災害語り継ぎネットワーク/TeLL−Net人と防災未来センター上級研究員 小林 郁雄 |
阪神・淡路大震災から10年が経過し、 まちや生活が復興するにつれ、 震災の記憶は薄れつつあり、 その痕跡すら消え去ろうとしている。 このような震災の風化に歯止めをかけ、 被災者の視点から息長く継続的に「大災害を語り継ぐ」ことは、 これからの災害に際して被災者を少しでも減らすことにつながっていく。
HAT神戸に人と防災未来センターが、 震災のメモリアルセンターとして、 2002年4月にオープンした。 このセンターは、 語り継ぎの主役である市民から提供された資料展示など、 実際の被災体験をベースにした先導的な防災博物館であり、 防災教育・研修研究施設でもあることが、 国際的に認知されつつある。
そして、 人と防災未来センターのオープン後、 昨今の大災害を経験したトルコや台湾、 インド、 イラン、 パプア・ニューギニア等の関係者が来訪し、 災害経験を生々しく語り継ぐこのような施設の有効性を肌で感じ、 すでに被災地で同様の施設を建設、 計画するなどの動きが起こりつつある。
国際防災・人道支援協議会(DRA)は、 2004年2月8日(日)神戸国際会議場において、 「大災害を語り継ぐ」をテーマに「国際防災・人道支援フォーラム2004」を開催し、 市民レベルで災害を語り継ぐことの重要性や有効性について、 国際社会へ次のような提言を行った。
●語り継ぎネットワーク形成への提案/単に記憶を残すためではなく、 来るべき災害に対する減災に実践的に貢献する視点を持ちながら、 市民と行政とが連携しつつ防災に対する様々な取り組みを推進しつつある防災博物館や防災関係施設を構成メンバーとする「災害語り継ぎネットワーク」を提案する。
これを受け継ぎ、 2006年のネットワーク設立に向けての第一歩として、 2005年1月19日神戸クオリティホテルにおいて、 12カ国の対象施設に直接・間接的に関係する13名をメンバー(当日は9カ国参加)として「災害語り継ぎネットワーク(Transfer Live Lessons Network)」発起人会が開催され、 今後の活動方針が討議され、 略称もTeLL-Netと定められた。 この成果は翌1月20日の「持続的開発と防災教育」をテーマに、 ユネスコとDRAなどが共催した国連防災世界会議テーマ別会合において、 河田恵昭・人と防災未来センター長から報告された。
こうした経緯をふまえて、 2005年5月に六甲アイランドに極東本社のあるP&G社から、 将来の減災にむけての震災10年を期とした貢献活動の一環として、 TeLL-Netの今後の活動に対して500万円の支援の申し出があり、 早速「テルネット事業推進日本協力委員会」をたちあげ、 NGO/NPOを含めた広く多くのメンバーに参加頂き、 TeLL-Netの活動を継続的に広げていくことになっている。
昨年(2004年)10月20日、 兵庫県内を襲った台風23号は各地に大きな爪あとを残した。 なかでも豊岡市をはじめとした但馬地域は円山川水系がずたずたに切断され、 市街地や農地の多くが冠水、 浸水するなど被害は広がった。 市民の多くは避難できず自宅に取り残され不安な時間をすごした。 中でも障害を持つ人たちの不安はいっそう大きく、 生命の危険さえ感じた。
23号水害からおよそ半年たった今年4月から筆者は「障害者がその時どうしたか」を直接聞くため、 調査を始めた。 まだ予定している半数ほどの人からしか聞き取りができていないが、 中間的に感じたことを報告したい。
◆熟睡中に避難ファックス
誰しも怖かったことを精一杯聞いてほしい、 しかしみんな「もういい、 分かった、 分かった」と聞いてくれない。 胸のつかえはいつまでも消えずに沈殿していく。
きっと聴覚障害の人ももっと聴いてほしい、 尋ねてほしいと思っているのだろう。
別の聴覚障害の女性(50代)のBさんは、 新聞にも紹介された「経験」をしてしまった人だ。 「新聞に載っていたような経験をした方はこの中にいますか」と質問したところ、 すぐ近くに座っていたBさんはニコニコと笑って「はーい」と手を挙げた。
