きんもくせい50+36+25号
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ペーパードームたかとり台湾再生プロジェクト

 

 阪神・淡路大震災によって壊滅的な被害を受けた神戸・鷹取。 国籍も宗教も越え、 全国からボランティアが鷹取教会救援基地に集まった。 その敷地に建った「ペーパードームたかとり」は、 住民たちも交えた出会いの場となり、 「まちづくりは、 ダチ(友達)づくり」と言い交わされた。

 ペーパードームの計画は、 東京から鷹取を訪れた建築家坂茂さんが提案したことに始まる。 高さ5メートル、 直径33センチの紙の列柱58本が弧を描いて並び、 テント張りの屋根を支える。 ボランティアたちが汗して作業をし、 地震から8カ月後の1995年9月17日に竣工式が開かれた。 面積は200人を収容できる約170平方米。 以来10年、 住民の集会や映画の上映会、 コンサート、 教会のミサ、 結婚式、 修学旅行生の受け入れなど、 さまざまな使い方をされてきた。 違いを豊かさとし、 人と人とのきずなを紡ぐ。 「ダチづくり」の復興を目指す歩みを、 ドームは見守ってきた。

 我々が台湾のまちづくり(社区営造)を知るきっかけになったのは、 やはり1999年9月21日に発生した台湾集集大地震後の復興まちづくりであったといえる。 阪神・淡路大震災で被災し、 復興まちづくりでさまざまな経験をした我々は多くのことを台湾に伝えたいと思った。 様々なメンバーがそれぞれ台湾の「まちづくり」の一端に触れる中で、 逆に台湾のまちづくりの方法やまちづくりに取組む人たちの熱情から多くを学ぶ必要性を感じた。

 そして台湾と神戸がともに震災の節目となった昨年から今年にかけて開催された「台湾−神戸 震災被災地市民交流会」は、 被災地市民が直接交流する絶好の機会となった。 この交流会の中で、 神戸の鷹取で震災後10年間様々な発信を続けてきた「ペーパードームたかとり」を台湾へ移設し再生させることで、 台湾?神戸の交流をさらに発展させたいとの話が持ち上がったのである。

 

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ペーパードーム建設中(1995年8月10日) ペーパードームの結婚式(1996年2月10日)
 
 2005年阪神・淡路大震災から10年を経てカトリックたかとり教会は建て替えが始まる。 この地域の仮設集会所としてのペーパードームもその役目を終え、 取り壊され、 新しい教会が建つ。

 このペーパードームにはミサに訪れる人々だけではなくさまざまな多くの人々がここに集い、 この場所で悲しみや苦しみ、 そして喜びを分かち合い、 育んできた。

 今度は台湾でその役割を担い、 神戸のように人と人との絆を結び、 多くの人々に愛されることを願って、 「ペーパードームたかとり台湾再生プロジェクト」を立ち上げた。

   2005年4月16日

   ペーパードームたかとり台湾再生プロジェクト実行委員会

浅山三郎(野田北部まちづくり協議会会長)
天川佳美(市民まちづくり支援ネットワーク事務局)
井垣昭人(台湾−神戸 震災被災地市民交流会幹事)
河合節二(野田北ふるさとネット事務局長)
神田 裕(たかとりコミュニティセンター代表)
小林郁雄(人と防災未来センター上級研究員)
垂水英司(台湾まちづくり研究会代表)
宮沢之祐(たかとり10周年記念誌編集委員)
森崎輝行(建築家)◎
三輪康一(神戸大学工学部助教授)
陸 超(中華民国留日神戸華僑総会副理事長)
(以上50音順、 ◎印は委員長)

坂 茂(建築家、坂茂建築設計代表)
石田摩美子(坂茂建築設計)
菅井啓太(坂茂建築設計)
石岡桂奈(坂茂建築設計)

 2005年4月16日(土)午後、 鷹取カトリック教会にて「ペーパードームたかとり」を台湾に移設再生するプロジェクト立ち上げの記者発表を開催しました。

 それに合わせて台湾から廖嘉展さん(新故郷文教基金會代表)と孫崇傑さん(同研究員・建築師)のお二人が参加してくださり、 記者会見に先駆けて開催しました実行委員会では建設地を協議し埔里鎮桃米里に決定いたしました。

