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阪神大震災11年目の朝

非認証NPOきんもくせい 小林 郁雄


 2006年の1月17日も、静かに寒い朝であった。

 昨年の阪神大震災から10年目は、細かい雨に三宮・東遊園地はぬかるみ、竹筒に浮かぶろうそく「希望の灯り」も次々に消えていた。台湾からの921地震被災市民とその復興を支えるNPOの人たちと早朝5時46分に祈った。前年2004年9月21日は震災5周年を迎える霧峰郷の震災記念公園921教育園区開園式に、長田区の被災市民(野田北部、真野、御菅などのまちづくり協議会関係者など)と参加した。その市民交流会の一環であった(神戸まちづくり六甲アイランド基金の助成を受けて「台湾−神戸 震災被災地市民交流会報告書」を作成しているので、詳細が興味のある方に、さしあげます。送料:切手で390円)。

 10周年ということで喧噪と混雑の1月であった昨年に比べ、今年はずいぶんと人出も少なく、例年顔を合わせる人たちとも、すぐに出会うことができた。寒い朝といっても、あの1995年の刺すような厳しい冷たさではなかった。何ものも失ってしまったことに吹きすさむ心のもちかたの違いかもしれない。11年目からまた新たな年月が始まったかのような気もする。

 1996年1月から始まったメモリアルコンファランスin KOBEも昨年10回目の総集編を終え、今年からは「災害メモリアルKOBE」と装いを新たに、次世代に教訓を語り継ぐ会としてスタートし、1月15日に人と防災センターで第1回が行われた。また、国際防災・人道支援フォーラム2004の提言を受け、2005年1月の国連世界防災会議の時に設立準備委員会を立ち上げ、トルコ・アダパザリ地震5周年(8/17)などで集まり、進めてきた世界災害語り継ぎネットワーク(TeLL-Net)も1月19日に設立会議を開き、20日に記念フォーラム−大災害を語り継ぐ−をJICAホールで行った(本紙05年6月号表紙参照)。2月にスリランカ・コロンボで、8月にトルコ・アダパザリで、また台湾921教育園区でも、震災・津波の語り継ぎ(学校教育、社会教育、映画・絵本・歌なども含め)の活動に各国からの参加が予定されている。

 阪神の11年目2006年は、また、サンフランシスコ大地震の100年目でもある。ニューオルリンズ大洪水の跡(まだ復興端緒らしいが)も含め、4月に訪問する予定である。

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2006年希望の灯りの夜明け
 

 

連載【コンパクトシティ17】

『コンパクトシティ』を考える17
コンパクトシティ(COMPACT CITY)の3つの概念(2)

神戸コンパクトシティ研究会 中山 久憲


1.持続可能性を考えるヒント

 20世紀には驚くほどのスピードで生命科学が進展した。地球上の全生物が共通の物質でできていること、その物質の中でもDNAが生命現象の基本を支えていることが明らかになった。人間やほかの生物は、遺伝子の単なる乗り物、あるいは遺伝子が創り出した機械に過ぎない。遺伝子が生き延びるための道具が、人間や動物などの生命体であるという。「利己的遺伝子」という考え方も登場し、生命の進化の主体は遺伝子にほかならず、機械としての生き物の構造と機能が、DNAという物質の構造と機能により解き明かされてきた。

 生き物の目立った特徴の一つは、多様な生物がが一つの生命圏を形成していることである。つまり、生物は単体や単一の種として存在することができず、必ず他の個体や種と何らかの関係を持ち、多数の相互作用によって結合されたネットワークを作ることで生存を維持している。これらのネットワークは様々な階層で構成され、いわゆる生態系をなし、全ての生態系が最終的にはただ一つの生命圏の中に統合されている。

 生命の持続可能性は、全てが多様なる他者との関係によって達成されてきたのである。成長し子孫を残すために、遺伝子・細胞・個体などのレベルでの自己複製により、自己が非自己を生産し、一が多を生成するダイナミクスが生命に不可欠である。自己の生命の維持を可能にする代謝で、内外におけるエネルギーや物質の交換が行われる。進化(変異と適応)は環境との相互作用である。環境の大きな変化に対応するために、外発的な命令や法則ではなく、内発的なルールの生成(自己組織化)により、多くの要素が絡み合った中から、ある種の秩序を生成する(突然変異)現象が生まれ、生き延びてきたのである。

