きんもくせい50+36+35号 上三角目次へ

 

阪神大震災の教訓/安全な建物・危険な建物(前半)

京都大学防災研究所・巨大災害研究センター長 林 春男


 阪神大震災では多くの教訓を得ることができた。その中の重要なものの一つに、建物はしっかりと作れば壊れないことが分かったことがある。

 地震に対する建築物の耐久力の基準としては、まず建築基準法が1950年にできて、71年と81年の二回大きく改定されている。基準改定のたびに、すべての建物が一斉に建て替えられれば問題はないが、もちろんそんなことはなく、どの街にも、71年以前に建てられた建物、71年から81年の間に建てられた建物、81年の新耐震基準に合致して建てられた建物が混在している。その中で、81年以前に建てられた建物を「既存不適格」と呼ふ。この建物をどう改良して、耐震性を上げるかが、都市防災上の大きな課題になっている。

 意図的に耐震強度を偽装した姉歯事件とは違う性格の課題だが、「法定の安全基準を満たしていない」という点では問題の本質は同じだ。防災の観点から言えば、既存不適格の建物に住んでいる人も、耐震強度偽装の新築不適格建物に住んでいる人も、同じように危険なのである。

 余談だが、江戸時代は、地震で建物が潰れたら、その建物を建てた大工は、磔・獄門の刑だった。つまり非常に高いモラルを課していた。姉歯の事件は、日本の伝統である建物の安心感をくずした大変な事件であると言える。

 阪神大震災では、市内の建物が激しく壊れている様子がマスコミで多く流れたが、実は新耐震基準に合致している建物はほとんど壊れなかった。

 ではなぜ、6423人も死んだのか。その原因の85%は、個人の戸建て住宅の「層破壊」にある。逆に言えば、個人の戸建て住宅の一階部分が倒壊しなければ、犠牲者を減らすことができる。もっと言えば、一階に寝ていなければ、死者は半分になったはずである。

 被害の詳細を明らかにするために、死亡者数6423人を、5505+1000弱と考えるのがよいかもしれない。5505人は地震発生から24時間以内に亡くなった人の数で、これを直接死という。このうち85%が15分以内の即死というのが、監察医の報告であり、圧死と推測される。

 震災後の建て替えでは、一棟も層破壊を起こさなかったブレハプ住宅、つまり工業化住宅が急増した。街の風情がなくなったと嘆いている人もいるが、個人住宅でも耐震性、耐災性が考慮され、規格化されているならば、そこへ住もうとするのは防災の観点からすれば当然のことである。(この項つづく)

【この文は、『中央公論』2006年3月号特集●首都圏大地震に「防災マップが教えてくれる本当に危険な地域と建物」として発表されたものの一部を、筆者の了解を得て抄録したものである】


 

連載【くらし・すまい塾6】

くらし・すまい塾 第4回記録
若者がすなるルームシェアを中高年層もしてみんとす

神戸芸術工科大学大学院 橋本 大樹


 今回は「若者がしているルームシェアを中高年層もできないものか」というテーマで話し合った。現在わが国は全世帯の1/3が単身世帯になり、一方で空き家戸数が総住宅戸数の1割強にもなり、既存家屋の利用としてルームシェアをすすめない手はないと思われる。最近、都会ではシェア生活をする若者がでてきたが、その背景には、海外留学した学生が当地で体験して帰国後もシェア生活を始めたり、若者の日常を描いた海外ドラマでシェア生活が出てくるような映画等の流行がルームシェアの後押しをしているようだ。しかし中高年層の事例がなかなか出てこない。欧米では若者に限定されず中年層の単身男女に住宅やフラットがシェア居住に使われている事例は少なくない。中高年層がルームシェアをするにはどのような条件整備が必要なのか、またシェア居住のメリットは何か、さらにルームシェアの定義などについて議論した。

■シェア居住の定義

 複数人でひとつの場所に共同で住むことを「○○シェア」または「シェアリング○○」と呼び、○○はその場所の形態に応じて厳密には「ハウスシェア」「フラットシェア」「ルームシェア」「ドミトリーシェア」と呼ばれるが、ルームシェアが全てを含めた意味で知名度があるようだが、和製英語で研究社新英和・和英中辞典には載っていない。

