きんもくせい50+36+38号 上三角目次へ

 

六甲山のふもとから見えること

時事通信社、日本地震学会普及行事委員長 中川和之

 2年前の8月7日、人と防災未来センターの5階にたくさんの子どもたちがいた。第5回地震火山こどもサマースクール 「Mt。Rokkoのナゾ」のオープニングである。六甲山が一望できる窓の前で、「この風景に何が見えるかな」と投げかけたところ、「山並みが崖っぽい」「標高が急に高くなっている」「海と山が並行」などという声が上がった。いずれも、断層の活動でずれ上がった六甲山の成り立ちを表すにふさわしい言葉であり、私たちが準備したプログラムが子どもたちの感性に届き、二日間が成功裏に終わることをここで確信した。

 阪神大震災をきっかけに、専門家の言葉が地元に届いていなかった反省から、地震と火山の学会が一緒に次世代を担う子どもたちに直接働きかけるサマースクールを1999年から始めた。「『六甲山は地震でできた山』なのに、地元にその意識がなかった事をくり返さないために」と、丹那断層や有珠山、伊豆大島、木津川断層、富士山、六甲山、霧島と、地震や火山の現場を舞台に開催。子どもたちと専門家が野外観察や実験を一緒に行いながら、対話を重ねてきた。

 そのポリシーの一つが「脅しの防災から、納得の防災へ」だ。防災教育や防災意識の啓発では、ほとんどが「災いがやってくるぞ」と脅すことから始まる。もちろん災害は怖い。でも、私は六甲山を嫌いにはなれない。子供の頃から、ボーイスカウトでハイキングやキャンプをしたし、ドライブも楽しく、夜景も最高だ。灘の宮水で美味しいお酒も飲める。

画像38s01 画像38s02
人と防災未来センター5階の窓から六甲山 参加した子どもにインタビュー(筆者)
 
 住宅におあつらえ向きの南向きの斜面を作ってくれているし、何より、常に緑の潤いを眼にすることができる。上京後は、新大阪に着く前の新幹線の車窓から六甲山が見えるだけでホッとした。4年前までの神戸勤務時代も、最初のうちは通勤の電車で北側のドアの前に立って毎日、ニマニマしていた。要は、地震の山と分かってどう付き合うかだ。

 ハードと行政、専門家に頼り切って、自然災害など知らなかったことにして忘れ去る。そのことの無謀さを教えてくれたのが阪神大震災だ。その地の一人一人が、毎日の暮らしの中で、自然とどうつきあうか。「ただ怖いだけ」の場所を愛しんで暮らすことは出来ない。地域を形づくる身近な自然が、日頃は豊かな恵みをもたらしつつ、ごくまれに災害を引き起こす。その地に親しみ、特性を知り、いま生きている自分だけでなく、これからもこの地に暮らし続ける人たちのために、専門家が分かっていることを子どもたちにダイレクトに伝え、自然災害の本質を理解する次世代を育てること。それが、私たちの願いだ。

 伝えることは、子どもたちの素朴な質問の「なぜ」、「どうして」をサイエンスで解き明かすセンスオブワンダーの世界だけではない。2年前には、コー・プランの小林さんと天川さんに手伝っていただき、子どもたちに対して、一時はげ山になった六甲を緑の山に戻したことや、外国人たちが六甲山の楽しみ方を教えてくれたことなど人の働きも伝えた。もちろん、震災からの復興の過程も。災害が間近なこの地以外でも、過去の災害からの復興に立ち向かった先祖たちがいる。その苦労と勇気を、少しでもいまに伝えることができれば、明日への備えの気持ちにつながるのではないか。

画像38s03 画像38s04
100均ショップ入手材料を駆使した振動実験 最後の記念写真(人と防災未来センター前)
 