2.工業社会の落とし穴

 生き物に見る人間の目は、常にその多様性と共通性に向けられてきた。しかし、ニュートンにより完成した近代科学は、複雑で多様な自然界から、単純で普遍的な共通性(法則性)を見いだすことで、自然を単純明快に機械的な物理現象として説明し、数学的公式と科学的観察によって確かめることを可能にした。これを基に諸現象が見事に説明できるようになった。流体力学や動力学の研究が進み、水車や風車、滑車などの機械の原理の解明によって、革新的な技術を発展させることができた。こうした技術革新によって、英国に端を発した産業革命は瞬く間に世界中に広がった。

 さらに、共通の言語、民族、宗教を持つ「国民国家」の成立が、一元的な統合を図らせ、産業革命後のナショナリズムによる工業化を後押した。20世紀には経済成長による国富の増大化に成功し、工業社会のパラダイムが定着した。

しかし、数世紀にわたり、自然の持つ複雑性と多様性を軽視し、人間に都合のよいものだけを資源として取り出し、大量に消費し、そして廃棄物を大量に生み出してきた。こうした機械論的に効率性を追求した工業社会は、人間を含む生物の生命圏である地球の環境を破壊し、生命の持続可能性に警鐘が鳴らされ、パラダイムの転換が必要になったのである。

3.複雑・多様な多元化社会へ

 1970年代から脱工業社会への潮流が大きくなってきた。科学の分野では、人間の脳や生物社会のように、込み入った構造と体系を持つ一般に「複雑系」を解析する理論が進展した。生命科学もその一端である。これら複雑系の特性は、開放性であり、非線形性であり、自己組織性といわれている。つまり、要素間の相互作用という秩序的でも無秩序的でもない「カオス(混沌)」という状態が対象である。情報技術・コンピューターの進歩が解析の担い手になり、人工生命の誕生や、生命の遺伝に似たプログラムなどが開発され、社会現象の解明にまで発展してきている。まだ現在の諸矛盾を複雑系の科学が解決するまでには時間がかかるだろうが、ファジーを取り入れた製品や、省エネを目的とする製品への応用が進んでいる。

 また、次元は大きく異なるが、人間社会の政治システムにおいても、擬態化した国民国家からの脱皮の模索が始まっている。

 ヨーロッパの各国は「一つのヨーロッパ」を求め、ヨーロッパ統合(EU)の道を歩み始めた。その方向は、サスティナビリティを合い言葉に、国境を無くし、国をいくつかの地域に分割し、各々の地域が権限を持ち、国家という枠を超えて地域と地域が交流・連携を促進させようとしている。その際の地域の分割は、単なる地理的な分割だけではなく、これまで少数派として無視あるいは差別されてきた価値観を多元的に認めていくことを前提とした地域のあり方を考えようとしている。これは決して地域ナショナリズムではなく、多様な価値を認め合う多元化と様々な形態のコミュニティが活動する地域の主権が問われるものである。すなわち、グローバル化による市場メカニズムに依拠した無個性な地域や都市に埋没するのではなく、地域やコミュニティが意識を持ち、独自の風土や自然、文化、景観、歴史などを大切にしながら世界に発信することである。標語として定着したのが、“Think Global, Act Locally(地球的に考え、地域的に活動せよ)”である。

 多元化社会の典型は、アメリカ合衆国である。広大な地域で多様な言語が日常的に語られ、多様な民族、多様な宗教が共存している。多元化社会の成立は、そもそもが建国の歴史に遡る。

 アメリカ植民地の形成時に、新たに入植した人々は「社会契約」を結び、共同体としての政治社会である「タウン」を各地に作った。タウンでは人々が直接政治に参加し、全会一致により政策等を決定した。そのためには、対立する考えを持つ人はタウンから出なければならない単一性と排他性が宿命であった。

 しかし、タウンは発展し、人口が増加していくと、構成員に多様な考え方が顕在化し、全会一致による意見形成が困難となった。そのための現実的な解決策は、タウンの中に個別の価値観を持つグループを独立した共同体として認め、それぞれで幅のある緩やかなコンセンサスを達成する道が、妥協の結果として採られることとなった。ただし、対立が生じる場合には、個々が訴訟によって、解決するに任せ、その判例をコモン・ロー(慣習法)として、その後の解決の基準とした。この社会に価値の多元化を認める道を採ったことが、アメリカを多元化社会としてまとめ上げる方向性を与えることとなった。(本誌04年1月号参照)