Bさんは10月20日、 とても疲れていて午後8時ごろ就寝してしまった。 眠っている間に緊急を知らせるファックスが入ってきた。 「ファックスが入ると電気がピカピカと光るので起きていたら気づくが、 寝ていたらそれも見えないからね」と、 まったく気づかなかった。 Bさんは中層アパートの2階に住んでいる。 一晩明けて、 次の朝、 いつものように起きて窓から外を見た。 きょうは何だか外がいやに黄色っぽいな、 と思ったそうだ。 Bさんは目も視野が狭くなって見づらい。
しばらくしてもう一度、 外を見てびっくりした。 黄色っぽいと思ったのは1階をすっぽり覆う洪水の泥水の色だったのだ。
「エッ、 なにこれ」とびっくりしたもののどうしようもない。 寝ている間に、 浸水し1階を水没させたのだ。
あとで知ったのだが、 3階に住んでいる人が避難する時、 Bさんの家の鉄の扉をドンドンとたたいて合図してくれたらしい。 その音も寝ていてまったく知らなかった。
近所に住むやはり聴覚障害の女性が、 Bさんが避難所に来ていないと知って、 携帯メールを使い福祉団体や心当たりに連絡し、 Bさんを探すよう頼みまわっていた。
翌朝、 救助隊がボートに乗って取り残された人を探しにやってきて、 Bさんの無事が確認されてみんなほっとしたという。
◆真っ暗では手話が見えない
ある避難所での出来事。 聴覚障害の人が連れ立って近くの避難所に逃げ込んだ。 停電で室内は真っ暗。 避難者はラジオを聴いたり、 どこかから聞き込んできた情報をそれぞれに交換し、 台風や出水の状況を確認しあっていた。
真っ暗な闇の中でそんな声がざわざわと流れている。 しかし、 聴覚障害者にはまったく声も音も聞こえない。 従って情報はぜんぜん入ってこない。 真っ暗ではお互いの手話も見えない。
聴覚障害者の一人がそんなために用意していたのだろうか、 懐中電灯を2本取り出して、 他の人の邪魔にならないよう垂直に懐中電灯を立てて、 そのぼんやりした光の中で手話を交わして細々と情報交換を始めた。 ところがその途端、 周りの人から「光が目に入ってうるさい」と苦情が出てやめざるを得なかった。 避難といっても長期化したわけでなく、 いまみんな一緒に逃げ込んだ同じ被災者ではないか。 どうしてそのぐらいのことに寛容になれないのだろうか。
◆少なかった近所からの情報
2次情報をどこから得たか、 障害者はどうであったか。
こうした場合、 最もよく2次情報を伝えてくれるのは隣近所のコミュニティである。 危険情報をキャッチすればすぐにお隣さんに声をかける、 一緒に避難する、 あるいは避難を促すことは容易に想像できる。
ところが障害者はそうではない。 作業所に通所している利用者に作業所の代表や指導員が1軒1軒電話をかけて、状況を説明し、 その付近は危ないから早く避難するよう促したケースがあった。 小規模作業所を運営しているCさんはそうして利用者の自宅に電話をし続けた。 危険な場所に住んでいる利用者はその時すでに道路が冠水し逃げられないと返事をしてきた。
聴覚障害者の場合は同居の家族や別居の家族からの通報以外に多かったのが、 同じ聴覚障害を持っている仲間からの連絡だった。
社会福祉協議会の事務局からの連絡を受け取った人もいるし福祉団体からの電話で知った人もいた。 しかし、 近所から知らされたというケースはごく僅かだった。
◆コミュニティを「公益」へ
作業所を運営しているCさんはこう指摘する。
「地域の人は障害者がいて作業所に通っているとか、 施設にいっているとかは知っている。 しかし、 障害者が自分たちと同じ地域で暮らしている、 生活しているという実感を持ってもらえていない。 生活のリアリティを感じてもらってないことが今回の災害ではっきりとした」と。
私たちは自分の周囲の付き合いの輪(コミュニティ)を2つに分けている。 ひとつは文字通り地域コミュニティだ。 隣近所のコミュニティ、 その外に小学校区程度のコミュニティ、 そして自治会やPTA、 子ども会、 婦人会などの地域組織、 さらに個人的な親戚や友人・知人の輪を持っている。 もうひとつは勤め人であれば、 同じ目的を持つ会社の部や課の輪、 そして会社全体の輪、 さらに同業者の輪、 もう少し大きな経済団体の輪などと広がっている。 前者は私的なつながりであり、 後者は公的なつながりと理解されている。
