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鎖瀾閣復元が現実のものとなって

武庫川女子大学文学部教授 たつみ 都志

 新聞報道でご承知のように、谷崎潤一郎の旧邸の一つ「鎖瀾閣(さらんかく)」が、近年中に復元されることになりました。鎖瀾閣とは、阪神大震災で全壊した阪神間で唯一の谷崎潤一郎の自邸で、自分の思うがままにデザインした書斎&迎賓館でした。

 阪神大震災で全壊して以来11年間、この建物の谷崎文学の中での重要性を唱え、谷崎が自作の中で使った名をそのまま使って鎖瀾閣と名づけ、復元運動を続けてきました。

 それが、今回「縁」あって、則岡宏牟という建築実業家の援助で急転直下、復元が現実のものとして目の前に見えてきました。しかし5600万といわれている復元資金のうち、まだ1200万が不足しています。寄付控除も受けられますので、是非皆様のご協力をお願いします。寄付は郵便振替で、神戸00990−6−73996 特定非営利活動法人谷崎文学友の会へお願いします。

 鎖瀾閣は岡本公園拡張予定地に建設予定ですが、先日、移築を目標として解体された、通称「ナオミの家」も併設するための嘆願書名簿も配布しています。ご協力いただける方は072−754−2116にお電話ください。

 さて、この鎖瀾閣復元運動について、新聞やテレビでは伝えられなかった、舞台裏を、お話しましょう。(下の写真は鎖瀾閣ホームページより)

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■復元物語その1

 震災後私は、岡本にあった谷崎の自邸の重要性を地元の方たちに説いてまわった。そして地元の方々が中心となって復元運動が始まった。岡本界隈のマスコミ人も含めた「鎖瀾閣復元委員会」というものが発足し、私は「顧問」という立場にすえられた。最初こそ寄付はぞくぞく集まり、マスコミも連日取り上げてくれて、運動は順調に見えた。しかしその後は、構造不況と震災不況のあおりを受け、当初の予定の2000年復元の夢はもろくも崩れ去った。当初から、月に千円、年間1万2千円積み立ててくださったメンバーには約束の5年が過ぎようとする2000年、実現が不可能な現状を伝えた。しかし5年間でたまった一人6万をそのまま預からせてもらえないか、と申し出るとほとんどの人が賛同してくれた。

 それからの中盤が苦しかった。街頭に立ち、声をからし、地元商店街の夏祭りに出店を出したり、出前講義をして資金をためた。そして運動に協力してくれるマスコミ友達の変わらぬ援護射撃に助けられながら数年が経っても、年間50万も集まらなかった。

 初代会長が急逝したあと、一流会社の役員をして、法人の理事長まで勤めた人が鳴り物入りで、運動の会長職についた。が、何もなさず、運動の遅々として進まぬことにいらだって去っていった。そのように運動仲間は一人二人と遠ざかっていった中で、副会長の一人である地元の廣岡倭氏だけは、降りずに運動を続けてきてくれた。

 形も何もない中で寄付を集め「その金、鎖瀾閣ができなかったらどうなるねん、返してくれるんか」と満座の中で罵倒され、悔しい思いをしたのも一度や二度ではなかった、と氏は当時を振り返る。

 私自身、志を遂げず不慮の死を遂げたら、鎖瀾閣は建たなくなるのでは、と思い「生命保険に入ろう」と思った。2015年に死んでも3000万円、今死んだら5000万円、生命保険が下りるようにしたい、そう思って鎖瀾閣復元運動の会議の席で提案した。

 結果は「先生にはもっと長生きしてもらいたい」というわけのわからぬ情緒的意見が通って、提案は却下。

 この時点で鎖瀾閣復元委員会という任意団体の限界を感じ始めていた。そんな折しも、同じ矛盾を感じていた仲間の一人・芝崎氏が「先生が中心となる独自の団体を作られることをお勧めします」と提案してくれた。この声に押されて作ったのが「谷崎文学友の会」である。社会性を持たせようと、NPO認可の申請をして、2003年12月1日、特定非営利活動法人(NPO)としての兵庫県の認可を受けた。