 その後ペーパードーム内で開催された記者発表では台湾からのお土産として神戸の実行委員会に絵が2つ贈られました。 1枚は神戸のペーパードーム内部の絵で、 もう1枚は台湾へ送られたペーパードームが林の中に建っている情景が描かれています。

 

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実行委員会で建設地を検討 記者発表のあとの実行委員会同士の記念撮影 右から神田神父(絵は現在/神戸)、寥代表、浅山会長、孫さん、森崎委員長(絵は計画/台湾)
 


「だんだん畑は元気の素!」阪神・淡路大震災10周年記念事業助成

南芦屋浜コミュニティ&アートプロジェクトの7年を語る/フォーラム&交流会

生活環境文化研究所 橋本 敏子

 5月14日(土)に、 表記のプログラムが行われます。 実施するのは、 畑の活動を行っている住民有志と応援団のメンバーによるだんだん畑10周年実行委員会。 私もその一員として参加しています。

 巷では、 震災10周年関係の様々なイベントが行われていますが、 実行委員会はあえて「イベント」という特別な位置づけをしないでおこうということになりました。 というのは、 「畑の活動を住民や外の人たちに知ってほしいけれど、 へとへとになるようなイベントはしたくないな」「もっと若い世代や子どもたちに参加してほしいねぇ」「なんでだんだん畑ができたのか、 アーティストや計画した人たちに一度きいてみたいな」そんな声が多かったからです。 イベントのためのイベントはしないという方針は当初から今まで続いていることの一つですが、 高齢化が進むこのまちでは現実的にもそうしないともたないというのも事実。 そんな中から決まったのが今回のプログラムです。

●フォーラム (13:30〜15:30)

・芦屋市総合公園内・緑の相談所会議室にて
(芦屋市陽光町1-1 tel 0797-25-2023)

 まち開き・畑びらきからちょうど7年、 この機会にだんだん畑の制作者である田甫律子さんをはじめ当時の関係者の方々このプロジェクトに参加した方々にも来ていただき、 畑のメンバーと一緒にこの7年を振り返ります。

 計画した側と住民が一緒に語るという機会は意外に少ないため、 どんな話が飛び出すか期待大です。

●だんだん畑パーティ(交流会) 16:00〜17:30
 市営だんだん畑にて
 いつもよくやっている催しです。 今回は市営エリアが主会場。 畑のそばで軽い飲食をとりながら住民やゲスト参加者やフォーラムに来ていただいた方々との交流を図ります。 当日収穫した空豆やエンドウがおつまみに登場するかもしれません。

 いずれも参加費は無料。 フォーラムは申し込み制。 Fax 0797-32-7178 フォーラム担当 橋本まで


★『春のじゃがいも収穫祭〜親子で作るカレーライスと菜の花サラダ』の報告

 今回の一連のイベントの第一弾として、 4月3日に、 「春のじゃがいも収穫祭」が行われました。

 畑のじゃがいもを収穫して、 それを使って、 親子でカレーライスを作って、 畑の菜の花や大根を使ったサラダと一緒にみんなで食べました。

 また、 食事の後には、 みんなで畑の土起こしをしました。

 

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畑で採れた大根と記念撮影 収穫したじゃがいもをみんなで皮むき みんなで作ったカレーを食べました
 
 
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住民手づくりの案内チラシ
 

 

連載【コレクティブハウジング19】

ふれあい住宅(復興公営コレクティブ住宅)の検証(その5)
今後の展開に向けて(2段階住宅供給方式)

石東・都市環境研究室 石東 直子


はじめに

 「きんもくせい 04年3月号」から始めたふれあい住宅の入居後数年を経た課程の検証シリーズも今号でひとまず終えるのでシリーズの概要まとめと今後の展開へ向けての提案を記します。 ちょうど兵庫県の震災復興10年総括検証も発表されたので、 その報告書概要版からふれあい住宅の検証を文末に転載しました。 なお10年検証については、 ふれあい住宅連絡会で話し合ってみたいと思っています。