 シェア居住の定義については、さまざまな意見が出た。各部屋にトイレ、バスやキッチンなどの水回り等の設備がなく、その建物の中の水回り等の設備を共用するのがシェアで、各部屋に水回り設備があるワンルームマンションとの違いはそこにある。食事を提供してくれる人がつくとドミトリーシェアになる。ドミトリーにシェアがつくのはおかしい。金銭的な事を均等にするとルームシェアにみえる。どのように住んでいても対等な関係で暮せばシェアではないか等々の意見が出た。

■シェア居住のメリットと居住ルール

 一般的なメリットとしては、経済的で、生活に安心感があり、一人の生活では得られないもの(空間的なもの、同居人からの刺激)を得ることができるなどが指摘されている。

 くらし・すまい塾のメンバーにもルームシェアをしている者がおり、彼女の話では、特にルールというものは作ってなくて、光熱水費を半分ずつ負担し、食事はほとんど一緒にしないと言う。大家さんにルームシェアをしたいと言うと了承されたが、友人が出て行くことになると私も経済的負担増などで出て行かざるを得ないと思う。

 最低限のルールを決める必要があるのではないか、生活レベルが同じでないと難しいのではないか、ルールはなくても気づいたらやるという方がいいのではないか等々の意見が出た。親切すぎて「よけいなお節介」になるとシェア居住がしにくくなるので、素敵な個人主義を育む必要がありそうである。

■シェア居住は中高年層にも受け入れられるか

 老若男女のシェアードハウスの事例として、東京世田谷の「松陰コモンズ」がある。築150年の民家で、26歳から63歳までの性別も年齢も職業も異なる7人が共に暮らす。7人はそれぞれ6畳から10畳の部屋を個人の空間として利用、台所、風呂、3つのトイレ、30畳の座敷などは共用する。「適度な距離感がいい」、「あいさつする相手がいる豊かさ」「多人数が暮す楽しさがある」と住民たちは言う。なお、松陰コモンズはNPOコレクティブハウジング社の賃貸事業で、所有者から母屋を一括借り上げし、入居者に個別転賃貸するサブリース事業である。

 もうひとつの事例は「都市再生機構のハウスシェアリング制度」で空き家対策として全国304団地15万戸を対象04年10月に開始された。現在のところ想定した単身高齢者同士の同居は少なく、申し込みは若年層に集中しているという。

 これらの先進事例について出された意見はかなり現実味を帯びていた。

 中高年層がシェア居住に魅力を感じるのは経済性よりも人とのふれあいの楽しさではないか。単身赴任者にシェアは向いていると思う。高齢者はシェア居住を終の住処として考えられるのか。終の住処としてとらえるとシェア居住ではなくコレクティブ居住の志向になるのではないか。最近、高齢者同士が一緒に住む事例はわが国でも少なくないが、若者と中高年層は生活の考え方が違うのでシェア居住は難しいと思う。特に中高年層は自分の生活スタイルを曲げない人が多いので、同年代の人たち同士でも難しいのではないか。友人同士で気の合う人としかシェア居住はできないと思っていたが老若男女でできそうだということが分かった。以上のようなさまざまな意見が出た。

■シェア居住の可能性

 まずシェア居住を普及していくには、シェア居住のサイトなども必要である。現在もあることはあるが、若者対象のものである。シェア居住の課題のひとつに複数人の住人のうち誰かが出ていくとその部屋の賃料をどう負担するのかという点があるので、NPOコレクティブ社のようなシェア居住を推進したり、サポートする組織やシステムが必要である。また、家具付の賃貸住宅が増えるとルームシェアなどはしやすくなり、広がりそうだ。経済的余裕のある人はシェア居住をしようとは思わないのではないかと思っていたが、シェアで住む面白さ、楽しさを求める人もいるようだ。高齢者がシェア居住を終の住処として考えられるような条件が整えば、むしろ孤住よりは安心居住なので受け入れられると思う。新しい住まい方への発想の転換も必要だと感じた。

 若者は次のライフスタイルの展開があり、一時的な住まい方として捉えるので、シェア居住はしやすいが、高齢者が終の住処として考えると難しいのではないかという考えが多いが、シェア居住のメリットやわが国の単独世帯の増加、少子高齢化、膨大な空き家数などの状況をみると、中高層にはまだ馴染みのない住まい方ではあるが、今後の住まい方のひとつとしてシェア居住をもっと推進していく必要があると思ったし、その可能性はあると思った。

 なお、欧米の多くの国は18歳を過ぎれば親元を離れて自活するのが当然だが、ひとりで住むためのアパートは大都市以外にはほとんど存在しない。日本のようにワンルーム形態の物件はないので、経済的理由から必然的にシェア居住が誕生し、他人と住む訓練がなされている。日本ではなぜワンルームマンションがポピュラーなの?
 でも地域からは歓迎されていない。。。。

