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被災したメデイアとして─NHK神戸の震災10年

NHK神戸放送局長 原口 洋一

 震災10年の1月17日、 私は新しい神戸放送局の1階オープンスタジオで朝を迎えた。 スタジオでは、 前日の午後6時から「いのち守るために」のタイトルのもとに30時間連続で震災10年の特集番組が進行中だった。 メモリアルウォークで、 中山手通りを歩いてきた市民のグループが、 次々に立ち寄って生放送を視てくださった。

 10年前の1995年1月17日、 私は、 東京・社会部のデスクにいた。 被災した神戸放送局は、 満身創痍の状態で1週間ほど持ちこたえたが、 余震で崩壊のおそれありというので近くの小学校の敷地を借りて仮設のスタジオを造り全員が退去した。 私は、 その直後短い期間だったが、 神戸に応援取材に入った。 被災地・神戸と私とのささやかな接点である。

 2000年6月、 私は神戸で勤務することになった。 震災5年が経過していた。 この年の1月には、 仮設住宅の入居者がゼロになった。 街並みの復興が進むなかで、 トアロードにあったNHKの跡地は、 駐車場になっていた。 「トアロードに早く戻っておいで!」という地元の切実な声を聞いて、 私は、 NHK自身の震災復興を急がなければと痛感した。

 放送局の再建にあたって、 大震災の第一報が、 全世界に向けて発信されたトアロードの跡地こそ神戸放送局の原点だとの思いは、 職員一同が共有していた。 局舎の再建に時間は要したが、 被災したメデイアとして、 神戸放送局は、 「いのちを守る公共放送」を改めて仕事の原点に掲げたい。 冒頭に紹介した特集番組のタイトルにも、 その思いがこめられている。 昨年12月から始めた地上デジタル放送では、 データ放送に「暮らし・安全情報」の項目を設け、 地域ごとに災害時の避難所や休日・夜間診療所などを紹介している。

 神戸放送局が、 震災10年に向けて発信してきた番組に「震災メッセージ」がある。 様々な分野の人に、 震災の経験や教訓を語っていただいてその数は80人を越える。 この制作プロジェクトが、 このたび防災まちづくり大賞を受けた。 評価を率直に喜びたい。

 震災の記憶を伝え続けることも、 神戸放送局の重要な任務だ。 「神戸放送局がこの地にありつづけるかぎり、 私たちは1月17日を忘れない」。 震災10年の朝、 私は、 新会館を訪ねた方々と言葉を交わしながらそのことを自分に言い聞かせていた。

 原口さんとのおつき合いは、 2001年1月に開催しました「第1回世界震災復興ドキュメンタリー映像祭」でお世話になって以来です。 その後、 2002年5月のニューヨークでの種まきの時も現地支局の取材を連絡していただきました。

いつも勝手なお願いをあのニコニコとした笑顔で聞いて下さり、 ずいぶん助けていただきました。 本当に感謝しております。 ありがとうございます。

いつまでも神戸放送局がある限り私たちも何かお手伝いができればと思っています。

(天川佳美)


 

台湾−神戸震災被災地市民交流会

実行委員会事務局 天川 佳美

 阪神・淡路大震災から10周年という記念の年に相応しい様々な催しがこの1月に開催されました。 国連防災世界会議をはじめとして国際会議も数多く開催されましたが、 我々は台湾・集集地震の被災地と交流をはかるために、 地元住民やNPOどうしの交流、 震災をテーマにした台湾と神戸の映画上映会、 復興を語るシンポジウムなどを、 1月14日〜18日の5日間、 「台湾−神戸震災被災地市民交流会」として、 神戸で開催いたしました。

 昨年(2004年)9月に神戸から台湾の「921(集集)地震」5周年の被災地へ、 神戸市長田区の住民の方々を筆頭に学識経験者やまちづくり専門家など計17名でお尋ねし、 被災地各地を巡り復興の様子を見せていただき、 それぞれの地区で復興に携わっている方々と意見交換をしてきました。 そして今年(2005年)1月、 10周年の神戸に台湾の被災地住民の方々をお招きいたしました。 台湾からの来訪者は、 被災地域住民とNPOの方々、 大学関係者、 映画監督と出演者などの合計29名です。

 台湾の呉乙峰監督のドキュメンタリー映像「生命」と青池憲二監督の「野田北部・鷹取の人びと」の上映会やそれぞれの地域復興のシンポジウム、 そして野田北部、 真野、 御蔵の各地での住民同志の交流会を開催いたしました。 そして、 様々な活動の交流の最後に、 台湾のメンバーから新潟県中越地震の被災地への義援金をお預かりいたしました。 (今回、 台湾側の団長をつとめて下さいました、 埔里のNPOである新故郷文教基金会理事長の廖嘉展さんの文章を載せさせていただきましたのでご参照下さい)

