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兵庫県住宅再建共済制度

兵庫県住宅復興局長 藤原 雅人

 9月1日防災の日に全国初の仕組みとして、 兵庫県住宅再建共済制度がスタートします。

 この制度の創設は、 兵庫県にとって、 長年の悲願でもありました。 あの大震災の経験の中で、 被災者の住宅再建が如何に重要か、 そして、 自助努力や公的支援には限界があることを痛感しました。 復興の過程では、 被災者の皆さんはもとより、 県内外の多くの人々は「困ったときはお互い様」と声を掛け合いながら助け合うことで直面する多くの課題に立ち向かってきたのです。 このことを、 仕組みとして私たちの子や孫たちに伝えようというのがこの共済制度なのです。

 住み慣れた地域には、 長年親しんだ風景や人間関係、 生活文化など他に代え難い「愛着」があります。 その地域で、 自ら復興の青写真を描き、 自力で生活基盤の再建を果たすことは、 ご本人の生活復興はもとより、 地域の再生にも大きく貢献するはずです。 被災地では、 今なお、 慣れない土地での生活に馴染めず閉じこもる高齢者がいます。 支え合いの場となるコミュニティができない地域もあります。 さらに、 かつてのにぎわいが戻らずシャッターの下ろされた商店街も少なくありません。 こうした阪神・淡路大震災の経験の中から「住宅再建共済制度」は生まれました。

 制度の基本は、 誰でも加入できる低負担(年額5,000円)で、 災害時には、 再建への勇気や意欲がわく給付水準(再建時600万円)です。 対象災害も地震や風水害などすべての自然災害としました。 昨年の度重なる台風災害や新潟県、 福岡県での地震など自然災害はいつ、 どこで起こるか分かりません。 近い将来、 東海、 東南海、 南海地震は確実に起こるとも言われています。 何としても、 こうした災害への備えを怠るわけにはいきません。 みんなで協力して備えるこの安心システムにご理解をいただきたいと思うのです。

 阪神・淡路大震災の教訓は、 ひとり兵庫県だけのものではありません。 是非、 この仕組みを全国で共有したいと考えています。 兵庫県住宅再建共済制度の運用の実を示して、 全国的な理解を深め、 広げて行きたいと思います。 読者の皆様のご理解、 ご支援を衷心よりお願い申し上げる次第です。

※みなさん是非ご加入を!(事務局より)

※筆者プロフィール
震災直後から復興対策に従事。復興本部総括部生活復興課長、復興推進課長を歴任。05年4月から現職。


 

連載【神戸のみどり1】

神戸のみどり・その1
『六甲山植樹100年・上』

元神戸市建設局公園砂防部長 小森 正幹


1.森林の中の石積み

 確か1982年年のことだったと思う。 私たちはその2で書く予定の『都市林こうべの森』の基本計画を立案中のときだ。 私たちスタッフは再度公園の仙人谷ハイキングコースを歩いていた。 そこで新聞や雑誌などによく掲載されている草木が生えていない山を段切りした石積みを見つけた。 約80年過ぎ、 はげ山から豊かなみどりへ変わった森の中で石積みは今もしっかりと息づいていた。 そしてその石の一つひとつを積んだ先人たちの思いが私に伝わってきた。

2.明治初期の六甲山

 明治初年の六甲山は、 (1)1867年12月7日の開港当日の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』のイラスト (2)明治中期ごろの神戸港上から見た絵はがき (3)明治14年(1881年)4月、 我が国を代表する植物学者牧野富太郎は高知から東京へ行く途中神戸に上陸し、 海上から見た六甲山を「私は瀬戸内海の海上から六甲の禿山を見てびっくりした。 はじめは雪が積もっているのかと思った」と随想『東京への初旅』に記述 (4)『六甲山の100年そしてこれからの100年 神戸市2003年発行』記載、 松下まり子氏作成の明治20年(1887年)ごろの六甲山荒廃図などから草木のない白い花崗岩の露出した山であったことを知ることができる。

