きんもくせい50+36+42号 上三角目次へ

 

災害の月、9月に思う

非認証NPOきんもくせい代表 小林 郁雄

 9月は災害の月だ。立春から「夏も近づく八十八夜」が茶摘みの初夏で、二百十日という台風の危険日は9月1日あたりである。

 1999年集集大地震は921震災と台湾では呼ばれ、9月21日におこった。2001年9月11日はNine Elevenと呼ばれるアメリカ悔恨の日である。

 もちろん我が国でも1923年の関東大震災に因んで制定された防災の日は9月1日である。

 中学時代の1959年名古屋で伊勢湾台風を経験した。あれは9月26日の夜と記憶している。夜半より風が強烈に吹き、木造2階建ての事務所兼住居の玄関のガラスが割れ、父と兄と3人で中から畳で押さえていたことを覚えている。瞬間最大風速45m(だったかな?)を直に体験した。真夜中、突如風がおさまり、表に出てみると、ぽっかりと星が見えた。束の間、再び猛烈な風雨が始まった。あれが、台風の眼だった!と気づいた。死者行方不明者5098人、阪神・淡路大震災まで戦後自然災害で最多の犠牲者であった。

画像42s01
中日新聞1959年9月27日夕刊
 
 災害の月、9月に思うことは、復興とは何かということである。奇しくも36年後に神戸で阪神・淡路大震災に遭遇し、都市計画プランナーとしての50歳からの後半生は震災復興のみの人生となった。復興市民まちづくりへの模索はまだ続いている。

画像42s02 画像42s03 画像42s04
関東大震災(銀座4丁目より日本橋方面)国立科学博物館地震資料室 台湾921地震(霧峰郷光復國中・921地震教育園区)/小林郁雄撮影 USA911テロ(一本だけ残ったWTC北棟崩壊1分前)/青山公三
 

 

連載【街角たんけん23】

Dr.フランキーの街角たんけん 第23回 もう一つの新開地(その5)
神戸のモダニズム建築

(プランナーズネットワーク神戸) 中尾 嘉孝

 神戸瓦斯の新本社屋の外観は、どのような姿になるのか。

 建築デザインの潮流はモダ二ズムへ向かっていた。大阪の町と比較して、保守的といわれる神戸の地にも、1930年代後半にモダ二ズム建築が姿を現すようになる。

 公共建築では、既に神戸市営繕課により、学校建築で機能主義デザインの作品が実現していた。新開地に近い松本通1丁目でも市立第一神戸高等女学校(現湊川中学校)、そのすぐ南側に同川池尋常小学校(統合を経て現会下山小学校)が端正なファサードを見せていた。
 商業建築では、とりわけ交通機関と娯楽施設でランドマークとなる建物が出現をしている。その代表格は、東では阪急三ノ宮駅と阪神元町ビル、それでは西は何か。とどめをさすのは、やはり「エエトコ」聚楽館だろう。

 娯楽の殿堂「聚楽館」にも紆余曲折があった。大正2(1913)年完成の初代聚楽館は、新開地という娯楽のメッカにあって、東京・帝国劇場の向うを張って「芸術の殿堂」として誕生した。しかし、庶民の「歓楽の巷」新開地に、翻訳劇などの「芸術」という花が根付くはずもなかった。経営は赤字続き。経営を引き受けた武岡豊太は館内の貴賓室を芸術家のサロンとして開放するなど経営努力を進め、その間には内外装の一部を改造するなど、施設のリニューアルも図られた(二代目聚楽館)。しかし事態は一向に改善をしなかった。

 昭和2(1927)年、聚楽館は松竹に買収され、映画館として再出発した。が、もともと演劇専用ホールとして設計された聚楽館の施設は、陳腐化していた。同8(1933)年、松竹は聚楽館の現地改築に着手。松井須磨子らが喝采を浴びた「芸術の殿堂」は、完成から約20年で姿を消し、翌9(1934)年12月、跡地に大阪木村組の設計・施工で、鉄骨鉄筋コンクリート造5階建の映画館と屋内スケートリンクを備えた3代目聚楽館が出現した。
 阪急会館はガラスシャフトの、そして阪神元町ビルはカーテンウォールの階段室が、それぞれデザインの見せ場の一つだった。劇場とスケートリンクという複合施設である「新生」聚楽館は、カーテンウォールのある大きなアールで仕上げたコーナー部に正面玄関を設けた。また、聚楽館北すぐの所にあるパチンコ店「メトロ」は、つい先ごろ現地改築されたが、その改築前の建物は松竹興業の「松竹劇場附属食堂」で、竣工当時は、やはりカーテンウォールを取り入れたアールのあるファサードが特徴だった。