この区分けは国民の多くがサラリーマン化して後に生まれたものである。 「公」が大事で「私」は軽い─とするある種の格付けができている。
しかし、 そうだろうか。 地域コミュニティや地域組織は「私」なのか。 大きな「私」は、 小さな「私」を前にして「公」に転換するが、 会社主義的社会においては、 暮らしの場の「私」はいつまでも「私」に過ぎなくなっている。
地域コミュニティや地域組織を「私」から解放し「公益」概念で組み立てなおす必要がありはしないか。 その構成員はすべて公益を担っている、 そうすれば日常の生活であらゆる人が公益を維持したり、 増進する役割が正当に評価されてくるのだ。
高齢者や障害者を災害から守るために避難勧告の前に「避難準備情報」を出して、 避難行動の時間を確保しようという発想が政府に生まれている。 どんな情報を出しても、 それを伝える人がいなければ文字通り絵に描いたもちに過ぎない。
5月半ば過ぎ、 若葉が萌える明るい町、 六甲アイランドにほぼ1年ぶりに降り立った。 10日ほど前、 神戸市営復興住宅ウェストコート9番街のHさんから突然ファックスが入ってきた。 「仲良しお弁当会を続けています。 5月19日12時から3時までやっています。 お元気になられていたら顔を出してください」と。 12月のクリスマス会の時も連絡をいただいたが、 当時はまだ体調が整わず残念した。
●WC9(West Court 9番街)の人々
近くにある地域福祉センターでも定期的にお茶会があり、 そちらに参加している人もいたが、 コミュニティ茶店の開店当初は物珍しさもあって、 一日に30人余りの来客があったが、 暫くすると常連さんたち10数名になった。 また、 仲良し男性の数名は毎朝六甲アイランド駅近くの喫茶店にモーニングサービスを食べに出かけていたが、 そこが閉店になってしまったので、 コミュニティ茶店の常連から昼食会やモーニングサービスがあればいいなぁという声があがってきた。 六甲アイランド駅前のレストラン「ふれあい向陽」(NPO法人ひょうご農業クラブ運営)にお弁当の宅配を打診すると、 OKとの返事があり、 「ふれあい向陽」に行ったことがあるというOさんがとりまとめ役をかって出てくれたので、 3月にお弁当をとって14名が試食会をした。 モーニングサービスは自治会長が2、 3人の協力を得てやってみようということになり、 住人の自主的な集いができる目処がついたので、 私たちのコミュニティ茶店は1年で引き上げた。
この仲良し昼食会の他に、 月2回のモーニングサービスには40人ほどの参加があり、 トースト、 野菜サラダ、 ゆで卵に飲み物セットで100円。 この他に有志による「悠遊クラブ」の喫茶が月に1回あり、 月に4回は誰でも集える有料サービスが開かれている。 住人が自主的な集いの場を企画して、 親しくなって暮すことはとても大切なことである。 ただ住宅が集合して建設されているという「集合住宅」から住人たちが日常生活の中で共同の時間をもち楽しむ「共同住宅」への変身である。
住宅全体として高齢化率が高くても、 比較的若い中高年層の活動エネルギーや意欲のある人が住んでいると、 住宅全体が活気づき安心居住の住宅となる。 多世代居住は重要である。
「9番街の4階。 独りやから家に誰もおらへん」
「わたしは今その住宅の昼食会によばれてたのよ」
「そう、 先に帰って自治会長さんに伝えとくわ」と。
そこに救急車が到着し、 傷口を消毒して包帯を巻いてくれて、 六甲アイランド病院へ連れて行ってくれた。 側を通った人が、 3人、 4人とかかわってくださったので、 私はパニックに陥らずにすんだ。 気丈なおじいさんだったが、 独り暮らしだというので大丈夫かなと気にしながら帰路についた。 帰宅すると、 自治会長さんから留守電が入っていた。 「おじいさんは無事に病院から帰ってこられました。 安心してください」と。
