きんもくせい50+36+26号
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新潟県中越大震災・震災から半年

復興スタート宣言・産官学リレーシンポジウム 共同宣言

大地復興推進会議

 

 2005年4月23日、 新潟県中越地方は2004年10月23日の新潟県中越地震から半年の節目の時を迎えた。 被災地は地震後19年ぶりという豪雪に埋もれたが、 ようやく春を迎え、 各地で雪解けが進んでいる。

 新潟県中越地震・大地復興推進会議は中越地震復興を推進しようとする、 中越地域内外の市民・研究者・実務家の集まりである。 この会議の目的は、 情報の共有による震災復興に対する意識や活動の有機的連携と相乗効果の生み出しである。 本会議は提言、 行動、 検証を絶え間なく行う。 この一連の活動は我々自身に向けられるものが最大であるが、 市民や行政にも向けられる。 会議への参加資格は問わない。 中越地震の被災体験のみならず阪神・淡路大震災をはじめ過去の災害の教訓を活かした中越地域の復興をめざしつつ、 今後、 大都市、 地方都市を問わず我が国のどこにでも起こりえる地震、 さらには来るべき首都直下や東海・南海の大地震等への対応指針を得ることもめざしている。

 大地復興推進会議は地震後半年の節目にあたり、 2005年4月22日・23日の2日間にわたる産官学リレーシンポジウムの成果をふまえて以下の宣言を行う。 地震後1年目にはこの宣言の内実を確かめると同時に新しい宣言を行う。 その間にも必要に応じ適宜会議として声明発表や行動提起も行う。

1.2005年3月1日発表の「新潟県中越大震災 震災復興ビジョン」をふまえて、 各市町村が2005年6月の策定を目途に、 現在作成中の市町村の震災復興計画に積極的に関与する。

 中越地震では、 地震後の初期の2ヵ月は豪雪に備えての緊急・応急対策に全力があげられ、 その後の3ヵ月は豪雪の中でひたすら雪解けを待って復旧・復興活動はほぼ完全に休止状態という特異な状況におかれた。 近年の地震災害ではかつてなかったことである。

 新潟県はこの地震後モラトリアムともいうべき期間に「震災復興ビジョン」をまとめた。

 中越地震では、 長岡市を中心とする地方都市の市街地(町場(まちば))、 郊外部(平場(ひらば))、 中山間地(山場(やまば))のいずれもが大きな被害を受けたが、 とりわけ中山間地の被害は激甚であった。 県の復興ビジョンは、 地震前から衰退傾向が著しかった山場において住宅・生業・暮らしが一体となった新しい生活を生み出し、 町場、 平場との新しい相互依存関係を築いて中越地域全体としての活力創造を掲げた。 これは中越地方のみならず日本全国の地方都市のめざすものでもある。 期間としては10年が設定された。 大地復興推進会議のメンバーは、 県の復興ビジョンの策定には何人か加わったし、 ビジョンをふまえて作成中の市町村の震災復興計画には多数のメンバーが直接、 間接に関係している。 推進会議はビジョンの実現に向けて各方面で積極的な活動を行う。

2.大地復興推進会議は、 県のビジョンには大きくは取り上げられていないが、 被災市民と行政をつなぐ「中間組織」、 「仮設住宅生活」、 「景観」の3点は特に重要と考える。

(1)中間組織
 今回の地震では被災市民は避難場所だけでなく様々な場所に自主的に避難し、 相互に助け合うなど秩序維持に大きな役割を果たしたし、 その後の仮設住宅等の被災後生活でも地域コミュニティは地域のまとまりの中心的役割を果たしている。 今後の復旧・復興計画の策定や事業推進の基本は、 行政との連携のもと地域コミュニティの意思と合意であることはいうまでもない。 しかし、 行政と被災市民という2対関係では限界がある。 このため、 中越地方内外の市民、 ボランティア、 専門家を結ぶネットワークを形成し、 地域コミュニティをさりげなく支えて市民―行政間の橋渡しをする多様な「中間組織」の存在を重視し、 市民―中間組織―行政の3対関係を生み出して復旧・復興を推進する。

