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復興を科学する被災地「新潟」のこころみ

新潟大学災害復興科学センター 田村 圭子

 新潟はとにかく食べ物が旨い。米処としては全国的に有名だが、海のもの、山のものが豊富で、スーパーで買った何気ない食材に感動する。聞くところによれば新潟の食料自給率は6割を超えており、日々新鮮な品物が店頭にならぶ。

 そんな「食材の宝庫」新潟が、近年「災害の百貨店」と呼ばれるようになった。2004年には15人の死者を出した新潟県豪雨水害にはじまり、中越地震、2005年から2006年にかけては豪雪と、自然災害の発生が頻発化した。また、2005年12月には新潟県内の下越地方を中心に約65万戸で停電が発生するなど、想定外の原因による危機も発生した。また新潟は拉致被害者が多いことから海の向こうの潜在的脅威についても敏感である。さまざまな原因による危機に対して、効果的な対応を考えるべき必要性を痛感する現実が新潟には在る。

 2006年4月1日新潟大学が動いた。地元の危機意識の高まりをうけて、新組織「災害復興科学センター」を発足した。新センターは、旧・積雪災害研究センターを改組、豪雨水害の発生以降、活発に活動を続けてきた学内教員(専任13名、兼務53名)学外教員(客員2名)を4部門13分野に配置した。新潟県との連携を基軸とし、新潟県で起こった災害を事例にデータ収集、研究を進め、整理された知見を国内外へ発信・適用・支援することを目的としている。

 センターが掲げる「災害からの復興」はまさに阪神・淡路大震災が残した大きな教訓である。被災と直後の対応を経て、それ以降の長きにわたる復興の過程を、被災地の人々は、ある時は自らの血を流しながら、ある時は力強くほほえみながら歩いてきた。その姿は多くの人々の共感を呼び、支援の和を広げた。災害・防災の専門家には、社会科学的な見地からの復興の科学的な解明に必要性が強く認識された。

 私自身は、京都大学防災研究所に席をおき、研究者側の立場から、阪神・淡路大震災の復興の様子を側でみてきた。「復興過程の支援」が私の研究の使命として醸成された過程でもあった。縁あって、新潟大学災害復興科学センターに赴任した現在では、新潟の被災地に特徴としてみられる中山間地の復興を研究対象にしている。

 復興は多くの問題をはらんでいる。災害の衝撃は社会のトレンドを加速する。災害以前に抱えていた地域の問題が顕在化するのが被災地の特徴である。地域の災害以前の宿題(課題)を片付けながら復興に取り組む力が要求される。

 新潟は今も闘っている。みなさん、特に阪神・淡路大震災にかかわったみなさんに新潟への暖かいまなざしを期待している。


 

鎖瀾閣復元が現実のものとなって その2

武庫川女子大学文学部教授 たつみ 都志


復元物語その2

 その日から病院のベッドに身を横たえなければならなかったもどかしさ。視界がどんどん暗くなっていくことより、運動のために何もできない暗さの方が辛かった。「谷崎ひまわりファンド」の構想は出来上がりつつある。なのに何も行動できない。病室にパソコンを持ち込んで、構想の仕上げを急いだ。

 病室にマネージャーの湯浅あかね、弟子の栗田朋子、舎弟の小池義忠が頻繁に来てくれ、私の留守も構想を進めてくれた。

 「呼びかけ人」になってもらうために、入院先から外出許可を取り、もと兵庫県知事の貝原俊民氏、もと神戸市長の笹山幸俊氏に会いにいった。能美晋氏は藤本義一氏を口説いてくれた。

 1ヶ月ののち退院して、ようやく「谷崎ひまわりファンド」は動き始めた。

NPO谷崎文学友の会と会員のチカラ

 先に書いたように、友の会の会費が年間100万円ずつたまっていっても、5000万には50年かかってしまう。しかも震災10年を経て、震災の記憶は風化してしまう、そういう焦りから「谷崎ひまわりファンド」を始めたのだ。

 サポーター1万、リーダー10万、マスター50万、スポンサー50万の形で、「鎖瀾閣の建設が始まったら入金します」という約定書である。会員の多くの方々がご協力くださり、1年足らずで600万の約定書が寄せられた。

