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阪神大震災から10年

神戸大学 大西 一嘉


 1995年1月17日に起こった阪神大震災は多くの生命と住まいを奪い、数十万人に及ぶ住宅難民と一面の更地を生み出した。地震により人々の生活と地域の経済は深刻な影響を受け、学校、病院、公共施設、鉄道、高速道路、港湾、工場も被災し復興には長期間かかった。有名な地場産業である酒造業も木造蔵のほとんどを失い転廃業が相次いだ。商業地域の1/3、市場・商店街の半分が壊れ、化学工場や製鉄業も操業停止に追い込まれるなど、神戸の地域経済を支える産業の多くが崩壊し、再開には多くの時間がかかった。

●住宅難民の発生

 阪神大震災は多くの生命と住まいを奪い、数十万人に及ぶ住宅難民と一面の更地を生み出した。多くの世帯が震災によって移転を余儀なくされ、親戚の家や賃貸住宅へと移った一方で、政府が無償提供する仮設住宅に入居せざるを得ない被災者も多かった。仮設の建設は1月中には始まり8月までの半年余りで48300戸供給されたが、大規模な建設用地は利便性の低い都市周縁部にしか確保できず、過半を占める高齢の入居者は住み慣れた地域やコミュニティから切り離された。長い人では4年まで退去期限が延長された。

●国の復興政策と区画整理と再開発手法による復興スキーム

 広範囲に及ぶ被災地復興は戦後日本の工業化社会がはじめて経験する規模で行なわれた。国は3ヵ年で5兆8000億円の復興予算を投入して、インフラや公共施設、住宅の再建を支援した。一方、自治体に対しては地震1ヶ月後に面的復興事業地区に対する建築制限を行なわせ、その計画案作りに2ヶ月の猶予期間を与えた。兵庫県と神戸市は1995年3月に復興計画案を採択したが、単に従前のまちの復旧復興にとどまらず、経済や産業面の活性化を伴う創造的復興を目指すものとされた。

 自治体は.結局61地区に及ぶ復興市街地整備事業を行ない、43地区では区画整理と再開発事業が適用されたが、これらの計画手法は日本では土地の権利関係の整序や都市開発促進のために広く使われてきたものである。区画整理は、国の補助金により区画道路の整備や公園緑地の確保、公共施設の整備を行うものであるが、それを生み出すために地区内の権利者は土地の交換分合を通じて減歩され、小さくなった新しい敷地を与えられることになる。権利関係は複雑で錯綜しており、交渉には長い時間がかかる。再開発は大規模な再開発ビルを建設し、従前権利者は等価交換によりビルの権利床を取得する。こうした事業指定により新しい副都心が形成されるが、広大な面的再開発の完了までには時間がかかる。それゆえ、被災市街地復興特別措置法では事業予定地区における計画策定までの猶予期間(建築制限)を2年間まで延長する措置がとられた。

 (被災市街地復興推進地域の指定はなされたが、2年間の猶予期間のための建築制限は実際には適用されなかった。)

●住宅復興とまちづくり支援

 恒久住宅復興の支援プログラムは、第一に復興公営住宅の建設であり、神戸市は15000戸を新規供給した。第二に再建のための低利融資、第三に共同化助成やマンション再建の整備拡充、第四に家主層に対する賃貸住宅供給促進の補助制度があり、特優賃入居者へも家賃軽減措置がある。

 ところで、民間住宅は行政の当初見込みを大幅に上回る勢いで建設が進み、ついには喪失数を超えて住宅市場バランスを崩すほどの過剰供給の課題がでてきた。デベロッパーは好立地で市場価値の高い被災地東部の阪神間地区に狙いを定めてマンションなど住宅建設を集中的に展開する一方、被害が深刻な被災地西部では建設活動が低調であった。神戸市では解体撤去された住宅数8万戸に対して、公共と民間をあわせて1.5倍の住宅が新規供給された。

 復興において特に事業地区ではまちづくり協議会の果たした役割は大きい。神戸市は全国に先駆けてまちづくり条例をつくるなど、地震前からまちづくり支援には先進的取り組みの長い歴史を持っており、震災復興でも官民協働の経験が大いに生かされた。市から派遣されたコンサルタントは、地元と行政の間の意見調整役として活躍した。

