きんもくせい50+36+22号
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1.17を迎えて

兵庫県知事 井戸 敏三

 あの阪神・淡路大震災から10年を経過するその日、 1月17日を迎えた。 長かった10年、 あっという間の10年、 人々の思いはそのないまぜだろう。 私もこの10年の取り組みを振り返れば、 その時々の課題、 地震直後の救援救助、 避難所対策、 仮設住宅対策、 恒久住宅での生活再建、 本格的生活復興、 あわせてインフラ整備、 産業振興など、 各ステージごとの主題に対決してきたなかで、 解決できたこともあり未だ課題が残され取り組んでいることもあるため、 長短それぞれの思いがしている。

 私たちは、 この10年間必死の思いで頑張ってきた。 被災者や被災地はもとより県民あげて、 創造的復興をめざして1歩でも2歩でも前に進めようと努力してきた。 しかし、 総じていえば、 やはり大きな被害を回復すること、 埋めることで精一杯だったといえるのではないか。 私たちの意識も、 人口や産業活動など震災前と比べて上回っている、 いないという判断をしているが、 これはやはり震災前意識を乗り越えていないことの表れといえるのではないか。 だが、 この10年で大きな被害を埋めることはできた。 これからようやく大きな飛躍をめざす、 創造するスタートラインについた、 つくことができたとはいえる。 21世紀の成熟社会にふさわしい兵庫県づくりに大きく飛躍しうる礎ができた、 これこそがこの10年の到達点だったのではないか。

 また、 この10年を経過した今だからこそ、 阪神・淡路大震災とは何だったのか、 これまでの復旧・復興の意義は何だったのかを考えてみることが大切ではないか。 まさしく、 我が国の一地域に大きな被害をもたらしただけでなく、 成長社会から成熟社会への時代の転換期に発生し、 我が国社会のあり様そのものを問いかけた震災だったのだろう。

 まず、 災害文化、 防災文化が生まれる契機となったのではないか。 今までも大きな災害に幾多も襲われてきたが、 それぞれの災害への対処、 復旧・復興のみに終始し、 個別課題として対応されてきた。 あの阪神・淡路大震災を契機に、 災害そのものは避けられないが、 災害が起こってもできるだけ被害を小さくする、 そのために防災機関だけでなく、 市民レベルを含めて、 ハード・ソフト両面から総合的に社会全体として取り組んでいくとの減災の共通認識が生まれたといえるのではないか。

 第2は、 大都市における高齢者の課題を浮き彫りにした震災であった。 阪神・淡路大震災は高齢社会下における大都市直下型地震といわれているが、 まさしく都市内部の課題が高齢者であり、 この災害弱者対策に直面した。 しかし、 これは震災復旧・復興のみならず、 今後の高齢社会下における課題として取り組み続けねばならない。 高齢者の見守りや生活支援は新たな展開をとげつつある。

 第3は、 21世紀の成熟社会の課題の先取りを行ったことである。 経済的豊かさを築き上げたが故に今私たちが直面しているのは、 この戦後60年の間に忘れてしまったといわれる、 人と人との結びつき、 人と人との社会貢献、 人としての絆である。 ボランティア元年と当時いわれたように、 多くの人々が自主的に、 得意技をもつ人々がそれぞれの分野で活躍された。 21世紀は人の時代であろう。

 私たちは、 この阪神・淡路大震災とその復旧・復興過程を常に原点としてこれからの10年に1歩を踏み出さねばならない。 これまでできたことは次の10年もできるはず。 ぜひ頑張っていこう。


 