 今年も8月12-13日には、大磯丘陵などを舞台に「湘南ひらつかプレートサイド物語(ストーリー)」としてこどもサマースクールを行う。彼らの言葉からどんな発見があるか、とても楽しみだ。各地の自然の風景の観察と共に、子どもたちとのやりとりを重ねてきて感じることは、災害列島日本に生きてきた私たちの感性の中に「災害文化」は元から根付いているのではないかということだ。日本人の自然哲学や宗教観にある災害観を、身近なところから再発見し、そこに新たな知見を付け加えることで、自然災害と上手に付き合う現代の災害文化を育むことが出来ないか。何かの専門性をバックグラウンドにしない私だからこその長期的な課題だと考えている。(了)


 

連載【くらし・すまい塾8】

くらし・すまい塾 第8回記録(2006年4月12日開催)
戦後・国レベルの住宅政策から
地域の課題を踏まえた神戸のまちづくりへ(後編)

人と自然の博物館 藤本 真里

 前号の続き。質疑部分です。

●質問:市長の政治力

・原口氏(20年)、宮崎氏(20年)、笹山氏(12年)と続く歴代市長の意向というものは大きく影響している。原口市長は、阪神、四国、南九州を直結する南日本国道建設といった構想を出し、沿道市町に呼びかけていた。

●質問:計画の基礎となる統計調査

住宅統計調査の重要性
・国による住宅統計調査は悉皆調査である国勢調査についで、調査対象抽出率が高く、国が住宅政策を策定するための重要なデータとなっている。(なお、住宅統計調査は1948年から5年ごとに実施されてきたが、1998年に「住宅・土地統計調査」と改名された。98年調査は、95年の国勢調査区から全国平均で約1/5.5の調査区を抽出して実施された)。

地籍調査の重要性
・地籍調査は主に市町村が主体となって、一筆ごとの土地所有者、地番、地目を調査し、境界の位置と面積を測量するものである。土地に関する記録として広く利用されている登記所の地図はその半分ほどがいまだに明治時代の地租改正時につくられた地図をもとにしたものである。実際とは異なる場合もあるのが実態である。

・明治6年の地租改正で、年貢(米)といった物納が廃止され土地評価額の一定率の現金で納税するようになった。

・土地の広さが納税額に直結しており、できるだけ少なく申告する傾向があり、実際と整合しないことも多く、正しく計測し登記することもたいへんな作業となることが予想される。

・しかし、正確な面積、境界線等を把握することは、公共事業の測量作業の簡素化、位置情報・登記情報の統一により事業調整のスムーズ化、防災対策活用、災害時の迅速な復旧などに不可欠であり、現在も推進に力をいれている。

<今後の展開…国レベルの計画から地域の課題を見据えた計画づくりへ>

○国レベルの計画 ナンセンス

・全国総合開発計画(全総)は1962年池田内閣で第一次全総がスタートし、1998年の策定の5全総で終了している。この「5全総」は計画名が「21世紀の国土のグランドデザイン」で、開発中心であった第4次までの計画とは方向性が異なるものであったが、国レベルで計画することの限界を示している。開発志向の終焉、多様化する地域の課題、地方分権‥といった流れを象徴している。そんな中でも全総に替わる「国土形成計画」が平成17年(2005年)から策定がはじまった。この計画の意味がよくわからない。

・地域の課題に取り組むべき、同様の傾向が住宅政策についてもいえる。

・国の機関で、中央ではなく地方に優秀な人材を配置することなど重要ではないか。

○安心して住めるを目的とした住宅政策へ

・1985年コミュニティ公営住宅制度というものができているが、公営住宅法制定当初と何が違うのか、調べてみることは現在のありようをみる上で重要である。

 以上、勉強会の記録をもとに少し藤本が編集いたしました。勉強会の最後の方で小林さんが「1980年から10年間の国による応急処置的施策をもっと大局的にできていたらまちづくりは変わっていた」とおっしゃっていました。市街地整備事業手法のことなのか、神戸市が「環境」の時代を標榜する一方で国は開発志向であったことなのか、最低居住水準をクリアしようとした「住宅建設計画5カ年計画」のことなのか…詳しくはお聞きできませんでした。またの機会に伺いたいと思います。「環境」の時代の蓄積、神戸市職員とのパートナーシップ、神戸市のまちづくりスタンスの基礎となった「環境カルテ」…、長い時間をかけたシナリオを感じ、自分の仕事を振り返る機会となりました。