3.六甲山緑化のはじまり

 慶応3年(1867年)12月、 開港に伴い神戸外国人居留地が設けられ、 多くの外国人が交易のために集まってきた。 神戸はこの欧米人から多くのことを学んだ。 特に英国出身のA.H.グルームは六甲山上の別荘開発や我が国初のゴルフ場の整備などを手がける一方、 私費を投じて植林や登山道の整備を行い、 県知事などに六甲山の砂防、 植林の必要性を説いたと言われている。

 (1)このような外国人の提言 (2)近代都市として歩み始めた神戸の人口増加は著しく、 コレラなど疫病の流行もあって上水道の整備のため生田川上流に布引貯水池が設けられた。 しかしその集水域の山地は荒廃がひどく、 大雨の度に泥流が流入して良質な水の確保は困難だった。 そのため水源涵養林の整備は急務であった。  (3)また外国人居留地始め市街地は大雨の度に洪水や浸水に悩まされた。 そのため洪水や土石流防止の砂防植林が必要な状況にあった。

 このような状況の中、 ドイツへ留学し、 ドイツ林学を修めた東京帝国大学教授本多静六に神戸市は調査を依頼し、 明治35年(1902年)11月13日植林作業の一つ地拵えに着手した。 これが計画的で大規模な六甲山植樹開始元年である。

4.風致林の考え方

 この大規模な計画的植林で特筆すべきことは植栽樹種の多さだ。 クロマツなど砂防樹を主にしながらも、 木蝋を採取するハゼや樟脳を採るクスなどを混植して森林経営の安定を図る一方、 20種に及ぶ樹木を植林していることはもともと地形の急峻な六甲山での森林経営の困難さを見抜き、 風致林に重きを置いた植樹がされていることだ。 このように都市林としてのドイツ林学の特徴である「森林美学」論に基づく神戸市の近代都市としての発展を見込んだ風致林(都市林)の整備が考えられていたらしいことは先人の明に感謝したい。 この考え方は今日まで継承されており、 また将来へ引き継がれていくと確信している。

5.市民の山・六甲山とレクリエーション

 六甲山にはトゥエンティクロス、 シュラインロード、 シェールロード、 カスケードバレー、 アイスロードなど横文字の登山道が多い。 居留地の外国人がつけた名前だ。 彼らは出勤前に毎朝、 背山に登り、 休みの日はハイキングや軽い登山をするなど季節の折おりにレクリエーションを楽しんだ。 そしてその外国人のまねをして登ったのが、 今日でも市民の間に盛んな「毎日登山」だ。 「毎日登山発祥の地」の碑のある再度山の善助茶屋(現在は碑のみ)では音楽を聴き、 紅茶やトーストなど欧風の朝食も用意されていたと聞く。 結構その辺に庶民の隠された楽しみがあったのかもしれない。 また陳舜臣の『神戸ものがたり』の「布引と六甲」には、 外国人の毎日登山の「習慣」と外国人たちの本当の楽しみ、 布引茶屋のスリーグレーセス(三美人姉妹)との恋物語が書かれていておもしろい。

 神戸における最初の登山団体は「神戸草鞋会」だ。 この会は外国人のグループMGK(The Mountin Goats of Kobe)のワーレンが登山道を整備している姿に感じて、 塚本永尭が会員を募集して明治43年に作った民間登山会である。 塚本らは烏原貯水池から摩耶山まで約40Kmの登山道を整備した。 その他「ヒヨコ登山会」「神戸突破嶺会」などは今日も活動している。 このような底辺の大きい市民登山を下地として新田次郎の『孤高の人』の主人公、 六甲山を拠点とする不世出の登山家加藤文太郎が現れる。


小森正幹さんは長年神戸市で公園緑地のご担当として「みどり」に携わってこられました。 我らが先輩、 山本吉之助氏から続く「神戸のみどり」を書き残すことを願ってご執筆いただきたいとお願いいたしました。何を隠そう、実は小森さんの本業は小説家でいらっしゃいます。 本場の連載の文章をお楽しみ下さい。                                                                              (天川佳美)


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明治元年ごろの六甲山 明治30年ごろの六甲山
 
 
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明治36年ごろの六甲山 現在も残る森林内の石積み
 

 