参考資料/ (1)The Big ISSUE 05.10.15の「特集・シェアする人々」 (2) 男女7人古民家暮らし/松陰コモンズ (3) SAHS no.5 「特集・新しい住まい方/ハウスシェアリングってどうですか?」インタビュー記事 (4) 毎日新聞05.8.11.「都市再生機構のハウスシェアリング制度」の記事 (5) ルームシェアする生活/akky著/二見書房

画像35s01 画像35s02 画像35s03
参考資料C 参考資料A 参考資料@
 

 

連載【神戸のみどり4】

神戸のみどり・その4
『しあわせの村誕生異聞』(前半)

元神戸市建設局公園砂防部長 小森 正幹



1.村のはじまり

 今(2006年)から36年前、相楽園の大会議室でのことだった。昭和46年度の神戸市の予算査定のとき、老人医療の公費負担などが議論されたあとのブレークタイム、ほっとした空気が会議室に流れていた。

 「そうだなあ……、障害者だとか高齢者、つまり心身に何らかのハンディキャップを持った人たちが、そこへ行けばよけいな気を遣わず過ごせる、心が和む、そんな場所『しあわせの村』とでもいうのかなあ? そんなものを今すぐというわけではないが、ぜひ創りたい」故宮崎辰雄市長が財務課の担当者たちに呟くように言ったという。私はこの話をその当時財務課で、開村のとき上司だったある人から聞いた。おそらくこれが『しあわせの村』構想がスタートした始まりだと思う。

画像35s04
 
2.計画立案 ──構想から着工まで10年──

 そんな発想が語られたあと、昭和46年度から『しあわせの村』構想が着手された。当時故宮崎市長の構想がどのような理想をもとに出されたのか誰も分からなかった。とにかく基本構想(案)策定が当時の民政局から外部コンサルタントA設計に委託された。その構想の概要は昭和51年(1976)10月に公表された『新・神戸市総合基本計画(第2次神戸市マスタープラン)』によると、「老人・児童・身体障害者を中心に市民一般に開かれた施設であり、相談・指導施設・通所・短期滞在施設・教育・研究施設等を備えた福祉医療、教育の専門的な福祉サービスから、さらに文化・レクリェーション・コミニュティ活動が行われるしあわせの村を構想する。村は一般社会から隔離したものでなく、身近で、開かれた環境のもとの、中核的福祉地区であり、実験的福祉都市建設の核として位置づけられる」とある。

 ここに至って故宮崎市長の構想は具体性を帯びてくる。この構想の考え方はまさに「ノーマライゼーション」の実現にあった。ともすると世の中から隔離・分断されてきた福祉施設を、本来のあるべき姿に復活させる考え方だ。「ノーマライゼーション」はデンマークで最初に提唱された。その意味は高齢者や障害者を隔離・分断するような社会はアブノーマルであり、高齢者も若者も、障害者も健常者も、すべて人間としてノーマル(普通)な生活を送るため、ともに暮らし、ともに生きることのできる社会こそ、ノーマルだ、という考え方だ。現在ではかなり社会に浸透しているが、当時はまだそんなに知られていなかった。

 そして、昭和52年(1977), 『しあわせの村』計画地は現在地に決定した。決定要因はまず、(1)谷部の棚田の民地を除いて大部分が市有林であり用地の確保が進めやすいこと、(2)神戸市のほぼ中央にあることだった。神戸市域は正方形に近い。地図を広げると、『しあわせの村』は確かに市域の“へそ”にある。このことはこの施設が神戸市の総合福祉ゾーンとして全市民の中心施設であることを象徴している。

 当時、長田箕谷線沿いには墓園、拘置所、特別老人ホーム、軽費老人ホーム、消防学校、ひよどり住宅があるだけで、道路から西は約1,000haに及ぶ広大な森林が続いていた。それは今も村西側に広がっている。そして私たちは計画立案と用地買収の調査のため、白川村から濃いみどりと木漏れ日と清らかな水が岩に踊る白川沿いに村予定地に入っていった。民地は谷沿いの棚田だ。小さな田に稲が実り始めていた。所どころに小さな池があった。池の周りの木立が涼しげに水面に影を揺らしている。棚田の畦で食べた弁当の味が忘れられない。