 訪台メンバーの団長をつとめていただいた野田北部まちづくり協議会の浅山三郎会長と事務局の天川佳美が2月19日(土)、 雪深い新潟県十日町市のNPO「結いの里」へお届けいたしました。

 今後の台湾、 神戸、 新潟の震災復興交流のきっかけになることができればと思います。

 以下に今回の交流会の資料を整理いたしましたので、 一部ですが掲載いたします。


「台湾−神戸 震災被災地市民交流会」の開催及び開催実行委員会の設立について(趣意書)

 阪神淡路大震災から来年1月で10年を迎えます。 また、 今年の9月には、 台湾の集集大震災から5年を迎えます。 この間、 台湾と神戸は、 同じ被災地同士として、 震災復興に関しての情報交換や交流を深め、 震災復興を進めてきました。

 台湾と神戸がともに大震災の節目の年を迎えるにあたり、 「台湾−神戸 震災被災地市民交流会」を開催いたしたいと考え、 この度、 そのための実行委員会を設立することといたしました。

 この交流会では、 震災ドキュメント映画の上映会や、 シンポジウムを開催いたします。 また、 両被災地で行われる震災関連行事に相互に参加していきたいと考えています。

 この交流会を通じ、 「震災が残したもの」、 「震災から学んできたこと」を、 未来を支える若者たちに伝え、 世界の多くの人々に発信していき、 また、 台湾と神戸相互の理解を深めていきたいと考えています。

2004年6月24日

「台湾−神戸 震災被災地市民交流会」開催実行委員会
委員長 齊木 崇人


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廖嘉展 新故郷文教基金会理事長 挨拶(平成17年1月18日)

 皆様 こんにちは!
 私たち台湾からの訪問団が、 「台湾−神戸 震災被災地市民交流会」開催実行委員会のご招待により、 阪神・淡路大震災10年の記念行事や神戸の被災地で復興まちづくりに係る皆様との交流会などに参加することができましたことをとてもうれしく思っています。 しかし、 先月南アジアで起こった津波が人間に多大な被害をもたらしたため、 私の心の中ではとても複雑な思いでいっぱいです。

 大自然と比べて、 人類はなんと小さく、 そしてぜい弱であることを私たちは深く思い知らされました。 人類は、 人と人が、 グループとグループが、 そして国と国が、 互いに両手を開いて、 互いに抱きしめ、 互いに助け合うべきだと悟ることができるのでしょうか?私たちは、 互いに思いやりをもって助け合う新しい世紀がやって来るのを期待しています。 そして今、 この不確実な時代において、 もっとすばらしい未来がやって来るように祈りたいと思います。

 もっとも助けが必要な時に、 いつも人類はその助ける能力を試されています。 台湾921大震災の時に貴国より援助を頂いたことや、 今でも長く続いている思いやりを感謝申し上げます。 今回は、 特にこの神戸の街で、 私たちが皆様と暖かく交流できることに感謝を申し上げたい。

 皆様が台湾へ来られる節は、 被災して復興した地区にもお忘れなく来ていただきたいと思います。 そこには皆様と同じように、 もっとすばらしい未来を築くために努力し、 人生に対して信心を持ち、 熱情にあふれる一群の人々がいます。

 10年前の神戸、 5年前の台湾、 ともに地震で大きな被害を受け、 政府や民間の力を得て、 廃墟の中より立ち上がれたことをとてもうれしく思います、 これらの経験はすべて私たちの共有の貴重な財産であります。

 再度、 皆様に感謝を申し上げたい。

 最後に大切なお話しがあります。 この日本でも昨年10月に新潟中越地震が起きました。 その被害の甚大さは台湾にも伝わってきています。 報道により知った範囲ではありますが、 日本の中山間地域で起こったこの大震災の様子は、 私たちが経験した台湾921大震災に非常に似通っていると感じており、 その復興の道のりを思う時、 とても他人事とは思えません。

 少しでもお役に立てれば思い、 今回来神したメンバーで募金をはかりましたところ。 日本円で16万円のご厚意が集まりました。 できましたら、 今後、 新潟中越で営まれていくであろう、 復興のまちづくりを支援する団体にご寄付いただければと思います。 どうか「台湾−神戸 震災被災地市民交流会」開催実行委員会の皆さまに託しますので、 よろしくお願いいたします。

廖嘉展(台湾 新故郷文教基金会理事長)

