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新潟中越地震・旧山古志村の人たち
−集落自治機能を生かした避難所、仮設住宅の日々

石東都市環境研究室 石東 直子


 間もなく震災1周年を迎える9月初め東京で、元山古志村企画課長の青木勝さん(市町村合併により現在は長岡市復興推進室主幹)に中越地震後の山古志村民の避難状況やその後の仮設住宅での日々、村再建にかける思いなどをお聞きする機会がありました。私は6月に長岡市にある山古志村等の仮設住宅地を訪れたので、青木さんの話とあわせて私の印象等を記します。

●集落自治機能を生かした避難所運営

 山間地域の集落は集落全体で地域を護っていく伝統的な集落自治機能がある。10月23日に地震が発生したが、26日には全村民が長岡市に用意してもらった施設にヘリコプターで避難した。誰ひとり村内に残ると言う人はいなかった。とりあえず避難所に入ったが、「被害状況の異なる集落」の人たちが一緒にいるのは、同じ心で話ができないということで、1週間後に避難所間を移動して集落ごとにまとまったので、避難所運営は集機能が働き、山の生活を避難所でもつくったと言える。

 2ヵ月後山古志村の仮設住宅が長岡ニュータウンの未利用地に分散して建設されたので、集落ごとにまとまって入居した。避難村民の80%が仮設住宅に居住しており、残り20%は親戚や知り合いの家に身を寄せているが、同居生活が長くなると、仮設住宅に入りたいという人もでている。632戸、562世帯、1797人のための仮設住宅は3タイプが建設され、1DKはひとり用、2DKは2〜3人用、3Kは4〜5人用で、6人以上は人数に応じてタイプを組み合わせて供給し、地区・集落のコミュニティを重視した入居なので、山の生活に近い近隣関係にある。住宅以外の生活施設としては、集落ごとに1ヶ所の集会所、診療所、ディサービスセンター(後から建設)と、仮設住宅の入口近くに行政支所(旧山古志村役場、現在は長岡市役所支所)と交番が設けられた。また、理髪店、美容院、たばこ屋は、自営業者の生活保証として出張営業ということで認められたが、店舗は法制度上建設できないので仮設住宅の自室を使って営業している。

●山の生活

 集落と農地は一体のもので、老人が元気なのは毎日畑に通っているからで、ここでも仮設住宅地のすぐそばの土地に3ヘクタールの農地を作り、野菜や花を植えている。村の伝統産業に錦鯉と闘牛があるが、錦鯉は1歳魚、2歳魚と毎年続かなければならず1年休むと次に続かないので、長岡市内に池を自力で造った。池造りも先祖からの知恵を受け継いだ適切な造り方があり、コンクリートで固めればいいと言うものではない。闘牛は仮設牛舎を作り、残った牛を集め、5月6日には第一回闘牛を開催した。

●集落再建に向けて

 地震による中山間地域の地盤災害は傾斜地なので復興にはかなり時間がかかるので、仮設住宅住まいは2年では終わらないだろう。今回の地震を千載一遇のチャンスとして、今までやろうと思っていたがやれなかった集落再建、村おこしがやれると思っている。例えば、住宅再建ではなくて集落再建として除雪可能な1本の道路の沿道に住宅を建て、集落機能の中に罹災者用の戸建ての公営住宅を集落ごとに建てたい。なお、仮設住宅に住んでいる時間は山に帰る準備段階ととらえており、これまで野菜を作ってもスーパーに売ることはなかったが、今、生産組合をつくり「長岡野菜」の研修をしており、山に帰った時に野菜をスーパーに卸すことはできないかという村づくりも始めている。

 村民は仮設住宅住まいであってもあせっている人はいない。仮設住宅でどれだけ長い時間過ごせるかが、今後の住まいを考えるいい機会だと思っている。集落再建には自力でやっていかなければやれないことがあり、村民には行政には頼ってはおれないという気持ちが強い。