連載【震災10年 ひと・まち・くらし模様2】

コミュニティに公的性格を機能化

ひょうご・まち・くらし研究所 山口 一史

 6月号に書いた「同じ地域に暮らしているのに−台風23号被害 障害者の経験生かそう」で、 言葉足らずだったことを引き続いて書いてみたい。

 6月号では豊岡の台風被害の際に、 障害を持った人たちへ災害情報が届かなかった背景を考えた。 一般の市民の多くが行政からの避難勧告や避難指示を聞き逃しても、 近隣の人たちから、 その危険情報を知らされて、 避難所に行くなり自宅で対応するなりの行動に移れたのにもかかわらず、 障害者は近隣から情報がほとんどといっていいほど伝達されずに、 濁流が押し寄せてはじめて危険を知ったということを中心に紹介した。

 そして、 その理由として、 日常生活の中で地域のコミュニティの輪に入っていない、 何らかの事情から疎外されているのではないか。 それならばコミュニティ自体を、 組み替えていく必要がありはしないかというところで終わってしまっていた。

 コミュニティのありようについて、 少し重なるところがあるが、 そこから始めたい。

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図1 コミュニティの姿
 
 ◆小さなつながりが徐々に大きく

 「図1」は人々の生活の面から形成されている社会的な関係を模式的に描いたものだ。 4つの象限によって区切られたものを第I象限と第IV象限を私的(地域的)領域、 第II象限と第III象限を社会的領域と名付けておく。 まず、 第IV象限は個人が地域社会でつくっているコミュニティの姿を現している。 自分と家族が一番内側にいる。 その外は、 隣近所のつながりだ。 その輪はもう少し広い近隣のつながりや自治会のメンバーとしてのつながり、 婦人会や老人会、 子ども会といった性別、 年齢階層別のつながりがある。 さらに小学校や中学校のPTA、 青少年育成協議会などのつながりもあるだろう。 古いまちだと、 神社の氏子やお寺の檀家という組織もある。 少年野球チームのメンバーといった関係もある。

 一方、 社会的領域の第II象限は会社や商店に勤務したり、 経営したりしていると、 おそらくその輪が一番内側に来るのだろう。 大きな会社だと、 自分が属している課や支店などが一番内側で、 会社全体はその外側の輪であるという意識があるかもしれない。

 さらに業界団体や組合などはもうひとつ外の輪となる。 業界団体などの規模と範囲が全国的になれば、 もっと外の輪に位置づけられる。 また、 地域社会と離れた同窓会やNPO的つながりも社会的領域に属している。

 ◆大きな「私」は「公」に転換

 ここでひとつの気づきが生まれる。

 それは社会的領域も私的領域もともにプライベートな領域であり、 「官」の領域ではないことだ。 それにもかかわらず、 私たちは必ずしも、 完全な「私」(ワタクシ)として自分たちのコミュニティをみていない。 私的領域では、 自治会の役員の行動や自治会の事業は「公」(オオヤケ)とみなされる。 それは通常の議論でも、 「私」にとらわれずに考えようとか、 「公私」のけじめをつけるべきだ、 といった発言が行われていることからもうかがわれる。

 そして単位自治会の会長が、 連合自治会の役員になると、 連合自治会が「公」を主張し、 単位自治会は「私」となってしまう。 より大きな「私」は、 下位の「私」に対して姿を「公」と変えていくのだ。

 一方の社会的領域でも同じことが行われている。 商店街からみれば個別の商店は「私」であり、 商店街としての事業や活動は「公」となる。

 さらに、 社会的領域から私的領域をみると、 前者が「公」であり。 後者は「私」となっている。 「会社のため」「仕事のため」というフレーズは必ずしも、 会社主義的な側面だけでなく、 仕事は「公」であり、 くらしは「私」であるという関係が生まれている。 (*)
 ところで障害者の場合、 家族や近隣に住んでいる親戚がない限り、 この私的領域でのコミュニティの輪のどこにも実質的に帰属していないことが、 災害によって明らかになってきた。 「実質的」というのは、 名義上、 もしくは名目上は自治会などの組織に加入しているが、 実際はメンバーとして十分に扱われていないことを指す。