 

連載【コンパクトシティ19】

『コンパクトシティ』を考える
日本における持続可能な社会再構築への期待

神戸コンパクトシティ研究会 中山 久憲


1.「持続可能な社会」であった江戸時代

 江戸時代は徳川将軍家を大名同盟の盟主とする世界に類のない「幕藩国家」であった。徳川家が天皇からもらう『征夷大将軍』という職によって、盟主としての国家の統治権を確立し、『幕府』という政府を持った。しかし、日本中の人間からまんべんなく税金を取ったのではなく、徳川家が支配する地域から米にして4百万石と、直轄領(江戸、大坂、博多などの都市)の商業地からの運上金という税金が主な収入であった。徳川家の支配しない地域は、約270の藩に分かれて、藩が百姓からの租税(年貢)の全て取り、政治的自治を保った。ただ、藩は年貢だけで財政のやりくりができず、領国の気候風土に適した特産物を開発し、生産から市場、流通の全てを管理した。

 幕藩体制のもう一つの特徴は、『キリシタン禁止令』、『日本人の海外渡航禁止』、『海外貿易の制限』の一連の法令による、17世紀初頭から19世紀中頃まで2世紀以上の「国家の閉鎖(鎖国)」であった。国の通商相手をプロテスタント国オランダに、場所も長崎出島に限定し、カトリックを排除しつつ、西日本の大名の活発な貿易による多額な利益を禁止し、幕府が貿易による利益を独占し、幕府の地位を維持するためのものであった。

 2世紀以上鎖国できた背景には、国内での生産に必要となる鉄器や銅器の基礎的な物資を自給できたからであった。江戸時代の日本は世界三大砂鉄産出国で、安価で豊富な鉄の供給ができた。銅もオランダが日本で買い込むほど安価で良質であった。さらに、米・麦・魚などの食料、綿・絹・麻などの衣料原料、住のための木材の全てが、当時の人口3千万人の生活の自給自足を可能にした。要するに、貿易の必要がなかったのである。

 また、日本は物質循環のシステムが、都市、里山、農業、漁業間に形成されていた。例えば、夜なべの仕事のため鰯等の魚油が使われたが、残る干鰯は、漁民から農民に売られ、田に肥料として投入された。田んぼが豊かになると、小魚や虫が発生し、それを鳥が食べて、山に帰り、鳥の糞で里山の雑木林の生態系が豊かになった。雨が降れば、養分豊かな水は、川から海に注がれ、プランクトンが増殖し、漁業量を増加させたのである。

 あるいは、江戸には百万人を超える人口が集中したが、彼等の消費による大量の糞尿は、市場メカニズムにより見事に処理された。長屋の家主や武家屋敷、神社などの多量に糞尿を排出するところには、特定の農家や問屋が有償で引き取り、都市周辺の農家に販売された。糞尿は田や畑に肥料として供給され、野菜や米となって都市に戻ったのである。欧米の都市には下水道が整備されたが、無処理で河川や湾に放流されたため、悪臭ばかりか、水を不潔にし、水道水に流れ込んで、赤痢やコレラの発生が絶えず、死亡率が高かった。明治になり、東京に来た米国人が、欧米に比べ江戸の死亡率が低かったことと、糞尿処理の循環経済システムに驚き感心したと書き残されている。

 豊富な鉄による農機具の改良、循環経済システム、幕府や藩による新田開発で、米作物は増産となり、余剰となった作物と農村の人口は各城下町だけではなく、大きな都市に集まり、17世紀後半から都市化現象が起こった。都市人口の増加は、大衆消費を拡大したため、新たな産業で収入を増やしたい藩の奨励で手工業が振興していった。それは、藩の財政を豊かにしただけではなく、地方経済を活発化させ、民富の蓄積を高めた。経済力を持った職人や商人は「町人」と呼ばれた。ドイツ語で「(城壁)都市に住む市民」を「ビュルガー」と呼び、フランス語で「ブルジョア」と呼ぶが、日本の「町人」と見事に対応する。