●震災10年の復興の現状

 日本全体がバブル経済後の景気後退期であり、さらに重工業中心の産業構造からの脱却や都心の空洞化対策という構造的転換期を迎えていた神戸にとって、今回の地震はストレートとボディのダブルパンチを受けたようなものであった。地域間競争における神戸の基幹産業や商業業務での失速は地震で加速した。世界有数の取扱量を誇った神戸港は、震災を契機に競合するアジア諸港にハブ港の機能を完全に奪われる結果となった。

 神戸は何とか震災から立ち直りつつある。1999年までに経済指標は75〜90%回復し、今では一部の事業地区を除けば街並みもおおむね復興し、安全でモダンな建物に置き替わったし、再開発により住まいや店舗は新しくなり、道路アクセスも良くなった。しかし、良いことずくめという訳ではない。

 被災が集中した住宅密集地域は住み、働く場とすれば便利で、地域のつながりも豊かだったが、高齢化が進み、脆弱な低家賃住宅が主体の地域でもあった。公的住宅の大量建設中心の復興戦略は必要量を充足していたものの、復興公営住宅のかなりが郊外や湾岸部埋立地に立地し、また住み慣れた地域とは異なる地に移り住むことによって社会的なつながりは断たれ、被災者の生活の基盤が崩れてしまった

●教訓をどう生かすか

 復興では、修復より建替に、ソフトな安心よりハードな安全に、コミュニティの再建より住戸数の確保に力点が置かれてしまった。もし評価すべき点があるとすれば、復興途上でまちのビジョン作りを議論しコミュニティ感覚を保ち続けてきたまちづくり協議会の存在であり、今後のまちづくりに期待するところは大きい。

 被災地はこの10年間で驚くほどの復興を遂げた。この神戸の経験を通じて日本の各地の大都市地域だけでなく世界の各都市が、大規模な都市災害では包括的な復興計画技術の開発が必要であるという、神戸の苦い教訓をしっかりと受け止め役立てて欲しいと願わずにいられない。

 
 以上の論文(文責:大西一嘉)は、下記の英文の論文の日本語版です。

 これは、APA(American Planning Association)の機関誌「PLANNING」(下の写真)の2005年10月号に、Robert Olshansky, Ikuo Kobayashi, and Kazuyoshi Ohnishiの連名で掲載されたものです(36頁)。全体としては、シカゴのイリノイ大学教授のRobさんが京都大学防災研究所客員教授として神戸の六甲アイランドに一年間住まわれた感想「Island Paradise - A planner reports on his year in a Japanese new town」とともにとりあげられたものです。(小林郁雄)

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連載【くらし・すまい塾5】

第3回 「51C型住戸からnLDK住宅の展開」を学ぶ

大阪市立大学大学院 坂内 陽子


 第3回くらし・すまい塾は2005年10月18日(火)に、「51C型住戸からnLDK住宅の展開をみる」をテーマに話し合った。このテーマの背景には2004年6月に2回開催された「51Cは呪縛か-集合住宅の戦後〜現代を探る」という連続シンポジウム(注)がある。これは51Cの生みの親とも言うべき建築計画学の鈴木成文先生、社会学者の上野千鶴子先生、建築家の山本理顕氏のバトルがあり、その中での興味深い議論に「nLDKの元祖は51C型だ」 vs 「nLDKと51C型はまったく別物だ」というのがある。

 立場と認識の違いが、年月の経過によって昨今の住宅の形状についての議論を生んだひとつの事例のようだ。くらし・すまい塾には建築学と社会学の人が参加しているので、この点を軸に話し合い、戦後の住宅供給の流れを学んだ。(注)シンポジウムの詳細記録(A)とシンポの集大成図書(B)は末尾の文献参照)。

51C型とは

 1951年度公営住宅設計のひとつの型の名称で、住戸面積は共用階段部分を含めてA/16坪、B/14坪、C/12坪の三つ型があり、その最も小さい型が51Cである。これは全国に数多く建てられて、その計画理念は5年後に設立された日本住宅公団にも引き継がれ、いわば公共住宅の原型となった。但し、60年代以降は建設されていない。その設計原案をつくったのが東京大学の吉武泰水研究室であり、当時大学院生だった鈴木先生が参加された<(B)より引用>。

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51C型公営住宅プラン(図書Bより)
 
nLDKとは

 住宅の大きさ(タイプ)の表記で、nは居室の数、LDKはL=Living、D=Dinning、K=Kitchenで1室を指す。鈴木先生は「この表記は住宅が商品化し、民間も住宅供給に参入してきて、特に住宅メーカーが市場調査に基づいて人々の需要を喚起し、それに迎合して売れる住宅をつくるようになった時、部屋の使い方や生活などを考えず、安易に部屋数だけを増やすといったプランで、世間がこれを揶揄して「nLDK」と呼んだ」と、(A)で述べられている。

建築家の怠慢だ...?