 昭和54年(1979)、基本構想をもとにした基本計画(案)の策定がBコンサルタントに委託され、翌年(昭和55年(1980))「しあわせの村研究会」が設置され、基本計画(案)について福祉、医療、教育、建築、土木など各方面からの意見を聴取し、基本計画(案)のオーソライズを進めた。全体面積約205ha、全体事業費約520億円の基本計画(案)が固まるにつれて、もともと大きな問題であった財源確保が急務となってきた。当時、福祉関係の国庫補助金は微々たるものだった。そこで前々から考えられていた社会福祉施設と都市公園の複合施設構想がにわかに現実味を帯び、同年(昭和55年(1980))、『しあわせの村』を社会福祉施設(民生ゾーン)と都市計画公園(広域公園)の2ゾーンに都市計画決定し、同時に環境アセスメントを環境アセスメント審査会に上程した。

3.建設 ──着工から開村まで8年──

 昭和56年(1981)、ポートピア ’81(神戸ポートピア博覧会)で賑わっていた年、『しあわせの村』は着工した。造成工事にかかりながら社会情勢や福祉施策の進展にともない、昭和56年(1981)〜58年(1983)にかけて都市計画研究所に委託することによって「しあわせの村施設総合研究会」が設置され、基本計画の施設内容や配置計画の再検討や施設の総合的な管理運営が模索され、神戸市の福祉の核となるにふさわしい新しい手法の開発をめざした。「ノーマライゼーション」の実現が前面に出た。そのため、基本計画の見直しが進められ、昭和62年(1987)、身障者のみならず、子どもからお年寄りまで誰でも快適に過ごせる健常者も楽しめる施設の目玉である「温泉健康センター懇談会」を設置し、伊香保温泉で実際にホテルを経営し、温泉の権威である(クワハウスの創始者)木暮金太夫氏を中心に整備内容と管理運営について意見を聞いた。昭和63年(1988)、村の統一的管理運営主体を(財)こうべ市民福祉振興協会が担うことになった。

 そして平成元年(1989)4月23日開村記念式典、同26日村は正式に開村した。実に構想から18年の歳月が過ぎていた。

4.新しい発想 ──制度の枠を超えて──

 『しあわせの村』の素晴らしさは既成の考え方に囚われず、新しいものを開拓していったことにあると思う。これはなかなかできない。どうしてもしがらみや制度の枠に囚われてしまう。『しあわせの村』はそれができた。故宮崎市長やその考え方を推進したふたりの故人(山下彰啓氏と加藤春樹氏)の業績は計り知れない。彼らは市民のためになるのであれば、国や市の制度にこだわらず柔軟に対応すべきだという考えですべてを進めた。当時、都市公園と社会福祉施設の複合施設など考えられないことだった。当初、都市公園整備を福祉施設と一体的に整備することを建設省(現在の国土交通省)に相談したとき、苦悩する担当官の顔を私は覚えている。しかし当時建設省も新しい都市公園のあり方を模索していた。「やってみよう」そう言った補佐の顔は輝いて見えた。少なくても都市公園ゾーンの国庫補助金とその関連事業の起債が容易になる……と。

 「でも、福祉ゾーンも計画決定することが条件です」彼は言った。そして『しあわせの村』は全国で初めて社会福祉施設を都市計画決定した施設となった。同じ意味でその当時補助対象でなかった温泉関連施設も建設省がちょうど推進しようとしていた「健康増進施設」の補助対象施設の拡大による「健康増進施設」のモデルとすることで交渉がまとまった。私たちは東京から神戸に帰る新幹線の車窓に缶ビールの空き缶を何個ならべたか覚えていない。

 それから何年かして福祉施設のみならず他省庁関連の他施設との複合施設補助は都市公園国庫補助の正式なメニューとなった。

5.温泉と夕焼け

 『しあわせの村』は隠れた夕焼けの名所だ。北ゲートに近い丘の上に造成工事を担当していた神戸市整備公社の現地事務所があった。今は禁止されているが、仕事が終わったあと、私たちは疲れた身体を癒すため、みんなで食材を持ち寄ってバーベキューをした。夕焼けは遠く森林や空を真っ赤にしていた。ビールが腹に滲みる。みんなの顔も夕焼けに染まって赤い。笑いが溢れる。