 江戸時代は封建社会で、階級社会と言われたが、形式は別にして、実質は平等化が進んだ。幕府や藩は家臣の教育を熱心に行ったが、1300校あった私塾、1万校を下らない寺子屋でも庶民の教育が行われた。寺子屋では、男女共学、私塾では士庶共学で、裕福な町人と貧しい武士の間の尊卑の心理は逆転していたと言われるくらいである。数学は独自の高度な発展を遂げ、18世紀前半には、無限級数の展開、微積分学が現れている。

 江戸時代は、国家を閉鎖したことで、国自体がコンパクトになり、日本の自然風土を活用した文化や生産活動で、持続可能な社会が2世紀を越えて展開したのであった。しかも、その間に新しい時代へ持続できる蓄積も着実に進んでいた。

2.一気に進んだ近代工業社会

 幕末から明治維新の時代は、政治的には「革命期」すなわち「断続の時代」であり、経済的には「民の活力」が「持続した時代」でもあった。

 1867年10月の『大政奉還』、同年12月の『王政復古の大号令』で、幕府政治は終焉し、政権は朝廷に戻り、68年『明治維新』を迎えた。69年の『版籍奉還』、71年の『廃藩置県』によって、藩はなくなり、同時に、幕府や藩が所有してきた全ての土地は、「上げ地」として中央政府に召し上げられ、ここに分権型の幕藩体制が終焉した。士農工商の身分を廃止し、徴兵制を採用し、四民平等による「国民」の意識を高めた。さらに、政府の財政基盤の安定化のために、73年に地租改正し、それまでの石高制による年貢制度を廃止し、土地の私的所有(売買の自由)を前提にした定額金納地租を課すこととした。これらによって、天皇を中心とする中央集権体制が成立し、近代化の道を走り始めた。

 近代化に最も必要なことは工業化であった。幸い江戸時代に、幕府や藩が奨励してきた直営工場という遺産があったので、それを官営工場として強力な育成策が採られた。外国人顧問と国家資金を集中し、採算を無視して進められた。鉄道と鉱山の2大産業部門が中心となった。さらなる発展のために、資本主義化が必要である。しかし、外国資本の介入には植民地化という危険があったが、幕末までに民富を高めたブルジョアすなわち町人層が、主役に躍り出た。加えて、国民の学習意欲と勤勉さが、新たな技術に迅速に対応し、生産性の向上させ、国際競争力を獲得した。

 鉱山等の官営工場は経済的自立が可能となった段階で、豪商と呼ばれた人たちに払い下げられた。鉄道は、官営事業から、民間資本の株式会社による事業が許可され、一気に進んだ。72年の新橋−横浜間の開業以来、89年には東海道線が、91年に東北線、1901年には山陽線の開通で本州の青森から下関まで鉄道で繋がった。

 こうして、20世紀までに産業革命を達成し、世界的にも模範となる「工業化」を進めることとなった。すなわち、「国家が主導的に、絶え間ない技術革新によって、国民一人あたりの生産額を持続的に増大する過程」である。20世紀の初期には先進工業国の仲間入りを果たし、第2次大戦の敗戦後も、国家主導型の工業化によって、米国に次ぐ近代工業社会の地位を獲得したのである。

 しかし、明治維新から百年後の1970年代に、「オイル・ショック」と「ドル・ショック」をきっかけに工業社会は終焉を迎えた。

3.持続可能な社会の再構築のために

 ポスト工業社会として持続可能な社会がテーマである。欧米ではそのモデルの模索が続いている。日本には江戸時代という生きた教材がある。グローバル化やネットワーク化は、自然の持つ多様性がモデルであり、江戸時代の自然の多様性をうまく活用した芸の細かい知恵の組み合わせと探求心がヒントになる。これまでに、地球環境に優しい技術や省資源技術の開発の面に現れている。