4.コミュニティ活動の活発なコンパクトシティ

 これからの社会は、これまで以上に情報化・グローバル化が大きく進んでいく。多元化し多様な価値観を認め合うことが必要となる都市社会では、全ての人は独立した存在となる。一方で、個人として何ら力を持たない市民は、自分一人では何もできない。それを補完するのが、共通の価値観で結ぶ「人の絆」すなわちコミュニティ(Common+Unity)の存在である。市民の自由に任意に参加できるコミュニティ活動を通じて、都市社会に住む一人ひとりの人間に対して、自己実現し、貢献し、意味ある存在となりうる機会を作る。コミュニティ同士も何らかの関係を持ち、多数の活動が相互作用できるネットワークを作ることが重要である。また、コミュニティの組織そのものが、外部環境に適応できるように、自律的に制御しながら多様に変化し組織化できることも欠かせない。コミュニティそのものの活動の多様性が、都市の活動を単なるコミュニティの数の作用の総和の効果ではなく、いわゆる非線形的な相乗効果で、より活発化させることが可能となる。それが持続可能な都市を形作るのである。

 研究会で議論してきたコンパクトシティの概念の第2は“COMPACT CITY”=“Communities Positively Act in the City " といえる。「都市内で多様なコミュニティが活発に活動している都市」である。

<参考文献> 吉永良正『「複雑系」とは何か』講談社現代新書


 

連載【震災10年 ひと・まち・くらし模様3】

震災の“風化”防ぐといいつつも

ひょうご・まち・くらし研究所 山口 一史


 阪神・淡路大震災から11年目を迎えた。05年は丸10年という節目の年であったため、国連防災会議の神戸開催誘致をはじめ、多くの記念事業が行われた。それと比較すると、11年はなにやらさびしい気分が感じられる。さびしいかどうかもさることながら「風化」に向けて気懸かりな動きもあった。

◆「私」越える語り部の語り

 11年目の「1.17」で実際に見聞きしたことをいくつか挙げてみたい。

 06年1月に「大震災を語り継ぐ─Tell−Net設立記念フォーラム」という催しがあった。Tell−Netとは、世界の大災害被災地が手を結んで、被災の記憶を語り続け、次の災害に備えるための教訓を発信し続けようという国際的ネットワークだ。神戸市のHAT神戸に立地している防災、人道などの関係機関でつくっている国際防災・人道支援協議会(DRA)が中心となって、インドネシア、スリランカ、タイなど大きな災害にあった地域からの参加者を得て設立調印が行われたという。その記念のフォーラムの話だ。

 このフォーラムで東京女子大の広瀬弘忠教授(災害心理学)は基調講演「災害に出会うとき」で、こんな話をした。

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 大きな災害で受けたナマの被災体験が語られることによって、聞き手はその災害を知らなくても疑似体験をし、同じ悲劇を繰り返したくないと強く感じる。その疑似体験を通じて、防災への動機付けが生まれる。また、「伝えること」は原体験を言語化し、整理していくこととなって原体験が客体化する。語り部が生まれるとは、語りが様式化するのであり、語りが普遍化していく道筋となる。さらにそれが進めば、詩や小説、絵画、音楽へと広がっていくのだ。

 「語り」と「場」の広がりは災害体験が「私的体験」から「社会的価値」へと変化し、「私のための語り」だったのが、社会が語りの価値を認めるように進展していくことになる。

 講演は、語ることの大切さを強調する内容だった。

 神戸の経験は実は、詩や音楽、絵画の分野で早くから作品となって発表され、多くの被災者の心を慰め癒してきた。

◆鷹取東にあわせ地蔵

 芸術として震災体験の表現は、アートエイド・神戸が行った震災詩集の発刊や詩と音楽のコラボレーション、演劇、絵画など様々な分野で積極的な試み行われた。このスピードは芸術家にも震災が大きなショックと与えたことと、芸術には復旧や復興について何ができるのか、といった根源的な問いかけを芸術家が自らに発したことが背景にある。

 震災が生んだ作品のひとつに朗読劇「50年目の戦場・神戸」がある。車木蓉子さんの原案を朗読劇にしたもので、全国各地で公演され、大きな反響を呼んだものだ。

 「見たもの、聞いたこと。見えてきたもの、聞こえてきたもの。見つからなかったもの、聞きに行ったこと…」という声明(しょうみよう)のようなリフレーンは聞く人の心をつかんで離さなかった。題名からも明らかなように、震災によって壊滅的な打撃を受けた神戸を第2次世界大戦で焦土となった記憶と重ね合わせたものだ。