 ガラスを大胆に取り入れた大きなアールのコーナー部を持つ2つの娯楽施設が、ほぼ同時期に新開地本通りに出現したことは、一昔前のセセッションスタイルなどの「衣装」ならぬハリボテをまとった、その実、明治後期の木造劇場が少なくなかった、この界隈を通りかかる人々に、少なからぬインパクトを与えたに違いない。(この項つづく)

画像42s05 画像42s06 画像42s07
写真1 神戸市立川池尋常小学校(出典「工事年鑑紀元二五九六年」清水組) 写真2 「三代目」聚楽館(出典「近代建築畫譜」) 写真3 松竹劇場附属食堂(設計・施工:白波瀬工務店、出典「新建築」第13輯9号)
 

 

連載【コンパクトシティ21 最終回】

『コンパクトシティ』を考える21(最終回)
阪神・淡路大震災とコンパクトシティ(後編)

神戸コンパクトシティ研究会 中山 久憲


5.阪神・淡路大震災と復興事業

 1995年1月17日午前5時46分に、淡路島北端の深さ16kmを震央とするマグニチュード(M)7.3の「兵庫県南部地震」が発生した。プレート内部に蓄積されたエネルギーが、淡路島から神戸、芦屋そして西宮の市街地の真下の活断層を動かしたのである。この地震で六甲山最高峰が12cm隆起した。神戸を襲った大地震は1596年の「伏見大地震」(M=7.1)以来399年ぶりであった。

 近代化以降の初めての都市直下型の震度7の激震で、阪神間の都市では、高速道路、鉄道、港湾の都市施設に壊滅的な被害が発生し、24万棟の建物が全半壊し、6,434人という尊い命が一瞬にして奪われた。この震災は「阪神・淡路大震災」と呼ばれるが、「プレート・テクトニクス」の理論でも予知できなかった地球という自然の大きな力を見せつけた災害であった。

 被害の特徴は、神戸市内の人的被害がインナーシティの老朽木造住宅密集市街地の地域に集中し、災害時の脆弱性を露呈させたことである。更新されず残った戦前あるいは戦後10年間に建設された建物が、倒壊・滅失の49%を占めた。死亡者の内、60歳以上の高齢者が59%を占めたのも、住んでいた老朽住宅が一瞬に倒壊し、家屋の下敷き等で圧死や窒息死で亡くなったからと報告されている。また、火災の被害も神戸市に集中し、焼損棟数7.386棟、焼損面積82万F(過去5年間平均の102倍)、5,000F以上の大規模火災が22地区を数えた。大規模火災の大きな原因は、消防水利に必要な水道配水管や配水池が地震で被災したことであるが、細街路が老朽建物の倒壊で塞がれ、ほとんど微風下であっても、延焼を免れなかったからでもあった。

 被災者の生活を取り戻すための復興事業が急がれた。脆弱な密集市街地を再生せず、「安全で安心して暮らせるまち」へ復興するために、当面の建築規制と計画的な整備事業が課題となった。道路や公園の都市基盤や生活基盤の脆弱な被災地は、都市基盤は行政が公共事業で整備し、区画道路や住宅の生活基盤は、地域の実情に沿って地域住民の創意工夫で提案する方式がとられた。いわゆる「2段階都市計画」である。被災規模の大きかった6地区(実質11地区)で区画整理事業が、2地区で再開発事業が提案され、震災から2ヶ月後の3月17日に第1次の都市計画決定がなされた。