 会員のありがたみをひしひしと感じた。しかし、マスター候補を見込んで、関西のカルチャーの講師に働きかけたのは、ほとんど不毛に終わった。

 当初の目論見がうまくいかなかった私は次なる手を真剣に考え始めた。2005年も秋口にさしかかっていた。

 あることで本山北町の家の前を通りかかった。ここは谷崎潤一郎が、関東大震災以来、阪神間に住むことを決意して真剣に家探しをして居住することにした家。『痴人の愛』を書いた家である。

 1985年『ここですやろ谷崎はん』という初めての著作を出したときにから知っていた懐かしい家。鎖瀾閣を初め、他の谷崎の家はことごとく阪神大震災で全壊したのに、ここだけは無傷で残っていた。無人のまま。10年たった今、荒廃したこの家を見たとたん、何か名状しがたいインスピレーションを感じた。

 地元の不動産業・白塚氏のところに行き法務局で家主を捜してもらい、手紙を書いた。内部調査させてほしい、と。運命はこの瞬間に動いた。

「ナオミの家」のチカラ

 前号に書いたようにこの家は家主の許可を得た2005年12月23日に調査に入った。

 古建築と和風建築の専門家である、澤良雄氏と、兵庫県の文化財課の村上裕道氏とともに。

 そして中の保存状態がかなりよいことが判明した。だが家主は遺産相続の税金問題もあり、この家を取り壊し、空き地を利用して新しく借屋を建てる予定だという。ではせめて取り壊すまでの間、NPO法人で借りれないものか、と家主に掛け合った。その後証書を交わして、夏までの間、家賃なしで調査のために借りることになったのだ。そして仔細に調査した結果、この家は単に谷崎が居住していたというだけではなく、ここで書いた『痴人の愛』の住居とその環境に大きなイメージを与えたことがわかった。

 そこで数ヶ月後の解体される前に、研究者を初め、広く一般の人に知ってもらいたい、そしてまた地元岡本の人に谷崎と岡本の関係をもっと知ってもらいたい、と思い公開することにした。

 近所の人ですら知らなかった谷崎の足跡。4月1日と2日の公開日には、近所の人はもとより、遠く東京、横浜、埼玉などからも新幹線や飛行機を使って来た人の数は2日で1400人を超えた。2日は豪雨だったにもかかわらず、である。

 公開のニュースが流れ、いつかは解体されるのだというニュースが流れたせいで、3人の篤志家が現れた。自分が費用を全額出すから、解体移築させてほしい、というのだ。

 解体移築には1000万円はかかると言われていたので、驚いた。奈良県榛原町の建築業者、大阪市で自転車店を経営している自称「究極の骨董好き」、そして伊丹で木材、建築、不動産を経営している則岡宏牟氏だった。

 この3人の中から、則岡氏にしよう、と思ったのは、氏の木材へのこだわりと古建築保存にかける情熱のゆえだった。

 だが氏は、移築先は伊丹か和歌山県の母校に、と言う。「谷崎は阪神間が好きだったのです。阪神間でないと意味がない」という私の意見に対し、「わかりました。では阪神間で土地を探しましょう」と言った。

 話し合って喫茶店を出ると、急に雷鳴と豪雨が降ってきた。その雷雨にはじかれたように私は、神戸市役所に向かった。「鎖瀾閣のために用意された敷地にもう一軒建てたい。それは公園規定に反しないか?」と聞いた。文化施設なら大丈夫との見解を聞き、伊丹に取って返して再び則岡氏と面会した。

 「土地はこちらで用意します。土地の確保の資金が浮いた分で、鎖瀾閣を建てるお手伝いをしてほしい」「鎖瀾閣?」いぶかしがる則岡氏の会社のパソコンの画面に、いつも持ち歩いている鎖瀾閣の多くの写真をデータ入力した。

 則岡氏の目がきらきら輝きはじめた。「すごい!」氏の美意識と古建築への情熱が燃え盛った。「やりましょう!いややりたい」そう氏は言った。

 真っ暗なトンネルの出口が見えた、とその瞬間思った。(続く)

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写真 ナオミの家(HP「あなたの街の材木屋さん」第26回・有限会社則岡木材/兵庫県伊丹市より)
 
 注:この原稿は「谷崎文学友の会会報9」と重複しています。


 