1.ふれあい住宅事業化の功罪

・ふれあい住宅の事業化は震災直後のコレクティブハウジング事業推進応援団の提案や地域型仮設住宅での高齢者の安定居住のモデル等があって、 復興公営住宅に10地区341戸が供給された。 コレクティブ応援団の提案主旨は、 仮設住宅で多発し大きな社会問題となっている孤独死が恒久住宅に入居した後も続発することを防ぐために、 日常生活の中で自然な形で住人どうしがふれ合う場をもち、 相互扶助を育むことができるしかけを持った住まいの復興であり、 下町長屋の再生である。

・10地区のうち4地区は多世代向け住宅、 6地区は高齢者向け住宅であるが、 復興公営住宅という特殊性から多世代向け住宅も高齢者の占める割合が多く、 コレクティブ住宅=高齢者向け住宅というイメージが広まり、 本来のコレクティブ住宅の理解に誤解を生じさせてしまったきらいがある。 これは阪神・淡路大震災復興基金事業によって創設された「被災者向けコレクティブ・ハウジング建設等事業補助制度」の適用を受けて建設された民間住宅(18件)についても言えることであり、 本来のコレクティブ住宅のもつ多世代居住、 生活の合理化をめざした家事の一部の協同化、 住人たちによる自律した住コミュニティ運営の視点が置き去りにされているようだ。 単に共同スペースがあるという建物形態だけでコレクティブ住宅と呼んでいては、 日本の住宅史に汚点を残すことになろう。 「被災地にコレクティブ住宅を!」の言いだしっぺで、 その事業推進を応援してきた私にとっては悔やまれる点である。

・ふれあい住宅は募集時に十分な情報提供と説明がなくて協同居住の意味を理解しないで入居した住人が少なくなく、 入居当初は新しい住まい方に戸惑い住人間のトラブルがあったが、 コレクティブ応援団やLSA(生活援助員)、 多様なボランティアのサポートを得て入居後数年が経ち、 ひとつ屋根の下に生活しているという相互扶助の気持ちが育また。 緊急時の対応や日々の生活の異変等に住人の気配りがあり、 十分ではないにしても安心居住の住まいであると住人の多くは感じているようだ。 相互扶助が育ち自律した高齢者住宅の先進事例とみなされ、 他自治体でも数ヶ所が事業化されている。 他地域で事業化された高齢者ふれあい住宅は、 その形態や協同居住の状況は様々であるが、 1987年に創設された国の制度「シルバーハウジング・プロジェクト」のLSAによる住人個別対応の見守りシステムから発展して、 住人同士のつながりや自律した相互扶助のある住まい方としてモデル供給された。

2.住人の動態、 加齢等による課題

 入居後数年が経って住人の動態は住宅によって差があり、 第一次入居時からの居住者率が58〜67%という住人の入れ替わりの多い住宅が3住宅ある。 死亡や高齢者施設への入所等によって生じた空住戸に入居してきた新住人に対して自治会役員等は新しい住まい方に馴じめるようにと心を配っているが、 ふれあい住宅(新しい住まい方)という認識がなく、 新旧住人に戸惑いがある。 空家募集に際して適確な事前説明や情報提供が望まれる。 また、 高齢者2人世帯として2DK住戸に入居したが1人が亡くなって単身住まいになっている住戸が増えている(2DK戸数の32%に及んでいる)。 今後このような状況がさらに増加し、 3DKでも同様な状況が生じ居住人数が減少すると、 計画人口に対応して設けられている協同スペース等の維持管理も難しくなってくる。 同一住宅内で世帯人数に合った住戸に住替えたり、 親しい住人同士が同居(シェアード居住)できるような新しい手立てが望まれる。