(2)仮設住宅生活
 仮の住まいはあっても「仮の生活」というものはない。 仮設住宅の環境と生活も豊かなものでなければならない。 また、 仮設住宅生活から復興生活までの道は「直線的」なものではなく、 両者がオーバーラップする「複線的復興」ともいうべき復興もありえるとも考え、 仮設住宅だけでなく、 仮設店舗や仮設作業所などを含んだ「仮設市街地的建設」的な復興形態の明確化と具体化の方策を追求する。

 仮設市街地は現在の仮設住宅にもありえるし、 中山間地に被災者が戻っていく場合にもありえると考える。

(3)景観
 中越地震報道の中で、 全国の人々の心を大きくうごかしたものの中に、 地震前に保たれていた地域の固有の文化と美しい風景がある。 風景、 景観に配慮する余裕がなかったということは阪神・淡路大震災の苦い教訓のひとつである。 中越地震の復興においては農地や森の再生だけではなく、 住宅、 集落も含め「美しい日本」をつくる先鞭をつけたい。 美しい景観が人々をひきつけてやまない時代はもうすぐそこに来ている。

3.中越地震に関する県、 市町村の公式文書には載りにくい問題として「広域合併と災害問題」、 「災害後対応における自治体・市民の裁量重視」、 「復旧と復興の法制度上の明確化」の3点は特に重要な問題として指摘しておきたい。

(1)広域合併と災害問題
 中越地震は県知事交代の2日前、 広域合併の5ヵ月前という政治的にも極めて異例な時期に起きた。

 長岡市は2005年4月1日に周辺5町村を吸収合併して新長岡市となった。 地震発生時の災害対策本部は旧市町村ごとに、 復旧・復興に関しては、 初期5ヵ月間は旧市町村ごと、 4月1日からは新長岡市がすべてを行うこととなった。 新市の広がりは一気に広大なものとなった。 市長のみならず市職員も含めて新市の実態を把握している人はいない状況であるといっていい。

これは市民についても同じである。 平成の大合併は全国で進んだし、 これからも進む。 今後10年程度は広域合併と災害問題の関係は全国でも特に留意が必要であることを指摘しておく。

(2)災害後対応における自治体・市民の裁量重視
 中越地震での被災者生活再建支援法適用では住宅再建への資金充当は認められず、 物品購入には細かな制限がつけられた。 住宅再建はもっとも重要な生活支援であるにもかかわらず、 である。 また生活再建の方法は被災者個々に異なる。 購入する物品まで国に定めてもらう必要はない。 首都直下地震や東海、 南海地震などが発生すれば数百万規模の被災者発生や数十万のオーダーの住宅喪失が起こる。

 このような時に国の定めた事務手続き、 費目や仕様に基づいた給食や仮設住宅建設、 生活再建などは不可能である。 国は災害後対応における手続きや資金と使用などを根本から見直すべきである。

(3)復旧に対置した復興を明確にすること
 地震等の災害後の道路等の公共施設整備において国が認めているのは原則「原形復旧」つまり災害前の状態にもどすことである。 これに対しては手厚い補助が用意されている。 しかしながら、 全く新しいことつまり「復興」に対しては特別な措置はない。 再度災害防止のための「改良復旧」の道があるが非常に限定的である。 これでは抜本的な復興は難しい。 この復旧と復興の問題は難しい問題であることは承知している。 しかしながら、 復興の概念や法制度上の明確化は時代の要請であり、 早急な検討開始を望むものである。    以上

2005年4月23日

大地復興推進会議・代表世話人 平井 邦彦


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澤田さん、顔さん何さん、平井さん 伊藤先生平井さん、森市長泉田知事 長岡中心地の歩行者天国の闘牛

