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ジョグジャカルタからの報告

名古屋大学大学院環境学研究科/災害対策室 木村 玲欧

 2006年5月27日、インドネシアをマグニチュード6.3の内陸直下型地震が襲いました。ジャワ島の古都ジョグジャカルタの南方にあるバントゥル県付近で発生した地震で、約5700人が亡くなりました。

 名古屋大学では、6月3日〜11日にかけて自然科学研究者を中心とする第1次調査団が、7月4日〜10日にかけて社会科学研究者を中心とする第2次調査団が現地で調査をしました。私は防災心理学の観点から被災者へのインタビューを行い、被災者の生活再建の現状と課題について見てきました。以下に簡単に述べていきます。

■震度6弱程度でも全壊率80%以上

 第1次調査団によって、震度はせいぜい6弱であることがわかりました。現地に入ると、電柱が倒れたり、道路が壊れていることはないのに、集落の家はほとんどが全壊しました。被災者の話を総合すると、レンガをつみあげただけの壁が崩れてきて下敷きになったとのこと。ちなみに屋根は軽い(スカスカの)瓦をふいているだけなので、落ちてきても大きな問題はなかったそうです。ジャワ島は、過去100年のあいだ大きな地震はほとんどなく、そのため住民は誰も「地震」のことなど考えもしなかったそうです。

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写真1 テント暮らしをしながらガレキを片づける
 
■災害ユートピアの世界のなかで共助による片づけが続く

 震災後数日〜2ヶ月のあいだは、一般的に「災害ユートピア」の状態といわれます。災害によって一変した新しい環境のなかで毎日を精一杯生きるために、みんなでルールを作って、避難所などで炊き出しをしたり、支援物資を分配しながら生活をする。いわゆる阪神・淡路大震災での「がんばろう神戸」の世界です。被災地はまさにそういう状態でした。

 国内外のNGOから支給されたテントで生活し、「ゴトン・ロヨン」と呼ばれるジャワ農村の相互扶助(共助)によって、住民の手で家屋の解体や後かたづけを行っていました。

被災地は農村部のため、水や食糧には特に困っておらず、ある種の穏やかな雰囲気のなかで着々と作業が続けられている感じでした。またボランティアは、国内のイスラム教系が多くはたらいていました。

■国際的な支援が望めず、今後の自立再建には大きな壁

 災害当初こそ大きな注目を集めましたが、日本でも10日を過ぎると新聞記事に載らなくなりました。国際社会からの注目そして支援の低下が懸念されます。「片づけまではできるけど、家を建て直すお金がないので、これから自分たちがどうなるかわからない」というのが住民の正直な感想です。国連もインドネシア政府も「自立再建の意欲を削ぐ」という理由で、仮設住宅を建設しないことを決定しています。とりあえず死者1人に対して30万ルピア(約4000円)が支給されていますが、もちろん現地の貨幣価値でも雀の涙です。また多くの住民が「副大統領が支援を約束した。だから何とかなると思う」と述べますが、その口約束だけを生活再建の支えにするのは、あまりにも弱くそして危険です。今後、災害の影響はじわじわとボディーブローのように被災者たちを襲い、長く困難な生活再建になる可能性があることを感じました。今後も、定期的に被災者の動きを追っていきたいと思います。

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写真2 仮のすまいを建てたところもある
 

 

連載【コンパクトシティ20】

「コンパクトシティ」を考える20
阪神・淡路大震災とコンパクトシティ(前編)

神戸コンパクトシティ研究会 中山 久憲

1.神戸の地形の特徴と天然の良港の誕生の歴史

 神戸の地形の特徴は、大阪湾という海のすぐ近くに最高峰931mの六甲山系が連なり、海と山に挟まれた平坦部が3〜5kmしかない点である。

 この特異な地形は、1960年代の地球科学の革命である「プレート・テクトニクス」の理論で説明できるようになった。今から170万年前からと言われる地殻変動(第4紀の地質時代)の過程で日本列島は誕生した。日本列島は、地球を構成する20枚程度のプレートのうちの北米プレートとアジアプレートに、その下に潜り込もうとする東からの太平洋プレートと、南からのフィリピン海プレートによって、強い圧力を受けている。東からの力で、日本列島は糸魚川−静岡構造線で折れ曲がり、近畿地方は東からの力と、フィリピン海プレートによる南からの力を同時に受ける。そのため、敦賀湾−伊勢湾を結ぶ間の(逆)断層で隆起した山地は南北方向に、紀伊半島−四国を結ぶ中央構造線は東西方向に、そして淡路島、六甲山系、琵琶湖西の比良山系は斜め方向に連なる「近畿トライアングル」と呼ばれる特異な地形を形成している。三角形の内部の(正)断層で沈降してできたのが、琵琶湖であり、大阪湾である。そのため、プレート内部の活断層が千年に1・2度動き、大地震が発生する宿命を背負わされている。