連載【街角たんけん22】

Dr.フランキーの街角たんけん 第22回 もう一つの新開地(その4)
オフィスビルの寿命

プランナーズネットワーク神戸 中尾 嘉孝

 ところで、明治期に建てられたオフィスビルはどの位の期間で建て替えられているのか。

 以前、栄町通の項で紹介した横浜正金銀行神戸支店は、明治27(1894)年に山口半六の設計で初代が完成した後、大正8(1919)年に長野宇平治の設計で現地改築され、昭和10(1935)年には、桜井小太郎の最終作品となる3代目が京町筋に完成、移転している。平均すると20年そこそこで改築を繰り返したことになる。3代目は比較的長く使われた方で、昭和55(1980)年、後身の東京銀行神戸支店が京町筋北の村野森建築事務所設計の高層ビル「東銀綜合ビル」へ移転した後、神戸市立博物館に改修転用されているのは周知のとおりである。金融機関の場合は、都市の重心移動に反応して動いているところが多分にある。

 とまれ、戦災とそれに続く高度成長期以前、20世紀初頭においても、産業界の大きな変動と膨張が、都市建築の更新を結果的に加速させ、ひいては都市景観を短期間のうちに大きく変えていく要因にもなっていた。

 因みに、大阪瓦斯は明治38(1905)年完成の赤レンガビルで23年を過ごし、御堂筋拡幅で安井武雄のガスビルを新築した(昭和8(1933)年)。

 京都電燈は設楽建築工務所設計の赤レンガ2階建の時代が25年近く続いた後、昭和11(1936)年、武田五一設計のモダンビルに建て替わった。

 神戸市電気局は、こちらも設楽事務所設計の煉瓦造2階建の本庁舎南側に鉄筋コンクリート造4階建を増築して業務量の増加をしのいだ。

 そして神戸瓦斯は…、昭和11(1936)年7月、本社屋改築に踏み切った。

 設計は渡邊節の建築事務所が引き受けた。渡邊といえば大阪商船神戸支店ビルや旧乾邸など西洋建築様式を駆使したスタイリッシュで華麗な作品がまず思い浮かぶ。が、瓦斯を使った新しい生活を宣伝するショウルームとしての役割も担うことが期待された新社屋のデザインは、「中世復興(ルネッサンス)式」では似つかわしくない。

 建築デザインはモダニズムスタイルの時代へ移ろうとしていた。(この項つづく)

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写真1 初代横浜正金銀行神戸支店(1894年、山口半六設計、現存せず) 写真2 二代横浜正金銀行神戸支店(1919年、長野宇平治設計、現存せず)
 
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写真3 三代横浜正金銀行神戸支店(1935年、桜井小太郎設計、現神戸市立博物館) 写真4 大阪ガスビル(1933年、安井武雄設計)
 

 

連載【まちのものがたり40】

水の情景4 ワタシの旅
睡蓮

中川 紺

〈これまでのあらすじ〉「水を探さなければ」との思いに突き動かされ、まちの中の様々な水を辿っている主人公ワタシ。しかし行く先々で出会う不思議な水たちは、探し求めるものではなかった。さらに自分が周囲の人間とは違うものであることを感じとっていく。


 灰色の雲が立ち込めていた。体に湿った空気をまといながら、ワタシはある街を歩いていた。雨の気配とは少し違うものを感じて立ち止まると、鉢の傍らに座る少女と目があった。焼き物であるらしい。大人が両手で抱えられる程度の大きさで、土ではなく水が張られ、丸い葉と一輪の花が浮かんでいた。

「こんにちは。きれいな花だね」

 声をかけたのは、水の気配のせいだけではない。ワタシと同じように肩甲骨のあたりで切り揃えた黒い髪に、不思議な親近感を持ったからだ。髪形以外にも似ている所があるような気がした。

● ●

「スイレン。ヒツジグサとも言うんだよ」

 小さな瞳でまっすぐにこちらを見ると、手に抱えていた図鑑を開いて差し出した。

 ……ヒツジグサ(未草/別名スイレン) 未の刻(午後二時頃)に花を咲かせるのでこう呼ばれる。

 初めて知る内容だった。そもそもスイレンとハスの区別もあまり出来ないというのに。

「今日で七日目なの」

 少女はじっと花を見つめている。小学校の高学年くらいだろうか。

「七日目って、なにが?」

「スイレンはね、普通は三日しか咲かないんだよ。ほら、ここに書いてあるでしょ。でももう七日も続けて花が咲いてるの。ちょっとヘンなんだ、これ。色も変わるんだよ」

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 かすかな機械音がして、花が写った液晶画面を見せてくれる。毎日デジタルカメラで撮影しているらしい。

 たしかに、花は色を変化させていた。薄い桃色が次第にピンク味を帯び、四日目からは水色が混じったような不思議な色になっていた。そして、今、目の前に咲くスイレンは、鮮やかな青色。同一の花とは思えない。