スリランカにおけるインド洋大津波現地調査

人と防災未来センター 深澤 良信

(1)海外での大災害時における人と防災未来センターの果たす役割

■海外での大震災時における人と防災未来センターの活動履歴

震災が起こった場合、 人と防災未来センター(DRI)では、 日本だけにとどまらず海外にも専門家の現地派遣を行っている。

・2002年06月発生 イラン北西部(M6.3 死者227人)2名派遣。 現地受入れ機関はIIEED(イランにおける地震の調査研究機関)。 震災1月後、 現地調査に入る。
・2003年05月発生 アルジェリア北部(M6.7 死者2,266人)国際緊急援助隊・専門家チームの一員として、 1名派遣。
・2003年12月発生 イラン南東部バム(M6.3 死者26,796人)2名派遣。 国際協力機構(JICA)と協力して現地調査。 兵庫の防災関係者同士がゆるやかに連携し情報交換する枠組を作った。
・2004年12月26日発生 スリランカ(スマトラ沖地震の津波)(M9.0(推定) 死者157,288人(H17.1.23現在))
(上記のデータはルーベンカトリック大学のデータを参照した)
アジア防災センター(ADRC)中心の派遣チームに、 DRIより深澤が同行。 ADRCのネットワークで受入れ先を調整。 なおADRCよりタイ・プーケットとインドネシア・アチェへ別チームを派遣。

■海外での大震災時における、 人と防災未来センターのミッションは

ミッションは災害ごとで異なるが、 数回の被災地派遣を経て、 見えてきたことがある。

1. まず現場を見る。
被災直後の現場に行くと迷惑になる。 しかし、 専門家として被災地を知っておくことは重要である。 光景や匂いを心に焼付け、 実践的な防災研究の原点としなければならない。 具体的な研究の為の現地調査は震災後1か月頃から始まるが、 テーマにより適切な時期に行っている。

2. 阪神・淡路大震災の経験に照らし合わせて、 気づいたことを(状況が許せば)現地担当者に進言する。
神戸から来た大震災の体験者を代表する者として心からお見舞いを申し上げることにしている。 被災のつらさを分かち合う者の言葉として先方に受けとめてもらっていると思う。

3. 防災関係者のネットワーク
DRIの人材育成研修は有効である。 これは国内の中越大震災でも手応えを感じている。 またADRCの客員研究員制度も有効である。 半年に1人ずつ、 各国より研究者を招いているが、 帰国後、 自国の防災関係の中枢で活躍している彼らと、 国際的なネットワークが生れている。 スリランカでも、 元・客員研究員が国家防災委員会の中心人物となっており、 今回の現地調査に協力してくれた。

(2)スマトラ沖地震による津波の被災地・スリランカへ

12月28日より9日間、 スリランカ現地調査で見聞きし感じたことをお伝えしたいと思う。

■調査概要

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スマトラ島沖地震によるスリランカ津波災害の調査行程
2004 年
12/28 神戸からコロンボへ移動
12/29 日本大使館、 JICA、 スリランカ政府、 サルボダヤ(NGO)
12/30 現地調査(ゴール及び周辺被災地)
12/31 スリランカ政府(再訪問)

2005 年
01/01 コロンボからトリンコマリーへ移動、 現地調査
01/02 現地調査(キニヤ)
01/03 コロンボへ移動
01/04 日本大使館(報告)
01/05 帰国












■調査地の状況

1. ゴール(スリランカ南西部、 人口約50万人の中核都市)(写真1)

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写真1 ゴール周辺のヒッカドゥアでは、津波で列車が転覆し乗客のほとんどが死亡。
・学校・寺院(仏)・モスク(イスラム)等は避難所になっており、 信仰に関わらず受け入れ。
・ボランティアによる相互扶助が活発に行われている。
・NGOによる救援物資配布に人々が我先に殺到するという状況ではなかった。 当面のニーズは満たされているのではないか。
・トイレと水の問題があるが、 疫病は発生していない。
・建物は、 RC造がかろうじて残っていたが、 木造やブロック造は跡形も無い。 この点は地震の被害に似ている。 地震と異なるのは、 1階部分は津波の被害を受けたが2階以上は問題ないこと。 携帯電話などの通信網、 行政網や情報網が生きており、 兵庫県の陥った様な混乱状態にないこと。
・イスラム教では死後24時間以内に埋葬しなくてはならず、 身元確認が十分行われる前に集団埋葬を行った。