 通っている作業所の代表が、懸命に利用者の自宅に電話をかけて、「危険情報」を流したことを6月号で紹介した。 作業所はこの図でいうならば、 社会的領域に含まれるはずだ。 社会的領域から私的領域へメッセージを発信しなければ、 誰も情報を流してくれないということを、 この代表は知っているからこそであろう。

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図1 新しいコミュニティの姿
 
 ◆公益のフィールドを新たに

 そこで社会的、 私的領域を通して発想を転換しなければいけないのではなかろうか。

 図2は、 第IV象限の私的領域の中で公的色彩を持っているものを、 コミュニティの機能として第III象限に移していくことをイメージしている。 (点線で描いた半円弧)

 一方、 第II象限の社会的領域の中からも、 公的色彩を持った機能を第I象限に移す。

 大小はあるものの元々、 公的意味合いを持っているコミュニティの輪や機能を、 プライベートな分野に閉じ込めてしまっていて、 本来発揮すべき公益性を見失っているからではないかと考える。 生活の中で育んできたある種の知恵、 つまり自治会の役員をすることはみんなのためにしているのであって根底で「ご苦労さま」と感じるのは、 そこに公益性をいくらかは認めているからであろう。

 地域や企業社会が公益性を内包していることを明確にし、 その公益性が高まっていくような仕組みづくりが重要と思われる。

 ただし、 現在の地域社会、 地域団体のままでは、 かつての行政の下請けとしての地域団体に戻るだけでなく、 私たちが歴史の中で否定してきた古いコミュニティを再現させてしまう恐れがある。

 新しいコミュニティをつくるために、 コミュニティを開いていかなければならない。 コミュニティを開くというと、 多くの人は「地域社会によその人が勝手気ままに入り込んでくれば、 地域のアイデンティティがなくなってしまう」と警戒感をあらわにする。 コミュニティを開くとはそうではなく、 少なくとも次の3つの要件を充たすことが望まれる。

 その3要件とは(1)コミュニティのルールを一般社会のルールと同じにする(2)共生社会を実現する(3)専門性を尊び、 地域の内外のさまざまな専門家と積極的に連携する─だ。

 開かれたコミュニティが「新しい公益」を生み出し、 図1でいう第I象限+第III象限が公益コミュニティとして、 第II象限と第IV象限を挟み込む。

 豊岡の台風被害で障害者の実情を知りたいと考えたのは、 阪神大震災のとき、 障害者に対するケアはまったくといっていいほど何もなかった。 あれから10年、 私たちの社会はどれほど進歩したかも知りたかった。 残念ながら、 災害時の障害者対応は10年前と違いはなかった。

(*)公と私の関係は『有賀喜左衛門著作集IV 封建遺制と近代化』(未来社、1967)から学ぶことが多かった。


 

連載【くらし・すまい塾1】

「くらし・すまい塾」の発足とお誘い

石東・都市環境研究室 石東 直子

 7月半ばに「くらし・すまい塾」がスタートしました。

「暮らしと家族形態の変化によって、 住まいがどう変わってきたのか、 どう変わっていくのか」をフィールドワークやさまざまな現象、 文献などをもとに話し合う場です。

 くらし・すまい塾の発足にはいくつかのきっかけがありました。

 ひとつは、 毎年夏の初めから秋にかけて、 何人かの学生、 院生から連絡が入り、 「論文のテーマにコレクティブ住宅をとりあげているので、 話を聞きたい」「調査をしたいので、 住宅の誰と連絡をとったらいいのか教えてほしい」ひどいのは「コレクティブ関係の資料を送ってほしい」。 。 。 。 。 と。 また、 大学の先生から特別講義でコレクティブ住宅の話をしてほしい、 住宅を案内してほしいという依頼もあります。 できるだけ対応しようと努めていますが、 また、 社会的マナーを知らなすぎる学生が少なくないということにはもう慣れたのですが、 学びの浅さにしばしば考えさせられます。