3.ふれあい活動の変様

 住人の加齢に伴ってエネルギーがなくなり、 お茶会や定期的な食事会、 節季の集いなどのふれあい活動が一時期に比べて大幅に減少してきているが、 住人たちはこのようなふれあいの機会の重要性を認識し何とかお茶会等を続けたいと思っており、 新規入居者はできるだけ若い人に限定してもらって自律した住運営のエネルギーが持続できることを強く望んでいる。 真野ふれあい住宅と岩屋北町ふれあい住宅は外部ボランティアのサポートを受けてお茶会や朝食会を続けている。 また、 現行制度を活用して住人が日常生活の中でふれあう機会をつくっている福井ふれあい住宅では、 宝塚市看護協会の看護師訪問健康チェックを毎月協同室で行っている。 介護保険制度の家事ヘルパーの食事づくりを利用している人たちが協同室でまとめて食事をつくってもらい一緒に食べることが実現できたり、 希望者が共同で食事サポーターを雇ったり、 仲よしグループが一緒につくって食べるなどが実現化することを私は望んでいる。

4.持続した安定居住の展開に向けて

 全国に先がけて事業化された高齢者協同居住のふれあい住宅は数年の居住を経て新たな展開の時期を迎えている。 震災直後の計画段階では具体像として予測できなかった今後の展開も見えてきた。 今までの課程はハードな住宅建設とモデル居住の模索・試行の課程であり、 これを第1段階の住宅供給とすると、 今後は将来とも安定した居住が持続できるためのシステムづくりと住人ニーズにの時期に応じた居住サポートを提供する段階(持続したソフトな住宅供給)に入る。 私はこれを2段階住宅供給方式と呼び、 その必要性を強く感じている。

 なお、 下に転載した10年検証にある『ふれあい住宅の活性化のために住宅の管理・運営を社会福祉法人やNPO等の民間事業者へ委託するなど』の提案は、 将来的には必要な方策のひとつであろうが、 一律に早急な導入は適切ではないように思う。 まず、 現状でうまく運営を続けているふれあい住宅のやり方を学び、 他のふれあい住宅もそれをとり入れることができるような住人自治の育みが大切である。 外部組織に丸がかえ委託する方式をとらないで、 2段階住宅供給方式としてまず大家さんである自治体が責任を持って居住実態や住人のニーズ、 意向を把握し、 住人の意思を尊重した、 住人自らが参加しながら対応できるようなサポートが必要である。 2ヶ月ごとにふれあい住宅の有志とコレクティブ応援団が集まって情報交換をしている「ふれあい住宅連絡会」に大家さんも参加して欲しい。

「兵庫県復興10年総括検証・提言報告(案)の概要版」からの転載

2-(10)「新しい住まい方における取り組み」

(1)取り組みの成果と課題
ア.「ひょうご復興コレクティブハウジング等」供給の成果と課題
 応急仮設住宅の居住者特性に超高齢社会の縮図を読み取り、 居住者自身によるコミュニティの形成を基本とするコレクティブハウジングという新たな居住様式を全国に先駆けて公営住宅に導入し、 県営、 市営をあわせて10団地341戸を供給した。 また、 NPOやボランティアによる協同居住へのソフト支援が行われたことから、 居住者の生活再建の励みにとなった。
 今後の課題として、 「新しい住まい方」の価値の浸透不足もあり、 「入居動機」とのミスマッチが生じた。
<以下省略>

(2)今後への提案
ア.既存の「ひょうご復興コレクティブハウジング等」の活性化
  既存の住宅ストックを活用して、 さらなる高齢者の自立と安心居住に資する次世代「シルバーハウジング」(高齢者向け設備・仕様の公共賃貸住宅で、 LSA・生活援助員によるサービスが受けられるもの)のモデルとして再活用を図る必要がある。 このため、 高齢者のみの集団では、 居住者主体の持続的コミュニティ形成の期待は困難になることから、 今後、 住宅の管理・運営を社会福祉法人やNPO等の民間事業者へ委託するなど、 コレクティブハウジングの運営を支援すべき。
<以下省略>




 

連載【街角たんけん14】

Dr.フランキーの街角たんけん 第14回
栄町通 過去・現在・・・・(序)