●仮設住宅地の風景

 仮設住宅の配置はいずれも兵舎風平行配置だが、神戸の仮設住宅地に比べてなぜかのどかな雰囲気だった。私が訪れた日は震災後初めて泊りがけで村に帰り、田植えの準備をするということで、仮設住宅地には人影が少なかったが、二人、三人と立ち話をしたり、住宅前の花壇やミニ菜園の手入れをしておられ、私の話しかけにものんびりと応対があった。「こののどかな雰囲気はなぜかしら」と、ずっと不思議に感じていたので、青木さんに伺うと「村民はこうなった運命を達観している。あせっていない。それに山の暮らしの隣人たちと一緒なので日々の心配はない。一年のうち何ヶ月も雪のため動けないので、神戸に比べると復興には時間がかかるものと思っている」と。各戸の住宅の入口には雪よけの囲いがあり、多くの住宅はそこに畑仕事の道具や肥料などが置かれ、美容室や散髪屋の看板があり、タバコ屋の旗がなびき、外壁いっぱいに錦鯉が泳いでいる(絵)住宅があり、私には物珍しい風景だった。

 住まい方は保守的なものでなかなか変革が難しいが、近年は各地で多様な住まい方がでてきているので、これまでの一世帯一住宅の供給に加えて、高齢化が進む山の暮らしで体力が弱体化しても安心して暮らせるような新しい住まいづくりへの挑戦をしてほしいと私は願っています。

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雪よけ囲いがある仮設住宅入口 土いじりしながらのんびり話
 
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ヘヤーサロンの営業 錦鯉が泳ぐ外壁
 

 

連載【くらし・すまい塾4】

第2回 シルバーハウジング制度を学ぶ

大阪大学大学院 稲見 直子


 第2回くらし・すまい塾は、9月28日(水)午後6時より行いました。今回の議題は前回と同様、「日本におけるコレクティブハウジングの可能性」について、以下のテーマをもとに議論を交わしました。

 1.日本の人口減少や世帯構造の変化について
 2.参考書籍「家族と住まない家」について
 3.その他、住宅や家族にまつわる社会制度について自由に意見交流

 なかでも、今回の勉強会では「シルバーハウジング制度」という住宅制度が話題に上がりました。震災復興公営コレクティブ住宅(ふれあい住宅)は、「高齢者住宅のモデル」として事業化され、ほとんどの住宅にシルバーハウジング制度が適応されています。その背景には、被災者の多くが低所得者・高齢者であったこと、復興公営住宅にコレクティブ住宅を導入するには国の住宅建設制度がなく、新しい制度を創設するには時間的にも難しかったことなどが挙げられます。そこで、「シルバーハウジング制度」とはどのような制度なのかを学び、その制度が抱える諸問題について話し合いました。

○シルバーハウジング制度とは?

 「シルバーハウジング制度」は、1987年、当時の厚生省と建設省により創設された制度で、「住宅施策と福祉施策の連携により、高齢者が地域社会の中で自立して安全で快適な生活を営むことができるように、ハード・ソフト両面にわたり高齢者の生活特性に配慮した住宅をモデル的に供給するもの」です。具体的な特色としては、(1) 緊急通報システム・手すり・開閉の容易な引き戸・生活相談および団らん室等の設備の設置、(2) 生活相談員(LSA:ライフサポートアドバイザー)の配置等の基本サービスの提供、などがあります。なお、LSAの具体的な仕事としては、(1) 生活指導・相談、(2) 安否の確認、(3) 一時的な家事援助、(4) 緊急時の対応、などが挙げられます。(復興まちづくりキーワード集 阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク著 1999年発行より)

○シルバーハウジング制度の課題

 このように、シルバーハウジング制度は、元厚生省と元建設省の両省が、これからの日本の高齢社会を見据えたひとつの対応策として取り組んでいる画期的な施策です。しかしながら、震災後、多くの公営住宅にシルバーハウジング制度が導入されるなか、さまざまな問題が生じてきているのも事実です。なかでも、LSAが行っているサービスの対象はシルバーハウジング制度の住宅の居住者に限られているため、一般住宅とシルバーハウジング制度の住宅とが併設された建物では、一般住宅の居住者(その多くは高齢者)は不公平感を抱いてしまうという問題が生じています。またLSAの重要な役割としては「居住者への個別対応の基本業務だけでなく、コミュニティ育成(居住者同士および地域との交流事業)」という任務が必要とされる一方、LSAからは専門職としての研修や社会的に認められた職能の確立が要望されており、震災後、県下のLSA有志により「LSA連絡会」が結成され、検討交流会が定期的に行われているようです。