 ここ数年、 グループリビングやコレクティブ住宅などと称される共生型住まいが出てきましたが、 なぜこのような新しい住まいが出てきたのかという背景は、 学生たちの論文ではなかなか言及されません。 特に被災地では全国に先駆けてコレクティブ住宅という呼び名ばかりが普及してしまいましたが、 本来のコレクティブ住宅とは何か、 その歴史はという基礎知識を踏まえて、 被災地のコレクティブ住宅の事業化された背景を知り、 本来のコレクティブと被災地のコレクティブ住宅の相違を把握した上で、 コレクティブ住宅の調査をしてほしいと思っています。 現象面だけの調査と評価では、 協同室が使われていないとか、 共益費が高い、 人間関係がややこしいなどと言う居住者の不満が多いとか、 高齢者ばかりの居住で問題があるなどしか見えていないようです。 ひとりひとりの学生に対応するのは大変なので、 まとめて基礎的な知識を知る場を提供したいと感じていました。

 もうひとつは、 社会の潮流は明らかに新しい居住ニーズを顕在化させつつあり、 さまざまな住まい方がでてきていますが、 私自身これからの住まいや住まい方をじっくり語り合える機会がほしいという思いがあります。 これについては真野ふれあい住宅のモーニングサービスを1年前からサポートしている田中奈美さん(神戸芸術工科大学助教授)も同じ思いだったので、 くらし・すまい塾の設立に至りました。

 現在の塾生は、 4つの大学の専攻も多様な学部生と院生や卒業生たち、 数名の研究者と実務者の15名ほどです。 1〜2ヶ月に1回の定例会を予定しています。

 ご関心のある方の参加を歓迎いたします。

 

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くらし・すまい塾の発足会 7月17日
 

 

連載【まちのものがたり29】

住吉川物語1
水道局の昼休み

中川 紺

 今日もいい天気。 だから川に足をつけてみる。 気持ちいい! すぐ横の草地に黄色い花を見つける。 そうやっていつもの道を散歩していたボクは、 橋の手前で“おじさん”に出会った。 最初は遠くから観察。 段々近くに寄ってみた。 白髪まじりのおじさんは、 ボクに気がつくと優しく笑いかけてくれた。 だから勇気を出してボクは話しかけてみたんだ。

 おじさんはボクの呼びかけにちゃあんと答えてくれた。 橋のすぐ近くの“すいどうきょく”で働いていて、 天気がいい昼休みにはこうして川べりでお弁当を食べるのがおじさんの日課。 自分でつくったという卵焼きをボクにくれたけど、 それはホントにおいしかった。 亡くなった妻よりも実は料理がうまいんだ、 とおじさんは言った。

 それからは、 こうやってお昼に川で会うことが、 ボクたちの日課に加わった。

● ●

 ボクと会っているときのおじさんは、 とてもおしゃべりだ。 それにたくさんの事を知っている。 橋のすぐそばの大きな建物は「おくしょん」で、 とってもお金持ちの人が住んでいることだとか、 昔、 「にらくそう」というお屋敷があったことだとか、 いろんなお話をしてくれる。 もっとも、 ボクには何のことだかほとんど分からない。 それでもボクはおじさんが話すことを一生懸命聞いていた。 時々質問をはさんだりしながらね。

 

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 おじさんはボクのことも聞いた。 だからボクは憶えていることを全部教えてあげた。 ボクを産んだお母さんはどこかへ行っちゃったこと、 他の兄弟とバラバラになっちゃったこと、 だから今はひとりぼっちだってことを。

 俺とおまえは似てるかもなあ、 とおじさんは奥さんがプレゼントしてくれた“かいちゅう時計”を取り出す。 昼休みはすぐに終わってしまう。

 そうやってボクたちは毎日いろんなことをおしゃべりした。 川沿いの道を通るたくさんの人がボクたちを見て、 微笑んでいった。 ボクはおじさんといるのがとっても幸せだった。

● ●

 ある日、 ボクは言った。

 「ボクね、 おじさんと暮らしたい」

 ちょっと考えてから、 おじさんは「ええよ」と笑った。

 ボクは「ありがとう」のかわりに川でひろった石をプレゼントした。 それは白地に黒い模様が入った、 ちょっと珍しい石。 川にある他のどの石とも違う模様をしていたから、 きっとすごく特別な石だと思う。 だからおじさんにあげることにしたんだ。