 大きな課題は、東京中心の中央集権体制から脱皮し、各地域が藩のように自立できる分権化と自治能力の保持である。分権の法制度の改革や道州制の議論が進められているが、上からの改革ではなく、地方や地域からの革新が重要である。そのためには、前回まで3回にわたり述べた「コンパクトシティの概念」と、江戸時代の生きた教材を組み合わせ、都市のコンパクト性を達成することで、日本独自の持続可能な社会に到達できるであろう。それには、江戸時代の人々のDNAを持続する我々自身の知恵と活動に期待したい。


 

連載【街角たんけん20】

Dr.フランキーの街角たんけん 第20回 もう一つの新開地(その2)
神戸の電気事業ことはじめ

プランナーズネットワーク神戸 中尾 嘉孝

 「神戸市電気局」といっても、こちらも若い人にはぴんと来ないだろう。直接的には、現在の神戸市交通局がその直接の後身に当たる。しかし、現在と違うのは、その名が表わすように電力事業も手がけていたことで、その歩みは幾多の変遷を経ている。

 神戸における電気事業は、明治16(1883)年に、神戸区長の村野山人が、公営での電気事業を企図したことを嚆矢とする。赤松啓介は「神戸財界開拓者伝」で、その前年の東京電燈設立に、村野が刺激を受けたからではないか、と推測している。ただ、区の財政が脆弱であったこともあって、実現はしなかった。

 明治20(1887)年11月、東京電燈社長の矢島作郎自らが、神戸に発電機を持ち込み、県議会議事堂で試験点灯を行った。そのインパクトは強烈であったようで、翌21(1888)年1月、佐畑信之、池田貫兵衛らによって有限責任神戸電灯会社が設立された。全国で2番目の電力会社の誕生である。

 神戸電灯会社は、早々にエジソン社製発電機を輸入、栄町六丁目に発電所を設け、同年9月に相生橋と楠公前で試験点灯を挙行。支配人の田中胖の手腕もあって、折からの日清戦争後の起業熱とともに業績を伸ばしていった(会社設立から5年後、田中は激務がたたり、風邪をこじらせて帰らぬ人となった。享年36歳)。

 一方、人口が増加し、市街地の範囲が拡張するなかで、院線(現JR)以外の市街地電車建設を求める声が次第に高まっていった。明治26(1893)年には、複数の資本家グループが市街地電車事業を県庁に出願したが、県側は事業者の一本化を要請。その調整がまとまらず、最終的に村野山人らを中心に神戸電気鉄道株式会社が設立されたのは同39(1906)年であった。明治43(1910)年4月、春日野道〜兵庫駅の区間が開通、以後数次に亘る延伸が行われた。

 神戸電気鉄道株式会社と神戸電灯株式会社は大正2年(1913)年に合併、神戸電気株式会社となった。

 大正6(1917)年、神戸市が同社を買収、電気局とした。先に述べたとおり、もともと神戸電灯会社設立準備の段階で、行政主体で設立しようとしていた経緯があり、市による買収はある意味では当然の帰結といえた。しかし、市の買収計画に対し、営業成績抜群の優良株を譲り渡しを渋る大株主たちを、自らも株主であった瀧川儀作が、株を市に譲渡した上で、一人一人説得にあたった、という逸話が残されている。

 こうして誕生した電気局が、拡大する電力需要を背景に莫大な収益を市にもたらし、それらは神戸港の施設拡充などの重要な財源となった。

 ところで、神戸電燈会社の本社は創業以来元町通4丁目に置かれていたが、事業拡大とともに手狭となり、明治45(1912)年に新開地へ社屋を新築、移転した。

 煉瓦造2階建で、角にはドームを戴く塔屋が立ち上げられるなど、新開地本通の一大ランドマークとなった。設計は、工手学校(現工学院大学)出身の設楽貞雄率いる設楽建築工務所(神戸・下山手)。

 村野藤吾が、初代通天閣や初代聚楽館など話題性のある娯楽施設も手がけたこの設計事務所の作品の持つある種の自由さにひかれ、早稲田を卒業後、関西へ赴くきっかけとなったというエピソードがある(ちなみに、京都電燈会社本社屋(明治43(1910)年竣工)も設楽建築工務所の作品である)。