プランナーズネットワーク神戸 中尾 嘉孝

 今シリーズは「田園都市」から、 再び街中に戻ることにしたい。 取り上げるのは、 筆者の属する「港まち神戸を愛する会」のホームグラウンドのひとつ・栄町通である。 「あの日」を境にして、 旧居留地も栄町通も、 やはり、 大きく変わった。 私たちが思いを注いでいた建物があった跡地は、 いまだに空地のままの場所もあれば、 別の会社のビルやマンションに建て替わったり、 とそれぞれである。 総じて、 この通りの界隈は、 高層集合住宅建設がピークを迎え、 また自然発生的な盛り場が繁殖するなど、 神戸の中心市街地の現在を象徴している。

 まずは、 開通から今年で132年になった栄町通のあゆみを辿ってみよう。

 栄町通のルーツを語るとき、 語り落とせないのはもちろん「居留地」と、 もうひとつは「鉄道開通」という二大プロジェクトである。

 明治元(1868)年、 生田川(現フラワーロード)西側に出現した神戸外国人居留地は、 格子状に区画された街区割や幅27mの京町筋など、 当時の日本人の感覚とはかけ離れた空間であったと考えられるが、 この居留地の強烈な印象が、 その後の、 神戸駅北側の仲町部(現神戸市中央区橘通、 多聞通)の開発や、 明治中期から展開する新道開鑿、 耕地整理など民間による神戸の市街地基盤整備に大きな影響を与えたことは想像に難しくない。

 栄町通の建設も、 そうした「居留地」の与えたインパクトのひとつと考えられるが、 その実現には、 明治初期の兵庫県庁を根城に活躍した一人のメリケン帰りの「プランナー」の存在が大きかった。

 明治の初め、 西国街道(現元町通商店街)と、 海岸通に挟まれた区域は、 兵庫津から引き続いて形成されてきた神戸・二つ茶屋・走水の三ヵ村の中心部で、 場所柄、 水産物を商う人々などが住まう密集市街地であった。 できたばかりの居留地と大阪神戸間を結ぶ鉄道の終着駅が建設される東川崎町とを連絡するのは、 江戸時代そのままの西国街道と明治4年に整備された海岸通(現国道2号線)以外に目抜き通りはなく、 漁村特有の毛細血管のように家々の軒先を縫って歩いていく有様であった。

 鉄道の開通を約2年後に控えた明治5年、 このまちを揺るがす計画が、 県庁から出された。 神戸・二つ茶屋・走水の三ヵ村の真ん中、 西国街道の南側に、 幅員18mの大通りを建設するというのだ。

 この一大土木事業を計画したのは、 当時県庁の新大道取開掛であった関戸由義である。 赤松啓介によれば、 関戸は福井藩の、 おそらくは江戸屋敷詰めの武士だったが、 幕府崩壊の混乱に乗じて江戸中の豪商や御家人などから二束三文で買い叩いて集めた書画骨董刀剣を携えてサンフランシスコへ渡航、 現地の好事家に高値で売り飛ばして得た資金で、 こんどは最新式の銃器を仕入れて、 日本にとってかえし、 諸藩諸侯に売り込んでひと財産作った、 というなかなか武家らしからぬ抜け目のない人物だった。 関戸は、 開港間もない神戸で一旗あげることを決意。 早速現地へ飛ぶとメリケン帰りの新知識を生かして今の鯉川筋のあたりで英語・数学などを教授する私塾を始め、 これがよく繁盛をしたという。

 まもなく兵庫県庁が、 関戸に目をつけた。 何しろまだ地方自治の基盤も確立しておらず人材不足の状況で、 短期間とはいえアメリカ滞在という関戸の経歴が光ったのだろう。

 栄町通の建設にあたっては、 道路建設だけでなく沿道の市街地整備も合わせて計画されていて、 鯉川筋から宇治川の間まで道路幅員の3倍強・69mの幅で、 用地買収が進められた。 兵庫県は、 外国人居留地に対して「日本人のためのビジネス街づくり」を目論んでいた。 鉄道の終着・神戸駅から居留地への玄関口となる大通りに相応しいまちづくりを企図して、 そのプランにはある秘策が込められていた。 (この項続く)