 この朗読劇が想を新たに「60年目の戦場・神戸」として公開されることになった。

 これもまた、震災体験を語り継ごうというものなのだ。

 いわゆる芸術だけでなく暮らしの文化にも大きな影響を与えた。神戸市長田区の鷹取東地区。表通りから少し入った角地に、こじんまりとした空地があって、その一角に3尊の地蔵を一緒に祀った小さなお社=下写真=がある。

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 元々、町内に2尊の地蔵があって、それぞれ個人がお守りしていた。震災後、まち一帯は焼失し、かろうじて焼け残った地蔵も、持ち主自身が家を失ってしまって祀りきれなくなった。これを町内の自治会や婦人会などの地縁組織が引き受け、2尊を一緒にし、さらに大阪の仏教団体から寄贈を受けた新しい1尊を合わせた3尊を同じ社に「あわせ地蔵」と名付けて祀っている。毎年、1月17日に近い日曜日に地蔵の前で、町内の慰霊祭を行っている。06年も1月15日、朝早くから婦人会の人たちが地蔵の前に張られたテントの下で、食事の用意をしていた。

 震災の体験を忘れない、子どもたちに伝えていく試みがこうした形で繰り返されてきているのだ。

 「市民による追悼行事を考える会」という集まりがある。特別の主義や主張は持たず、震災に関係する追悼の行事や復興を考える催しの情報を収集し、まとめる作業をこつこつと続けている。なんてことのない活動のように見えるが、いまは被災地の中で、民間が行う震災関連の行事・事業の情報を持っている唯一の団体となってしまった。行政は自分たちが主催したり共催する事業については知っていても、NPOや市民が行う事業については知るすべがない。

 その「市民による追悼行事を考える会」がまとめた06年の「1・17」前後の行事の数は、昨年に比べてかなり減っている。とくにシンポジウムや音楽イベントなど大掛かりなものが減っているようだ。その一方で、学校や幼稚園など教育機関での黙祷や防災訓練などは定着してきているという。

 大きなイベントが少なくなっているのは、必ずしもその必要がなくなったり、担い手がいなくなったからではない。実施するに当たってのお金の手当がつかないという事情が強いのではなかろうか。そのあたりは、何とかならないものかと強く思う。

◆献花の予算削って

 お金といえば、西宮市が今年から震災で犠牲となった人の慰霊祭で捧げる花の予算を削ってしまったと、新聞は報道していた。

 もう10年も続けたのだからいいのではないかと思う市民もゼロではないだろう。財政難であるので、できる限り出費は抑えたいといく底意もあろう。慰霊、追悼という「個人的な」分野にいつまでも公金をだすのはどうかという折からの新自由主義的発想も受け入れられやすいのだろうか。

 うっかりすると、見過ごしてしまいそうな事柄かもしれない。しかし、「伝える」という私たち被災地と被災者が担うべき役割から考えるとき、果たして「金もないから仕方ないか」と割り切っていいものだろうか。

 犠牲者を悼む慰霊祭(名称は問わないが)は何のために行われるんだろうか。ひとつは、文字通りなくなった人びとの霊を悼み、いつまでも忘れない気持ちを地下の人たちに伝えるものだ。そしてその死を無駄にしない誓いを新たにし、防災への備えを忘れないことも背景にある。

 もうひとつは、遺族の人たちを地域のみんなで支えていく、なくなった人の分まで互いに愛を分かち合って、同じ地域で暮らしていく決意を遺族も含めて示しあう気持ちもあるはずだ。そこではまさに慰霊は「私」ではなく「公共」そのものではなかろうか。

◆忘れていいのもなのか

 例えば、広島や長崎の原爆忌で市民が捧げる白い菊花は「私」的なものであって公金を支出するのは如何なものか、などを発想する人はどこにもいまい。その死はまさに「私」を越えて「公」へと移っているからだ。

 花の金を惜しむことによって、その地域社会はもっと大きなものを失いつつあるのではなかろうか。

 世界の災害被災地が恐れるのは、災害にあったという事実を他の社会から忘れ去られることだ。10年前、メキシコから来たNGOの男性がこう言ったのを思い出す。「被災地にとってもっとも恐ろしいのは忘れられるということだ」と。

 阪神大震災の被災地はこれまでこぞって「風化」を防ごうという合言葉を共有していた。そのひとつの担い手である行政自らが、「風化」しょうとしているのではなかろうか。

 献花の花代を惜しむ社会を私たちは誇りに思えるだろうか。自分たちの税金が献花に使われたといって目くじらを立てる人をつくるような社会をうれしく思うだろうか。


 