 この半年後復興スタートシンポジウムは、 大地復興推進会議が中心になって企画されたものですが、 実質は長岡造形大学の平井教授と澤田講師の努力の結晶です。 上の左端写真の中央2人は、 921地震からの復興報告をされた台湾埔里のNPO新故郷のメンバーです。 中央写真は4/23に鼎談された方々と「まちなか考房」でお祭りのカレーを食べながら、 「ガレキに花を」の活動など阪神大震災の話をしました。 くらし研究所の山口一史さんも一緒でした。 右端写真は山古志などの有名な闘牛が、 お祭りに参加してました。 さすがにデカイ!けど、 おとなしかった。 下の写真は翌4/24の被災地ツアで、 特別に村の中心部を見学させてもらった山古志の雪の残っている風景です。 切ないほどの美しさでした。
 1年後、 1年半後、 2年後も、 同じメンバー同じ場所同じテーマで、 再び、 三たびシンポを重ねることを提案しました。(小林郁雄)

 

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山古志村中心部残雪景色
 

 

連載【コンパクトシティ13】

『コンパクトシティ』を考える13
−英国のインナーシティ化とサッチャー政権の政策

神戸コンパクトシティ研究会 中山 久憲

1.英国のインナーシティ問題の顕在化

 「工業社会」英国の戦前戦後の都市政策の基本は、 混雑した大都市から人口と経済活動の分散化を促進する地域政策・ニュータウン政策であった。 1950〜60年代にかけて、 大都市インナー地域から人口と雇用の転出が促進された。 しかし、 老朽・劣悪化した工場や住宅の放置、 人口の高齢化、 購買力不足による商業不振、 空き店舗の増加という、 集中化、 郊外化に次ぐ「第3の都市化」、 すなわち「インナーシティ化」を顕在化させた。

 さらに、 英国にはインナーシティ化に拍車をかける特殊な実情があった。 かつての大英帝国繁栄の時代に、 帝国内の国民の移動の自由が保障され、 英国には一攫千金を求めて多くの人間が海外から移住してきた。 圧倒的な大多数は都市地域に貧困層として住みついた。 まさにインナーシティでは、 全国より3割以上高い失業率と、 住宅の老朽化、 貧困層の拡大、 高い犯罪発生率が恒常化した。

2.公共主導型インナーシティ政策の限界

 インナーシティ問題の高まりは、 長年の都市の衰退を放置した政府に、 非難の声を高めた。

 労働党のウィルソン政権(64-70)は、 都市の貧困は個人や集団の社会的病理に原因があるとする伝統的見解に立ち、 子供の遊ぶ施設、 保育施設、 住宅相談所、 老人援助など公共介入の対象を特定化する選択主義と積極的優先措置に基づく都市の衰退対策を実施した。 しかし、 効果はなく、 逆に都市の経済的衰退を促し、 国家や国際レベルまで影響しているという評価に終わった。

 次の保守党ヒース政権(70-74)は、 都市の荒廃の解決策は、 「物理的」で、 同時に「経済的」であるべきと考えた。 しかし従来の物的再開発方式から脱却できず、 一方、 経済的対策で民間の投資を刺激する金融緩和が、 不動産投機ブームが起こし、 公共部門が長期的に進めてきた都市政策が市場からはじき飛ばされ、 壊滅的になってしまった。

 74年に政権を取った労働党(74-79)は、 都市問題は集中による混雑の問題ではなく、 都市経済の崩壊の再生過程を支援する民間投資が欠如しているとの認識に変わった。 従来の分散化政策から転換し、 都市開発資金を大都市内部の開発・更新に重点を移した。 78年深刻な地域に『パートナーシップ地域』を指定し、 中央政府と地方公共団体が密接な連携の下で、 民間活力を都市の経済活性化の主役として都市計画、 都市再生にあたることとした。 しかし、 労働党政権下では、 中央政府が、 民間部門を支持することに限界があった。

3.サッチャリズムによる国家主導型経済からの構造転換

 79年の総選挙で保守党が圧勝し、 英国初の女性首相のサッチャー政権(79-90)が誕生した。 サッチャーは、 勤勉と達成を尊ぶ「自助努力」を訴えて、 社会主義的な福祉国家と混合経済から脱して、 自由主義的経済国家に復帰させる「強くて小さな政府」を政策の中心課題とした。