(この項、つづく)


画像38s05
神戸電燈株式会社本社(出典『近代建築画譜』)
 

 

連載【まちのものがたり38】

水の情景2 ワタシの旅
猫の散歩道

中川 紺

 その家と隣の家に挟まれた空間には、水の入ったペットボトルが、それこそ猫の歩く隙間も無いほどに、3列×9列で立て並べてあった。一番手前の列の一本が、他とは違う空気を放っていることを感じた。

 玄関前にも五本が等間隔に置かれている。こちらはつい今しがたこの家の主婦に置かれたばかりで、「ノラ猫がねえ、入ってきて困るのよ」と、聞いてもいないのにワタシに話かけながら、抱えてきたペットボトルを順に下ろして、また家の中へと戻って行った。

● ●

 人影が無くなった途端、隣家との境界から、するりと出てきたものがあった。まだらとキジトラの猫。彼ら(オスだった)は背後のペットボトルを一瞥して、伸びをひとつ。

(こんなもんで追い払えると思ってるらしいけど、まあ、効果はゼロに等しいね)

(まったく。でも俺たちにとってはいい抜け道だけどな)

 表情と声から、ほぼそういうことを話しているということが分かった。

(あんた、そんな格好してるけど、人間じゃないだろ)

と、まだらがワタシに言う。

(人間の気配しないもんな)

 キジトラはしっぽを意味ありげに振る。

 そのまま向かいの路地にすたすたと入っていく。やはりそうか、と妙に納得した。

● ●

画像38s06
 
 しばらくして、すごい勢いで一匹の白猫が溝から飛び出してきた。ワタシのいる場所の少し手前で急ブレーキをかけると、並べてあるペットボトルに突進して、そしてなんと、吸い込まれるようにボトルに消えていった。

 十秒も経たないうちに、追手の猫が現れ、見当違いの方へ走り去った。

 なるほど、先の二匹が言っていた『抜け道』とはこういうことか。ペットボトルの猫よけのいくつかは、猫の移動手段になっているらしい。おそらくまだらとキジトラも、別のボトルからこのボトルにワープ(という言葉が適切なのかは分からないが)してきたのだ。どうりでこの一本だけが変な感じがしたわけで、でもそうなるとやはりこの水はワタシが求める水ではないのだ。

 しかし猫がそんなことの出来る生き物だったとは。それとも最近の住宅事情に対応して生み出された力なのだろうか。猫ではないワタシに真相は分かるはずもない。そして『人』でも無いらしいのだ、どうやら。今の姿は単なる容れ物、ということか。まるでこのペットボルトみたいだ。

 きゅっ。キャップをはずしてみる。斜めにすると中の水がごぼごぼと音を立てて流れていく。水は効力を無くしたらしく、もう特別な空気をまとっていなかった。

● ●

「ちょっとあんた、何してんの!」

 うわわっ。知らないうちに大半のペットボトルの水を抜いてしまっていた。抜け道が使えないワタシは、走って逃げるしかないようだ。背後で何か叫ぶオバサンの声を聞きながら、猛ダッシュで角を曲がった。息を切らして顔を上げると、塀の上をさっきの白猫が優雅に歩いていた。    (第二話・完)

(イラスト やまもとかずよ)




第81回・水谷ゼミナール報告

 

日時:4月28日(金)、会場:こうべまちづくり会館
テーマ:行政の40年勤務を振り返って

 西川靖一氏は、昭和40年に神戸市に奉職され平成15年3月に退職、その後務められた神戸市住宅供給公社を平成18年4月に退職された。猿渡彬順は、西宮市に昭和44年に入り平成17年3月に退職した。

 両氏は、都市計画法(1968年)、都市再開発法(1969年)が制定された現代都市計画の黎明期から、バブル経済時の規制緩和の反都市計画期を経て、こんにちの住民主体、地方分権によるまちづくり期にかけて、行政マンとして長年に亘り都市計画・都市計画事業に携わってきた。 
 両氏に「行政の40年を振り返って」もらい、都市計画・まちづくりの来し方を懐い、行く末を案じようとの企画。

