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阪神大震災がもたらした変化(後半)

京都大学防災研究所・巨大災害研究センター長 林 春男


 それでは、直接死以外の1000人もの死者はどのようにして出たのか。長い間ライフラインが止まったり、避難所で病気になったりして亡くなったのだが、これを阪神大震災以降、「震災関連死」と名付けた。日本の防災史上初めて震災に関連して亡くなったと認めたわけである。“認めた”とは、世帯主は500万円、世帯主以外は250万円の災害弔慰金の受給資格を認めたということだ。阪神大震災の被害の甚大さと、震災後の社会の混乱の中で、震災関連死という新しいジャンルが生まれたのである。そして現在、その認定基準の曖昧さのために難しい問題に発展している。

 また、阪神大震災を境に、避難所に対する考え方が変わった。これまでの地震避難と言えば、関東大震災で多くの人が亡くなった延焼火災からの避難を意味し、延焼火災がこないような広域の空き地への避難をさしていた。つまり火災からの避難なので、基本的に短い時間の避難であり、多くの人が、何日も公共施設に泊まるような「収容避難」は考えられていなかった。火山の噴火での長期避難が唯一の経験だったが、それでも77年の有珠山で22日。86年の伊豆大島の避難で1万5000人を一カ月避難させたのか最大最長だった。

 それが阪神大震災では、最大で32万人が最長7ヵ月の避難を余儀なくされた。避難所は1000ヵ所にも上り、弁当代も何百億円にのぽった。避難民だけの30万人都市ができた。マルクスではないが、規模の変化は質の変化を生む。今までの災害では経験したことがないスケールの避難者対応を、どのようにマネージするかという新しい課題が出てきた。

 そのほか「心のケア」がクローズアップされたのも、今では被災地ではあたりまえの光景となった「ボランティア」が、社会的に認知されたのも阪神大震災がきっかけとなった。

 また、阪神大震災は、防災に対する大きな思想的変化ももたらした。

 日本では、防災というと、戦国時代以来、治山・治水を中心に、台風と集中豪雨を原因として起こる水害に対してのものだった。

 だから防災の思想は「復旧」だった。例えば堤防を考えると、切れたところだけを倍の高さに盛っても有効な対策とはならない。“元に戻すこと“がすべてだったのだ。

 では、地震の場合は。元に戻せばいいかと言えば、それは違う。例えば、木造住宅の密集地が壊れたとする。壊れたからと言って、次も同じように作れば問題解決にはならない。今は法律も許さない。もとに戻す「復旧」ではなくて、災害をきっかけとして新たに街を作るという「復興」が日指されることになった。これは大きな変化である。

【この文は、『中央公論』2006年3月号特集●首都圏大地震に「防災マップが教えてくれる本当に危険な地域と建物」として発表されたものの一部を、筆者の了解を得て抄録したものである】


 

連載【コンパクトシティ18】

『コンパクトシティ』を考える18
コンパクトシティ(COMPACT CITY)の3つの概念(3)

神戸コンパクトシティ研究会 中山 久憲


1.“compact”のもう一つの意味

 コンパクトシティの概念を考える3回目は、コンパクト(compact)の単語の意味からである。"compact"を英和辞典で引くと、形容詞で「質の密な、ぎっしり詰まった」という本来の「コンパクト」シティの概念の意味と、もう一つは名詞で、「契約、誓約」という意味が出てくる。今回は、この『契約、誓約』の意味から、コンパクトシティの概念を考えていきたい。

2.中世城壁都市=コンミューン(誓約)都市

 話をヨーロッパ中世時代に戻そう。ローマ帝国が東西に分裂し(395)、西ローマ帝国がゲルマン民族の大移動により滅んだ(476)。7世紀にはイスラム教徒であるサラセン人の西方進出で、かつてのローマ繁栄の経済を支えてきた地中海交易を奪われた。こうして、西ヨーロッパは地中海から封鎖され、貨幣経済は崩壊し、純然たる内陸国家、農業国家に変貌した。中世時代の始まりである。