 

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「明治五年兵庫神戸実測図 三千分箇之縮図」海側(神戸市立博物館蔵)の元町周辺部分 ※町の中央の大きな通りは西国街道(現元町通)(出典「異人館のある町並み 北野・山本」(神戸市教委))
 

 

連載【まちのものがたり25】

マンションKをめぐる人々1「屋上」
祖父と鳥

中川 紺



財布がピンチだ。 プレステの中古ソフトのせいで今日発売のマンガが買えなくなった。 どうするって? 通勤定期落としてイライラしているおふくろには頼めない。 僕は仕方なく祖父のところに行くことにした。

祖父はこのマンションが建ってすぐに最上階に……といっても七階建ての小さいマンションだけど……引っ越して来たそうだ。 うちの家族はそのちょうど一ヶ月後に二階下の部屋に。 実は祖父がいるとは知らなくてちょっと驚いたけど。

独り暮らしで結構広い部屋借りて、 お金はあるはずだけど、 僕は祖父からおこづかいをもらった記憶がない。 親戚の間でもケチで有名だ。 でもそんなとこしかもう思いつかない。 小学生じゃバイトもできないしさ。

● ●

ピンポン。 押してすぐにドアが開いて驚いた。 どこかに出かけるみたいだ。

「なんだ、 モトオか、 珍しいな。 どうせ何か頼みごとだろう。 でも小遣いはやらんぞ」

開口一番これだ。 でもここで諦めるわけにはいかない。 違うよ、 じいちゃんどうしてるかなって思って、 と心にもないことを言って、 そのまま祖父の後をついていった。

エレベーターには乗らず、 非常階段から屋上へ上がると、 祖父は持っていた折たたみイスを広げて腰をかけた。 脇の籠には小さなポットと急須と湯のみ、 それから袋がひとつ。

「何すんの?」と聞くと、 黙って空を見上げ、 袋からひと掴み取り出したものを、 屋上の隅っこにまいた。 鳥のエサらしい。 すぐに十数羽やってきて、 ついばみはじめた。 それを見て微笑んでいる祖父は何だか別人だ。

 

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「ここでえさやって、 怒られない?」

「……ばあさんがな……」急須にお茶っ葉を入れながら、 唐突に話し始めた。

● ●

マンションが建つ前、 ここは小さなお屋敷だった。 庭には二階の屋根より背が高い木が植わっていて、 木はスズメのねぐらになっていた。 毎日、 鳥たちの声がとても賑やかで、 三年前に亡くなった祖母は、 その木が気に入っていたらしい。

「楽しそうねえ。 私、 スズメに生まれ変わってあの木に住もうかしら」

ベッドの上でよくこう言っていた。 それなのに祖母が亡くなって一年もしないうちにその土地は売られ、 あとにはマンションが建った。 もちろん木は切られて、 スズメは新しい宿を求めて散り散りばらばら飛んでいった。

● ●

「でも戻ってくるかもしれないからな。 目印の木がなくても、 ばあさんが迷わないように、 わしはここで待つことにした」

いつも無愛想な祖父がそんなことを考えていたことに少し驚いていた。

無駄遣いはするな。 話し終えると千円札を一枚くれた。 僕は戸惑いながら受け取った。

次の日の明け方、 祖父は心臓発作で亡くなった。 お葬式から帰ったあと、 僕は屋上に一人であがった。 最初で最後のおこづかいで買った「鳥のエサ」を、 祖父と同じ場所でハトやスズメたちにやった。 鳥たちの中に、 ずっと一緒にいる二羽のスズメがいて、 僕にはそれが祖父と祖母の姿に見えた。   (完)

(イラスト やまもとかずよ)



阪神白地 まちづくり支援ネットワーク・第43回連絡会報告

 