 おじさんは目を細めてじっくりと石を観察してからこう言った。

 「おまえの仲間にこういう模様のやつがいるやろ? 知ってるか?」

 ボクは首を横に振った。

 「……ダルメシアンっていったかな」

 そしてボクの頭から背中にかけてゆっくりと撫でながら、 「おまえは何て種類なんだろうなあ」と言った。

 ボクはそれに答えるかわりに精一杯しっぽを振っておじさんのほっぺたをなめてあげた。 (完)

(イラスト やまもとかずよ)




阪神白地 まちづくり支援ネットワーク・第45回連絡会報告

 

 今回の担当者は「若手ネット」でしたが、 そのメンバーの多くが「神戸まちづくりワークショップ研究会(以下、 WS研)」に属し、 多くの活動を実践していることもあり、 また近年「まちづくりワークショップ」への疑問が投げ掛けられる機会も多かったため、 「まちづくりワークショップを考える」というテーマで、 WS研が中心となって、 企画運営することになりました。

 まずカタリスト松原から、 テーマの解説があり、 続いて以下の報告がありました。
(1)「神戸まちづくりワークショップ研究会と『WSの本』について」/西修(神戸市)
(2)最新事例報告/辻信一((株)環境緑地設計研究所)

 西さんからは、 神戸市でのまちづくりワークショップの歴史の概説の後、 WS研の設立趣旨やそれに至る経緯の説明があり、 さらに最近発刊した神戸のWS事例集『WSの本』の報告&広報が行われました。 次に辻さんからは、 最新事例の一つである「野良猫対策ワークショップ」のお話しや、 それに関連したまちづくりワークショップの課題などについて触れていただきました。

 その後は、 参加者全員で「まちづくりワークショップの諸問題」というテーマのワークショップを行いました(ややこしい)。 まず2班に分かれていただき、 各々で「まちづくりワークショップ」の良い点・悪い点を挙げ、 グルーピングしたものにタイトルを付け、 それをテーマ用紙(A3半分)に書きだしてもらいます。 その後、 テーマ用紙を壁面に貼りだし、 全員でそれを見ながら討議するという2段階のプログラムで行いました。 後半のファシリテーターはカタリスト松原、 レコーダーは田中正人さん((株)都市調査計画事務所)で担当しました。

 「まちづくりワークショップ」に関わる様々な論点が提出されましたが(写真参照)、 後半は特に「ワークショップで得られる結論は平凡ではないか」という論点を中心に議論が交わされました。 その中で「個性的な案というのはワークショップでは消えてしまうのではなく、 全体に影響を与え、 変わっているのだ」との意見が、 参加者のみなさんの心を捉えたように感じられました。 他にも「ファシリテーターのスキルの重要性」「主催者が抱くWSという手法への幻想」など、 興味深いお話をたくさんいただきましたが、 残念ながら時間切れ終了となりました。

 連絡会後のWS研メンバーの打ち上げでは、 まだまだ議論がくすぶり、 やがて燃えさかり、 そして「同じテーマで継続的に議論する場を持つべき」との結論に達しました。 まだ日程等は未定ですが、 決まりましたらみなさまにもご連絡したいと思います。

(スタヂオ・カタリスト 松原永季)

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ワークショップ結果の様子
 


情報コーナー

 

●六甲道まちびらき
・日時:9月17日(土)、 18日(日)10:00〜20:00
・場所:JR六甲道駅周辺〜六甲道南公園周辺
・内容:完成記念式典、 六甲道マイステージ、 野外劇「星の王子様」、 ぐ〜チョコランタン小劇場、 だんじりコーナー、 いざ!カエルキャンプ!、 ミニボーリング、 他
・問合せ:六甲道まちびらき行事実行委員会事務局(コー・プラン内TEL.078-842-2311、FAX.842-2203)

●阪神白地まちづくり支援ネットワーク・第46回連絡会
・日時:10月7日(金)18:30〜21:00
・場所:未定
・内容:テーマ/「まちづくり協議会とまちづくりコンサルタントのゆくえ」、 詳細は未定
・問合せ:GU計画研究所(TEL.078-435-6510)

●「HANSHINKAN NAVETTE−MUSEE」

・日時:11月3日(木・祝)
・内容:阪神芦屋駅〜阪神西宮駅を起点に、 阪神間の美術館を巡る「うごく美術館」を企画中!
(詳細は次回お知らせします)

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