 中世社会の特徴の第1は、民族移動したゲルマン諸部族が各地に王国を誕生させ、農業を中心とした土地を介した封建社会となった。第2は、ローマ帝国の国教となった(392)キリスト教が、各民族を改宗させ、教義が政治や社会に浸透・定着し、教会や修道院が村落の中心となった。第3は、封建領主である「戦う人」(貴族や世俗騎士)と、「祈る人」(聖職者)を支配者とし、「働く人」(農民・手工業者)を被支配者とする3つの階層からなる社会構造であった。第4は、異民族の来襲や戦争に備え、城壁を周囲に巡らし、その内外に集住する城砦都市が各地に展開した。

 中世社会の転換は、9世紀からの地球温暖化による農業生産増加、農業革命(三圃式農業)、農村の人口増加が起点となった。11世紀末からの十字軍の遠征などで、数世紀間閉ざされてきた地中海交易権を奪い返えすと、遠隔地交易が復活し、西ヨーロッパの経済が活発化した。遠隔地商業の発展で、各地の市場を渡り歩く冒険商人が増え、商品生産を専門とする手工業者が現れてきた。

 城砦によって安全が確約された都市では、定期的な市場が開催されるようになり、活動の活発化した商人たちは、城砦の外に商人定住区を形成した。封建制の下でも土地に拘束されない商人はどの階層に属さない「自由民」として、領主の干渉を避けることができた。商人居住区には、商品生産の手工業者や徒弟の移住も増え、商人と手工業者間にある種の自治的秩序ができ上がり、1つの階層として合体し、新たに「市民層」が誕生した。

 交易や商業活動が大きくなると、商工業者である市民層が都市の中核を形成し、経済活動を円滑にするための秩序・自治を強く求めるのが一つ流れとなった。新たな時代の流れを理解しない支配者の封建領主に対して、経済的な力を背景にして、市民層は『コンミューン(誓約)』を結び結束を強めた。実力で自治を勝ち取ろうとする市民層は領主と戦える軍事力を傭兵や市民層自身が身につけ、暴力的に戦う革命的運動へ発展した。

 暴力的な行動を起こした背景は、中世の法の性格である。キリスト教が精神支配した時代では、生活上での法や規律の考え方は、人為的に定める法ではなく、「法は神の正義のあらわれである」という自然法的な考え方であった。問題解決の審判者は、常に神であり、個人間では申し出による決闘、組織間では戦争による決着であった。

 ドイツ(神聖ローマ帝国)は、集権型の統治構造に至らず、多元化した封建領主に圧倒されていた国王は、都市の商工業者たちの利害と一致し、都市を味方につけようとして、商工業者たちの支持を約束し、援軍を送った。領主との戦いに勝利した都市には、国王から統一的な自由身分と自治権を保障する「コミューン特許状」が与えられ、国王に直属する「自治都市」に生まれ変わった。

 『誓約』により市民が命懸けで自治を獲得した都市は、相互ネットワークによって結ばれ、経済的繁栄を獲得した。都市の成長にあわせて、外には堅固な城壁が拡張され、中心には自治権の誇りとしての荘厳な市庁舎や高い鐘楼が建設された。

 これら中世城壁都市が、「コンパクト」シティのモデルといわれる所以である。

3.「社会契約」による近代民主主義の始まり

 生活の規範の隅々を神(キリスト教)が支配してきた中世も、14世紀のルネサンス、16世紀のルターに始まる宗教改革で変革が起こった。17世紀のニュートンによって完成した近代科学によって、人間は理性を働かせて努力すれば無限に進歩する楽観的進歩主義の思想が人々の世界観を変えた。17世紀が近代への転換期となった。

 つまり、中世の世界の一切の事象を支配していた全能の神は、「絶対的な力」によって天地創造をしたが、その衝撃とともに任務を終え、その後の世界は信仰によって左右されない自然法則に従って自動運動する思想(理神論)が広まった。人々は神が背後に退いたこの領域を「自然」と呼び、この自然こそ信仰を異にする人々が歩み寄ることができる共通の基盤であるとした。「自然的理性」によって接近可能な「自然科学」「自然法」などの観念が、新たな認識や社会秩序の基礎をなす「近代」の到来として17世紀の人々を捉えた。