 上野先生の「nLDKというモデルは、誕生から半世紀もたった今もまだ耐用年数が尽きていない驚くべき長命なモデル。半世紀にわたってワンパターンなモデルが再生産されてきており、これに変わるべきモデルが登場していないのは建築家の怠慢ではないでしょうか」との意見に、鈴木先生は「確かにモノとしての住宅は、51C、2DK、nLDKと推移しているが、その計画理念はまったく異なる。51Cの計画理念は、わずか35m²の中で生活空間の秩序化合理化を目指し、炊事と食事を重ねた空間(台所)と南の隣室を襖で仕切りつつ一体化した「機能の分離と重合」にある。それにより食寝分離や就寝分離の可能となる合理的で衛生的な生活の目標像を示した。その後のnLDKの出現の過程で、何とかそれを潰す新たな型ができないかと、考えもしたが、そういった「型」を指示する行為自体が多様化する家族に対して間違いなのかもしれないと思い、順応型へと進んでいった」と述べられている。(順応型とは住み手の要求に順応するプランで、住み手が必要に応じてプランをつくることができる、間取りの変更ができるという住宅のモデル的な提案)。

住宅と家族

 上野先生は「nLDK住宅は近代家族の容れ物であった。しかし、もはや近代家族は終焉を迎えている。空間生成の理念と実際には大きな乖離がある」と。鈴木先生は「51C提案の時代からみると、現在は住戸規模が2倍に、世帯人数は半分になったから、住戸計画は楽勝の時代だ。住み手に任せてもいい、むしろ近隣・まちとの関係こそが問題だ」と。そこで建築家の山本理顕氏は「具体的な住宅団地設計で、都市では働く場所と住む場所が一緒になっている住み方を選択するだろうと思い、オフィスのようなのがついた住宅を提案した。。。。省略。。。地域全体と住宅内部が深く関わっているという意識を持っている」と、述べられた。これに対して、上野先生は「社会学者は空間を開くのではなく機能を開くことを考える。閉じた家族の中でのケアの機能はもはや充足できない」と。「住宅を開く」という視点に対して、シンポジウムの司会のひとり、建築学の五十嵐太郎先生は「鈴木先生は住居を内部から開こうとし、山本氏は外から開こうとしている」と述べられた。

くらし・すまい塾の討議

 上述のような先生方の意見について、塾では議論にまで到らず、知らなかったことをたくさん吸収した、勉強になったという感想が多かった。ただ、神戸芸術工科大学の塾生からは同学が開催した鈴木先生の公開講義で既に一度聴いているので、余裕を持って補足説明をしてくれた。また、塾生からは次のような意見がでた。

 「51C提案以降、建設省や中央にある東大が時代と家族の変容に伴って、それに相応しい住宅を推進する住宅政策や提案をすすめなかったことは責務の怠慢ではないかと思う」「私は家族社会学を専攻するものとして、建築学者や中央政府の責務の怠慢と同様に、家族社会学者の住宅提案に対する過去の関心の低さ(怠慢)ということも挙げたい」と。

 紙幅の制限と筆者の理解の不十分さもあり、十分な報告に到っていない点は、下記の資料をご参照いただきたい。

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●シンポジウムの詳細(A)は、「JUTAKU-KENCHIKU 200406」、シンポの集大成図書(B)は『51C・家族を容れるハコの戦後と現在』(鈴木成文・上野千鶴子・山本理顕他著/平凡社)、その他関連図書に『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』(上野千鶴子著/平凡社)がある。


 