 「ノーマライゼーションってさ、一般市民もこなくちゃなあ?」、「ああそうや。何かいいアイデアないか?」、「今の計画だと目玉がないぞ」、「客寄せパンダがほしい」誰かが酔って舌の廻らない感じで言った。「俺、温泉に入って、冷たいビールが飲みたいんや」、「それや! 温泉を掘ってみようや。一般市民だけでなく誰でも喜んでもらえるしなあ」。現在はクワハウスとかスパとか大衆風呂とか○○温泉とか人気が高いが、その当時はまだそれほどでもなく、民間の施設も少なかった。

 早速、調査が始まった。「総合福祉ゾーン(しあわせの村)建設事業<造成工事の記録1>よると、まず温泉工学研究所の調査で村区域の西中央下の堂防調整池附近が有望と出たので、兵庫県温泉審議会に「温泉掘さく許可申請」を出した。しかし工事工程や地形上二次揚水が必須であったため断念。別のコンサルタントに地表地質調査と弾性波調査を依頼した。その結果、温泉が湧出する可能性の高い、花崗岩と神戸層群の境目で比較的深度が浅い(約400m)2ヶ所が候補になった。そして土地利用計画等を勘案して、現在の神戸リハビリテーション病院の東にある駐車場の山裾をボーリングすることとなった。

 このボーリング結果に基づいて本掘削を行いようやく温泉を掘り当てた。しかしこの掘削はあくまで井戸の掘削であったため手続き上問題が生じたが、最終的には温泉として認定された。泉質等は以下のとおりだった。この温泉を掘り当てたことにより健常者誘致施設、すなわち温泉と健康を結びつけた健康運動施設「温泉健康センター」の計画は一気に進んだ。

 不謹慎かもしれないが、夕焼けを眺めながら飲んだビールが肩から力を抜き、柔軟な心が素晴らしいアイデアを生んだように思う。昨今、このような息抜きがすべてだめだという風潮だが、節操のある催しは時として有意義な場合が多い気がする。(この項つづく)

※「しあわせの村」の温泉概要
●泉質 単純弱放射能冷鉱泉(単純ラドン泉)
●泉温 18.3℃
●湧出量 235L/MIN
●効能
 (1)浴用…1)神経痛 2)筋肉痛 3)関節痛 4)五十肩 5)運動麻痺 6)痛風ほか15項目
 (2)飲用…1)痛風 2)慢性消火器病 3)慢性胆嚢炎 4)胆石症 5)神経痛 6)筋肉痛 7)関節痛


 

連載【まちのものがたり35】

坂のオムニバス3
ひび割れ

中川 紺


 北野坂にさしかかった所で急に無言になった。不思議に思い、どうしたの、と聞いた。

「坂が少し怖い」

 大の男が言う。四十過ぎて何言うてるん、と冗談めかして言うつもりが、男があまりに真剣な顔つきをしているので、何も言えなくなってしまった。

 坂を見下ろしながら、男が語ったのは次のような話だった。

● ●

 男がまだ小学生だった頃。自転車のブレーキをかけずに坂をどこまで下りれるか、というゲームが密かに流行っていた。少年たちは毎日のようにこの遊びに興じていた。見つけた親や近所の人が注意することもしばしばあったが、このスリリングなゲームをやめられる訳もなく、親や教師の目を盗んでは行われていた。大きな事故も起こっていなかった。

 男がいつも遊ぶ坂は、川沿いの公園にある遊歩道だった。公園は南北に細長く、そこに隣接して整備されている遊歩道は川上から川下に、ゆるやかに蛇行しながら続いていた。

 ある日、ゲームの最中に遊んでいた一人の少年が坂の下で転倒した。自転車が倒れた音を聞いて残りの子どもたちは慌てて駆けつけた。しかし、その子どもは姿を消していた。ライトが割れた自転車だけが残されていた。

 石畳には二十センチ程度の亀裂が走っており、小さな段差が出来ていた。どうやらそこに引っかかって転倒したらしかった。

画像35s05
 
 子どもの失踪事件ということになって、警察が動き出した。転倒した拍子にどこかに落ちたのではないかと辺り一帯が捜索されたが、何も見つからず、誘拐のセンでも捜査は進められた。男を含め子どもたちは何度も事情を聞かれ、「少年が消えた」ことを主張したが、その話を大人は信じようとしなかった。

 子どもたちの間で「あいつは坂に食われた」というウワサが広まり、ゲームは自然消滅していった。

● ●

 何の進展もないまま、一週間が経過した頃、消えた少年は突然家に帰ってきた。

 少年は「坂」と話をしていた、と言った。見えないけれど、坂の雰囲気を放つ、気配、みたいなものと話していたのだと説明した。しかもその時間は小一時間程度だと。

 大人は困惑し、医者は誘拐されていた恐怖感のせいで、こういった比喩が生まれたという説明をつけた。しかし、子どもたちの中には、その少年が本当に「坂」に会ったのだと信じ、どんな話をしたのかを聞きたがる子も多かった。だが少年は、会話の内容は言葉で説明できない、と言った。