○本日の参加者の一言

 「コレクティブ住宅の事業化に際してシルバーハウジング制度を適応したことは、本来のコレクティブの特性を活かしていく上で、いくらか課題を作ってしまったのではないか」「一般住宅とシルバーハウジング制度の住宅における(LSAによる)サービスの不公平感を解消するために、介護保険制度が利用できないか」


 

連載【神戸のみどり2】

神戸のみどり・その2
『六甲山植樹100年・下』

元神戸市建設局公園砂防部長 小森 正幹


6.六甲山と災害

(1)山火事
 昭和3年(1928年)、灘区高羽から芦屋川上流までの区域500〜600haを消失する山火事が起こっている。住吉村は「秘蔵の原生林」を失っており、翌年から約100haの植林と防火帯の整備を行っている。また山麓の自治体が協同して「六甲山系火防協会」を組織して山火事の早期発見に努めた。防火帯については明治の植林開始時から山火事の延焼を防ぐため設けてきたが、4〜8mの防火帯の外側にさらに7〜8mの帯状のヤマモモ、マテバシイ、ユズリハ、サンゴジュなどの防火樹林帯を設け、延焼の防止に努めた。この防火帯の管理は今日も続けられている。

(2)土砂災害・水害
 六甲山系の土砂災害は30年周期で繰り返されるといわれている。六甲山において本格に近代的砂防工事や治山事業が始まったのは昭和13年(1938)7月の「阪神大水害」のときからだ。それまでは植林が行われてきたにもかかわらず、災害を忘れた乱伐が繰り返され、多くの被害を受けた。このあとも昭和42年(1967)7月の大水害などを経験する。私たちは土砂災害防止のためにもさらに植林を続けていかなければならない。そのためには、今ある森林の改造が必要であり、災害に強い森林を作るための継続した地道な森林の手入れが必要である。人の手によって創られた森林は人の手で管理しなければならない。

(3)地震
 六甲造山運動が始まって約200万年が経過している。今、六甲山最高峰の標高は約931mである。平成7年(1995年)1月17日午前5時46分の「阪神・淡路大震災」では13cm隆起したという。単純に換算すれば、今の山容になるまでに今回の規模の大地震が7,000回以上もあったことになる。ただ人間が忘れてしまっているだけだ。この地震で六甲山系は約770箇所の崩壊地が確認されたが、市街地から眺める六甲山は厳然と存在し、私たちの心のよりどころとなった。

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7.国立公園の編入

 第二次世界大戦後、昭和23年(1948年)に六甲観光交通委員会が結成され、昭和27年(1952年)には新池スケート場、六甲山牧場、六甲ゴルフ場が再開した。さらに昭和30年(1955年)には奥摩耶ロープウェイが開業するなど次第に復興していった。そんな中、昭和31年(1956年)5月10日六甲山は六甲山地区として瀬戸内海国立公園の一部に編入された。このことにより、大都市に近い国立公園として六甲山の自然の保全と適正な利用が自然公園法に基づき行われるようになった。それはそれからの六甲山の未来を変える大きな契機となった。そして現在、国立公園である故に自然はある程度守られているが、十分でなく、これからの六甲山はどうあるべきか、その保全と適正利用についてそれでいいのかという問題を抱えている。国立公園の存在は六甲山を魅力ある観光資源として復元するためにはどうしたらよいのか、議論する上で大きな課題となっている。

8.市民活動による六甲山緑化

 明治初期に居留外国人によって提唱され、六甲山植樹の市民植樹は今も続いている。また大都市に隣接して存在する森林の価値がいわゆる「里山」として大きく見直され、都市林の整備が大きく唱えられている現在、市民の都市林・六甲山緑化に対する関心は高まっている。

 昭和30年(1955年)、第二次世界大戦により手入れもされず荒廃した六甲山の市民の手による植樹が始まった。それは阪急百貨店の清水雅社長が提唱した六甲山を緑のオアシスしょうという「六甲を緑にする会」の運動だ。また「六甲の緑化はまず地元のわれわれが……」という思いから始められた国立公園六甲山地区環境保全要綱の緑化協力事業もある。六甲山地区にホテル、山荘などを建てるときに建設費の1%を基金に積み立て六甲山を自ら緑化しようとするものだ。しかし、近年の金利の低下や六甲山から撤退する企業の増加やまた逆に進出する企業の極端な減少によりその運用はかなり困難になっている。