連載【神戸のみどり3】

神戸のみどり・その3
『21世紀都市林“こうべの森”をめざして』

元神戸市建設局公園砂防部長 小森 正幹


1.序にかえて

 「明日までに今検討している“こうべの森”計画の参考になるヨーロッパの都市林を調査するなら、どこへ行きたいか? 調査項目も含めて企画書を書いてこい」

 1982年(S57)、私は当時の神戸市公園課長から言われた。もしかしたら、ヨーロッパへ行かしてくれるのかもしれない。そんな淡い期待を抱いて徹夜で企画書を作った。

 私は企画書を創りながら、印象派の画家マネとモネの同名の絵画『草上の昼食』を思い出していた。マネの絵にはなぜか裸婦が描かれており、モネの絵はマネの作品に構想を得て描かれたと言われている。林相は異なるものの両方とも平地の深い森林の中でピクニックを楽しむ男女が描かれている。ヨーロッパの主要都市の近郊には都市を抱くように広大な平地林が人の手による植林によって創られていた。それをぜひ見たい。神戸市も六甲山系を背山として都市の背後に広大な人工林を持っている。平地林と山岳林の違いがあるにせよ、都市における豊かな自然環境保全や都市民のレクレーション資源としてヨーロッパではどんな思想で都市林が創造され、管理運営され、利用されているか?を知りたかった。一晩かかってフランスの“ブローニューの森”、オーストリアの“ウィーンの森”、オランダの“アムステルダムの森”、西ドイツ(統一前)の“フランクフルトの森”を調査したい旨、企画書をでっち上げた。

 何日かして兵庫県の自治体職員研修団(団体で移動し、それぞれの国、都市で共通視察と個々にテーマ別調査を行う研修団。テーマ別調査の予約・承認、交通手段の確保、通訳の手配等は各自でリザベーションを行うシステム)に参加してヨーロッパ行きの決裁が下りた。しかし私が一番行きたかったオーストリアの“ウィーンの森”は他のメンバーの移動の関係から断念せざるを得なかった。

 私がヨーロッパの都市林で学んだことは「市民の理解と協力を得ながら、今、何をなすべきか? 立ち止まってはだめだ。着実な毎日の積み重ねが子孫にかけがいのない豊かな緑を残す」と彼らが考えていることだった。言い換えれば、ヨーロッパの都市民は私たちより多くの緑の享受を受けながらもさらに市民の身近に緑を増やし、それを子孫に残そうと常に緑の必要性を市民に訴えながら日夜努力していることだ。そして土地の狭い日本では非常に難しいが、緑の管理はできるかぎり自然のままにするというのが彼らの基本的な考え方であった。もちろんただ放置するというのでなく、一定の管理をしながら森を自然へ返すことを考えていた。

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  2.都市林とは?─都市林“こうべの森”計画策定のいきさつ─

 神戸のみどり・その1『六甲山植樹100年』で述べたように、明治の初頭の草木のなかった荒廃した六甲山は幾多の先人の努力によって神戸の特色ある背山として豊かな緑を市民のみならず近畿圏の人々に提供している。

 1967年(S42)の災害のあと策定された中央森林公園計画は、15年経過した1982年(S57)には市民の理解と協力を得て、先人たちの努力を継承しながら大きな成果をあげていた。しかし、日本経済は高度成長から安定期へ移るとともに、高齢化社会も進み市民のライフサイクルやライフスタイルも時代の流れに沿って大きく変化していった。余暇時間の増大のみならず、人々の活動やレクレーション動向も多様化しつつあった。また緑の問題も1971年(S46)から始められたグリーンコウベ作戦は13年目を迎え、無剪定街路樹や交通安全や死角による犯罪など市民生活との軋轢も生じ、“みどり”も量から質への転換を迫られていた。

 そんな時代的背景と今までの成果のもとに新しい世紀21世紀をにらんだ新計画の策定が急務とされた。それが1967年(S42)に策定された六甲山の西側(主として神戸市有林 約2,300ha)の森林の利用と保全の計画である『中央森林公園計画』をベースに1983年(S58)策定された『新・中央森林公園計画』いわゆる『都市林“こうべの森”計画』である。もちろんこの計画は六甲山植樹100周年も21世紀初頭に迎えることも十分念頭に置くものであり、貴重な“みどり”をどう守り育て、子孫に引き継いでいくかも重要な課題であった。

 そろそろ都市林とは? に答える必要があろう。私たちはその定義として「都市近郊にあって、都市の圏域に位置し、環境保全やレクレーション機能を通じて市民生活に深い関わりを持つ森林をいう」とした。ただし、下線の文言は当時の定義には書かれていないが、都市林“こうべの森”の計画内容・趣旨から当然想定していたことであり、現時点で私が文言を追加し、誤解のないものとした。 