外国人居留地があり明治初期から洋風建築が建てられていた神戸の町だが、 日本人建築家による最初の本格的近代洋風建築は、 どこに、 いつ、 建てられたのか。 現在確認できる範囲で言えば、 それは栄町通に、 明治29(1896)年竣工した横浜正金銀行神戸支店である。 煉瓦造2階建、 外装は擬石仕上げで、 近世イタリアルネッサンス調の端正な佇まいを見せていた。 イギリス流の工部大学校出身の建築家達の作風に比べればその表現は地味であるが、 独特の品の良さが残された写真から伝わってくる(写真1)。
設計は、 後に兵庫県庁舎(現県公館)を手がけることになる山口半六である。 山口は、 松江藩出身。 明治3(1870)年、 大学南校(東京大学の前身)に入る。 同9(1876)年、 同校の成績優秀者による欧州留学生団の一員として渡欧、 沖野忠雄とともにパリ中央工業専門学校に入学。 同13年(1880)に卒業後も、 現地で実務経験を積む。 同14年(1881)に帰国後、 三菱を経て文部省に入り各地の高等中学校建設に携わるが、 激務から肺を病み、 同25(1892)年に文部省を退官。 療養生活の後、 大阪の桑原政事務所(本邦初の建設コンサルタント事務所)に建築部長として招かれ、 同33(1900)年、 42歳の誕生日に急逝するまでの間、 建築はもちろん、 大阪市区改正など都市計画の立案にも腕を振るった。
ちなみに山口と同窓の沖野は豊岡藩出身。 土木技術者として淀川を始めとする各地の河川改修に携わり、 神戸港修築計画にも関与した。 山口の没後に出版された建築図集の略伝を執筆したのも沖野である。
神戸で現存最古の本格的近代洋風建築は、 栄町通と宇治川筋との交差点に建つ、 明治33(1900)年竣工の三菱銀行神戸支店(現ファミリアホール)である。 曾禰達蔵の数少ない現存初期作品であり、 米騒動のクライマックス「鈴木商店焼き討ち事件」(大正7(1918)年)を「目撃」していた建物でもある。
鈴木商店は当時、 三菱銀行の道を挟んで南側、 東川崎町1丁目1番地(現兵庫郵便貯金地域センター敷地)の元ミカドホテルの建物を本店屋に使っていた。 ミカドホテル(自由亭ホテルを改称)は、 かの後藤勝造が西洋料理店、 旅館経営のノウハウを「統合」して創業した。 「自由亭」の名前から、 板垣退助が定宿とするなど話題を呼び、 河合浩蔵に設計を依頼して、 明治39(1906)年に石造風3階建の新館を建設するまでになった(写真3)が、 後藤の借財の担保として鈴木商店が建物を差し押さえていた。
鈴木商店では、 毎朝、 世界各地から届く暗号電文を店員たちが競い合って解読していたという。 電報電話局に程近いミカドホテルを差し押さえたのは、 偶然なのか、 あるいは新しい情報を一刻も早く入手したいという、 金子直吉の思いがあったためなのか、 今となっては定かではない。
娘は生まれつき耳が聞こえず、 声も出せなかった。 笑うこともなかった。 目は見えていても、 涙がこぼれることはなかった。
働いていなかったが、 時折、 娘は夜中に出かけて行く。 遠いまちにも足を運んで、 捨てられた鉢や花を手に戻ってきた。 鉢はベランダにきっちりと並べられ、 その数は次第に増えていった。
娘は眠らなかった。 食べることもしなかった。 ただひたすら、 鉢を世話していた。
どんなに弱った枝葉も、 すっかり枯れているように見える草木も、 娘の手にかかると嘘のように生き返った。 娘の爪はうっすらと緑色を帯びていた。
娘は鉢の植物たちがつくり出したものだった。 捨てられ、 枯れる運命にあった多くの鉢は生きようとした。 自分たちを世話するものを必要とした。 そして娘が生まれた。
娘は毎日、 鉢の世話をした。 枯れるはずだった鉢が、 いくつもの花を咲かせた。 花はいい香りを放ち、 蜂がミツを集めにくることもあったが、 決して娘を刺すことはなかった。
時には見たこともない美しい蝶が来ることもあった。
けれど感情の無い娘にとって、 その布の美しさは何の意味も無かった。
ほどなく部屋を訪れる人があった。 今まで、 誰も娘の部屋を気にするものはいなかった。 初めての訪問者だった。
訪ね人は二つ上の階の男。 日に焼けた顔のその男は、 布を落としてしまったと言った。
娘は蝶の布を手渡し、 男は礼を言って立ち去った。 娘の手は小さく震えていた。