 震災直後の混乱が続く中、前例のない2段階都市計画は理解されず、都市計画が定められた地域では、賛否を巡る意見の混乱が避けられなかった。現地相談所が設けられ、コンサルタント派遣などで復興事業の仕組みが説明される中、2段階都市計画の意義の理解も進み、被災地域の住民の意見をまとめるための「まちづくり協議会」が結成された。地域の歴史的背景や、地形の特徴、復興から新たなまちづくりへの思いが込められた「まちづくり提案」が提出され、「第2段階の都市計画」として計画決定され、事業計画に反映されたのであった。震災から11年が経過した今日、区画整理事業11地区の内9地区で、再開発の2地区の内1地区で事業が完了し、残る地区についてもほぼ復興事業の目処がついてきている。完成した地区の中には、1ha規模の(防災)公園が整備され、広幅員の歩道の中に「せせらぎ」が整備されるなど、平時は住民が主体となって維持管理し、災害時には避難所の機能を持ち、安全で安心して暮らせるまちづくりが実現している。

6.「コンパクトシティ構想」の提言

 震災復興事業が実施段階に入った1997年に、笹山(前)市長が第3期目に入った市政方針の中で、震災で得た教訓を踏まえて、復興後の神戸市の21世紀の目指すべき都市の姿として、安心して住み続けられるまちづくりを目指す「コンパクトシティ構想」を提唱された。具体的には、歩いて暮らせる範囲に、鉄道駅や、商業施設、医療施設があり、公共公益施設はバリア・フリーで整備されている。安全で、安心な生活ができ、誰でもが住み続けたいまちになり、常に3世代が交流しながら持続性のあるコミュニティを形成する。日常サービスは、できる範囲を市民自らが実施し、できないサービスは行政で実施する補完性の原理で運営される都市を目指す。

 笹山前市長は、1993年の第2期目に、明治開港以来の神戸市の発展を支えてきた港湾工業都市からの産業構造の転換と、右肩上がりの人口を収容する公的な「都市開発」と同時に住民サービスの向上を目指した「都市経営」からの脱却を指向するため、「アーバン・リゾート都市」構想を打ち出した。六甲山系や田園地域の育んできた自然成長管理型政策で残し、分節型の都市構造を基本にし、ファッションや観光などの文化産業を基軸とする「住み続けたくなるまち、訪れたくなる都市」を目指す都市像であった。

 ついで、「コンパクトシティ構想」の提起は、都市をコンパクト化するという、ある意味では、それまでの成長を目指す工業社会のパラダイムと全く逆行する思考の枠組みに迫る考え方である。

 工業社会すなわち戦後の経済成長期では、ひたすら都市区域を拡大し、一点集中型で都市の機能を効率的に配置し、都市全体が集積のメリットを追求し、成長を達成してきた。国家・会社・核家族を優先する思考が基本であった。

 集中型・効率型の都市のヒエラルキー構造から、都市自体を自立化・コンパクト化し、分散型ネットワークで連携する構造への転換を目指す。さらに、それまで軽視されてきた環境を大切にし、地域が重視され、コミュニティ、家族が中心となり、弱者への配慮を欠かさない仕組みへの再構築も必要である。しかも、決して欧米流のコンパクトシティ論や持続可能な社会論の輸入ではなく、日本の伝統や思考形態をベースにした独自のものでなければならない。それは、まさに震災から復興するまちづくりの姿や方向性であった。

7.まちづくり条例が示す地域重視の方向性

 21世紀の神戸市が「コンパクトシティ」を目指すことができるのは、一つには既に述べたように都市構造が分節的で、成長管理型の政策を実現し、コンパクト性を保持していることである。

 もう一つは、地域やコミュニティ重視の仕組みを既に作り、震災復興を通じて実践してきたからである。1981年に定められた「神戸市地区計画及びまちづくり協定に関する条例」は、形式的には前段が地区計画の委任条例であるが、後段が住民主体のまちづくりの方法を定めた当時としてはユニークな「まちづくり条例」の部分である。