 政治社会観にもその考え方は適用された。人間は自然状態では、自由・平等であり、欲求を追求し、嫌悪を逃れながら自己保存のために行動する自然権を持つ。しかし、本能むき出しの自然状態では、利己心を増長させ、私有財産をめぐり「万人に対する万人の戦争」状態に転落する可能性がある。このため、人々は理性の教えるところにより、各人は自然権を公平に確保するために、各人の『契約』によって、政治社会を形成し、その執行権を主権者に信託する。すなわち、人々が自らの権利を起点として、自分たちの「社会契約」によって、新しい政治社会=国家を作るべきであるとする「社会契約説」が展開された。それは、それまでの「王権神授説」による絶対主義王政をうち破る理念となった。イギリスでは、ピューリタン革命期のホッブスの「リヴァイアサン(神を除き地上で最強のもの=政治共同体)」による国家絶対主義、名誉革命期のロックによる議会主権による立憲君主論であった。そしてフランスのアンシャン・レジーム期には、ルソーの説く国家の形成のため、人民こそ主権者として、その「社会契約」による人民主権論と法の支配が、近代民主主義の2大原理となった。米国独立革命やフランス革命による国家原理の聖典ともなった。

4.市民・コミュニティ「契約」都市の時代へ

 近代に入ると、近代科学の応用による産業革命、国家の形態は国民国家(nation state)が、新たに展開した。19世紀から20世紀は国家主導型中央集権構造の「工業社会」を謳歌した。しかし、地球環境問題による成長型構造は終焉を迎え、21世紀は地域主権、ネットワーク型の「持続可能な社会」をめざすことが課題となった。

 その主役は、市民であり、かつコミュニティである。それぞれが多様な価値観を持ち、互いに尊重しながら、多元化した社会を構築する。さもなくば、ナショナリズムの後退による新たな自然状態下で、様々な衝突・紛争が勃発することになる。

 必要となるのが、市民−コミュニティ−都市(自治体)の新しい意味での『社会契約』を考えたい。つまり、地方に中央から権限が委譲され、法の枠内で市民と都市自らが制定する米国型の『都市憲章』に基づき行政の運営を行う。市民は個人の価値を共有するコミュニティ活動に『誓約』して直接参加する。様々なコミュニティは都市と『契約』をして、行政の事務の一部を受託し、執行する。それにより、都市行政は小さな政府を目指す。市民は選挙で選んだ議会を通じて間接的に、また、住民投票等により直接的に、信託した行政事務をチェックする。

 3回にわたった「コンパクトシティの概念」をまとめると、『地方が権限を持ち、生活の質を維持するために必要なものが適度に詰まった地域の中で、市民や多様なコミュニティが、社会契約によって自主的な活動が活発に行われる自治都市』といえよう。


 

連載【震災10年 ひと・まち・くらし模様4】

2度目の春待つ中越の人々

ひょうご・まち・くらし研究所 山口 一史


 まもなく、新潟県中越地震から1年半を迎える。被災者と被災地は1日も早い雪解けを待ち、「この春こそは」と心に期すものが大きいように見受けられる。しかし、被害の大きかった山間部はまだ道路の復旧すら終わっていないところも多く、時計の針が止まったままの状況が続いている。

■どうなるコミュニティ

 新潟県長岡市と小千谷市を訪れた前日の3月13、14日は大荒れの天候となり3月には珍しく大雪が降り続いた。30〜60センチぐらいの雪が新たに積もったと報道されていた。

 タクシーの運転員も調査で会う人もみんな口をそろえたかのように「昨日は大変だった。気の早い人が車のタイヤをスタッドレスから普通タイヤに換えた人が困っていた」という。普通タイヤ車の車が橋の欄干にぶつかったり、歩道に乗り上げたりと、さすがの雪国も「春の雪」に大騒ぎだったようだ。