「夏休みの観察日記にしてるの。明日は何色になるのか、楽しみ」

「明日も見に来ていい?」

 ワタシも変化を見届けたい。

 いいよ、と言った少女の髪が、湿った風でゆっくりと揺れていた。

● ●

「終わっちゃったの」

 次の日、もう花は咲かなかったのだ。水に浮かぶのは大小の葉ばかり。少女は、これじゃあ観察日記にできないかなあ、と笑っている。歯がやけに白く見えて、彼女が日焼けしていることに改めて気がついた。そういえばワタシ、全然日に焼けないな、と白いままの自分の手をじっと見た。

 おねえさんって近所の人? と聞かれ、首を横に振って少女に告げた。

「この辺に住んでるわけじゃないの。ずっと旅をしてる。探している物があるから」

 空を見上げた。昨日とは打って変わって、真っ青な空が広がり、巨大な入道雲が立ち上がっていた。

 梅雨明けを告げるスイレン。

 あれはそういう花だったような、そんな気がした。(第4話・完)

(イラスト やまもとかずよ)




第82回・水谷ゼミナール報告

 

・日時:6月23日(金)18:30〜21:00
・会場:こうべまちづくり会館
・テーマ:「神戸のニュータウン開発を振り返って」

・発表:

(1)「神戸市のニュータウン開発を振り返る」大海一雄(西神N.T開発研究会)

(2)「しあわせの村開発の当時とこれから」石東直子(石東・都市環境研究室)

(3)「藤原台等北神戸地域におけるニュータウン開発の反省点」後藤祐介(GU計画研究所)

代表コメント/三谷幸司(三谷都市建築設計室)

司会/朝平武文(朝平都市計画事務所)

 60年代初頭から始まる神戸でのニュータウン開発は、「山、海へゆく」と言われる神戸の都市経営の代表的なものでした。現在では高齢化の進展や空家等の問題が様々に言われているなかで、今回は長らくニュータウン開発に携わってこれらたプランナーや地域で活動されている方々からお話を聞きました。

 大海さんは、神戸市役所におられるときから西神ニュータウン開発に関わられ、退職後「西神N.T開発研究会」を立ち上げ、地域住民とともにニュータウンの将来像を模索するなどの活動を行っています。神戸市におけるニュータウン開発をマスタープランからおこしながら体系的に述べられるとともに、西神ニュータウンの特徴として職住近接型で造られていることなど、興味深いお話しが聞けました。

 石東さんからは、ご自身のプランナーとしての“原点”である「総合福祉ゾーン『しあわせの村』」について、当時の計画に対する思い入れや、約20年経過した現在においても常に更新ながらまちが築かれており年間200万人もの入村者があることなどのお話しがありました。

 後藤さんからは、大学時代からご自身が携わったニュータウン開発を紹介するとともに、とくに現在においても関わっている北神ニュータウンについては、西神ニュータウンに対して北神ニュータウンはゆっくりと造り上げるまちであることや、スライドを交えた現状報告など、楽しく語っていただきました。

(中井都市研究室 中井 豊)


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発表者の皆さん。左から大海さん、石東さん、後藤さん
 


情報コーナー

 

阪神白地市民まちづくり支援ネットワーク・第51回連絡会

・日時:8月4日(金)18:30〜20:50
・場所:神戸市勤労会館404号室
・内容:テーマ「地域とつながる元気NPO」

パネラー:

(1)「地域商業と学生NPO」/伊達康一(甲南地域経営研究所)

(2)「修学旅行が地域に元気を!」/田中聡(神戸まちづくり研究所)

コーディネータ:野崎隆一(遊空間工房)

・会費:500円
・問合せ:GU計画研究所(TEL.078-435-6510)

たんば田舎暮らしフォーラム

<第1回>
・日時:8月5日(土)13:00〜16:40
・場所:エル・大阪
<第2回>
・日時:9月16日(土)13:00〜16:40
・場所:兵庫県民会館
<第3回>
・日時:2007年1月14日(日)13:00〜
16:40
・場所:ソリオホール
・内容:

<基調講演> 小森星児(神戸商科大学名誉教授)

<シンポジウム> コーディネータ/長澤彰彦、パネリスト/丹波への移住者たち、

<田舎暮らし体験者との交流会> ・問合せ:(財)兵庫丹波の森協会たんば・田舎暮らしフォーラム実行委員会(TEL.FAX.0795-73-0933)

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