2. トリンコマリー(スリランカ東部)(写真2)

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写真2 トリンコマリー周辺の海岸沿いの漁村。漁船、魚網など漁業用具に大きな被害。
・東部は大きな都市が無く、 南・西部に比べ所得水準も低いようだ。
・南部ほど組織だった共助が進んでいないようだ。
・シンハラ人とタミル人が対立しながら暮らしてきた地域である(反政府過激派「タミル・イーラム解放の虎」の支配下だったが2年前に停戦)が、 津波災害後、 行政・警察・反政府組織など各団体の代表が集まり、 情報交換する体制ができている。













3. キニヤ(トリンコマリー周辺)(写真3)

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写真3 キニヤ地区。津波の跡を指す。キニヤでは海辺の病院が津波で壊滅した。
・避難所80箇所のうちの一箇所は、 850家族・3000人程度を収容しているが、 行政側担当者は1人だけ、 避難民を収容するだけで精一杯、 という状況。
・近くまで救援物資が届いても、 皆の手元に届かない。 その原因は、 配布のマンパワー不足と分配の仕組みが未整備であること。 共助に避難民自身が気づけばよいのだが・・・。
・モバイルクリニックが印象的であった。












■今回の現地調査で感じたこと

1. 津波の破壊力の凄まじさ
・それなりに整った中核都市も壊滅的打撃を受けている。
・ゴールとコロンボをつなぐ重要な幹線がダメージを受けた。 道路の復旧は進んでいるが、 鉄道は線路が乱れ利用不能。
・災害弱者である低所得者層のダメージが大きい。 住まいを失い、 収入を得るための船と網を失っている。 生活再建(特に生計手段の復旧)に向けて支援が必要ではないか。
・地方都市と集落の孤立の問題。

2. 防災教育の重要性
今回、 ほとんどの人々が「津波」の概念さえ知らなかったために、 早期避難できず被害を拡大した。 むしろ海が引くのを珍しがって海岸にわざわざ集まってくるような状況だった。 防災情報システムの構築と同時に、 防災教育を進めることが重要。

3. コミュニティの相互扶助精神の高まり
スリランカでは被災地の内外で、 人々が立ち上がり助け合っている。 このことを神戸の人に知ってもらいたい。
一方で、 まだそこまで到達できていない地区もある。 きっかけや気づきがあれば、 潜在的な力が発揮されるはずであり、 それを支援する必要がある。
ふいに遭遇した災害に対して、 国(政府)もよくがんばっている。 一例を挙げると、 万一の災害に備えて様式等が既に用意されており、 各プロビンス(県)、 ディストリクトから同一の様式で情報が順次あがってきている。

(3)今後の防災研究に向けて

○ 被災国防災力の向上、 我国の東海・東南海地震への備え、 国際社会への貢献
○ 超広域災害での政府対応、 地域防災計画、 コミュニティ力の引き出し、 地域経済の復興、 観光地の防災計画、 被災者支援、 都市復興、 津波防災情報システム、 災害文化、 環インド洋津波警報体制構築への協力、 防災教育・人材育成
○ 同趣旨の研究成果を世界的に共有する仕組みの提案
○ 復興計画支援オブザーバーチームの提案
・世界の専門家を集めてゆるやかなネットワークを作る
・被災地の課題や要望に専門的立場から情報提供を行う
○ 21世紀における防災研究の原点
(この記事はインタビューを元に構成しました)


 