 重要な役割を担うのが「まちづくり協議会」である。協議会の構成員は地域住民に限定せず、まちづくりに関わりたい専門家や法人など、多様な主体に広く門戸を開けている。地域のまちづくりの方針を定めるにあたっては、地域住民の大多数の支持(積極的な反対がない)が条件である。日本古来からの「和をもって尊しとなす」の精神を重視し、反対者の声に耳を傾け、意見を採り入れ、説得できるまで続けることを前提にしている。これは、決定後のしこりを避ける方法であるだけではなく、まちづくりに対して、「地域限定型の公共性」の付与を可能にする。まちづくり協定において、法律以上の規制内容を定めた場合、規制遵守の事例を積み重ねることで、慣習法的性格を協定は持つことができる。ハードのまちづくりにおいては、地域住民の共同利用施設(区画道路や小公園)整備に、地域の無償負担割合や、行政の負担義務(予算措置・事業化)を課すことができる。

 多数決の民主主義が明治維新後に、西欧から輸入された。自由・公平・公正・効率が法律制定の根拠となったのは、絶対主義権力から市民革命を経て、国民が主権者になるための基準であった。中央集権型国家主導の工業社会では、全国を画一的な価値判断で、金太郎飴型の政策を実現してきた。江戸時代の分権的で、多様性のある、個性豊かな社会が無くなった所以でもある。

 まちづくり条例で制度化されたまちづくり協議会方式の仕組みが、今後のコミュニティ重視の方式として拡張されれば、多様な目的や人材で組織されるコミュニティによる、多様性のある個性豊かな地域の活性化を方向付ける。地域の人々が誓約し、地域と行政が契約する。地域のことは地域で行い、足りないことは行政が補完することができる。それは、本稿の16〜18で述べた、3つの“COMPACT CITY”の概念を神戸市で実現できる日が来ることを意味しよう。(完)


 

連載【まちのものがたり42】

水の情景6 ワタシの旅
流れるもの

中川 紺

 朝と昼と夜。もうどのくらいの回数がワタシの頭上を過ぎていったことだろう。そしてどれだけの道のりを歩いてきたのだろう。

 探している水はまだ見つからない。疲れも眠りも知らない体だけれど、時々、何かに寄り添いたい気分になった。

● ●

 風に揺れて、ざわざわさわさわ、鳴いているのは、あちらこちらに植えてある庭木の枝葉だった。家々はもう寝静まっている。月と街灯の光だけでは細かな形や色味までは分からないが、辺りにはずいぶんと多くの木々が立っているようだ。

 見上げれば、丸い月が光っていた。今晩は満月らしい。

 しばらく歩くと、鈍い照明に照らされた看板がいくつか見えてきた。

 「○○造園」「□□□園芸」、そういったものが大半で、植木を生業にする家々が立ち並んでいることが段々と分かってきた。先ほどから風に揺られているものは、庭木であって商品でもあるのだろう。

 家の造りも、よく見れば年季が入っているようで、月明かりに照らされた瓦屋根は深い色をしていた。道こそ、アスファルトになっているものの、石垣と生け垣がそこかしこに立ち並んでいた。

● ●

 木々の声と、香りは、不思議な心地よさをワタシにくれた。

画像42s08
 
 ざあざあさあさあ。足下からその音は発していた。水の香りが薄暗闇に匂い立った。視線を落とした先には、垣根沿いにずっと続く溝があった。しゃがんでよく見れば、縁石もかなり古そうなものであった。

 脇水なのか、川の支流なのかはよく分からなかったが、その水量はかなり豊かだった。

決して大きな溝ではないけれど、どうしてずっと歩いていて気がつかなかったのか不思議に思えた。

● ●

 流れの中に、白く細い、光のすじのようなものが見えた。月明かりが反射しているようなものとは違う輝きだ。

 ずっと見つめていると、きらきらしたすじは、どんどん数を増しはじめた。手を差し入れると、細く光沢のある糸が指に触れた。無数の糸が流れていた。

 こんなものがどこから来て、どこへ流れていくのだろう。

 ワタシは後をつけた。つまりは、溝と流れの方向に沿って歩いたのだ。しかし大した距離も行かないうちに、歩みは止まった。溝が道の下に隠れ、暗渠になってしまっていたのだ。暗渠の入り口には、糸と葉と枝が見事に絡まり、奇麗な糸玉となってひっかかっていた。そっと手を伸ばして、それを手に取ると、水はすぐに引き、さらさらの糸となった。そうなると同時に光も失せ、本当に真っ白なただの糸玉になった。