 今回のテーマは「団地再生の動向−明舞と浜甲子園団地」で、 4月8日(金)神戸市勤労会館において行われました。 タイトルと報告者は以下の通り。

●「明舞団地〜NPOとの協働による再生の取り組み」/野崎隆一(遊空間工房)

●「浜甲子園団地〜住民参加による団地再生」/吉川健一郎(コー・プラン)

 野崎さんからは、 まず今回のコーディネータとして、 「団地再生の動向・パースペクティブ」と題しての我が国及び世界の団地再生の流れを整理されたのちに、 兵庫県が昭和30年代から開発してきた郊外型住宅地である明舞団地(明石舞子団地)の再生の取り組みについて報告されました。 開発ポテンシャルの低い団地の再生では住民主体の取り組みが不可欠であるとの考えから、 平成14年度より地元NPOと行政、 専門家との協働事業として、 空き店舗事業やまちづくりワークショップ、 団地再生アイデアコンペ等の取り組みが紹介されました。

 吉川さんからは、 西宮市東部にある浜甲子園団地(昭和30年代後半に公団が開発、 約4,600戸の賃貸住宅、 4〜5階建階段室型住棟)の再生に関して、 平成13年より地域住民とともにワークショップにより建替え後の住まい方等について検討を積み重ねている取り組みについて報告されました。

 討論では、 賃貸住宅団地とに関して今後のあり方の検討が必要であること、 再生コンペの方法に工夫が必要であること、 人口が減少していくときの都市計画・まちづくりのあり方など、 様々な興味深い意見が出されました。 (中井都市研究室 中井 豊)



第75回・水谷ゼミナール報告

 今回のテーマは「兵庫県下のコンバージョン←→リフォームの事例」で、 4月22日(金)、 こうべまちづくり会館で行われました。 タイトルと報告者は以下の通り。

●「御影の病院→コレクティブハウスへのコンバージョン」/野崎瑠美(遊空間工房)

●「太子町の家(明治建築のリニューアル)」/森崎輝行(森崎建築設計事務所)

●「ワコーレのバリュアップ事業2題」/松尾裕二、 有馬博行(和田興産)

 野崎さんからは、 築後30年たった医院付き住宅の医院部分(5階建ての1、 2階)を、 グループハウスとして用途転換した事例を報告されました。 消防や福祉施設としての対応、 設備や費用面での不確定要素が多いことなど、 コンバージョンの難しさ、 設計者としての苦心が語られました。 森崎さんからは、 播磨地域に多く残る伝統的な民家の風景を守りながら、 現代風にリニューアルした事例が報告されました。 神戸大学安田研究室との共同作業とのことで、 大胆に打ち放しコンクリート壁を耐震等への対応として使用していることが印象的でした。 松尾さん、 有馬さんからは、 入居状況のあまり良くない集合賃貸住宅を一棟ごと購入して、 リニューアルする事例が報告されました。 これらの報告はいずれも、 これからの時代に確実に増加していくと思われる事例であり、 関わる主体や目的の違いにより、 多様な方法でコンバージョンやリニューアルが展開されていくであろう、 ということが感じられた報告会でした。 (中井都市研究室 中井 豊)



情報コーナー

 

●「炊き出し体験会・そして絆」

・日時:5月29日(金)10:00〜17:00
・場所:湊川公園(市営地下鉄湊川公園駅、 神戸電鉄湊川駅すぐ)

・内容:ステージ/第1部「あの日に立ち戻る」・・・ブラスバンド演奏など、 第2部「この10年をふりかえる」・・・防災訓練、 救急救命士養成講座など、 第3部「未来へ」・・・犬の一発芸大会など、 イベント広場/まちづくり協議会による模擬店、 パネル展示など
・問合せ:コー・プラン(担当:吉原、 TEL.078-842-2311)


訃   報
震災以降、千歳地区(鷹取東第二地区)をはじめ多数の地区で復興まちづくりにコンサルタントとしてご尽力してこられ、 「きんもくせい」にも寄稿していただいている淺野弥三一さんの奥さん、 妹さんが尼崎の列車事故で亡くなられました。 謹んでご冥福をお祈りいたします。

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(C) by 阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク

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