連載【コンパクトシティ11】

『コンパクトシティ』を考える11
集権型国家イギリスの分散化政策と都市計画の変遷

神戸コンパクトシティ研究会 中山 久憲

1. 1909年住宅・都市計画法

 中央集権型国家イギリスでは、 工業化の進展でロンドンには産業や人口が集中し、 地下鉄網の拡大や南部鉄道の電化と並行して、 周辺の村が次々に郊外都市の新しいセンターへと開発された。 しかし、 E.ハワードのような少数の例外を除いて、 良心的なディベロッパーや建築家が存在せず、 利益追求の無秩序な開発が現状であった。

 このため、 郊外の都市開発に公共側が直接介入し、 土地利用にゾーニングの公共コントロール手法を用いる都市政策が初めて必要となった。 最初の都市計画法といわれた『1909年住宅・都市計画法』の登場である。 郊外開発予定地の計画区域に地方計画当局が作成する「都市計画書」を適用し、 新規開発の土地利用規制を前面に出したものである。 この法律では「都市の望ましい衛生状態、 利便性の確保、 アメニティの供給」が都市計画の全体的目標の柱とされた。 すなわち、 郊外部の開発が増加するにつれて、 都市と農村の対立が先鋭化する中で、 新規開発を規制しつつ都市空間をコントロールしようとするものであった。

 ただし、 民間の開発地や政府主導のニュータウン建設は、 職住近接自立型の「田園都市(Garden City)」としてではなく、 環境に配慮しコミュニティ施設を備えた住宅地機能を主とする、 いわゆる「田園郊外(Garden Suburb)」住宅地(日本でのベッドタウン)の性格の強いものであった。

2. 1932年都市・農村計画法

 1929年からの大恐慌で先進工業国が苦しむ中、 自動車・レーヨン・化学などの新産業の成長で経済活動が急速に回復したロンドンでは集中化と過密化が、 郊外ではスプロールによる大都市化が進んだ。 32年から37年まで持続した住宅建設のブームが起こり、 多くの方面に波及効果を生んだ。

 政府は住宅建設ブームに対して、 『1932年都市・農村計画法』で計画書作成区域の対象を市街地だけではなくほとんど全ての土地にまで拡大した。 中産階級のための質の高い環境アメニティの確保に重点を置き、 郊外部の住居地域の設定などの土地利用規制と住宅・建築規制(=郊外住宅地ゾーニング)が定められた。

 この時代の象徴は、 住宅水準の飛躍的な向上であった。 労働者向けの公営賃貸住宅と、 都市の郊外を中心にした民間住宅の建設が大量に行われた。 両大戦間期には、 430万戸の住宅が建設された。 そのうち7割を民間住宅が占めた。 こうして、 中流階級=郊外の持ち家、 労働者階級=公営賃貸住宅という新しい図式が生まれた。 この2種類の住宅はともに広い裏庭があり、 4〜5部屋を持ち、 電気、 ガスも整備された。 田園郊外と呼ばれた郊外住宅地は80人/haの田園都市運動の住宅基準を満たす豊かな緑の環境の中に建設された。 物価の下落と低金利政策が反映し、 家の価格は安く、 ローン金利は低く、 家の購入がきわめて有利な時代であった。 熟練労働者の間にも持ち家所有者が現れる「マイホーム主義」が顕著になった。 社会の平準化がさらに進行し、 中流階級の物質的な充足、 生活の安定をもたらせた。 イギリスの社会的な安定を維持することができた時代であった。

3. 1947年都市・農村計画法(基本法)

 第2次大戦前、 ロンドンから産業や人口をいかに再配置するかの検討していた「バーロウ委員会」の1940年勧告に基づき、 1944年に『グレーターロンドンプラン』が発表された。 特徴は、 スプロールは好ましくないとして、 既成市街地の外延化を抑制する土地利用規制政策として、 「グリーンベルト」が提案された。 グリーンベルト内では新たな都市開発を厳しく規制し、 その内と外で職住近接自立型衛星都市の重点都市開発を促進し、 ロンドンからの産業や人口の受け皿を作ろうとするものであった。 まさに、 この政策は半世紀前に提言されたE.ハワードの『田園都市構想』の理念を受け継ぐものであった。