 昔から「長」と付くのが嫌いだった私だが、理事長に就任して、すべて自分の差配一つにかかる重責とやりがいを覚えた。西宮、梅田、池田など数箇所で谷崎に関わる文学講座を開き、それを核として200人の会員ができ、年間会費100万がコンスタントに入るようになった。つどごとの受講料はNPOの運転資金だ。事務処理能力に欠ける私を補佐してくれたのは湯浅あかね、という優秀な右腕。彼女がいなかったら私とNPOはとうに空中分解していただろう。

 2005年、ようやく資金は1000万に到達した。集まった1000万には企業からの資金は皆無だった。10円100円1000円の、まさに神社仏閣の賽銭箱のお金、浄財だ。

 兵庫県文化財課の友人が、「昔は寄付を2割集めたら、あとは行政が動いた」と言う。しかし今や2割集まっても何も動かない。それどころか箱もの行政のあと始末を、国が推進する「指定管理者制度」の名のもとにまことしやかに始めた。

 震災10年のお祭り騒ぎが続く中、私は決意した。予定を早めて2006年、どんな形でもいいから建てる、と。

 そう決意して行動を開始して戦略を立てるのに夢中になって、自分の体の変調に気付かなかった。目の異常と名状しがたい頭痛。手に負えないから、と町医者の紹介文を手に兵庫医大に検査に行ったその日、「原田病。失明寸前。即入院」といわれた。(続く) (下の写真は鎖瀾閣ホームページより)

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中越ガレキ隊、山古志へ行く

阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク 天川佳美

 2006年5月27日(土)28日(日)に新潟県長岡市にて「第49回 全日本花いっぱい長岡大会」が開催され、去年(2005年)、「長岡花いっぱいフェア」に参加し仮設住宅にコスモスやヒマワリの種をまいた中越ガレキ隊が今年も10人で行ってきました。

 初日、27日(土)は全国で花いっぱいに貢献されておられる方々83団体への表彰や大会宣言、次期開催市へのリレーなど全国からの参加で賑わいました。

 また、翌28日(日)午後はNHKの「趣味の園芸」という番組の公開録画が行われ、柳生慎吾、目加田頼子アナウンサー目当てのお客さんが多数集まりました。その公開録画の後で開催されました「花いっぱいの輪2006交流会」は、新潟県花いっぱい連盟常任理事の小林正夫さん、山本中学校の伊藤彩香さん、森民夫長岡市長に、柳生さん・目加田さんを加え、神戸メンバー10人も参加し、長岡との交流を語りました。司会は小川浩司さんとおっしゃる長岡の相互タクシー代表取締役というまるで神戸の森崎清登さんを思わせる「花いっぱいおじさん」でした。

 なかでも中学生の伊藤彩香さんは大の大人たちに交じって堂々と原稿なしで当時の活動を話され、「神戸のはるかのひまわりを学校の校庭に咲かせています」という嬉しいお話をして下さいました。残念ながら撮影禁止だったので交流会の終了後に写した写真でお許し下さい。

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 翌5月29日(月)、5人残ったメンバーは長岡市公園緑地課のご尽力で長岡市役所山古志支所産業課の星野光夫さんと関貴史さんにご案内いただき復旧が始まったばかりの旧山古志村をくまなく見せていただきました。

 山古志村は虫亀、竹沢、東竹沢、南平、種苧原(たねすはら)などという地区がありますが、道路が至る所で寸断されたままで今はまだそれぞれの村の行き来もままならない状況です。私たちはボンネットの上に前後を向いたスピーカー付きの役場の車で通行証明書を提示しながら被災地を廻りましたが、行き交うトラックや同じような復旧工事車両の運転手は皆さん穏やかで静かなことに驚きました。そう言えば、我々神戸も震災直後の1〜2日は静かでしたが、復旧工事のトラックが行き交う頃は殺気立ったような街の様子だったことを思い出します。