 ほどなく少年は転校していった。周りの目を気にした家族が手続きをしたらしかった。

 坂のひび割れは、きれいに補修され、誰もがこの事件を忘れていった。

● ●

 「帰りもタクシーにすればよかった」と私はポツリと言った。坂に消えた少年は、本当は男のような気がしてしょうがない。

 少し先の、工事の跡の割れ目を見つめる男の瞳の中には、「消える恐怖」と「もう一度『坂』に会いに行きたいという気持ち」が錯綜していた。(完)

(イラスト やまもとかずよ)




阪神白地 まちづくり支援ネットワーク・第48回連絡会報告

 

 今回のテーマは、「関西における賃貸住宅経営の今」で、2月3日(金)、神戸勤労会館で行われました(写真下は会場受付の様子)。まず、コーディネータの石東直子さん(石東・都市環境研究室)からテーマ解説があった後に、次の四方から講演がありました。

(1)萩原恭一さん(JA兵庫六甲)「神戸地域郊外における賃貸住宅経営の状況」
 ・・・・JA兵庫六甲(旧神戸西農協)における昭和40年代後半からの賃貸住宅建設や管理の変遷、現在取り組んでいる賃貸住宅建設の考え方など

(2)不老嘉彦さん(有限会社 不老)「神戸市北区におけるコミュニティハウスの実践」
 ・・・・神戸市北区で建設した民間賃貸のコレクティブハウス「悠遊館」について−総戸数15戸(36〜46m²)で広い共用スペース、管理人常駐、など

(3)古田義弘さん(アトリエフルタ建築研究所)「阪神間で展開するペットと住める賃貸住宅」
 ・・・・住棟でペット可能ゾーンとそうでないゾーンを区別した賃貸住宅について、その他

(4)千葉桂司さん((株)URサポート都市再生業務本部)「大阪都心における賃貸住宅の展開」
 ・・・・人口減に悩む大阪都心を再生するため、都市再生機構としての主に船場での取り組み、その他

(中井都市研究室 中井 豊)


画像35s06 画像35s07
連絡会の様子、2006.2.3 於神戸勤労会館 会場受付の様子
 


情報コーナー

 

●第80回・水谷ゼミナール
・日時:3月3日(金)18:30〜21:00
・場所:こうべまちづくり会館6階会議室
・会費:1,000円
・内容:テーマ/「六甲道の再開発を振り返って」、報告/(1)「なぜ六甲道駅南地区再開発事業は10年間で完成したか」有光友興(当時・環境開発研究所)(2)「都市計画決定からまちづくり提案まで」倉橋正己(当時・神戸市六甲道駅南再開発事務所長)、(3)「施工後から始まった新しいコミュニティの運営・管理」安元美帆子(コー・プラン)、進行/小林郁雄(非認証NPOきんもくせい)
・問合せ:GU計画研究所(TEL.078-435-6510)

●ワシントン大学と神戸大学による都市空間デザイン・シャレット・ワークショップ
・日時:3月20日(月)〜24日(金)
・場所:神戸大学・神戸フィールドスタジオ
・内容:神戸市長田区の3地区(高取山地区、御蔵地区、真陽地区)を対象に、神戸大学とワシントン大学の大学院生や若手研究者が、地域活性化のための都市空間デザインの提案を行い、広く公開する。

●多文化と共生社会を育むワークショップ〜Kick-off講演会・音楽会〜
・日時:3月31日(金)18:30〜20:30
・場所:(財)神戸学生センターホール(阪急六甲駅より山側へ徒歩2分)
・内容:第1部 ワークショップの結成と今後の活動/飛田一雄、小林郁雄、澤井宏二、藤井英映、第2部 講演/「アジアの中の人的交流のありかた〜日韓関係を中心に〜」小針進(静岡大学国際関係学部助教授)、第3部 音楽会〜日本の歌・韓国の歌〜
・参加費:600円(高校生以下300円)
・問合せ:多文化と共生社会を育むワークショップ代表 山地久美子(tabunkakyouseiws@yahoo.co.jp)

上三角目次へ



(C) by 阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク

阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク・ホームページへ
学芸出版社ホームページへ