<報告者の題目>

● 「神戸市の37年+3年」西川靖一(元神戸市住宅局長)

● 「行政都市計画人として36年」猿渡彬順(元西宮市・現(株)アップ監査役、アサヒビール大山崎山荘美術館顧問

 西川氏は、入庁時の大橋地区を皮切りに三宮、兵庫駅前地区、六甲地区、六甲駅前地区、東川崎地区と、平成元年までの24年間に従事された再開発事業(住環境事業等を含む)と、その後の営繕部長、建築部長、住宅局長時の13年間に携わったアーバンリゾートフェア、建築確認の民間開放等の業務概要及びこれらに取り組まれた姿勢・心意気を報告された。特に再開発への思いは強く、三宮地区に取り組んでいるときに「再開発は一生の仕事」との思いにいたったとの事。こういう思いを持ちつつ事業戦略を練り、権利者と交渉を重ねるなか得られた教訓・薀蓄が披瀝された。これらは氏の深い洞察力と鋭い人間観察眼によるものであり、まちづくりに携わるものは以って肝に銘ずべきものと思われた。

 西宮市在職の殆どを都市計画畑で過ごした猿渡からは、新入職員時代の初仕事で当時新たに制度化された線引き・用途地域の指定、その後の都市景観行政(アーバンデザイン)の導入、さらには退職までの10年間ずっと携わることとなった震災復興の一環である震災復興計画の策定、震災復興事業の都市計画決定など、36年間に従事したなかでエネルギーを費やし、印象深かかった計画業務の紹介をした。またこれらの業務を通して感じた行政プランナーとしての役割、限界、悲哀、大いなる反省とちょっとした矜持について述べた。最後に、中曽根内閣の「アーバンルネッサンス」から現在の「都市再生政策」に続き、その基本となっている理念なき計画規制の緩和を危惧しているとの付言をもって報告を終えた。(猿渡彬順)



情報コーナー

 

●阪神白地市民まちづくり支援ネットワーク・第50回連絡会
・日時:6月2日(金)18:30〜20:50
・場所:神戸市勤労会館404号室
・ 内容:テーマ「行政の住民参加型まちづくり支援制度の今」、パネラー:@「神戸市まちづくり条例に基づく支援制度」/金川裕一(神戸市地域支援室)、A「兵庫県まちづくり基本条例に基づく支援制度」/佐藤庸正(兵庫県都市政策課)、B「市民主体・行政参加型のまちづくり」/大西勇一郎(豊中市まちづくり支援課)

・会費:500円
・問合せ:GU計画研究所(TEL.078-435-6510)

●「子どもたちに夢を」ロックフィールド元気の木保育室開設記念フォーラム
・日時:6月3日(土)13:30〜16:00
・場所:ロックフィールド神戸ヘッドオフィス・ホール
・内容:基調講演/安藤忠雄、トークセッション/竹中ナミ(プロップシテーション)、谷口真美(早稲田大学助教授)、矢田立郎(神戸市長)、岩田弘三(ロックフィールド社長)、安藤忠雄
・問合せ:(14)ロックフィールド(神戸市東灘区魚崎浜町15-2、TEL.078-435-2802)

●多文化と共生社会を育むワークショップ
「韓国料理ワークショップ」-クジョルパンをつくって食べる-
・参加費:1,500円(小学生500円)

・講師:金恩受(韓国料理・文化研究家)
「ポシャギ展」-金恩受先生と生徒さんの作品展-
・日時:6月17日(土)〜25(日)9:00〜22:00
・場所:神戸学生青年センター
「ポシャギ・ワークショップ-コースターをつくってみる-」

・日時:6月21日(水)18:30〜21:00
・場所:神戸学生青年センター
・参加費:1,500円(材料費込み)

・問合せ:多文化と共生社会を育むワークショップ 代表山地久美子(TEL.078-851-2760)

上三角目次へ



(C) by 阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク

阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク・ホームページへ
学芸出版社ホームページへ