 虫亀と竹沢の峠にある旧山古志役場の隣に建っている村民会館が再開した役場で今は長岡市山古志支所です。その1室で簡単な説明をお聞きする間も早々に山の中へと車を走らせて下さり、道なき道を廻りました。それぞれの村に住民が帰られ生活が始まっているところもありますが、あちこちで行われている圃場整備や法面砂防工事を見て「本当にこれでいいのかと思ってしまう」と野島断層近くで実家が被災された星川雅子さんの言葉が重く聞こえましたし、東竹沢の峠で新しい畑を耕しておられた二人の姿に心が残りました。

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 報道によく登場した木篭(こごみ)地区の水没したままの集落で何台ものユンボや浚渫機械が音もなく動くさまを遠くに見下ろしましたが、今も2階、3階まで水に埋もれた様子は先月訪れたばかりのニューオリンズの被災現場と同じく、胸に迫るものがありました。

 1年の半分を雪に閉ざされて工事もままならない地域での復旧・復興を私たちはどのように見守るのかを考えさせられた一日でした。


 

災害NPOの市民資源性とは何か

ひょうご・まち・くらし研究所 山口 一史

 大きな災害が起こると、災害ボランティアと呼ばれる人たちが、災害被災地に駆けつける。阪神大震災以来、各地で地震や水害などが頻発し、災害ボランティアセンターも比較的すばやく設置されるようになった。しかし、それに伴った新たな課題も出てきている。

■民主党が災害ボランティア調査

 ここ数年では、2004年に全国的にいろいろな災害が発生した。7月に新潟、福井などで豪雨災害がおこり、10月には台風23号による水害も各地を襲った。

 兵庫県もこの23号台風によって淡路、但馬をはじめ県域のほぼすべてで被害をこうむったことは記憶に新しい。新潟県三条市から「7月の豪雨水害の救援のお返し」といって、ボランティアが豊岡市を目指していた、そのさなかに今度は新潟県中越地震が発災した。豊岡に向かっていたボランティアの一行は、このまま豊岡に行くべきか、それとも地元の中越に戻るべきか、大いに迷ったという。

 いずれ必ずやってくる東海、東南海、南海地震のような広域大規模災害が、本当に同時、もしくは日を経ずして発災すれば、消防、自衛隊など公的組織も、ボランティアのパワーもとてもまかないきれないことは想像できる。災害ボランティアや防災ボランティアの力を積み上げないといけないのだろう。

 こんな課題があるとき、民主党がこのほど、「災害におけるボランティア組織(NPO等)と“市民資源”に関する調査」をまとめた。

 表題の「市民資源」という言葉は、新鮮で魅力的である。しかし、この調査の中では十分な定義づけや具体的なイメージが乏しく、やや不満が残るが、さまざまな分野の異なる団体・グループがネットワークを強化し、災害救援や防災活動に力を出していこうということを強調している。

 紙幅の関係があるので、調査をごく簡単に紹介してみよう。アンケートをもとにまとめているが、NPO法人の中で定款に「災害救援活動」を記入しているところを中心に、過去、最近に大きな災害に見舞われた兵庫、新潟、今後、大きな災害が予測される静岡などについては「災害救援活動」を目標としていないNPOも調査対象としている。しかし、1517団体の対象に対して回答はわずか226団体と、回答率は14.9%にとどまっている。

 回答NPOのうち、「災害救援」を主な活動分野としているのは44団体、19.5%だ。比率だけ見ると5団体に1つであるから、かなり多いという印象だ。災害救援を“本務”として活動している団体が、本当に災害が起こったときには、他の分野で活動している団体に呼びかけて、あるいはリードして被災地に入るケースが普通だろうと思われる。