3.計画の概要

 計画区域は六甲山系でも最もよく自然が保全された区域のひとつであることを踏まえつつ都市の“みどり”としていかに利用も考えるかだ。それには都市林“こうべの森”が市民の心に深く根ざしている必要がある。すなわちふるさとの山として捉えられることが大切なのだ。そのためには神戸の“風土”に根ざした都市林を考えていく必要があり、21世紀をめざす長期的な視野に立った森林形成に引き継がれる。

 ある市民は毎日登山という利用形態でこの都市林を“裏山”として、ある市民はうさぎ追いしかの山、すなわち“里山”として、あるいは“ふるさとの山”として捉えられるようとする。また広域的には都市近郊のレクレーションの場や観光資源として考えていく必要があろう。そして利用のための交通アクセスの改善に努め、誰でも手軽に都市の雑踏から離れてハイキング・自然観察・歴史散策などすべての分野の楽しみを都市林 “こうべの森”のふところの中ででき、かつ人と人のふれあいや生き甲斐を再発見できる場の創造も大切であると考えた。また高齢者と若者の役割分担を考え、積極的にジェネレーションギャプを解消していく試みも推し進めるべきだと議論した。そのためには都市林“こうべの森にに誰でも誘い合って参加できる雰囲気づくりのみならず、誰でも参加できる都市林“こうべの森”の中での活動には「都市林作法」ともいうべき利用のためのルールづくりが必要になってくる。

(1) 計画策定の基本方針

@目的:すべての市民始め広域的にも気軽にいつでも利用できる市街地近郊のレクリエーションの場の創造をめざす。

Aみどりの施策:神戸市民にとってかけがいのない“みどり”を利用だけでなく守り育てる施策を神戸市だけでなく関係行政機関とともに協力して進める。

B施設計画と交通計画:森林植物園、布引公園などエントランスエリアに位置付けられた核となる公園を整備するとともに、利用のための交通アクセスの整備、改善を推進する。

C管理・運営:総合インフォメーション体型の整備やイベントの開催など森林と親しくふれあう雰囲気づくりを行い、利用者が四季を通じて森林浴等が楽しめるよう総合的な管理・運営を進める。

(2) 利用者・関係団体の責任と市民参加

 関係団体は“みどり”の保全と利用を図るため、相互に緊密な連絡・調整・協力し、それぞれの責任において総合的に整備し、管理運営する。そして利用者も自らの責任を自覚し、都市林利用の作法を高めていく必要がある。利用者と市始め関係機関は責任と分担を明確にする必要がある。

(3) 計画区域及び利用と保全ゾーン等の設定

計画区域は約2,300haで土地所有者は大部分が市
有地(注:1995年の阪神・淡路大震災後、一部国
有地となるも土地利用は変化なし)である。

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(4) 実現するための施策

 計画区域内には学術的にも貴重な森林や森林レクリエーションに適した森林がある。都市林“こうべの森”として好ましい森林形態と具体的施策を提案し、積極的に保全と利用の調和を図る。

@好ましい森林形態

・景観重視型森林
明治初期の植樹計画から計画されていた市街地からの景観林。市街地から見える森林は神戸の風土にねざす常緑広葉樹と落葉広葉樹及び花木林による四季楽しめる森林を形成する。視点として三宮市街地、北野地区、ポートアイランドを考える。

・自然重視型森林
内陸部の良好な自然植生は学術上も貴重で自然重視型で保全する。特に再度山永久植生地、摩耶山のアカガシ群落、穂高湖周辺のウラジロガシ群落、かわうそ池周辺のコナラ林は積極的に保全する。

・利用ゾーンの森林
再度利用ゾーンの周辺では林間レクリエーションの場として快適な疎林を維持・創造する。また利用ゾーンには花木林や松など特徴ある針葉樹林の保全・維持・創造により積極的に森林景観を保育していく必要がある。なお、利用ゾーンは森林植物園・再度利用ゾーン、摩耶・六甲山牧場利用ゾーン、布引利用ゾーン、諏訪山利用ゾーンの4地区を設定する。

A具体的施策

 @の好ましい森林を保全・創造していくためには計画地内の森林景観の評価、その具体的修景実施計画を策定・実施する。また貴重な森林の調査・評価、自然保護区の設定、その調査・評価のための専門部会の設置が急務である。