 サッチャリズムの手法哲学は、 次の4点である。

1)政府は肥大化しすぎであり、 民間部門の利益を妨げない程度に縮小すべきである。

2)市場の重視で効率的な成長管理ができる。

3)経済の全ての分野で民間部門は公共部門より効率的である。

4)公共部門の依存度を下げることで、 企業・地域・家庭は、 進取の気性、 率先、 自律的な伝統的価値・利益を再発見する。

 具体的政策として、 長年放置されてきた労働組合の独占に対して、 「鉄の女宰相」として力で組合を屈服させ、 適正に機能する労働市場に再生した。 国有企業の独占に対しては「民営化」の実施で、 経営の効率化のほか、 86年の「ビッグ・バン」による金融緩和、 国際化やIT化で、 市場経済への対応を図り、 経済の活性化に成功した。

 都市政策に関わる民営化では、 公共住宅を既存借家人へ払い下げた。 払下げ戸数は、 106万戸にも及び、 持家率は70年49%が、 85年には61%へ上昇した。 80年以降3年間政府の国庫補助金を大幅に削減し、 地方団体の住宅政策の比重を下げた。 さらに、 長年の家賃規制を廃止し、 市場に家賃を決めさせ、 住宅市場を振興し、 質の高い賃貸住宅供給を促進させ、 民間による効率的な住宅供給を図った。 これで、 地方公共団体は民間との競争にさらされ、 単に公営住宅の建設・管理ではなく、 より良いサービスの提供を強いられた。

4.民間活力誘導による都市再生事業と評価

 都市再生政策として、 民間活力による都市経済の活性化を図るための大改革を実施した。 徹底した都市計画行政の簡素化と規制緩和を基本政策とする中央政府主導型の政策に転換した。 戦前からの分散化政策を終焉させ、 既存の都市市街地内での再生プロジェクトに都市開発投資の焦点を移した。 事務所や産業開発の開発許可を緩和し、 市場経済メカニズムの法則に任せた。

 特に、 インナーシティの再生のために、 80年に『都市開発公社』『エンタープライズ・ゾーン(EZ)』、 82年に『都市開発補助金』の導入を打ち出し、 インナー地域により多くの民間資金を誘導する施策を打ち出した。

 『都市開発公社』は、 都市環境整備や社会資本整備を官民協調で誘導するために設立するもので、 広範な権限を与えた。 土地収用権限と、 環境大臣の命令で公社自身が計画権限も持ち、 民間の開発投資に対する的確な対応を可能にした。 81年にロンドンのドッグランズとリバプールのマージサイドで公社が設立され、 その後90年までに9公社が設立された。

 『EZ』は大臣の要請に基づき、 地方公共団体や公社が地域開発計画を策定し、 大臣の指定を受ける。 指定により開発計画許可の効力が生じ、 税制面では、 地方税Rate(固定資産税)の免税(地方の歳入欠損は大蔵省から補填される)、 建物の新増築に対する資本支出の法人税・所得税の全額資本控除などの恩典が与えられる。 EZは主に鉄鋼・造船・自動車などの基幹産業が衰退した地域に設定され、 93年で27地域が指定された。

 『都市開発補助金』は、 国が地方公共団体に75%の補助金を交付し、 限定的資本補助金として民間のデベロッパーに分配し、 それを「レバレッジ(てこ)」として数倍の民間の投資を産み出すものである。 官民パートナーシップの形成を図り、 政府と企業双方に、 様々な展開を実現させることに効果を発揮したといわれている。

 これらの政策により、 民間活力による開発の誘導や雇用促進が進み、 都市更新や都市再生を促進する一定の成果を産み出すことができた。

 しかし、 民間活力による手法には、 市場の力を活用できる経済的背景が必要であった。 また、 ビジネス社会が追究する本質は経済(利益)最優先であった。 このため、 全てのインナーシティの経済活動、 土地、 住宅が、 民活化の対象となったわけではなかった。

 さらに、 経済の最優先は、 好況期には成果が顕著に現れるが、 市場の停滞あるいは後退期には、 目的のレバレッジ効果が余り機能しなかった。

 結果的に見れば、 失業率が79年の5%強であるに対し、 87年には13%と、 解決の糸口どころか悪化した。 荒廃したインナーシティの都市再生・繁栄化ができたのは、 市場で活用できる地域資源を、 民間資本が不動産開発事業として成功した一部の限定された都市や地域に過ぎなかった。