 

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040919埔里水の公園エコビレジ 050116台湾ー神戸震災記録映像祭 050117神戸東遊園地追悼の集い
 

 

連載【たるみレポート5】

たるみレポート(その5)
五色塚古墳に花を咲かせる

神戸市 柳田 浩子・大塚 映二

前回に続いて、 活躍めざましいヤングミセス(?)によるレポートです。 (大塚映二)

 垂水区では“季節の花があるまちづくり”をテーマに住民の方々と一緒に様々な取り組みを行っています。 今回は、 五色塚古墳に夏の「ひまわり」、 秋の「そば」、 春の「れんげ」と花を咲かせ、 垂水の花の名所のひとつにしたいと活動を続けておられるNPO輝かすみが丘の小野豊子さんにお話を伺いました。

 

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(ビッグスマイル!!)
 
○なぜ五色塚古墳に花を咲かせようと思ったのですか?
 もともと私達は五色塚古墳のすばらしさを全国に発信するために、 平成12年より『五色塚古墳から明石海峡大橋を眺めつつ明石海峡の音頭を踊ろう』というイベントを毎年実施しているのですが、 古墳の周囲は雑草が生えやすく、 開催前の草刈が大変だったんです。 そこで、 花を育てることで雑草が防げないかな、 さらに花の名所として五色塚古墳の景観もよくできないかな、 と考えたことがきっかけです。

○花づくりの仲間について教えてください。

 地域の方々がボランティアとして常時40人ほど携わってくれています。 石ころ拾いにはじまり、 種蒔き、 水やり、 そして雑草とのたたかい…。 夏は毎日3人ずつ当番でひまわりの水やりをしました。

 花や古墳を愛していただける方ならどなたでも大歓迎、 仲間になってもらい一緒に盛り上げていただきたいと、 「れんげ通信」を発行するなど、 広く呼びかけています。 まだまだ募集中です!
○花づくりをされて、 特に感じられたことは何ですか?
 実は、 なかなか花が育たなかったんです。 抑えるはずだった雑草はどんどん伸びて、 春のれんげはわずかしか咲きませんでした。 夏のひまわりはまめな雑草取りと水やりのおかげで見事な花を咲かせることが出来ましたが、 秋の“そば”は台風にあい全滅でした。 花を育てることって難しいですね。

 でも、 花が咲いたときには人がたくさん集まってくれたんですよ。 花も自由に摘んでもらい、 みなさんに喜んでいただきました。 花と親しんだ人たちが次の花づくりのお手伝いをしてくれれば、 どんどん仲間の輪が広がるし、 うれしいですね。

 そしてなにより、 花づくりをしたことで地域の方々が「花を咲かせよう」という一つの目的のためにともに汗を流し、 交流が深まったことが本当にうれしかった。 文化財なので整地方法にも制限がありますが、 今までの反省を生かし、 支援してくださる方々と知恵を出し合って活動を続けていきたいです。

○では最後に、 今後の抱負や夢を聞かせてください。

 これからも花畑の面積を増やすなど、 古墳を舞台とした花づくりをさらに展開していき、 たくさんの方に一年中花のある五色塚古墳に来ていただきたいですね。

 そして、 いつかこどもたちが花いっぱいのれんげ畑でねころんであそぶ日が来るのを夢見ています。

(蜩c浩子/やなぎだひろこ)

 

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(ともに汗を流した仲間たち)
 

 

連載【街角たんけん12】

Dr.フランキーの街角たんけん 第12回
31年目の「田園都市」住吉・御影(中編)

プランナーズネットワーク神戸 中尾 嘉孝

 私が町歩きを始めた約20年前は、 御屋敷町の横綱といえば、 その環境や景観面で、 東京の鳥居坂や麻布だったように思う。

 しかし、 これらの御屋敷街が悉くバブル経済下で実体を失った今、 住吉御影の山手地区の町並み・景観は、 全国的に見ても貴重な存在となっている。

 その魅力の素は、 一つはなんといっても地場の御影石であろう。 住吉・御影の町並みを歩くとき、 いたるところで目にするのは宅地工事をすれば出てくる御影石を積み上げた石塀や擁壁である。 そして、 大変な手間をかけて維持されている生垣や庭木。 これらと、 どことなく農村地帯の面影を伝える細い街路との組み合わせが、 「マイ散歩道」として内緒にしておきたいような空間を各所に作り出しているのである。