連載【街角たんけん19】

Dr.フランキーの街角たんけん 第19回
もう一つの新開地(その1)

プランナーズネットワーク神戸 中尾 嘉孝


 昨年は湊川付替後の河川敷が埋め立てられ「新開地」が出現して100年、という節目の年であった。

 戦前は、浅草六区、大阪新世界と並び称された繁華街、遊興の地であり、今日でも新開地を語るときは「エエトコ、ええとこ、シュウラッカン!」という掛け声とともに、映画、淀川長治、チャップリン、…という単語が連想ゲームのように沸いてくる。

 たしかに、明治初年に鉄道建設で現在のハーバーランド付近から追い出された福原遊郭に近接し、明治19(1886)年に開業した川崎(神戸)造船所の従業員の通勤路に当たった旧湊川河川敷は、明治38(1905)年に埋立工事が完了。神戸駅前にあった相生座が火事で焼け落ちたのを契機に、明治40(1907)年に、旧湊川敷に移転。それ以降、市内各所から芝居小屋、活動写真館の開業が相次いだ。大正2(1913)年の聚楽館の落成で、「神戸の娯楽街」としての地位を固めた新開地であるからには、それはやむをえないところであろう。

 然るに、チャップリンをかたどったゲートを眺めながら、新開地本通りを下っていくと、JRの高架の手前に、鉄板貼外装のオフィスビルが鎮座している。大阪ガスの営業所となっているこのビル、地元の人は「ガスビル」と言い習わしている。おおらかなコーナーのカーブ、これ又たおやかなアールのついた正面玄関など見ていると、玄人には「これは只者じゃないぞ」というシグナルが伝わってくる。

 このビル、かつては、「神戸瓦斯株式会社」の本社が置かれていた。若い人には想像するのが難しいと思うが、昭和20年に大阪瓦斯に統合されるまで、阪神間のガス供給を担ったのが神戸瓦斯なのである。

 玄関脇の定礎には、「皇紀二五九七年」と刻まれている。警備の小父さんに会釈してトイレを拝借がてらエレベーターホールへ入ると、市松パターンの床タイル、アールデ
コの意匠が浮き彫りされたアルミ製のエレベーター扉、トラバーチン貼の螺旋状の階段など、一営業所に使っておくにはもったいないほどの雰囲気である。

 さて、小父さんに謝意を伝えて、西日の本通に戻ると、ガスビルのはす向かいに、かなり年季の入ったH工務店施工のマンションがある。これがまたやたけたなスケールである。

 これだけまとまった敷地は、バブルの頃なら地上げの成果だが、このマンションが分譲された1970年代半ばには、そこまで阿漕なやり方は幅を利かせていなかった。ということは、マンションが建つ以前は、この敷地には大きな施設があった可能性が非常に高いということになる。

 ここに何があったのか。

 ある土曜日の午後、私はいつものように大倉山の新館2階にいた。このフロアーは、郷土資料専用で、「近代建築画譜」などなど、見る者が見れば垂涎もののマニアックな資料が揃っている。

 私は地図コーナーで、戦前の都市地図を修正した大型本を眺めていた。もちろん、昭和初期の神戸の部を。新開地のあたりに目をやったときに、私は、「神戸瓦斯株式会社」の敷地の、本通を挟んだ西側に、「神戸市電気局」とクレジットされているのを見つけた。

 「瓦斯」と「電気」。新開地の外れで、二大ライフラインの揃い踏み、私は「もう一つの新開地の持つ顔」を見つけた気がした。

(この項続く)


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写真1「建設中の相生座」(出典:写真集「神戸100年」) 写真2「聚楽館(初代)」(設楽建築工務所設計、大正2年竣工) 写真3 現在のガスビル
 

 

連載【まちのものがたり34】

坂のオムニバス2
守り坂

中川 紺


「いっそ辞めるか」

 マキコは呟いて小石を足先で軽く蹴飛ばした。上り坂になっているために、石は大して飛ばず、音に驚いた野良猫が慌てて溝に逃げ込むのが見えた。

 神社に隣接するその坂の両側には、二十以上のシャッターが並んでいてそれぞれにナンバーがつけられていた。月極のガレージ、あるいは倉庫らしいが、マキコはそこがひとつでも開いているところを目撃したことが無かった。下校途中の小学生のおしゃべりを聞きかじったところでは、ここは彼らの間でも「開かずのシャッター」と呼ばれているらしく、中にはお化けがいるだの、神社の守り神がいるだの、とにかく何か得体の知れないものが隠れていることになっていた。