 皮肉にも、 民営化で小さな政府化はできたが、 実質的に進んだのは中央集権化であり、 都市政策面の地方自治の衰退が余儀なくされた。

5.工業社会から持続可能な社会づくりへ

 20世紀の工業社会が産んだ「インナーシティ」は、 公共主導でも、 民間活力誘導でも解決できない「負の遺産」として次世代に引き継がれることとなった。 「工業社会」が終焉したといわれ、 21世紀の新たなパラダイム(規範)として『持続可能な社会』が世界中に浸透しつつある。 そして、 持続可能な都市づくりとして、 『コンパクトシティ』が注目を集めることとなってきた。


 

連載【街角たんけん15】

Dr.フランキーの街角たんけん 第15回
栄町通 過去・現在・・・・(その2)

プランナーズネットワーク神戸 中尾 嘉孝

 明治5年の暮れ、 新道建設予定地とその沿道の用地買収と建物の除去がほぼ終わった。

 兵庫県は新道沿道に、 間口7間以下の建物の建設を禁じる「建築条件」を付した。 このことで、 零細な従前居住者は、 他地域への移転を余儀なくされたが、 その目的は、 鉄道駅と居留地を連絡する新しい目抜き通りに相応しい景観を創出することにあった。

 新道の工事は翌6年の年明け早々から開始され、 8月には全通。 従前居住者が再建をした区画以外の沿道の宅地は、 三井、 小野善助(小野組)などの政商、 そして九鬼隆義、 小寺泰次郎ら旧三田藩関係者を構成員とする志摩三商会などに売却され、 景観は一変した。 栄町通や山手通の建設、 城ヶ口墓地辣腕を振るった関戸は、 ほどなく県庁を退職。 小野組の顧問に迎えられる。 同組が明治7年に破綻後は、 諏訪山界隈の開発にも手も染めたが、 「関戸の足跡は、 今のところ明治20年頃から消えている」(赤松啓介「神戸財界開拓者伝」)。

 やがて、 西南の役、 日清戦争を経て、 居留地の外国人や華僑に伍して、 海運業やマッチ製造・製茶業の伸びを背景に日本人の商業者が頭角を現した明治20年前後には、 上京途上の正岡子規が「その美、 その壮、 実に名状すべからず」と書き記すほど、 栄町通はビジネス街として発展を見せた。 岩崎弥太郎に食い込み回漕業で大成した後藤勝造、 洋糖や薄荷の貿易で知られた鈴木岩次郎、 川西清兵衛と組んで日豪貿易のさきがけとなった兼松房次郎、 敬虔なクリスチャンでカナダとの交易を開いた田村新一などが、 栄町通界隈でひとり立ちの第一歩を記し、 あるいは日本での本拠を構えている。

 明治中期までの財界人は、 乱暴に言えば、 政府要人と関係を築いて好機をつかむタイプと、 こつこつ努力の苦労人型に大別できる。 後藤は前者、 丁稚奉公や異国での商館勤めなど下積み時代の長かった兼松や田村は後者に属するだろう。 鈴木岩次郎の急死後、 柳田富士松とともによね未亡人を立てて鈴木商店を牽引した「煙突男」金子直吉も、 後藤勝造を通じて後藤新平に接近しており一見前者に属するようだが、 小学校に通えなかったハンデを独学でカバーした努力型の一面を持つ金子の思考・行動基準は、 「お家さん(よね未亡人)のため、 主家鈴木のため」に尽きるといってよく、 単純な線引きを許しそうにない。

 ともかく、 彼らは、 生き馬の目を抜く混沌とした開港場の修羅場を勝ち残った強者であった。 とりわけ後藤勝造は、 回漕業に始まり、 旅館業・ホテル業など多角経営を進めた。 そして、 旅館業で宿泊客となった後藤新平に接近し、 台湾での事業展開の基盤を固めるきっかけを掴んだだけでなく、 新平の勧めで神戸駅「みかど食堂」を創業し、 ついで不振に陥っていた山陽鉄道(現山陽本線)の食堂車経営を引き受け、 後年の「旅のレストラン」日本食堂(現日本レストランエンタープライズ)の基礎を築くことにもなったのである。