 いたるところ道路わきに新雪、旧雪が入り混じって積み上げてあり、視界をさえぎる壁になっているのは雪国共通の風景だ。

 そうした雪の壁に埋もれたように仮設住宅が建っている。仮設住宅はなぜか淡いクリーム色やベージュ色が多い。雪の中に入ると“保護色”となって、周りの景色と見分けがつかないぐらいだ。その上、屋根高が低いので文字通り隠れてしまっている。

 小千谷市でそうした仮設住宅の集会室をいくつか見せてもらってきた。

 ある集会室には、大きく立派な羽子板が飾ってあった。押絵の絵柄はあでやかな娘道成寺と、地元の特産・養鯉業にちなんで大きな鯉がはねている羽子板が対になって飾ってある。どこかの企業の社長がこれを土産に訪問してくれたということだ。

 折りたたみ式の長テーブルがあって、多いところで20人、少ない集会所で5人ぐらいが、お茶を前に座談に興じている。どこの集会所でもお菓子が皿や小鉢に盛ってあり、たくあんや野沢菜漬が小皿に入っている。これらの“お茶うけ”は小千谷市社会福祉協議会からの差し入れという。お菓子や漬物をつまみ、お茶を飲みながらおしゃべりに興じる。

 シルバー人材センターから派遣の女性がお茶を沸かしたり、部屋をしょっちゅう片づけたりして清潔に保っている。

 最近の中心的話題はやはり復興住宅のこと。複数箇所に建設が決まっているのでどこを選ぶか、条件はどうか、家賃はいくらかが気懸かりだ。60歳代の男性が「神戸では復興住宅の家賃はどうなったか」と尋ねた。収入と家族構成によってはじかれたが、一番安いケースは6千円ぐらいだった、と答えると、大いに関心を示して「小千谷もそうなるのか」と重ねての質問。社協の職員が「小千谷では1万6千円ぐらいかな」と話を引き取る。「うむー」と、その男性は納得がいかない様子だ。

 中越では阪神大震災被災地の経験を生かして、仮設住宅は抽選でばらばらに入居するのではなく、基本的に集落単位でまとまって暮らせるようになっている。だから、同じ仮設住宅の人はみんな顔見知りだし、地震前の近隣関係が大きく変わらないように図られている。生活相談員の女性は「そのことがいい影響を見せて仮設住宅で大きなトラブルはない」という。

 復興住宅になると、復興感を強く求める人は、早く復興住宅に移り住みたいと願うだろうし、そのための行動を実際に行う。

 ある仮設住宅で60代の女性が「おれはもう申し込んだよ」とけろりと言って、話し相手を驚かせていた。復興住宅を巡って判断のできた人が早く申し込む。人気のない団地もあって無抽選で入居できそうなところもあって、結果として折角守ってきたコミュニティがばらばら申し込みによって崩れる心配が出ている。

■雪消えは例年より10日も遅い

 小千谷市社協の人に山間部を案内してもらった。積雪がすごい。人影は少ない。「ここから向こうは道路がまだ崩落したままなので行けない」という場所がずい分あった。山間部から平場に避難し、仮設住宅などにはいっている人たちは、雪解けを首を長くして待っている。

 去年の春もそうだったが、今年はその思いがいっそう強いのだろう。自宅の補修は可能なのか、この大雪によって大きなダメージを受けていないか、地盤がさらに動いていないか─など不安の種も多い。もう山には帰られないと覚悟を決めた人もいる半面、やっぱり山でくらしが一番と、春の訪れを楽しみにしている人もいる。

 春を待ちきれず、長岡市の旧山古志村の640世帯のうち、63世帯が仮設住宅から元の山に戻り、この冬場を過ごしていると長岡市役所では言う。

 話を戻して、小千谷市の東山地区の一角に、木造のきれいな小学校があった。小千谷市立東山小学校=写真=だ。工事業者が入って内装の手入れをしていた。春からこの学校も再開する予定で仕上げの作業中という。