 神戸では居留外国人の影響を受けて、六甲植樹の黎明期から市民による登山道の植樹が行われてきた。毎日登山の会のハイキングコース管理会や六甲全縦走市民の会は今も修景樹や防火樹の植栽を続けている。

 その他、阪神・淡路大震災後、「ドングリネット神戸」「こうべ森の小学校」「こうべ森の学校」「雑木林会議」などさまざまな緑化市民活動が始まっているし、企業のよる社会貢献の一環として名ブランド「六甲山」への100年の将来を見据えた貢献も始まっている。今後もこのような新しい形の市民運動が裾野を広げていくと思う。

9.再度山永久植生保存地

 昭和49年(1974年)国際植生学会が神戸の再度山と森林植物園で行われた。そのとき、ドイツの世界的な植物学者チュクセン教授から再度山を「植栽した樹種、本数、面積などが記録され、禿山から緑が復元されてゆく様子が写真で残されているのは貴重である。

 植生を観察する場所として保存することを考えてみては?」と提案を受け、神戸市ではその後、5年ごとに調査を神戸大学に委託し調査を継続している。このことは自然観察の事例として世界的にも貴重な調査だと思う。

10.みどりの継承 〜これからの100年〜

 六甲山植樹は100年経ったが、まだ道半ばといえる。この森林が本当の意味で定着するのはまだ70〜100年かかる。100年目の今を生きる私たちは後世の人たちから何をしていたのだと言われないように、今すべきことをしなければならない。100年目を考える市民懇話会は下記の提言をしているので、それを掲げこの章の結びとしたい。

・過去100年の取り組みを見つめ直し、これからの100年に向けた長期的視野を持つ。

・市民生活と密接に関わる「ふるさとの山」として六甲山の緑を育て次代に継承していく。

・自然と人々との共存をめざし保全と利用のメリハリをつけて六甲山の緑化活動を発展させる。

・人の手によって継続的に森林を育成し、量から質への転換によって質の高い森づくりを行う。

・自然や環境や人に関する学習の場所として活用を図る。

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六甲山市民植樹の活動
 

 

連載【街角たんけん18】

Dr.フランキーの街角たんけん 第18回
幻の銅御殿

プランナーズネットワーク神戸 中尾 嘉孝


 読者のみなさまは、本誌50+36+5号の「上山手通」の回でご紹介した山本通5丁目の銅御殿のことを覚えておいでだろうか。相楽園北側の元諏訪山ゴルフセンター跡、14階建高層住宅が建っている敷地にあった、実業家・湯浅竹之助の「銅御殿」である。

 本題に入る前に、湯浅竹之助の経歴を紹介する。明治3(1870)年、現在の和歌山県有田郡湯浅町に生まれた竹之助は、幼少のころから行商などで生家の生計を助けていたが、十五の年に横浜の貿易商「増田屋」に入店する。ここで貿易取引の実務を叩き込まれた竹之助は、やがて独立の決心を固め、増田屋当主の弟・中村房次郎のとりなしもあったのか円満に店を出た。ばかりでなく、慰労金として七千円(当時)を主人から贈られた。手元の貯金一千円と合わせ八千円を懐に、竹之助は神戸へ赴き栄町通3丁目に有田屋商店を開店する。明治31(1898)年のことである。

 居留地の外国商館から仕入れたメリケン粉の販売を手始めに、砂糖、外国米と手を広げ、浮き沈みはあったものの、大陸との貿易で第一次世界大戦で巨万の富を得た。砂糖は、神戸製糖株式会社を設立、神戸・尻池に建設した工場へ台湾から原料を運んで製造・販売した。現在の台糖神戸工場(深江浜)の前身である
 大正5(1916)年頃、栄町通3丁目の本店を煉瓦造建築に改築し、更に山本通の地所を買収して建設した自邸が、「銅御殿」だった。