 時々何かを唱えてこの坂を上る子どもを見かけることがあった。願いごとをしながら坂を上り切るとそれが叶うといった遊びでも流行っているのだろうな、と勝手に想像した。

 帰り道になる坂をゆっくりとマキコは上っていく。昨晩、結婚まで考えていた恋人の二股が発覚した。今日は会社で朝から失敗続き。三つ下の後輩から「先輩、この仕事向いてないんじゃないですかぁ」とバカにしたように言われた。好きで選んだはずの仕事なのに、そう言われると途端に自信が喪失した。

 坂の中腹で大きなため息をつくと、目眩に似た感覚が襲った。

● ●

 正確には目眩ではなかった。目の前の光景が歪んだ。道がまるで生き物のようにうねり、マキコの目には大きな蛇が首をもたげたように映った。

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 まさか、地震? しかし足下が揺れる感覚はまったく無く、三回目の瞬きをする間に風景はいつもと変わらないものに戻っていた。奇妙な思いに包まれたまま、坂を戻るのもどうかと考えてそのまま歩みを進めた。もう道がうねる気配は無かった。

 ほどなく正面の神社に突き当たり、左に折れて自宅へ向かおうとしたマキコの目の前を小さな白いものが落下した。

 ひとつ、ふたつ、次々と、次々と。

「つめたい……」

 今年初めての、雪、だった。ゆっくりと空を見上げたマキコの脳裏に、もう七年以上戻っていない実家の秋田の様子がくっきりと浮かんで来た。どうしてもアパレルの仕事がしたくて十八で出た家だった。

「やっぱり辞められないよ」

 マキコは自分に告げた。それから……今年こそは秋田に帰ってみようかなあ。そんな気持ちになった。

● ●

 翌朝、通勤途中のマキコは開かずのシャッターが“開いている”のを目撃した。工具の倉庫として使っているらしい作業服を着た男性が坂の途中で黙々と何かを修理していた。

「それでも」

 次に続く言葉をマキコはのみ込んだ。

 ……それでも、ここには「守り神」が本当に住んでいる……。

 目が合った作業服男に小さく会釈をすると、不思議な顔で首をかしげる男の横をすり抜けてマキコは駅に向かった。   (完)

(イラスト やまもとかずよ)




阪神白地まちづくり支援ネットワーク

 

●連絡会年間予定

年間テーマ/まちづくりの担い手の行くへ

日時/テーマ/担当
48 2月3日(金) 賃貸住宅経営者のいろいろ(不老さん、千葉さん、その他) 石東直子
49 4月7日(金) 大学の都市計画研究室は今(大阪市大、大阪大、神戸大) 小林郁雄
50 6月2日(金) 行政まちづくり支援制度の変節点(兵庫県、神戸市、三木市) 後藤祐介
51 8月4日(金) 阪神間における元気NPO法人(CSこうべ、その他) 野崎隆一
52 10月6日(金) 若手ネットのレパートリー(メンバー全員) 松原永季
53 12月1日(金) まちづくりコンサルタントの行くへ(2) 中井 豊

※日時、内容が変更される場合があります、また、開催場所など詳細は
 事務局(GU計画研究所 078-435-6510)までご確認ください。

メールでの開催案内をご希望の方はgu11@dorf-f.bb4u.ne.jp まで。

●震災語り継ぎ関連の催しの記録

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1/15災害メモリアルKOBE 1/17みなとのもり公園植樹 1/19世界災害語り継ぎネットワーク会議
 


情報コーナー

 

●NPO神戸の絆2005被災地支援活動/新潟県十日町市・川口町
・日時:2月17日(金)14:35発〜19日(日)16:45着
・内容:神戸空港から新潟へ。長岡市・川口町の仮設住宅訪問、十日町市の雪祭り参加
・問合せ:078-391-3207神戸市民生協観光部

●美しい景観 神戸シンポジウム
・日時:2月20日(月)13:30〜16:30
・場所:神戸商工会議所神商ホール(神戸市中央区港島中町6丁目1)
・内容:美しい景観を創る会からの呼びかけ/伊藤滋(早大教授)、   基調講演「貴重な星 ─ ユニークな街」新宮晋(彫刻家)、パネルディスカッション「美しい景観創出と神戸の都市、地域づくり」

●第3回HYOGON・NPOコミュニケーション祭
・日時:2月26日(日)10:30〜16:45
・場所:神戸山手大学3号館2階
・問合せ:078-230-8511神戸まち研

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