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小千谷市立東山小学校
 
 地域の小学校が統合し、東山小として発足したのが2002年4月、2004年10月の地震で校舎も壊れた。ホームページによると全校児童は51人、いまは平場の仮校舎で勉強しているが、まもなくこの山間の校庭に歓声が聞かれるのだ。

 それもこれも雪解け如何に左右される。

 新潟地方気象台は3月10日に「今春の雪消えの見通し(第2報)」を発表した。

 それによると、中越地方の山間部の雪消えは例年よりも5〜10日ほど遅いという。一日でも早く、と願っている身からすれば情けない気持ちになるだろう。その後の降雪によって、もっと遅れるかもしれないのだ。

 山間部からの帰途、ところどころでヘルメットをかぶった人たちが測量しているのを何件も目にした。雪解けを待ちきれず、晴れ間を利用して準備を進めておこうということなのだろう。

■高い求人倍率

 作業する人を見ながら、地震後の雇用について考えた。阪神の復興で一番、進捗が遅れたのが経済復興と雇用の確保だったからだ。

 新潟県で新潟市に次ぐ人口の多い長岡市を中心とするエリアを所管するハローワーク長岡(職安)で聞くと、最新データである今年1月の有効求人倍率はなんと1.44倍の高い水準とあって驚いた。ちなみに兵庫県内の有効求人倍率は昨年3月から、ようやく0.8倍に乗って、この1月は0.89倍なのだから、ずい分水準は高いわけだ。

 これは「公共工事など復興関連が後押ししているもの事実」とハローワーク長岡では話してくれた。だが求人の3割は工作機械、一般機械、自動車関連などの製造業からというから、必ずしも復興関連ばかりではなさそうだ。

 大雪続きで、しかも例年と違って12月から積雪が多く、復旧工事も早くから中断している。しかし、それが理由と思われる解雇は少なく、雇用保険の失業給付の受給者は昨年1月に比べて26%も減っている。

 雪で仕事ができなくとも、仕事の量がしっかりとあることが分かっている、雪が消えればすぐに忙しくなる、いま労働者を手放すと、他の産業が人をほしがっているので、そちらに移ってしまう心配がある、などの背景から、離職者が少ないのだろう。

 ここでも春を待つ空気が感じられた。

 もう一点。ハローワーク長岡によると、地震の被災者の就業希望の状況は以下のようになっているという。(2月28日現在)

 求職者は517人いたが、うち387人が就職した。(さらにそのうち130人はハローワークの紹介によっての就職)求職の申し込みをしたものの、自分から取り消したのが130人あって、就職できた387人に130人を加えると、最初の求職者517人となり、今現在有効求職者はゼロという結果となる。

 これは求職の仕組みの問題があって、求職申し込みをして3か月たつと、もう一度申し込まないといけないことになっている。就職先が決まらなくとも、これを放置していると、求職申し込み自体が消えてしまうのだ。

 ただ、自分の家が雪の中にあって、一体どうなるか分からないという状況では、気持ちが落ち着かず、仕事探しどころではない、というのも本音かもしれない。

 その意味からも、雪が消えて、次へのステップに本当に乗り出せることが大切だ。被災者はもちろん、中越地域のすべての市民が、それを待っているのだろう。


 

連載【きんもくせい日記003】

六甲アイランド基金と多文化ワークショップ

非認証NPOきんもくせい 小林 郁雄


 公益信託神戸まちづくり六甲アイランド基金は、神戸市における国際的かつ文化的なコミュニティづくりに資する事業や活動を助成するために、1996年7月、震災のため予定より1年遅れてスタートした。約8億円の基金は、六甲アイランドの開発(RIC)にたずさわってきた積水ハウスと立地企業として地域のことを大切にするP&G社の共同委託(受託:住友信託銀行)によるものである。

 その目的ははっきりしたもので、RIC開発において特徴的な街の性格の維持運営への支援である。すなわち、かなり大きなシェアを占める外国人居住者への便宜提供と交流のための「国際コミュニティづくり事業」と、私有地ではあるが公開公共利用されるスペース整備の「都市環境づくり事業」、および、それらに関する「広報,調査,研究活動事業」への助成である。