(この項、 つづく)

 

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写真1 明治20年代の栄町通(出典「写真集神戸100年」) 写真2 後藤勝造(1848〜1915)
 


連載【まちのものがたり26】

マンションKをめぐる人々2「五階」
蝶の住む部屋

中川 紺


 誰? さっきのピザ屋かな? あれ、 たしか隣の家の……ああ、 佐々木モトオ…くんっていうんだ。 ……で、 何の用かな? 昨日の蝶を見せてほしい? 何だそれ? 俺ん家のベランダに入っていく珍しい蝶を見たって? 知らないなあ、 蝶なんて。 確かに窓から入ったって? 何時だ? 一時? 夜中の? 小学生のくせに……夜更かしして寝ぼけてたんじゃないのか。 何? 「バチャンミイロタイマイ」? 何だ? ああ蝶の名前か。  詳しいな、 蝶好きなのか。 へえ。 ……すごいな、 そんなことも知ってるのか。

 ……え、 蝶をどうしても見せてほしい? ……しょうがないなあ。 お前さ、 約束守れるか。 ……だったら特別だぞ。 ほら、 玄関に突っ立ってないで……入ってここ座れよ。 あの蝶な、 たしかにウチにいるよ。 でもな、 普通の蝶じゃないんだ。 だから珍しい種類だとか、 そういう意味じゃなくってさ。 ……ちょっと待ってろ。

● ●

 ほらこれ見てみろ。 これはバティックっていうインドネシアの染め布なんだ。 向こうの蝶と植物をデザインしてあるんだ。 ……ああ、 それがなんとかって蝶なのか。

 俺、 五年くらい前にインドネシアに旅行したんだ。 写真の勉強しててさ、 いろいろ撮ってみたくて、 バイトして金ためてはあちこちに旅行してた。 あっちには一ヶ月くらいいたんだけど、 現地のある小さな村に滞在した時に、 泊まった宿の息子がさ、 ワヤンっていってちょうどお前くらいの歳なんだけど、 そいつがこれを土産にくれたんだ。

 

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 「この布、 生きてる。 晴れた新月の夜には、 風通しがいいところに広げてあげて」って言ってさ。 最初はさ、 自然素材だから痛みやすいとか、 そういう意味だと思ってたんだけどさ、 何回か風にあててるうちに気がついたんだ。 何にって? あのな、 一晩のうちに蝶の模様だけが変わるんだ。 こっちの枝に描かれていた青いのが反対の枝に移ってたりする。 この十数羽の蝶たちが布の上で動きまわってるんだ。 驚くなよ。 ……どうやらこの蝶、 新月の夜になると布を抜け出すらしいんだ。

 ほんとだぞ。 こうやってさ、 軒下に吊るしておくと知らないうちにいなくなってさ、 また一羽ずつ戻ってきてるんだ。 翌朝ベランダにうっすらと鱗粉が残ってることもある。

 おそらく誰にも見られないように新月の真夜中にだけ行動する習性なんだろうな。

 だからモトオ、 お前が蝶を見たのはすごいよ。 五年この布と一緒にいる俺さえ実際飛んでるとこは見たことがなかったんだからさ……。 きれいだろうな……こいつ。

 でも最近、 ちょっと数が減り始めてるんだ。 やっぱりこの辺の空気には馴染めないんだろうな。 だから俺さ、 こいつら国に帰してやろうかと思ってるんだ……。 お前もその方がいいと思うか?

● ●

・・・一年後・・・
 モトオ、 見ろよ。 ワヤンから手紙がきたんだ。 絵が一緒に入っててさ、 ほらここ、 蝶と幼虫が描いてあるだろ? あいつら、 どうやら新しい家族をつくったらしいぞ!(完)

(イラスト やまもとかずよ)



きんもくせい日記001

久米将夫さんと阿波のまちなみ研究会

非認証NPOきんもくせい代表 小林郁雄


●徳島の久米将夫さんが亡くなった。 6月2日木曜の早朝である。 前日も変わりなく徳島市役所に出勤されていたというから、 心臓麻痺のような突然死である。 第一報を聞いて耳を疑った。 なんでまた、 どうして?