 ところがやや意外だったのは、災害救援などの活動で、「他のNPO・NGOなどと連携、協力をしたか」の問いに対して「ない」と答えた団体が51.3%と半数を超えていることだ。あまり他団体との連携を好まない傾向があるのだろうか。災害救援を“本務”とせず、しかも災害時にも連携を取らないというのはどういうことなのだろうか。

■意外に少ない連携実績

 同じく「地域住民組織と連携、協力」も実績があるのは32%、「なし」が56.6%となっている。「平常時での防災や減災に関する活動」をもっぱら行っている団体でも回答72団体のうち、連携、協力しているのは約39%だ。これは連携する意思がないのではなく、地域住民組織の方が窓口を閉ざしたり、窓口が明らかでないことも背景にあるのかもしれない。自治体との連携のほぼ同様の数字があがっていて、「連携、協力なし」が50%強となっている。

 調査結果はまだ続くが、災害ボランティア団体もしくは、このことに関心のある団体が思った以上に、「孤立」化しているのはどうしたことだろう。

 大災害にとどまらず、災害時には被災地はもとより、近隣の、あるいは全国の資源を速やかに、適切に投入することによって、被災者の直後の深刻な状況が改善されることは、災害が起こった都度、叫ばれてきただけに、まだまだ課題は多いと実感した。

 もう一点、内閣府の防災ボランティア活動検討会でも指摘され、経験豊かな災害ボランティアネットワークのメンバーも首をひねっていることに、災害ボランティアセンター運営の画一化がある。中越地震で明らかになったうそのような本当の話だが、センターに登録していないボランティア団体が救援活動していると、「登録もせずに活動するのはもぐりだ」と、指弾されたケースがあったという。いったんマニュアルをつくると、本来の目的ではなく、その規律の方が上位概念になってしまう人間の性(さが)の不思議さではないか。

 災害ボランティアセンターにはさまざまな問題もあるが、民主党の調査から、災害ボランティアについてもう少し考えを延ばしてみよう。

■ボランタリープラザの調査

 ちょっとデータは古くなってしまったが、ひょうごボランタリーセンターが2005年3月にまとめた「県民ボランタリー活動実態調査」から気になっている事柄があるのだ。

 この調査は兵庫県が行う4年に1度のボランタリー活動の定点観測だ。県内の8785団体にアンケートを発送し、回答にあった中から、ボランタリー活動をしていると答えた4997団体について分析している。

 この調査の中で、阪神大震災時の活動を振り替えて尋ねている項目がある。この中で面白いのは、現在の活動分野と、震災時の救援活動の分野を重ね合わせた分析だ。震災時とその2〜3年間に行った活動の分野を聞いている。分野は「友愛訪問」「炊き出し」「救援物資の提供」「義捐金の寄付」「イベント活動」「ふれあい喫茶などの交流事業」「救援物資の仕分け」「避難場所の運営」「被災者の受入、招待活動」「その他」の10分野だ。グラフで見ていただこうとすると、あまり分野がたくさんあると煩わしいので、5分野に絞って表記してみた。

 さらに調査結果は行った活動をパーセントで示しているが、差異をしっかりと見るため、高率のパーセントから順位をつけたものをグラフ化し、横軸に現在の活動分野をおいて、その対比をした。

 これを見ると明確な差異があるように受け止められる。

 左から順番に見ていくと、まず「福祉・保健・医療」の活動をしているグループは震災後、「炊き出し」や「ふれあい喫茶」などに力を入れていたことが分かる。次の「社会教育」分野のグループは「炊き出し」「イベント活動」が多い、「まちづくり」分野は「避難場所の運営」にエネルギーを注いでいたのだ。「文化・スポーツ」の団体は、「イベント活動」と「ふれあい喫茶」が他の支援分野を引き離している。「環境保全」は「炊き出し」だ。また「子ども」分野の活動グループは「イベント活動」に、「ボランティア支援」(中間支援組織)は「友愛訪問」と「避難場所の運営」が多かった。