 そして、 震災などで数は減ったが、 小寺邸、 武田邸、 旧小倉邸、 そして旧乾邸というキラ星のような大邸宅から、 下見板貼の小振りな近代洋風住宅、 そして近代和風建築や江戸期の農家住宅、 そして清家清、 安藤忠雄といった現代建築家の作品まで、 バラエティに富む住宅建築のストックが、 この町の魅力を高めている。 いっぽう、 白鶴美術館 (嘉納家)、 香雪美術館(村山家)、 小原豊雲記念館、 世良美術館といった質の高いコレクションを有するプライベートミュージアムが集中し、 アマチュア音楽家のための活動施設も多く立地していることも、 他所では見られないこの地域の特徴だろう(詳しくは。 市民まちづくりブックレットNo.5「まちづくりと民間文化施設」(神戸東部市民まちづくり支援ネットワーク編)を参照されたい)。

(追記)

 一部で報道されたが、 2月18日、 近畿財務局神戸財務事務所は、 神戸市との旧乾邸の管理委託契約について、 2006年3月末を期限として更新することを明らかにした。 同日、 保存要望の署名を同事務所に提出した市民団体「六甲山麓文化を生かそう<旧乾邸>活用応援倶楽部」のメンバーとの面談の中で明らかにしたものである。

 短いとはいえ貴重な1年間の猶予期間ができた。 正念場である。 旧乾邸のムーブメントに関わる一人として、 ご支援、 ご声援いただいている皆さんにこの場をお借りしてお礼を申し上げます。    (この項つづく)

 

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御影山手の小径 住吉山手にあるバンガロー住宅 民間文化施設の例:「御影サーラム・ムスク」
 

 

連載【まちのものがたり23】

交差点の落とし物・5

中川 紺

 

 入れ物をひろった。

 ずんどうのお猪口みたいな形で、 小さな足が三つついていた。 質感は陶器のようだ。 外も中も鮮やかな青色で、 白く細い線で幾何学模様が描かれていた。 こんな交差点のまん中に誰が落としていったのだろう。 でも入れ物には、 落ちて欠けたような部分は全く無く、 まるで拾わせるために置いていったように見えた。

「小物入れにいいな」

 そのまま持ち帰ってしまった。

● ●

 いつものように、 胃の痛みで一日が始まる。 仕事を休みたいと思うけど、 会社の人の反応を考えると、 それはできなかった。

 去年父親が亡くなってから、 社内の私に対する雰囲気はさらに悪くなった。 もともと親の紹介、 というよりもコネで入ったうえ、 仕事のおぼえも悪い私は、 何となくお荷物のような存在になっていた。 向いていない仕事だと思うが、 五年間辞めることができなかった。 きっかけが無かったし、 何より転職のあてが皆無だった。 田舎の母は、 父が選んだ会社に私が入ったことをとても喜び、 そして今でも私が楽しく仕事をしていると思っている。

 口紅を塗って、 立ち上がる。 机の上のカギを手にして、 昨日拾った入れ物を見ると、 いつの間にかアリが紛れ込んでいて、 銀のピアスのまわりをウロウロ歩いていた。

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 残業して帰宅すると、 アリはまだ入れ物の中を歩き回っていた。 じっと観察していると、 出ようとはしているのだが、 どうやら内側の壁が滑るのでのぼることができないらしい。 触ってみると外側に比べてかなりつるつるとしていた。

 出られないアリの様子が面白いので、 砂糖水を数滴エサ代わり入れて、 飼ってみることにした。

 数日経つと、 アリは以前ほど積極的に壁をのぼろうとしなくなっていた。 とりあえずはエサがあることに落ち着いてしまったのか、 時々思い出した様に壁に挑戦するものの、 あとはピアスの谷間を歩き回っているだけだ。

 私みたい、 と思った。

 出たくても出られない壁に囲まれて、 いつの間にか壁を越えることもしなくなって。

「あんたも出るのが怖くなっちゃった?」

 アリはそんな言葉を無視してひたすら入れ物の底を歩いていた。

● ●

 机の上の携帯を取ろうとした拍子に手があたった。 落ちる時に椅子の角にぶつかり、 パリンと音がして、 アリの入れ物は見事に二つに割れてしまっていた。

 中のアリは少し離れたところに飛ばされて、 外の世界に一瞬だけ戸惑った様子を見せた。 けれどすぐにどこかに向かって歩きはじめ、 家具の隙間に消えてしまった。

 そんな事があってから、 ほどなく会社は不渡りを出して、 倒産に追い込まれた。

 私は今、 失業保険をもらいながら、 これから何をするのかを考えている。

 とにかく、 自分で決めようと思う。

 あのアリみたいにちゃんと歩けるかどうかは分からないけれど。       (完)

(イラスト やまもとかずよ)
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