(5)利用のための施策

 施設整備にはそれぞれの利用者層のニーズや利用動向を調査し、利用ゾーンの設定・施設の連携・連絡を図る必要がある。また国立公園計画との整合を図りながら、六甲山系の良好な自然を保全しつつ、豊かな自然と調和の取れた施設整備を進める。施設整備の具体的計画は6つのエントランス(諏訪山口、布引口、摩耶口、六甲山牧場口、小部口、洞川口)を入り口にふさわしい景観的整備を行う。またそれらの施設を結ぶ交通アクセスの整備は急務だ。一方、交通アクセスの拠点となる連絡拠点(かわうそ池、穂高湖、洞川、市が原)の整備も急がれる。ハイキングコースも重点的に整備管理する。その他ドライブウエイやハイキングコースのところどころに不法投棄がなされ、景観を害している。ここは沿道スポットの整備や沿道緑化を強力に推し進める。

(6)管理運営計画

 計画区域内にはほとんどが国立公園区域であり、その制約を受ける。また種々の管理者がおり、都市林“こうべの森”の管理運営は各管理者の立場を尊重しながら相互に協力し、利用者の立場に立った管理運営が必要だ。問題点と現状は単一管理者でないため、施設整備、PR、イベント、サイン、インフォメーション、統計などいずれも統一されていないのが問題点であり、現状だ。そのためには総合管理の可能性を探り、そこまでできないとしても総合インフォメーション、統一イメージによるPR、共同推薦ルートの提供、総合あるいは提携イベントの開催など緊密な連携が肝要である。一方、市民参加による管理運営を強力に推進する必要がある。

(7)今後の課題

 都市林“こうべの森”計画は当初からその実施の困難性が指摘されていたため、計画に多くの課題が記されている。例えば、計画の再評価、各機関の協調、具体的実施計画の困難さ、ミニバスなど交通アクセス改善の困難さ、自家用車の入園制限、水資源の枯渇などをあげ、こうした課題に取り組み人間環境都市神戸において西暦2001年に、都市林“こうべの森”が市民生活の一部として機能していることを期待しているとした。

4.都市林“こうべの森”計画の検証

 この計画は1982年(S57)の実務段階の六甲山特に西半分の市有林部分の問題点を浮き彫りしているため、現在でも六甲山管理運営に当たる担当者のバイブルとして利用されている。この計画における施設整備はほとんどが実施され、特に森林施業は地道に進められていると思う。また震災で市有林のうち約500haが国有林となった。しかし六甲山観光ポテンシャルの低下や私たちの努力不足せいか、交通アクセスや総合的管理運営は20年前とあまり変わっていない。そしてこの計画で欠如していた市民参画による森林管理の議論は2002年(H14)の六甲山植樹100年目に『六甲山植樹100周年市民懇話会』に引き継がれたと思うし、都市林“こうべの森”計画の思いは脈々と『六甲山植樹100周年市民懇話会』の提言の中に息づいていと確信している。都市林“こうべの森”計画も六甲山植樹と同じようにこれからの100年が大切である。私たちはこの時代を生きた証として、「今、何をすべきか?」を忘れてはならないと思う。


 

連載【まちのものがたり33】

坂のオムニバス1
声のトンネル

中川 紺


 トンネルの中に何かが住んでいるというウワサをたよりに、起伏の多いこの町に男がやってきたのは十二月半ば過ぎのことだった。

 駅から続く緩やかな坂を上っていくと、上りきる少し手前で道がYの字に分かれ、左の道の先にそのトンネルはあった。天井の高さが子どもの背丈ほどしかないのは、坂の上を走る大きな幹線道路の下を小学生が安全に通るためにつくられた通学路だったから、といことを男は駅前の小さな果物屋の主人から聞いていた。しかしずいぶん昔の小学校の統廃合で、その通学路を使う必要がなくなり、今ではただ土管のようなトンネルが口を開けているだけになっている。

 さて、何はともあれ聞き込み開始だな、と男は仕事に使うペンと手帳を取り出した。フリーライターになった頃から、使い続けているせいで皮の表紙がすっかり変色していた。

 幹線道路を見ながら、男が想像したのは「昔、車に撥ねられた小学生の霊がトンネルに出る」といった類いのもので、そういうネタは子ども向けのホラー雑誌に売れた。ウワサから隠れた名店まで、巷の小さな情報を書くことを得意としていた。

● ●

「地元のもんは『声のトンネル』と言うとるよ。ワシもあんまり詳しくは知らんがな」

 取材に応じてくれた近所の老人はそう言った。どうやらウワサには少しズレがあったらしく、「何かが住んでいる」のではなく「何かの声が聞こえる」だけらしかった。

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「で、それはやっぱり霊の声とかそういう話になってるんですかね」