 グリーンベルトの土地利用規制は、 労働党政権下でイギリス近代都市計画の集大成といわれた『1947年都市・農村計画法(基本法)』の中に反映された。 この法律は、 都市計画の規制権限を大幅に地方自治体に委譲し、 計画立案権限を与え、 「デベロップメント・プラン」として統一した様式の開発計画と開発プログラムの策定を義務づけた。 計画規制制度により開発をさせる徹底した計画主義に立つものである。 また、 「土地に関する開発権は私有のものではなく公共のものである」という理念が打ち出され、 開発権は国に付与され、 「計画なくして開発なし」という基本理念が確立した。 具体的には、 土地所有者は現在の目的のために土地を利用する以外の全ての権能が奪われ、 開発権に対する補償は国家の資金から一回きりで支払われる。 さらに、 開発によって得られる地価上昇などの開発利益は「キャピタルゲイン課税(開発負担金)」として100%社会に還元するものであった。

 また、 『1946年ニュータウン法』が定められ、 ニュータウンとして開発すべき区域が環境大臣によって指定され、 国主導型の開発が促進された。 指定を受けると、 事業主体として地方自治体とは独立した「ニュータウン開発公社」が設立され、 公社には事業推進のため国の予算が与えられ、 強制収用等の広範な権限を有し、 自ら開発計画を策定して事業を実施する。 これらの都市政策の枠組みにおける最大の関心事は、 公共住宅であり、 計画的都市開発であった。 公共部門の支配的地位を確立し、 民間が開発する場合には公共側の代替をさせる制度化でもあった。

4. 1968年都市・農村計画法

 開発計画と開発規制の制度は、 政権移動で法律の修正はされるが、 基本法によって20年間機能してきた。 しかし、 実際の開発計画では地域開発の細目まで指導するには力不足であり、 デザインの質や環境の質の向上に寄与していないことが指摘された。 『1968年都市・農村計画法』が新たに定められ、 「ストラクチャー・プラン」(広域計画:カウンティのレベルで策定される広域的な基本計画で、 自然的美観やアメニティの保全、 物理的環境の改善、 交通管理に関する政策の明示)と「ローカル・プラン」(地域計画:市町村が策定する具体的開発プラン)の2層制に改編された。 また、 都市中心部の再開発、 荒廃した土地の再生・利用等を促進する「事業地域」が導入された。 事業地域に指定されることで、 再開発が地方公共団体の主導で行われ、 上記の広域計画や地域計画を必ずしも前提としない柔軟な手法が可能となった。

 さらに、 都市の社会的諸問題に対処するため、 『1969年地方自治法』で中央政府から地方自治体への補助金(補助率は4分の3)を拡充する「アーバンプログラム」が創設された。 対象事業は経済の活性化、 生活環境の改善、 社会的サービスの充実の3分野である。 また、 70年代には地方政府再編成が実施され、 地方自治体数が1000から400強に減少し、 議員数も約15,000人削減し、 80年代の中央集権化の基盤づくりとなった。

 このように第2次大戦後の国家主導の経済政策の計画化などを背景にして、 都市政策の枠組みの特徴も、 「都市のマスタープラン(基本計画)制度」で、 都市化による変化を公共部門の支配的地位の確立で封じ込めようとした。 工業社会の発展で、 政治・経済の中枢として大都市と大都市圏の重要性が飛躍的に増大するだけでなく、 大都市圏全体の高度な空間整備計画が要求された。 都市の業務・商業・工業・居住・レクリエーションなどの土地利用の総合的な調整と、 都市機能を支える交通・運輸・ライフライン・情報施設の整備、 都心部や拠点地区の再開発事業など長期的な視点からの総合空間計画とその事業手法を都市計画制度の中に包含することとなった。 これは戦後のイギリスが求めた中央集権型混合経済・福祉国家の都市政策における一つの姿であった。