感情が無かった娘に、 小さな心が芽生えていた。 男にもう一度会いたいと思った。 しかし言葉を持たない娘は、 どうしてよいのか分からなかった。
娘は窓辺で布を待つようになった。
そのうちに鉢植えたちは異変に気づいた。
どうしようか。 鉢植えたちは幾日か相談して、 ある決心をした。
彼等は持っていた全ての力を娘に捧げた。
その瞬間、 娘は実体を持った。 声を持ち、 表情を持ち、 空腹も感じるようになった。
だが力がほんの少し足りなかった。 人になった娘は、 男に関する記憶を全て失った。
部屋は空き部屋となり、 鉢植えも姿を消した。 まるで最初から誰もいなかったように。
小さな港町の洋食屋で娘は働いている。
最近友達になった馴染みの女性客がこんなことを聞くことがある。
「ねえ、 どんな人がタイプ?」
娘の答えを聞いて女は不思議な顔をする。
答えはこうだ。
「私、 蝶が好きな人がいいな」 (完)
今回のテーマは「震災復興住宅10年検証を検証する」で、 6月10日(金)神戸市勤労会館において行われました。 石東直子さん(石東・都市環境研究室)のテーマ解説ののち、 次の4氏から報告がありました。
●「公的住宅について」/浜田有司(神戸市)
●「民間住宅について」/太田尊靖(UR神戸事務所)
●「コレクティブ住宅について」/石東直子(前掲)
●「総括コメント」/平山洋介(神戸大学)
震災当時神戸市における公的住宅供給の担当であった浜田さんからは、 「震災復興住宅整備緊急3か年計画」の内容について、 特に何戸の住宅をどのように供給すべきかについての当時の議論をふりかえり、 早急に大量の住宅供給が求められていたことから、 HAT神戸など大規模住宅を整備せざるを得なかった状況等について語られました。
太田さんからは、 震災後10年間において民間住宅がどのように供給されたかについて、 詳細なデータを駆使した報告が行われました。 賃貸住宅では、 “大量の公営住宅が賃貸市場を圧迫している”のではなく、 震災で滅失した木賃住宅の代わりに賃貸マンションが多く建てられ、 需給のミスマッチが生じていることで空家が多く生じていること、 一方分譲住宅では、 大阪都心に供給が多いこと、 賃貸よりは震災の影響をあまり引きずっていないこと、 高級物件が多かった阪神間では震災後の開発指導要綱の緩和措置などにより急激な人口増が起こっていること、 などが報告されました。
石東さんからは、 公営住宅で初めてコレクティブ住宅(10地区341戸)が事業化され、 コレクティブハウジング事業推進応援団として様々なサポートをしてきたが、 その後入居者が相当数入れ替わっている住宅があることや、 ふれあいの活動が大幅に減少してきているといった状況があり、 今後は第2段階の住宅供給ともいうべきソフトを重視した安定居住のための施策が必要であることを強調されました。
平山さんからは「震災復興と住宅政策」と題するコメントがあり、 震災復興でとられた住宅施策やその後の動き、 最近の国の住宅施策の変化等について、 統計調査等を示しながら語られました。 (中井都市研究室 中井 豊)
●夏越ゆかた祭り「長田神社ゆかたでナイト」
・日時:7月17日(日)〜18日(祝)16:00〜21:00
●灘・夢ナリエ〜あかりで発信する10年−あかりの盆〜、 オープンハートコンサート、 記憶の回廊
連載【震災10年 ひと・まち・くらし模様1】
同じ地域に暮らしているのに
台風23号被害 障害者の経験を生かそうひょうご・まち・くらし研究所 山口 一史
「あの時どうでしたか」との問いに聴覚障害の女性(60代)のAさんは、 手話で次々と語り始めた。 手話を操る手許がもどかしく思えるほど、 懸命に当時の怖かったことを伝えてくれる。 その一生懸命の姿を見て、 阪神大震災の被災者について語られた話を思い出した。 それは「被災者はもっともっと話したいのだ。 話すことによってきっと胸の中につかえていることを吐き出して、 何かとバランスをとろうとするのだ」という見方である。
もう少し聴覚障害者の話を続けたい。
