美樹志である(施工は竹中工務店)。
阿部は明治16(1883)年、 現在の岩手県一関市に生まれた。 明治38(1905)年、 札幌農学校土木工学科を首席卒業後、 鉄道院に入る。 その後、 農商務省海外実業練習生に選抜され、 米国イリノイ大学大学院に留学。 鉄筋コンクリート構造を学び、 博士号を取得。 大正3(1918)年に帰国し、 東京〜万世橋間に建設された本邦初の高架橋建設の設計を取り仕切った、 わが国の高架鉄道設計の権威であった。 その後、 官を辞して、 阿部美樹志設計事務所を設立。 浅野総一郎の仲立ちで小林一三と出会い、 阪急関係の主要な建築物・造営物の設計に関与。 その後、 戦災復興院総裁等の公職を歴任し、 昭和40(1965)年に亡くなった。
もともと土木が専門の阿部は、 外観のデザインにあたっては、 装飾で飾り立てず、 たとえばこの西宮球場のファサードに見られるように、 柱型を意識的に配置することで垂直性を強調したり、 階段室を等間隔に配置し、 丸窓を最上階に連ねたりするなど、 構造と意匠とを融合させるように意識したように思われる。 派手さこそないが、 印象的な作品を残した。
ブレーブス、 オリックス、 そしてアメリカンフットボール、 にしのみや競輪と幾多の名勝負を見つめてきたこのスタヂアムも、 来年8月には完全に姿を消す。 跡地には商業施設が誘致されるという。
【参考文献】
「阿部美樹志と阪急の構造物」
小野田滋(「鉄道ピクトリアル」No663所収)平成10年「京阪神急行電鉄五十年史」茂原庄三編、 京阪神急行電鉄株式会社、 昭和34年
写真1 阪急西宮球場全景(「阪急西宮球場会場記念」絵葉書より) | 写真2 阪急西宮球場内景/戦時中に供出された幻の大銀傘に注目(「阪急西宮球場会場記念」絵葉書より) | 写真3 阿部美樹志(出典:「阿部美樹志と阪急の構造物」小野田滋(「鉄道ピクトリアル」NO663 P120)より) |
連載【まちのものがたり21】交差点の落とし物・3
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実をひろった。
何の実かは分からない。 コンビニを出たところで落とした小銭のそばに転がっていた。 クレヨンで塗りつぶしたようにしっとりとしたオレンジ色で、 形は小さな桃に似ていた。 ピンポン玉くらいなのに、 手に持つと硬式野球ボールくらいの重さはあるように感じた。 まわりに同じ実をつけた木は見当たらなかった。 俺は何気なくリュックのポケットにそれをつっこみ、 そのままバイトに向かった。
帰宅は深夜になった。 いつものキムチ味のカップ麺をすすりながら、 実のことを思い出し、 リュックから取り出して机に置いた。
艶のあるオレンジ色だ。 きんかんに似ている、 と思った。 鹿児島の実家はきんかん農家で、 子どもの頃はいやになるくらいきんかんを見ていた。 こっそりボールの代わりに転がして遊んで、 親父に何度も叱られた。
小さな小学校だったけど、 楽しかったことしかおぼえていないな。 あ、 そうでもないか。 一度ジャングルジムから飛び下りて足にヒビが入ったことがあった。 あの時は先生にずいぶんと怒られて、 そしてすごく心配された。 田上先生、 年齢は父親くらいだった印象があるから、 多分、 三十代だったんだろう。 いつもスーツを着ていて、 ちょっと他の先生と違っていた。 それがまたカッコ良くて、 男子に人気があったな。 俺もその一人だった。
思い巡らしているうちに、 ちょうどカップが空になった。 俺はそのままコタツで眠りについた。
ある日家に帰ると、 しばらく放っておいた実はすっかり乾燥して茶色く変色していた。 それだけでなく、 弾けてちょうどイガに入った栗のような状態になっていた。 栗のかわりに小さな種が三つ、 きゅっと詰まっていた。 ひとつを取り出してみて、 ふと思い付いた。 そうだ、 これを植えてみよう。
植物を育てた記憶は、 夏休みの「朝顔の観察記録」をやったときにさかのぼるほど、 俺には無い。 元々何かと育てることは苦手だ。
でもこの種は何が出てくるのか、 少し興味をそそられる。 あとで、 カップ麺の容器に土を入れて来ることにしよう。
実に残っている種をつまんでみる。
二つ目、 三つ目。
最後の種だけ、 感触が違った。 試しに振ってみると乾いた「からから」という音がした。
少し力を入れると難無く割れた。 中から出てきたのは、 使い古した小さな金ボタンだ。 表に獅子の絵がついている。 その獅子を、 見たことがある気がした。 あの頃の先生のスーツのボタンにとても似ていた。
今年の年末、 実家に戻ったら小学校を見にいこう、 と俺は今、 決めた。 (完)
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