 「上山手通」の回では、最近まで残っていた鉄平石貼の外構だけ紹介したが、その後、いくつかの写真資料が見つかった。

 一つは昭和5年頃に諏訪山金星台から市街地を撮影した写真に、「銅御殿」湯浅邸洋館の全景が写っている(写真1)。大正11(1922)年、来神したエドワード皇太子の宿泊所に選ばれただけのことはあり、東側にベイウインドウ(弓形出窓)を備えた真壁造の壁体と、とんがり屋根の塔屋、複雑な形状の屋根に煙突というピクチャレスク(絵画的)な味わいのある洋風住宅の様子が窺われる。もう一つは平尾善保の「最新住宅読本」(昭和13年)で、鉄平石の外構の事例として湯浅邸が紹介されている(写真2)。

 栄町通の本店(写真3)と、この銅御殿の洋館は、いずれも古典的な英国系のデザインであるが、設計者の名はいずれもいまだにあきらかにはなっていない。「銅御殿」こと湯浅邸は、(当時は武庫郡であった住吉・御影・本山を除けば)、神戸市内で、日本人のために建てられた大規模な洋風住宅のさきがけをなすものである。

 第一次世界大戦後の反動で、竹之助は巨額の負債を背負うが、会社を整理することなく昭和18(1943)年に完済した。しかし昭和20(1945)年の神戸空襲で、栄町通の本店が罹災、竹之助が精魂傾けた銅御殿も灰塵に帰した。震災後、栄町通の旧本店建物が取り壊されて、湯浅竹之助の足跡は、もう神戸に残されてはいない。

(この項終わり)


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写真1 金星台から見た湯浅邸(「大神戸」(赤田庄之助著)より) 写真2 昭和10年代の湯浅邸西側(「最新住宅読本」より) 写真3 旧湯浅商店(杉原産業ビル、平成10年解体)
 

 

連載【まちのものがたり31】

住吉川物語3
十円玉の時間

中川 紺


 コンビニで雑誌を買った。手渡されたおつりの十円玉に刻まれている年号が、中学時代のある出来事を思い出させた。

● ●

 それは中三の夏休み。夜はいつも二階の自分の部屋で勉強していた。週に二回は塾へ行ったけれど、私は自宅の方が集中できるので好きだった。勉強している時間は、家中が静かだ。父は小児科医で当直が多い。母は私に気を遣っているのか、最近テレビをイヤホンで聞くようになった。もっとも多少うるさくても別に気は散ったりしない。その時、私の耳に入る音は、時計の秒針音だけ。

 針は九時二十分を指していた。いつものように私は階段を静かに降りて、こっそり家を出た。近くの川に架かる橋を急いで渡る。向かうのは向こう岸沿いの公衆電話だ。

 こうやって毎晩、この時間になると私は出かけた。母親は十時の夜食までは絶対に部屋をのぞきに来ない。

 しん、と静まり返った道路沿いで電話ボックスは不思議な光を放っている。そばに立っている街灯は電球が切れかけているらしく、ついたり消えたりをくり返していた。

 私は受話器をあげると、硬貨を入れて、指が覚えている番号をプッシュした。

 もしもし。1コールでFが出た。

● ●

 Fと私が付き合っていることは、両方の親だけでなく学校の誰もが知らなかった。そもそも同じクラスにはなったことはないし、共通の知り合いもいない。獣医に興味がある私が時々のぞきに行く動物のお医者さんのところに、たまたまFが下痢をした飼い猫をつれてきたのが、きっかけだった。キジトラの子猫で、眼差しがどことなくFに似ていた。

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 猫を介して私たちは少しずつ仲良くなった。私は学歴重視の親にうんざりしていると言い、Fは親がまったく自分に無関心であることを話した。

 電話を思いついたのは私の方だった。Fの母親は九時を過ぎると夜の仕事に出かけると聞いたからだ。父親は早くに亡くなったらしいので、毎晩九時過ぎになれば家にはFが一人で留守番をしている状態だった。

 九時半からきっかり十分。それが私たちの電話の時間。ケータイなんて無かった時代。

 話すことはいくらでもあった。「歴史の年号のゴロあわせを思いついた」でも「最近読んだ本」についてでもいい。

 私が好きな話題は、Fが話す「猫のユーリ」のことだった。

 専用の小銭入れにはいつも十円玉を切らさないようにしていた。茶色のコインが私とFをつないでいた。

 そうやって一生懸命大事な時間を共有していたはずなのに、知らないうちに私たちは離れていってしまった。理由は今思い起こしてもあまりよく分からない。受験か、親か、単に飽きたのか、面倒になったのか。