■“得意技”を生かす仕組みを

 この結果は偶然の要素があるかもしれないが、むしろ、今後の災害時に、いま行っている活動を生かしながら、こうした支援活動との組み合わせが可能であるならば、そしてその分野が“得意技”であるならば、万一の災害時にそれをうまくつないでいく仕組みをつくっていくことが有効ではなかろうか。それが可能であれば、まさに「市民資源」として、具体的なイメージもつくりやすいであろう。

 抽象的なネットワークをめざすよりも、こうした分野間のネットワーク、または異分野が何通りか集合したネットワークを組んでいく面白さもあるように思える。

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連載【街角たんけん21】

Dr.フランキーの街角たんけん 第21回 もう一つの新開地(その3)
瓦斯事業創成記

プランナーズネットワーク神戸 中尾 嘉孝

 東京とほぼ同時期に神戸で興った電気事業は、日本人主導の動きであった。そして電気の永遠のライバル・瓦斯事業は、というと、それは居留地からもたらされた。

●手元の「神戸瓦斯四十年史」(1940(昭和14)年刊)によれば、神戸での瓦斯事業は、1872(明治5)年、居留地のボーンセン、フローンらにより設立された「兵庫瓦斯商会」を嚆矢とする。兵庫瓦斯商会は、小野浜の外国人仮墓地東側の土地を貸借して瓦斯工場を建設。1874(明治7)年11月には、居留地に瓦斯灯がともった。東京や横浜と同時期というのだから、神戸という街の動きの早さに驚かされる。

●兵庫瓦斯商会は、翌1875(明治8)年、居留地外の地域へも瓦斯供給を計画したがエネルギー供給の根幹を外国人に掌握されることを好まなかった当局はこれを認めなかった。しかし、居留地周辺の雑居地でヤミでガス管を引き込んで使用する者が後を絶たず、「条約違反だ」と紛糾たびたびであったことから、神戸区長の村野山人らが、日本人による兵庫瓦斯商会買収を企図したものの、当時の神戸経済の基盤が脆弱だったこともあり、実現しなかった。

●1897(明治29)年、川崎造船所が株式会社に組織変更されたのと同じ年、神戸財界人による瓦斯事業起業の動きがにわかに活発となった。東京の新聞記者・永江為政と大阪の高橋熊太郎が瓦斯事業の有望性を講演したところ、まず神田兵右衛門、八尾善四郎、瀧川辨三らを中心とするグループが、ついで山本繁造、杉山利介らのグループ、そして藤田松太郎、室谷藤七、専崎弥五平らのグループが、瓦斯事業の特許を兵庫県を通じて内務省に申請した。内務省は、県と市に対し、出願の一本化を要請。最終的には、出願者が大同団結し、発起人総代に横田孝史、杉山利介、上田榮次郎を立てて同年10月出願、翌5月の県の認可を受けて、農商務省への会社設立認可申請が進められ、同年7月これも認められた。

●工場は芦原通(現兵庫区)に約1千坪の敷地を確保し、英国製の機器を輸入し、建設された。また導管(ガス管)の敷設も現在の兵庫区南部と居留地を除いた元町通・栄町通・海岸通一帯で行われた(導管の接合部のシールは、神戸市水道の建設に従事した職工により鉛で行われた)。1900(明治33)年2月に瓦斯の供給は始まったが、電燈が先行して普及していたため、瓦斯事業は苦闘を強いられた。が、ガス器具の使用実演(この営業スタイルの基調は、21世紀となった今日にも引き継がれている)など地道な営業が徐々に実を結び、6年後には、先行する兵庫瓦斯を買収するなど供給範囲を広げた。1910(明治43)年の葺合港沖の輸送船爆発事故で葺合工場((1906(明治39)年建設)の瓦斯タンクが傾斜沈降するなどの障害もあったが、明治の終わりには西宮まで供給範囲が広がった。