●日本建築士会連合会のまちづくり委員会で10年以上ご一緒させていただいた。 都市環境デザイン会議のJUDI四国の中心でもあり、 徳島の建築関係者のみならず、 四国・全国に広く久米ファンがいる。 淡路景観園芸学校の私の授業「市民まちづくり論」の水緑都市徳島見学案内も毎年してもらっていた。 今年も7月20日に頼むよねと、 先日連絡したところだったのに。 6月4日の葬儀当日の午後も、 久米さんが尽力されて予定されていた木造住宅の耐震性能測定と古民家移築の講演会が、 神戸から宮西悠司さんを講師に行われたそうである。

●阿波のまちなみ研究会を中心に、 脇町や貞光のうだつのまちなみ調査、 出羽島などミセ造り調査、 多くの民家・社寺、 農村舞台の調査研究など、 その多くは大部なきちんとした報告書にまとめられ、 販売もしている。 建築歴史系や農村建築系の学者はもって瞑すべき業績である。 久米さんは常にそれらのリーダーとして、 設計事務所をしている林茂樹さんとともに中心にいた。

●四国徳島の建築士会を中核にした活動に、 多くのメンバーが参集し、 森兼さん・島さん、 田村さん、 吉原さんなど中堅若手も数多く活躍している。 それも、 久米さんと林さんの官民の親しい連携から実りあるチームワークの賜物と思う。 大学に建築学科がなく建築学者がいないことがうまくいっているのではないかと、 冗談半分であるが、 かなり真剣に思ってしまう。

●阪神大震災前年に兵庫区上沢2丁目公園ワークショップを東京から林泰義さんや伊藤雅春さんらに来てもらって実験的に行った。 関西でのまちづくりWSの始まりであった。 徳島からも久米さんがはせ参じてくれた。 それまでに、 徳島市内の小学校周辺の環境整備で素晴らしい実績を上げていたが、 その後の公営住宅と公園の整備にもWS手法を加味してさらに上質な整備が進められた。 さらには、 ひょうたん島整備、 河川沿岸整備、 都市景観整備など、 ほぼあらゆる都市・まちづくり面での久米さんのまとめる力が重要であったと思う。 そして、 いよいよ徳島市行政の重要なポストに就き、 これからという55歳直前の急逝であった。 惜しい、 残念無念、 何故、 思いはあふれるが、 言葉には、 今はならない。 (050607記)

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「月刊きんもくせい」の最高愛読者でありいつもファンレターをいただいている御舩哲さんから、 コー・プラン引退報告にいつものようにお葉書をいただき、 今後の励ましのお言葉ととともに「きんもくせい日記」はいかが?と進められた。 小人閑居して不善を為す(だったかなァ?)という恐れと、 暇に任せてなんぞしたらどない?(関西弁でいえば、 きっとそういうこと)という暖かいご忠告に、 さっそく編集長の独断専決できんもくせい日記をはじめます。

 つれづれなるままによしなしことを、 などと思っていたら、 最初からとんでもない悲報への追悼の日記になってしまいました。 合掌。



情報コーナー

●阪神白地市民まちづくり支援ネットワーク・第44回連絡会
・日時:6月10日(金)18:30〜21:00
・場所:神戸市勤労会館403号室
・内容:テーマ/震災復興住宅10年検証を検証する、 報告/(1)「公的住宅について」浜田有司(神戸市)、 (2)「民間住宅について」太田尊靖(UR神戸事務所)、 (3)「コレクティブ住宅について」石東直子(石東・都市環境研究室)、 (4)「総括コメント」平山洋介(神戸大学)、 コーディネータ/石東直子
・会費:500円
・問合せ:GU計画研究所(TEL.078-435-6510、 FAX.435-6513)

●第76回水谷ゼミナール
・日時:6月24日(金)18:30〜21:00
・場所:こうべまちづくり会館(予定)
・内容:テーマ/震災復興マンションの結末(予定)、 詳細の内容は未定
・問合せ:GU計画研究所(TEL.078-435-6510、 FAX.435-6513)

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