 できあがった街へ、デベロッパーや立地企業がその街の営み、活動に対して継続的に支援するという、日本では希有な基金である。

 私は、当初から基金運営委員の一員として新野幸次郎委員長を支え、助成審査に参加してきた。この10年間で延べ235件、2億413万円が助成された。もちろん、RIC内の活動が多くを占めるが、東灘区を主に、広く神戸市内の諸活動にも対応している。

 今後は、この10年の経験を活かしより広範で柔軟な運用を図り、国際コミュニティ育成から多文化共生社会活動へ、文化的都市環境維持からその空間を活用した市民社会・NPO支援へと、より高次で、神戸の街との連帯を含めた市民活動活性化に取り組んで行くことをめざしたい。

 その先駆けともいうべき申請が2006年度事業で登場した。私も参加しているが「多文化と共生社会を育むワークショップ(山地久美子代表)」という、国際交流ではなく多方面の文化と共生コミュニティへの取り組みである。

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連載【まちのものがたり36】

坂のオムニバス4

中川 紺


 ちゃりん、と音がした。しまった、またやった。地面に落ちたコインはそのまま坂を転がり、脇の空き地に突っ込んでいった。私はどうもおつりの小銭を財布に入れるのがヘタクソだ。やれやれ、と思い雑草が生い茂る中に足を入れる。一円か十円なら諦めてもよかったが、落としたのは五百円玉だったのだ。

 ほどなく私の貴重な生活費は見つかり、今度はしっかりと財布に納めた。そばに置いたトートバッグを持ち上げると、大人の爪ほどの大きさの葉っぱがいくつもくっついて、まるで模様のようになっていた。払い落とそうとした私の手は、すぐに止まった。

「つれてって、つれてって」

 どうやら葉っぱには意思が存在するようだ。一瞬躊躇したものの、別に迷惑になりそうでもないので、そのまま家に連れて帰ってしまった。途中で落ちるかと思ったら、意外としっかりとカバンにしがみついているみたいだった。

● ●

 次の日、同じ空き地の前を通ると、黄色いショベルカーが入り、何かの工事が始まっていた。なるほど、と思う。これを予見して私のところにくっついてきたらしい。あるいは五百円玉を落としたことにも何か関係しているのかもしれない。植物とはいえあなどれない。動かないだけにいろいろな力を秘めている気がする。

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 葉っぱたちは私のトートバッグに居座り続けた。少しいびつなハートの形をしていて、まるで元からあった飾りボタンのようにも見えた。何ヶ月もの間、葉はカバンに根を下ろしたかのように、暮らし続けていた。

「みずちょうだい、みずちょうだい」

 乾燥した日が続くと、時々こんな意思を発してくる。空気中の水蒸気だけでは足りないらしい。私は水の入った小皿をカバンの近くに置いてやる。じっと見ていても変化はないが、ふと目を離したすきに、見事に平らげていた。

 もうすっかり葉っぱとの生活に慣れてしまった頃、彼ら(あるいは彼女ら)はこつ然と姿を消した。朝出かけるときには確かにいたのだが、帰り道のどこで消えたのか(あるいは落ちたのか)は定かではない。送別会で飲み過ぎたせいで、記憶があやふやなのだ。目覚めたら、単なる白いカバンに戻っていた。

● ●

 春になって、あの空き地はクリーム色の小さな三つの家に変わっていた。一番左の家のガレージには白い車が止まり、もう誰かが引っ越して来たようた。ヨーロッパ風の門灯、家と道の境には低いレンガの塀があった。どれも似たようなデザインの三つ子の家だ。

 その塀の足下のわずかな隙間が、ほんの少し緑色になっていることに気がついた。よくよく見れば、それはまだ米粒ほどの大きさの葉っぱで、隙間に沿っていくつも顔を出していた。小さくても確かにハートの形をしていて、あのときの葉っぱと同じ種類だとすぐに気がついた。前よりはずいぶん窮屈になったようだけれど、やっぱりここが好きらしい。