●神戸瓦斯は本社を栄町通5丁目の瓦斯館(ショールーム)に併設していたが手狭となり、1909(明治42)年に相生町5丁目に680坪の用地を確保し、煉瓦造2階建の社屋を建設。翌年7月に移転した。小さいながらビクトリアン調の気品ある建物であったことが写真から窺がわれる。(この項、続く)

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栄町通5丁目にあった「瓦斯館」(「瓦斯を使ってお金を節約しよう」という英文のコピーが時代を感じさせる。2階の丸窓のモチーフは神戸瓦斯の社章)。 相生町に新築された本社屋(明治43年竣工)。
 
以上写真2点の出典は1940(昭和15)年刊『神戸瓦斯四十年史』


 

連載【まちのものがたり39】

水の情景3 ワタシの旅
脱 出

中川 紺

 表札には『池永』とあった。

 先に出かけたのが父親、今出ていったのが息子。「いってきまあす」と背中に持て余す大きさのランドセルを背負って、元気に走って行った。二人を見送ったのが母親で、三十代半ばといった感じだ。息子の後ろ姿を見送る母親は、少し浮かない表情をしていた。

 母親が家に入って行くのを確認したあと、ワタシは向かいのマンションにある小さな公園のベンチから腰を上げた。

● ●

 ワタシがここの家族をもう一度見に来たのは、前日の夜中に声を聞いたからだった。

 最初は何を言っているのか分からないような、くぐもった低い声だったが、次第に言葉がはっきり聞き取れるようになってきた。

「出シテ!」

 確かにそう言っていた。そして声は、直接ワタシの頭の中に響いてきた。口から発せられたものではないことは明らかだ。

 同時に、濁った水の気配を感じた。不安と恐怖と疲労が混じったような気配だった。

これが探す水では無いことは分かっていたが、助けを求めるような声を放っておく気にはどうしてもなれなかった。日が昇ってくると同時に、足は自然に池永家に向いていた。

 次の日の昼過ぎ、目の前を歩いていた男の携帯電話が鳴った。

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「もしもし? さわ子? どうした? えっ、ジュンを病院に? おいおい大げさだろう。別に体調崩してるわけでもないんだし。え? もう一週間だって? でも怖い夢を見てうなされるくらい、小さい子供なら誰でもあるだろう? だいたい本人も朝おぼえてないんだし。うん、うん、心配なのは分かるけどな、もう少し様子見てからにしろって」

 偶然にもあの父親だった。

● ●

 その日の深夜、ワタシはもう一度、池永家に向かった。付近を歩く人は誰もいない。しかし、例の声は、やはり聞こえて来た。

 子供が夢でうなされる、と父親が言っていた。ワタシには分かっていた。原因がこの声にあることを。そして。

 そっと門の脇から手を差し入れると、庭先の蛇口につけられた真新しいブルーのホースではなく、横に放置されている古びた緑のホースをゆっくりとつかんだ。

 慎重に、ホースを伸ばしながら傾けていく。中に溜まっていた水が、一気に流れ出た瞬間、泥はねが白いシャツに小さな染みをつくった。

 濁った水の中に、緑色の小さな虫がいた。タイ米のような細長い体と堅い殻。外界の空気を感じ取って、庭木に向かって飛び立っていく。一週間も閉じ込められていたのに。

「さすが、すごい生命力」

 思わずワタシはつぶやいていた。

 そして、二階の窓をそっと見上げてみる。もう、うなされることも無いはずだ。

 夢を見るのはどういう感じなんだろうか、と考えた。そして、ワタシはまた水を求めて歩きはじめる。ワタシは「眠る」ということを知っていても、「眠らない」。夜明けまではまだ時間がありそうだった。(第三話・完)

(イラスト やまもとかずよ)




阪神白地 まちづくり支援ネットワーク・第50回連絡会報告

 