豊岡市の台風水害は市の避難勧告、 避難指示が遅れて、 実際に発令した時には、 円山川に流入する支川の濁流が円山川に流れ込めずにあふれ始めていて、 逃げたくとも逃げられない状況だった。 勧告、 指示の遅れや言葉の意味がよく分からない、 防災無線の内容が理解できなかったなどの批判がある。 それは大きな課題として今後解決していかなければならないが、 市が出した情報を1次情報とすると、 それを知った市民や団体がさまざまな手段でまだ知らない市民に伝えていった。 これをここでは2次情報と呼ぶ。
聴き取り調査で地域の自治会などの組織や隣近所との付き合いも尋ねている。 ほとんどの人が自治会には入っているが、 近所の人と出会えば「会釈する程度」と答えている。
阪神・淡路大震災から10年が過ぎた。 しかし10年ですべての課題が解決したわけでも、 被災者が立ち直れたわけでもない。 さまざまな課題を大震災の被災地を含め広くレポートしていきたい。
連載【隣人たちと育む快適な暮らし1】
隣人たちと楽しみを育くむ共同住宅
神戸市営ウェストコート9番街のお弁当昼食会石東・都市環境研究室 石東 直子
私たち「コミュニティ支援ステーション」は03年7月から1年間、 週に1回、 ここWC9でコミュニティ茶店を開いていた。 WC9は六甲アイランドの西の端にあり、 7階〜15階建200戸の住宅で、 97年10月に入居が始まった。 03年7月のデーターによると住人は約420人で、 高齢化率は44%、 単身高齢世帯率は30%(全体の単身世帯率は35%)であるが、 19歳以下の青年層は17%、 学童率は11%で、 高齢者と若い世帯が多くて、 その中間年齢層が少ない。 入居者は六甲アイランドにあった数ヶ所の仮設住宅から移ってきた人が多く、 新しい住宅に入居した後も、 仮設住宅ごとの人の付き合いや活動が続いていて、 誰もが気軽に顔を出せる全体の集いの場が育ちにくいという悩みをかかえていた。 03年4月に40代後半の女性が自治会長に選出された時、 みんなが集える場づくりがしたいということで、 私たちは社会実験としてサポートすることにした。 居住者の継続した自主的な運営のきっかけづくりとなるように、 誰でも気軽に立ち寄れる陽だまりづくりとしてコミュニティプラザを有料で借りて「コミュニティ茶店」を自治会長はじめ2、 3人の住人と協力して開店した。 この住宅は仲良しグループによる趣味活動は活発で、 生け花、 絵手紙、 大正琴、 詩吟、 カラオケなど毎週コミプラの利用は多い。 ただ仲良しグループの活動には新しい人が参加しにくいという。
大テーブルを囲んで昼食
盛りだくさんのお弁当
●盛りだくさんの品数は体にいいよ
コミプラの入口で靴を脱いでいると、 なつかしい声に迎えられた。 長机を寄せてコーヒーブラウンの大きな布地で覆ったすてきな大テーブルを囲んで15人程が食事中。 集いの場づくりは雰囲気も大切な要素で、 私たちのコミュニティ茶店でもインテリァに工夫をこらしていた。 昼食会のお弁当は「ふれあい向陽」から宅配してもらって、 住人の世話役たちが手づくりのお味噌汁を添え、 食後のコーヒーがつく。 私のお弁当も用意してくださっていた。 お弁当のメニューは盛りたくさん(豆ご飯にふきの佃煮、 スライス大根とうすあげの甘酢あえ、 しいたけ・にんじん・えんどう・れんこん・高野豆腐の煮しめ、 ジャガイモ・玉ねぎ・海老の天ぷら、 だし巻き、 若芽と若竹煮、 大きな苺がひとつ)で、 私は食べ切れなかったけど、 ほとんどの方はきれいに平らげておられた。 味は薄めで揚げ物もあっさりして、 とても美味しい。 近ければ私も毎回参加させて欲しいわ。 ご夫婦でいつも参加されているという夫君は「こんなに品数多くは家ではつくれないので、 ここで食べると体にいいよ」と言われた。 ここのコミプラは居住者が自主使用する時は1回500円の使用料がいるので、 お弁当代にお味噌汁とコーヒー代も含めて昼食会はひとり550円を集めているとのこと。 毎回15人ちょっとの参加のうち半数以上の人がコミュニティ茶店からの常連で、 久しぶりの私との再会を喜んでくださった。 食後のひとときコーヒーをいただきながら、 私は得意な折り紙を披露した。 少し折り紙も持参して行ったので、 みんなで簡単なTシャツを折って楽しんだ(写真)。
食後のコーヒータイム
コミュニティプラザの白板に書き込まれた数々の行事
とても簡単な折り紙Tシャツ