● ●

 最後の電話の日。帰り道で橋の上から、財布に残っていた一枚の十円玉を川に沈めた。

 硬貨には昭和四十七年とあって、その年号が、私たちが生まれた年であったことが、妙に悲しかった。         (完)

(イラスト やまもとかずよ)




阪神白地 まちづくり支援ネットワーク・第46回連絡会報告

 

 今回のテーマは、「まちづくり系コンサルタントのゆくえ」で、当ネットワークでは初めて取り組むテーマでした。まちづくり系コンサルタントを勝手に5分類し、各2名総勢10名の方々に語っていただきました。

<パネラー>

(1)まちづくり派コンサルタント
 上山卓(コー・プラン)、松原永季(スタヂオカタリスト)

(2)ランドスケープ派コンサルタント
 松下慶浩(環境緑地設計研究所)、門上保雄(門上環境計画)

(3)アーキテクト派コンサルタント
 高月昭子(計画工房INACHI)、森崎輝行(森崎建築設計事務所)

(4)シビルエンジニアリング派コンサルタント
 井原友健(ウエスコ)、斉藤洋三(長大)

(5)総合派コンサルタント
 森下真(都市設計連合)、山崎満(UR大阪)

(敬称略)

<開催日時・場所>

10月7日(金)18:30〜、神戸市勤労会館

 「まちづくり系コンサルタント」は、不況のあおりや自治体の財政悪化などの様々な要因で、苦境にたたされています。一般的にはこのように言われていますが、まちづくり系コンサルタントの職種、所属する事務所等の規模、年齢などでどのような違いがあるか、それぞれにどんな努力をしているか、今後の展望はどのようなものか等について、お互いに知り合い、語り合う機会として今回の会合がもたれました。

 パネラーから語られた内容は多岐にわたり、とても言い尽くせませんが、印象に残ったことをかいつまんで言うと、多様な市民参加、コンサルタント同士の連携、復興事業が一段落しての仕事の減少、大きな仕事からよりきめ細かな仕事の増加、コンサルトとしての仕事を見つける努力、行政頼りでなく新たな事業の展開、“アーキテクト派”の元気さ(人選によると思われますが)などがあげられます。司会者(筆者)のまずさから最後は時間がなくて充分な討論が出来ませんでしたが、いずれの機会に第2ラウンドを行いたいと思うような会合でした。

(中井都市研究室 中井 豊)


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連絡会の様子、2005.10
 


情報コーナー

 

●<旧乾邸>活用応援倶楽部・2005年度総会、他

・日時:11月5日(土)10:30〜16:00
・場所:旧乾邸(神戸市東灘区住吉山手5)、他
・内容:総会(15:00〜16:00)、小原流の挿花鑑賞(10:30〜)、小原流豊雲記念館見学(13:00〜)

・問合せ:<旧乾邸>活用応援倶楽部事務局(遊空間工房内、TEL.078-261-0337野崎)

●フォーラム「地域とNPOによる防災まちづくり」

・日時:11月12日(土)13:30〜16:30
・場所:尼崎市立労働福祉会館中ホール(阪神尼崎駅より五合橋線を北へ約7分、TEL.06-6481-4561)

・内容:基調講演「地域とNPOによる防災まちづくり」室崎益輝(消防研究所理事長、神戸まちづくり研究所理事長)、報告「地震火災ハザードマップ」(神戸まちづくり研究所)、地域とNPOによる防災まちづくりの事例報告(日本災害救援ボランティアネットワーク、シンフォニー、旧居留地連絡協議会、ブレーンフューマニティ、尼崎、宝塚の地元自治組織、東京向島関係)

・問合せ:神戸まちづくり研究所(TEL.078-230-8501)

●第14回都市環境デザインフォーラム関西「都心のまちづくり、その担い手」

・日時:11月12日(土)10:00〜17:00
・場所:アクセスホール(地下鉄御堂筋線淀屋橋駅11番出口すぐ)

・内容:基調講演/箕原敬(箕原計画事務所)、パネルディスカッション、他
・問合せ:都市環境デザイン会議関西ブロック(前田)(TEL.075−342-265)

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