 しかし、 1973年のオイルショック以降工業社会は終焉し、 重厚長大産業の衰退が顕在化した。 同時にインナーシティ問題が台頭し、 分散化政策は経済衰退を助長すると批判され、 79年サッチャー政権誕生で都市計画制度に転換が起こった。


 

連載【街角たんけん11】

Dr.フランキーの街角たんけん 第11回
31年目の「田園都市」住吉・御影(前編)

プランナーズネットワーク神戸 中尾 嘉孝

 唐突だが、 筆者が町歩きの幅を広げたのは、 高校3年の秋に大倉山の図書館で手にした「都市と保存・下」(雑誌「都市住宅」1974年年間特集記事合本、 同編集部編、 鹿島出版会刊)に収録されていた故水谷頴介氏(当時39歳)執筆の「田園都市・阪神間」を読んだのがきっかけである。 それまで、 長田区東部から中央区西部、 少し飛んで灘区、 つまりかつての市バス91・92系統の運行区域が行動範囲であった私は、 「田園都市」の片鱗を垣間見ようと、 次の年の春、 西岡本から住吉山手を経由して阪急御影まで歩いた。 武田長兵衛氏邸と、 蘇州園の御影石で組まれた大きな外構、 小寺氏邸の白亜の洋館、 味わい深い乾氏邸のたたずまい、 個人の住まいという点ではアウトオブスケールだが豊かな杜を誇る大林邸など、 その後の私の「御屋敷小僧」としての町歩きの方向性を決めた町歩きとなった(余談だが、 水谷氏が、 筆者が住む南五葉地区も含む鈴蘭台団地の基本計画を立案し、 その業績が評価され都市計画学会賞を授与されたことを知ったのはずっと後のことだった)。

 去秋は、 「田園都市・阪神間」が発表されて三十年の節目の年であった。 記事の発表当時、 住吉・御影地区で始まったばかりの区画整理事業は、 ようやく阪急神戸線以南がほぼ収束に向かいつつある。 それとは対照的に、 区画整理事業が着手されていない住吉山手地区は、 いまだに「日本一の長者村」旧住吉村の面影を色濃く伝えている。 いや、 全国的に見ても、 実体を残している貴重な近代の御屋敷町のひとつに数えられるだろう。

 もちろん、 この地域も、 いくつかの御屋敷跡は大規模なマンションや「群住宅」によるミニ開発によって更新されている。 また最近、 旧野村元五郎邸や旧東畑謙三邸跡などを筆頭に、 宅地造成や集合住宅建設など開発の手が入る敷地も出始めている。 採算性がすべてのこうした開発活動は、 私たちが守り育てたい地域環境を、 折り込みチラシなど、 イメージ戦略で利用するだけ利用して、 最後にはそのものを「食べ尽くす」ように町並み・景観を一変させてしまうのである。

 そして、 相続のため国に物納されて10年となった旧乾邸も、 今後の行く末が案じられている。 渡邊節の現存する非常に数少ない住宅作品であると同時に、 昭和初期のわが国を代表する住宅建築である同邸建物については、 「旧乾邸活用応援倶楽部」などの市民団体が、 その保存活用に向けた要請活動を起こしているが、 先行きは不透明である。 しかし、 この種の建物としては異例の自由度の比較的高いパブリックスペースとして、 地域に定着してきたという経緯を尊重して保存活用方策を考えていく必要がある。 また、 その際には、 従来の公共団体が買い上げるという図式を超えたスキームを考えていかなくてはならないだろう。 そのためにも、 この時期、 関係機関の慎重な判断が求められるところである。

(この項続く)
 
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写真1 昭和10年代の旧乾邸(出典「建築写真集第四輯」竹中工務店、昭和14年) 写真2 住吉山手の石塀
 

 