 六甲山系から流れ出す河川が運び出した土砂が間氷期の海面が高い時代に大阪湾に堆積してできたのが南北方向に狭い神戸の平坦部である。

 六甲山系は東から西に向かって低くなっていくが、現在の兵庫区を流れる新湊川の上流の天王谷川と石井川は、六甲山系の北側になる鈴蘭台の丘陵地を流域に持ち、表六甲河川流域で最大の流域面積(30kF)で、生田川の2.1倍、住吉川の2.7倍である。旧湊川は流れを変えながら他の河川より多くの土砂を運び出し堆積した。

 さらに、明石海峡では大阪湾と播磨灘の海面潮位差により最大流速9ノット(時速16km)の潮流が生じ、東向きの早い潮流が垂水、須磨、長田を流れる河川が運び出した砂を運び、現在の和田岬の周辺に砂嘴を形成した。

 旧湊川と明石海峡の潮流で運ばれた土砂でできたのが、大阪湾に三角形の形で張り出した特異な地形である。この地形のおかげで、南西の風を防ぐことができ、古代・奈良時代から「大輪田の泊」は天然の港として、瀬戸内海の海運の中心となった。平清盛は天然の良港に眼をつけて、福原に都を移し、日宋貿易を独占しようと、港の大修築(経ヶ島埋立)に乗り出したが、平氏の滅亡によって野望は潰えた。しかし鎌倉時代に、東大寺の僧の重源によって修築は完了し、その後の中世から江戸時代末期まで「兵庫津」と呼ばれた港湾都市としての繁栄の時代を築いた。

 幕末に幕府は日米通商条約等で5港の開港を約束した。条約調印の勅許を朝廷に求めたが、兵庫開港を巡り、京や大坂に近い理由で最後まで許されず、開港を要求する列強国の圧力に徳川幕府は統治能力を失い、1868年の兵庫開港とともに王政復古となり、265年間の幕藩体制が終焉した。

2.兵庫商人が担った神戸の近代化と工業化

 兵庫開港は、実質的には居留地の建設地に人口希薄な神戸村が選ばれ神戸開港になった。政府は近代化及び産業の育成に力を注ぎ、欧米先進諸国に軍事的経済的に追いつくため、神戸は官による新しい港湾施設の建設と居留地の整備により国際的貿易港としての発展を遂げる。その影には、港湾機能が神戸に移行する中、兵庫津で財を築いた兵庫商人の手で近代化の基礎が築かれた。

 兵庫区長であった神田兵右衛門は、県や民間の出資を得て「新川社」を設立し、1876年には新川運河約1kmを完成させた。神田の後を引き継ぐ形で池本文太郎と八尾善四郎の二人が奔走し、1893年に「兵庫運河株式会社」を設立し、1899年に本線1800m、支線764mにわたる日本一の長さの兵庫運河を完成した。

 1896年に兵庫の小曽根喜一郎、大阪の藤田傳三郎、東京の大倉喜八郎ら27人の有力者が「湊川改修株式会社」を設立した。旧湊川の流れを長田の苅藻川まで4.4kmの新川を建設し、新湊川として長田の海に流れを変え、神戸港への土砂の堆積を避けることと、神戸駅周辺を水害から防ごうとした。途中の会下山の下に600mのトンネルを掘る大工事もあったが、会社は工事費用を、旧河川と堤防の土地を入手し、掘削した土で川崎浜や河床を埋め立てて(新開地)売却することで回収した。1901年に付け替え工事が完成した。

 官営鉄道として東海道線が東京から神戸まで建設(全線開通は1889年)されたが、神戸から西は海上輸送しかなかった。このため、1886年に神戸の有力者で神戸−姫路間に民間鉄道として山陽鉄道を作る計画をした。政府は西に延ばすのは将来の仕事として計画に難色を示した。紆余曲折後、政府は事業区間を下関まで延長させ、将来は国が買収する条件で、民間鉄道事業として免許を与えた。1887年に会社設立し、同年には姫路まで完成し、1894年には広島、1901年に下関まで開通し、山陽鉄道は西日本の大動脈になった。

 明治以降、神戸は単なる港湾都市の機能だけではなく、民間の力に支えられた基盤整備を基礎に、20世紀には日本の工業化の中心の重工業都市としても大きく変貌し発展した。

3.神戸の膨張的発展を阻んだ六甲山系

 日本全体の近代化で港湾工業都市として確固たる地位を築いた神戸市は、貿易商社、保険金融業、鉄鋼業、重機械工業、食品工業、ゴム製造業等の企業本社が立地し、戦前には日本第3位の都市を築くまで発展した。東西に細長い市街地は、臨海部に工場が、山麓部には住宅が立地し、中間部は住商工が混在する三層構造を形成し、通常の生活は南北を歩いて移動ができた。東西の移動には、阪急電鉄、国鉄、阪神電鉄、山陽電鉄がほぼ1km以内を並行して運行し、その間を市電網が補完していた。まさにコンパクトな市街地であった。