●帰り道のめぐり合い
薫風に吹かれていい気分で帰る途中、 アクシデントがあった。 幹線道路の大きな交差点で信号待ちをしていると、 斜め向かいの信号待ち角に腰を降ろしている人が目に入った。 信号が青になっても尻餅をついたままで頭を押さえている。 まさかと思い、 車が来ないのを確かめて対角線状に走っていくと、 かなりご高齢の男性が頭をハンカチで押さえており、 首筋までに血が流れている。 そばに買い物袋が投げ出されている。 信号待ちに敷かれた点字ブロックで滑ったとのこと。 おじいさんからハンカチを受けとり、 そっと上げてみると頭のてっぺんに2センチほどの傷口が開き、 まだ血が出てきている。 救急車を呼びましょうかというと、 家がすぐそこなので大丈夫と言われる。 そこに自転車に乗った女性が通りかかり、 そこに医院があるので呼んでくるわと走って行ってくれた。 「おじいさん大丈夫よ。 私にもたれてじっとしていて。 すぐお医者さんがきてくれるから」「すいませんねぇ」と恐縮される。 そこに若い男性が車から下りてきて、 すぐ救急車を呼んだ方がいいと言うと、 もう携帯電話をしている。 さっきの自転車の女性が医院は閉っていたと引き返してきたが、 すでに救急車に連絡してもらってたのでホッとした。 別の買い物帰りの女性が通りかかり、 「この人、 私の住宅の人や。 名前は知らんけど。 おじいさん何階?」
連載【街角たんけん16】
Dr.フランキーの街角たんけん 第16回
栄町通 過去・現在・・・・(その3)プランナーズネットワーク神戸 中尾 嘉孝
写真1 横浜正金銀行神戸支店(明治29年、現存せず)出典:山口博士建築図集
写真2 山口半六(1858〜1900)出典:山口博士建築図集
写真3 自由亭ホテル(明治39年、現存せず)出典:写真集神戸100年
連載【まちのものがたり27】
マンションKをめぐる人々2「三階」
鉢植えたち中川 紺
その部屋には娘が一人で住んでいた。 年の頃は十八、 九。 黒くて長い髪、 切れ長の瞳。
一人暮らしの老婆が住んでいたことがあり、 何となく、 その孫娘だと、 皆思っていた。
ある朝、 ベランダの鉢植えに、 鮮やかな色の布が引っ掛かっていた。 そこには蝶の模様が、 それは見事に描かれていた。
阪神白地 まちづくり支援ネットワーク・第44回連絡会報告
報告者の皆さん。左から浜田さん、大田さん、石東さん、平山さん
情報コーナー
・場所:長田神社内特設ステージ、 長田神社前商店街2丁目広場
・内容:夏越男・夏越女ゆかたコンテスト、 富くじ抽選会、 ジェム占いの街、 他
・問合せ:長田神社前商店街振興組合(TEL.078-691-2914)
<オープンハートコンサート>
・日時:7月16日(日)19:00〜
・場所:都賀川河川敷特設ステージ
<記憶の回廊>
・日時:7月16日(日)・17日(祝)19:30〜
・場所:水道筋アーケード
・内容:光とオブジェの展示
<灘・夢ナリエ>
・日時:7月17日(日)16:00〜20:30
・場所:都賀川公園及び河川敷一帯
・内容:あかりの点灯、少年少女合唱団、 和太鼓、 盆踊り、 模擬店、 他
・主催:灘・夢ナリエ実行委員会
・問合せ:灘区役所まちづくり推進課(TEL.078-843-7034)
●「きんもくせい」のインターネットアドレス
◆ http://web.kyoto-inet.or.jp/org/gakugei/kobe/index.htm
◆ http://www1.plala.or.jp/hos_a/kinmokusei_international.html
■ 阪神大震災復興 市民まちづくり支援ネットワーク 事務局
〒657-0024 神戸市灘区楠丘町2-5-20 まちづくり(株)コー・プラン内
TEL.078-842-2311 FAX.078-842-2203 Email:mican@ca.mbn.or.jp
銀行振込先:みなと銀行六甲道支店(普)1557327 郵便振替:00990-8-61129
編集長:小林郁雄 担当:天川佳美、中井 豊、吉川健一郎
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