 そばの電柱に、外れかけた迷子犬の看板があった。糸玉の糸で、それをそっと結わえるとワタシはその街を去った。

 かばんの中には白い糸玉がひとつ、先客の緑のガラス片と寄り添うように入っている。(第六話・完)

(イラスト やまもとかずよ)




第83回・水谷ゼミナール報告

 

・日時:8月25日(金)18:30〜21:00
・場所:こうべまちづくり会館6階会議室
・テーマ:「ランドスケープの仕事を振り返ってこれからを考える」

・発表:

(1)「量の時代(1975〜1985頃)」/白井治(まち空間研究所)、松下慶浩(環境緑地設計研究所)

(2)「質の時代(1985〜1995頃)」/門上保雄(門上環境計画事務所)、山崎満(UR大阪事務所)

(3)「住民参加の時代(1995〜2005頃)」/山地孝之(景観設計研究所)、辻信一(環境緑地設計研究所)

(4)「ランドスケープのこれから」(全員)、コメント:三谷幸司(三谷建築研究所)

 今回は、ランドスケープの仕事に携わるプランナー6人の方々が、自身のこれまでの仕事を振り返り、その変遷をたどりながら、これからのランドスケープを考えるという趣向。75年から10年ごとに“量の時代”→“質の時代”→“住民参加の時代”としたうえで(このような定義付けは今回初めての試みとのこと)、各氏の発表がなされていきました。

 神戸ではすでに70年代より北野や元町の景観整備にみられるように質の時代のシ仕事を行ってきたこと、住民参加の公園づくりについては、震災の直前に行われた上沢地区のワークショップが大きなきっかけになったこと、最近では大規模公園の住民参加による管理運営が行われることや公園のイベント企画など、仕事の内容も多様化していること、育ちすぎた公園の樹木を切ることによる景観整備の具体的な手法の紹介、などが発表されました。

 これからのランドスケープの課題として、様々なコラボレーションの必要性、都市の中の空間づくり(アーバンランドスケープ)、メンテナンスにおける住民参加の仕組み、などが出されました。(中井都市研究室 中井 豊)

画像42s09
発表者の皆さん。右から辻さん、白井さん、門上さん、山崎さん、山地さん
 


情報コーナー

 

●阪神白地市民まちづくり支援ネットワーク・第52回連絡会

・日時:10月6日(金)18:30〜20:50
・場所:神戸市勤労会館403号室
・内容:テーマ「中高生とまちづくり」

 解題「(仮)まちづくりマージナル世代」/田中正人(都市調査計画事務所)

 報告(1)「(仮)高校生と自転車マップづくり」/藤江徹((財)公害地域再生センター(青空財団))

 (2)「うちらのまちづくり大作戦!−中高生のためのまちづくりワークショップ」/大角玲子(こべっこランド)、東末真紀(神戸まちづくり研究所)

 司会進行:松原永季(スタジオ・カタリスト)

・会費:500円
・問合せ:GU計画研究所(TEL.078-435-6510)

●「世界をつなぐ音楽の花束 日本からアジア、そして世界へ〜音楽めぐり〜」

・日時:10月9日(月・祝)13:00〜16:00
・場所:三宮・元町 中華会館7階東亜ホール
・内容:第1部/芸術交流ワークショップ「伝承される伝統芸能―韓国の仮面劇を中心に―」

 第2部/交流音楽会−冬のソナタ、故郷の春、アリラン、他
・入場料:500円
・問合せ:多文化と共生社会を育むワークショップ 代表山地久美子(神戸青年学生センターTEL.078-851-2760)

●「阪神間近代文化の発祥と継承―阪神間モダニズム。その危機と救済―」

・日時:10月21(金)14:00〜15:30
・場所:武庫川女子大学中央キャンパス学術交流館1階大会議室
・内容:パネルディスカッション−コーディネータ/河内厚郎(文化プロデューサー)、パネリスト/小林郁雄(神戸山手大学教授・建築家)、河崎晃一(兵庫県立美術館)、たつみ都志(武庫川女子大学文学部教授)

・問合せ:武庫川女子大学関西文化研究センター(TEL.0798-45-9992)

上三角目次へ



(C) by 阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク

阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク・ホームページへ
学芸出版社ホームページへ