連載【まちのものがたり22】

交差点の落とし物・4

中川 紺

 折り紙をひろった。

 たしか私が小学校一年生の時だから、 もう十二年も前。 目を閉じると今でもあの時のことを思い出す。

● ●

 家の近くの狭い道で一緒に遊んでいたあかねちゃんが、 「おトイレいってくる」と帰ってしまったので、 私はしばらく一人で時間をつぶしていた。 鳥のような影が横切ったような気がして顔をあげると、 ちょっと先の交差点に緑の紙のようなものが落ちていた。

 私は好奇心で手にとってみた。 それが「折り紙」だということは子どもの私にもすぐ分かったが、 裏返してみてがっかりした。 裏は真っ黒で、 せっかくの両面折り紙が“台無し”だった。 どうせだったら赤とか黄色とか出来れば銀色だったらよかったのに。 私のテンションは一気に下がってしまった。 こんな色でつくれるものなんてないもん。 そう思った時に、 黒いコートを着た老人が私の横で立ち止まった。

 「何だかつまらない顔をしてるね。 その紙おじいさんに少しだけ貸してくれないかな?」

 「いいよ。 だって色きたないもん」

 私はあっさり折り紙を手渡した。 その老人は素早い手付きで何かを折り始めた。

 ほら、 と言った手のひらには、 サイコロのような形にふくらんだ緑の折り紙が乗っていた。 「ふうせん!」と私は言う。 母親に折ってもらったことがあった。 老人は微笑んだままポケットからペンのようなものを取り出して、 おまじないのような言葉を唱えながらふうせんに何かを施した。

 

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 ほら見てごらん、 と言われて、 息を吹き込むための小さな穴を覗いた。

 私が見たものは、 真っ暗な中に光るいくつもの点……星がまたたいている景色。 そう、 ふうせんの中に“夜”があった。 外側をよく見れば、 小さな小さな穴がいくつもあいていた。 さっきのおまじないはこれだったらしい。

 「それはね、 冬の空の星だよ。 星座って知ってるかな?」

 「星占いでしょ? 私、 ふたご座」

 「昔の人が夜の空に光る星たちにつけた名前なんだよ。 こう並んでるだろ?」

 老人は白いメモ用紙を取り出すと、 ふうせんの中の星と同じように点を書いて、 さらにいくつかを線でつなげて言った。

 「この三つ並んでいるのがオリオン座。 狩人の名前だよ。 こうつなげると人の形だろう。 その下にうざぎ座。 このうさぎはね、 オリオンに殺されてしまって、 かわいそうに思った神様が空にあげて星座にしたんだよ……」

 その話はなぜか私の心に残った。 夢中で覗いていると、 いつの間にか老人は去っていて、 戻ってくるあかねちゃんの姿が見えた。 私はそっとふうせんをポケットにしまった。

● ●

 「あれが、 うさぎ座だよ」

 「そんなマイナーな星座よく知ってるなあ。 俺、 オリオン座くらいしか分かんねーよ」

 恋人の準一が隣で言う。

 (だって、 最初におぼえた星座だもん)

 あの時のふうせんを私はまだ持っている。 (完)

(イラスト やまもとかずよ)


水谷ゼミナールシンポジウムのお知らせ

 

 水谷頴介先生の13回忌を記念して、 以下のようにシンポジウムを開催します。 なお、 これは、 「情報コーナー」に示す「こうべまちづくりセンター研究ネットワーク」が行う連続シンポジウムの一環として行われます。