「引っ越しおめでとう」

 私はつぶやいた。もう彼らの声は聞こえなかったけれど。(完)

(イラスト やまもとかずよ)




第80回・水谷ゼミナール報告

 

日時: 3月3日(金) 会場:こうべまちづくりセンター
テーマ: 「六甲道の再開発を振り返って」

 阪神・淡路大震災から約10年を経て、昨年秋に完了した六甲道駅南地区第二種市街地再開発事業を、今回、一区切りとして振り返ってみようという企画。小林郁雄さん(非認証NPOきんもくせい)のテーマ解説の後、異なる時期・立場で関わった次の3名から報告がありました。

●「なぜ六甲道駅南地区再開発事業は10年間で完成したか」/有光友興(当時:環境開発研究所)

●「都市計画決定からまちづくり提案まで」/倉橋正己(当時:神戸市六甲道駅南再開発事務所長)

●「施工後からはじまった新しいコミュニティの運営、管理」/安元美帆子(コー・プラン)

 コンサルタントとして六甲道南に深く関わった有光さんは、10年間で完成した要因と、住民の合意形成過程、地区全体のまちづくりの基本方針を策定する「基本計画会議」等について述べられました。再開発事務所の初代所長である倉橋さんは、再開発前半の、住民の意見を反映しながら事業に取組んだプロセスを、行政の立場として報告されました。私・安元からは、再開発地区中央に完成した公園の管理団体の活動と、その公園で開催したまちびらき行事について、ご報告いたしました。

※有光さん、倉橋さんはじめ、六甲道駅南地区の再開発に尽力された専門家によるレポートがまとめられ、今年1月に発行されました。「建築と社会」2006年1月号/(社)日本建築協会 1,200円
※六甲道についてきんもくせい紙上での有光さんによる報告は13、27、47号を参照ください。

(コー・プラン 安元美帆子)


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完成した六甲道駅南地区再開発事業とまちびらきのイベントの様子(05.9.17)
 


情報コーナー


●阪神白地市民まちづくり支援ネットワーク・第49回連絡会
・日時:4月7日(金)18:30〜20:50
・場所:神戸市勤労会館406号室(神戸市中央区雲井通5-1-2、TEL.078-232-1881、三宮駅より東へ徒歩3分)
・ 内容:テーマ「大学の都市計画研究室は今」、パネラー:(1)「大阪市立大学工学部環境工学科」/嘉名光市(大阪市立大学大学院工学研究科都市計画専攻)、(2)「神戸大学工学部建設学科(建築系)」/三輪康一(神戸大学大学院自然科学研究科建設学専攻)、(3)「大阪大学工学部環境・エネルギー工学科」/澤木昌典(大阪大学大学院工学研究科環境・エネルギー工学専攻)、コーディネータ:小林郁雄(非認証NPOきんもくせい)
・会費:500円
・問合せ:GU計画研究所(TEL.078-435-6510)

●六甲道駅北地区まちびらき《いま甦る郷 そして未来へ》
・日時:4月2日(日)10:30〜15:00
・場所:六甲道駅北公園(神戸市灘区六甲町1、2丁目)
・内容:まちびらき式典、モニュメント除幕、公園愛称発表、屋台、みんなでつくろう・ゲーム、その他
・問合せ:コー・プラン(細野、TEL.078-842-2311)

●新潟県中越大震災から1年半 復興支援シンポジウム
・日時:4月22日(土)13:00〜18:00
・場所:長岡造形大学
・内容:行政からの報告(小千谷市、長岡市、川口町)、支援組織からの報告(中越復興市民会議、日本都市計画家協会中越プラニングエイト、山古志村再生計画作業部会、芒種庵を作る会、中越ひまわり基金公設事務所、阪神・淡路まちづくり支援機構、震災復興まちづくり支援機構)、現地からの報告(小千谷市塩谷、旧小国町法末、旧山古志村三ケ地区)

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