 第2次大戦で、市街地の大半が空襲を受け、産業と市民生活は壊滅的に破壊された。しかし、戦災からの復興をほぼ10年で達成した日本経済は、1960年代以降に高度経済成長期に突入し、都市にはさらなる産業と人口が集中することとなり、市街地の拡大は郊外開発に求める時代を迎えた。

 しかし、神戸市は市民に四季に織りなす景観や自然の恵みを与えてきた六甲山系と田園地域に阻まれることとなった。このため、人口増加の圧力には、背山の神戸電鉄沿線の開発や、表六甲に残された山麓部の土砂を取り、臨海部を埋め立てる方法で対処した。70年代のマイホーム・郊外開発ブームの圧力には、須磨区や垂水区の六甲山系の北側の丘陵地の土砂を削り取り、新たに住宅団地を造るだけではなく、工業団地、流通団地、学園都市を併設する開発を行った。そして、削り取られた土砂で、神戸港の沖合を埋立、港湾機能の拡充を図るだけではなく、住宅等の都市機能も併せた人工島を産み出した。新たにできあがった新開発地や人工島と市街地は、地下鉄や新交通で結ばれ、発生集中する交通には、可能な限り自動車交通を抑制するネットワークを形成した。

 六甲山系に成長を阻まれたことで、逆に計画的に開発をコントロールでき、市域を市街地、緑地、農地で概ね3等分し、都市の持続的発展のため「成長管理」できる都市構造ができたのであった。

4.工業社会の終焉とインナーシティ現象

 1970年代のドル・ショックとオイル・ショックによって、それまで重工業を支えてきた安価な石油の確保ができなくなったことと、工業生産は資源や労働コストの安い工業化の初期段階の国に移行するグローバル化の加速が避けられなくなった。先進工業国の工業社会の終焉であった。

 80年代には、神戸の工業化を支えてきた重厚長大・装置型の工場のコストの安い地方や海外への転出や廃業が続き、市内の産業構造の転換が課題となった。さらに、工場の転出や廃業は、雇用の減少、周辺の商業・サービスの衰退、更新されない老朽化した住宅に高齢者層が残される「インナーシティ現象」が市内各地で顕在化し始め、インナーシティ対策も都市の政策課題になった。(続く)


 

連載【まちのものがたり41】

水の情景5 ワタシの旅
雨どい

中川 紺

 青かった空が突然薄暗い色に変化したかと思うと、間髪を入れずに大粒の雨が次々と地面にしみを作りはじめた。すぐそばの古いビルのらせん階段が目についたので迷わずにそこに駆け込んだ。たぶんすぐに止むだろうな。そう思いながらも、少し濡れた肩や髪を拭くものがないか、持っていた白い布製の手提げかばんを覗き込んだ。そういえばいつからこのかばんを持ち歩いていたのだろう。記憶はもやの中で、思い出せなかった。

● ●

 かばんの中は空っぽだった。そう思ったら、底に何か丸いものが転がっていた。取り出して見ると、それは緑色のカナブンで(知っているはずも無かったのに、なぜかこの名前がすぐに頭に浮かんできたのだ)、すでに生きてはいなかった。それでも硬い羽根の表面は艶を失っていない。

 ちょうど隣接した木造アパートの敷地に大きな木が立っていた。二階の屋根のあたりに枝を広げて、その枝先がこちらのビルのらせん階段まで届いているのが見えた。ワタシは枝に届くところまで階段をあがると、そっと緑の虫を葉に乗せた。この高さからはアパートの屋根の上が見渡せた。木から落ちたらしいセミの死骸が無数にあり、それらは強い雨水に流され、落ち葉とともに雨どいにするすると吸い込まれていた。

 詰まってしまいそうな気がしたが、そんな気配は見せずに雨どいは水とセミと葉を呑み込んでいった。

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 雨がやんでから、ふと気になって雨どいの出口の部分を探した。外の溝につながったところには、いくらかの落ち葉が漂っていたが、あの大量のセミたちの姿は見えなかった。

「あんた、この街の人じゃないね」

 しわがれた声に振り返ると、初老の男性が杖をついて立っていた。このアパートの管理人らしかった。

「その雨どいの先が気になるなら、明け方、この先の川に来るとええ」

 言い残して一階の扉に消えていった。

● ●

 川面に朝日が反射している。川自体はそれほど大きくはないが、川底の石がとても色鮮やかだ。そして、朝日を受けて、川の流れの両岸に虹色の管が何本も現れた。初老の男が杖の先で差して言った。