●日時:2月11日(金)13:30〜17:00
●場所:こうべまちづくり会館2階ホール(神戸市中央区元町通4丁目、 TEL.078-361-4523、 FAX.078-361-4546)
●内容:
テーマ「まち住区と震災復興・都市再生・遊芸空間」
<司会・総合司会>辻信一、 天川佳美、 山地孝之
<第1部:水谷先生を偲ぶ>
パネラー/小林郁雄「水谷先生の『まち住区』」、 石東直子「水谷先生が『震災復興』に取り組んでいたら」、 後藤祐介「水谷先生の『都市再生』『遊芸空間』への取り組み」、 締めくくりの語り/三谷幸司
<第2部:『震災復興』と『まち住区』>
パネラー/山口憲二、 山崎満、 太田尊靖、 岩崎俊延、 猿渡彬順、 締めくくりの語り/宮西悠司
コメンテータ/小森星児、 土井幸平、 久保光弘
<第3部:『都市再生』と『まち住区』>
パネラー/山本俊貞、 上山卓、 中井豊、 朝平武文、 曽家末晴、 締めくくりの語り/西川靖一
<第4部:『遊芸空間』と『まち住区』>
パネラー/高月昭子、 白井治、 松下慶浩、 吉原誠、 中川啓子、 締めくくりの語り/武田則明
コメンテータ/垂水英司、 森栗茂一、 森崎輝行
<閉会>水谷元、 有光友興



情報コーナー

 

●こうべまちづくりセンター・連続シンポジウム(水谷ゼミナール以外)

・場所:いずれも、 こうべまちづくり会館(TEL.078-361-4523)

◆再開発シンポジウム(仮称)
・日時:2月10日(木)13:30〜17:00
・内容:<第1部:西神ニュータウン研究会>「西神ニュータウンの歴史と建設」/大海一雄、 <第2部:再開発研究会>「元気の出る都市再生とまちづくり・復興から次世代へ繋ぐまちづくり」、 問題提起/乾亨、 現地報告/天宅毅・・渦が森台、 野崎隆一・・明舞団地、 <第3部:都市基盤整備研究会>「神戸市内の都市再生」

◆まちづくり法制研究会
・日時:2月10日(木)18:00〜21:00
・内容:「震災後、 建築基準法はどう変わったのか〜安全・安心のための取り組みと課題〜」

◆阪神白地・まちづくり支援ネットワーク
・日時:2月11日(金)18:00〜21:00
・内容:テーマ「北京と京都 歴史都市の保存と再生について」
報告1/「北京の街区空間の変容と保存と再生について」ケ奕、 報告2/「京都の街区空間の変容と保存と再生について」小浦久子、 コメンテーター/久保光弘、 江川直樹

◆神戸防災技術者の会(K-TEC)
・日時:2月13日(日)13:30〜17:00
・内容:テーマ「新潟県中越地震 から学ぶ」、 神戸防災技術者の会からの報告、 基調講演「2004年自然災害をふりかえって」、 阪神・淡路大震災の教訓は中越地震で生きたか、 ディスカッション、 シンポジウムから学んだこと/笹山幸俊

◆神戸大学まちづくりアーカイブズ研究会
・日時:2月14日(月)18:00〜21:00
・内容:テーマ「神戸の地域まちづくり〜これまでとこれから〜」、 <基調講演>/佐藤滋、 <パネルディスカッション「まちづくりアーカイブズ構築への期待と課題」>コーディネーター/安田丑作、 パネラー/松原永季、 森本米紀、 浜田有司、 コメンテーター/武田則明、 小林郁雄、 森崎輝行

●「わかばと共に住みたいまち、 住みやすいまちをめざして、2005年兵庫」

・日時:2月12日(土)13:30〜17:30
・場所:兵庫県公館(神戸市中央区下山手通4-4-1、 JR元町駅北へ約5分)
・内容:<シンポジウム>パネラー/井戸敏三(兵庫県知事)、原口洋一(NHK神戸局長)、小林千洋(わかばチーフプロデューサー)、林まゆみ(兵庫県立大学助教授)、瀬戸本淳(建築家)、 コーディネーター/野崎瑠美(建築家)、 <コンサート>伍芳(ウー・ファン)
・問合せ:兵庫県建築士事務所協会(TEL.078-351-6779、 FAX.371-7913)

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(C) by 阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク

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