 男が尋ねると、老人は首をあいまいにかしげた。

「何ていうかな。坂を上って来て一人であそこの前に立つと、自分にとって大事な人の声が聞ける、と言われとる。たまたま恋人を亡くした若い女性があそこで声を聞いたと言い出して、それから話が静かに広がっていったらしい」

 他の何人かに聞いてみても、だいたいこんな答えが返って来た。

 これをどうネタとして調理するか、と男は考えた。本当は実際に『自分の大事な人の声』を聞いた人を取材したかったが、なかなかそういう人物に行き当たらなかった。とはいえ、ウワサの取材というのは一概にしてそんなものだった。

● ●

 夕方が近くなって、男はもう一度トンネルを見に坂を上った。帰宅ラッシュ前の静けさといった感じで、周囲に歩いている人は他に見当たらず、幹線道路を通る車もまばらだった。ただ、坂から吹き上げてくる強い風だけが、びゅうびゅうと音を立て、トンネルの中に高い音を響かせていた。

 その音はどう聞いても人の話し声、とはとれなかった。まあ百歩譲って赤ん坊の泣き声というくらいだな、と男はつぶやいて、踵を返して駅に向かった。

● ●

 男の妻が「妊娠したみたい」と告げたのは、その日の夕食の時だった。

 あのトンネルで聞いた泣き声を思い出して、男はゆっくりとグラスを傾けた。(完)

(イラスト やまもとかずよ)




阪神白地 まちづくり支援ネットワーク・第47回連絡会報告

 

 今回のテーマは「景観法と景観行政の新たな展開」で、12月2日(金)、こうべまちづくり会館ホールで行われました(こうべまちづくりセンターとの共催の特別講演)。まず、神戸大学建設学科の三輪康一さんからテーマ解説が行われたのち、次の方々から報告(講演)がありました。

●京都市の取り組み/寺本健三(京都市都市景観課)

●近江八幡市の取り組み/深尾甚一郎(近江八幡市風景づくり推進室)

●神戸市の対応/上田真己(神戸市地域支援室)

 寺本さんからは、景観条例や風致地区等に基づく長年の景観行政の取り組みについての解説があった後に、これらの規制に対して景観法としてどう対応させているかについての詳細な報告がありました。もともと数値基準が少ない規定であることから、役所内での議論を繰り返しながら対応していることや、今後数値基準に関する検討を行うことなどが語られました。

 深尾さんからは、近江八幡での景観づくりに関する70年代からのとりくみの歴史が語られた後に、景観法を活用したとりくみについての報告がありました。地域策定委員会等での住民参加による基準づくりの取り組み(モンタージュの活用など)や、実際の建物での景観基準の運用例の紹介などが紹介されました。

 上田さんからは、まず北野や旧居留地といった神戸を代表する地域での景観形成地域指定や震災後活発になった景観形成市民協定の取り組みなど、神戸市におけるこれまでの景観形成の豊富な実践についての報告がありありました。その上で、景観法に関しては、条例との役割分担について検討して対応していることや、景観区域の拡大など今後の課題について語っていただきました。

(中井都市研究室 中井 豊)


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報告(講演)者の皆さん。左から、寺下さん、深尾さん、上田さん。
 


情報コーナー

 

●災害メモリアル−未来へ語ろう!わたしたちの体験

・日時:1月15日(日)10:00〜14:30
・場所:人と防災未来センター
・内容:新潟・豊岡の子どもたちからの作文発表(中間:黒坂黒太郎のコカリナコンサート)、昼休憩/非常食を食べよう!炊き出し大会、聞いてみよう!大人たちに(貝原俊民・室崎益輝)、一緒に考えよう!絆の大切さ(渚中学心のケア担当教諭,「しあわせ運べるように」合唱)
・参加費:無料
・問合せ:実行委員会078-262-5060

●みなとのもり公園つくり始め第1歩(記念植樹、花の種まきなど)

日時:1月17日(火)10;00〜12:00
場所:公園予定地

●世界語り継ぎネットワーク(TeLL-Net)設立記念フォーラム〜大災害を語り継ぐ

・日時:1月20日(金)9:30〜12:30
・場所:JICA兵庫国際センター2階
・参加費:無料

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