 震災直後から始めた当会は、震災11年を経て今回で節目の50回を迎えることになりました。当初は、神戸西部・中部・東部、西宮と4つのエリアで発足し、その後神戸西部・東部、西宮となり、震災3年目ごろに現在のかたちになりました(「阪神白地」の第1回は98年4月3日、神戸Fビルで行われ、テーマは「西宮市の環境整序型のまちづくり」でした)。

 今回のテーマは「行政の住民参加型まちづくり支援制度の今」で、6月2日(金)、神戸勤労会館で行われました。まず、当会の世話人でもある後藤祐介さん(ジーユー計画研究所)によるテーマ解説があった後に、以下の3氏から報告がありました。

@「神戸市まちづくり条例に基づく支援制度」/金川裕一(神戸市都市計画総局計画部地域支援室)

A「兵庫県まちづくり基本条例に基づく支援制度」/佐藤庸正(兵庫県県土整備部まちづくり局都市政策課)

B「市民主体・行政参加型のまちづくり」/大西勇一郎(豊中市政策推進部まちづくり支援課)

 金川さんからは、震災前から行っており震災後活発化した神戸市におけるまちづくり支援について、現時点における課題として活動継続化のための支援のありかたや外部評価の必要性等を述べられたうえで、それへの対応としての制度の改正や現在取り組んでいることなどについて報告がありました。佐藤さんからは、都道府県レベルで初めて制定されたまちづくり基本条例の説明や、それに基づくまちづくり支援の概要及び震災直後から行われている復興まちづくり支援に関して述べられた後、現時点における課題−まちづくり支援に関する県と市町の役割や、支援の選択と集中のあり方など−について報告がありました。

 大西さんからは、大阪府豊中市で震災前から行われている住民と行政の協働のまちづくりに関して、駅前などでの音楽あるまちづくりなどの総意あふれた取り組みや、今後のまちづくり課題等についての報告がありました。

(中井都市研究室 中井 豊)


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情報コーナー

 

●第82回・水谷ゼミナール

・日時:6月23日(金)18:30〜21:00
・場所:こうべまちづくり会館6階会議室
・会費:1,000円
・内容:テーマ/「神戸のニュータウン開発を振り返る」、発表/@「神戸市のニュータウン開発を振り返る」大海一雄(西神N.T開発研究会)、A「しあわせの村開発の当時とこれから」石東直子(石東・都市環境研究室)、B「藤原台等北神戸地域におけるニュータウン開発の反省点」後藤祐介(GU計画研究所)、司会/朝平武文(朝平都市計画事務所)

・問合せ:GU計画研究所(TEL.078-435-6510)

●神戸・長田 たなばたまつり

「御菅地区わくわくたなばたまつり」

・日時:7月8日(土)10:00〜12:00
・場所:御蔵すいせん公園
・内容:すいとんとぜんざい、かき氷、手品、他
「真野地区たなばたまつり」

・日時:7月9日(日)10:00〜15:00
・場所:三ツ星ベルト神戸本社内
・内容:鮎山賊焼き、さぬきうどん、他
「長田神社夏越祭り」「夏越ゆかた祭」

・日時:7月17日(祝)〜18日(火)16:00〜21:00
・場所:長田神社境内、長田神社前商店街
・内容:富くじ、占い横町、ゆかたでゲーム、他
「第13回 長田たなばたまつり」

・日時:7月23日(日)16:00〜20:30
・場所:長田区役所東側区民広場
・内容:グルメコーナー、ステージ、他
「2006長田潮汲み夏祭り」「盆踊り」

・日時:7月30日(日)13:00〜21:00
・場所:新長田1番街商店街、大正筋商店街、本町筋商店街、西神戸センター街、新長田駅前広場
・内容:阿波踊りパレード、屋台、バザー、他
・主催:2006神戸・長田たなばたまつり連絡協議会
・問合せ:長田区まちづくり推進課(TEL.078-579-2307)

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