「あれが、昨日の雨どいのもう一つの出口。この街で死んだ虫たちの多くがいろいろな水路を伝ってここまでやってくる」

 管の先からは、大小様々な石が川に送り込まれている。地味なものもあるが、鮮やかな黄色い縞や、緑の斑点を持つものもあった。この街の虫たちは、自分自身の色を残した石に生まれ変わって川に帰るのだという。

 カチン、と音をさせて緑色の物体が管から落ちた。見れば角が取れたガラス片だった。

 それは「違う土地のものが紛れ込んでしまった」時に起こる現象だと老人は言った。

 あんたが持って行くといい、と手渡される。その鮮やかな緑色を眺めて、きっとあのカナブンだろうとワタシは思い、かばんの中にそっと入れて、立ち上がった。

 新しい石たちはもうすっかりと馴染み、流れを受けて静かに輝いていた。(第5話・完)

(イラスト やまもとかずよ)




阪神白地 まちづくり支援ネットワーク・第51回連絡会報告

 

 NPO法ができて今年は8年目を迎えます。兵庫県下でも法人認証が1000を超えました。今回は、そのような状況をふまえて「地域とつながる元気NPO」をテーマにしました。当初、まちづくりなどの場面で地域社会との連携を危ぶむ声も多かった中、まちづくりをテーマにしたNPOが地域との連携のもとで活動している事例を集めました。

1.「地域商業と学生NPO」/甲南地域経営研究所代表 伊達康一
2.「修学旅行が地域に元気を!」/神戸まちづくり研究所事務局 田中聡
3.「尼崎南部の歴史を生かしたまちづくり」/尼崎南部地域研究会 若狭健作

 伊達さんからは、学生時代にボランティアとして関わりを持った甲南本通商店街との出会いから研究会の立ち上げまでの経過を語っていただきました。特に商店会のイベントへの参画を通じて、新しい人間関係を築けたことや、イベント企画の専門集団として、各地のまちづくりと連携を拡げていることが報告されました。田中さんからは、5年前より地域団体との連携で始めた修学旅行受け入れ事業の現況について報告をいただきました。対象地区は、長田区に始まり、中央区、灘区とエリアを拡大しながら今日に至っていること。来神する学校もリピーターが増え、受け入れ地域も楽しみにしてもらっている状態。なにより子供たちを受け入れることで地域の人々が元気をもらっていることなどが報告されました。若狭さんからは、「運河ツアー」「あまいも」「メイドイン尼崎カタログ」など、工場と煤煙の町、公害の町と言われている尼崎南部地域に新しい価値を見つけようとする多彩な活動の紹介がありました。

 3人とも20代の若者で、若手ネットの次世代が着実に育ってきていることを実感できる楽しい会になりました。

(遊空間工房 野崎隆一)




情報コーナー

 

●第83回・水谷ゼミナール

・日時:8月25日(金)18:30〜21:00
・場所:こうべまちづくり会館6階会議室
・会費:1,000円
・内容:

・ テーマ「ランドスケープの仕事を振り返ってこれからを考える」

発表
(1)「量の時代(1975〜1985頃)」/白井治(まち空間研究所)松下慶浩(環境緑地設計研究所)

(2)「質の時代(1985〜1995頃)」/門上保雄(門上環境計画事務所)、山崎満(UR大阪事務所)

(3)「住民参加の時代(1995〜2005頃)」/山地孝之(景観設計研究所)、辻信一(環境緑地設計研究所)

(4)「ランドスケープのこれから」(全員)

・問合せ:GU計画研究所(TEL.078-435-6510)

●10月1日阪神・阪急の合併記念のシンポジウム「緊急提言/阪神・阪急の合併は何を生み出すのか」

・日時:10月1日(日)14:00〜16:00
・場所:芦屋市立美術館講義室(芦屋市伊勢町12-25、TEL.0797-38-5432)

・内容:

司会進行/土井勉(神戸国際大学教授)

パネリスト/
角野幸博(関西学院大学教授)「阪神間文化の再構築のために」

北夙川不可止(歌人)「阪神間の歴史的景観の継承と発展を考える−甲子園筋のポプラ並木伐採問題をきっかけに」

河内厚郎(文化プロデューサー)「阪急阪神統合と沿線文化」

三宅正弘(武庫川女子大学助教授)「阪神間の域なき都市」

・資料代:500円
・問合せ:阪神間倶楽部(まちづくり(14)コー・プラン、天川佳美tel.078-842-2311)

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