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ハリケーン・カトリーナ災害復興協力のための日米対話プロジェクトに携わって

同志社大学社会学部教授 立木 茂雄

 筆者は、これまで阪神・淡路大震災からの長期的な復興の過程について研究し、被災者や被災地はどのようにして復興していくのか、その折々には何が大切なのかについて考え、政策・施策の提言活動にも関わってきた。

 阪神・淡路大震災の復興調査は、京都大学防災研究所の林春男教授と共同で進めてきたものである。その林教授は2005年8月末のハリケーン・カトリーナ災害の突発災害調査団の代表として12月に現地入りした。帰国後すぐに、筆者に連絡があり、甚大な被害を受けたニューオリンズ市の人たちに、神戸の復興調査から得た知見をもとに、大都市が巨大災害に見舞われた後、どのようにして復興していくのかについて、ニューオリンズ市民に語りかけることの必要性を訴え、筆者も趣旨に賛同した。

 林教授、京大防災研の牧紀男助教授が、そのような機会の可能性やコンタクトを探る作業に奔走し、幸いなことに在ニューオリンズ日本国総領事館の協力を得て、2006年3月には、ワシントンDCおよびニューオリンズ市内で、林教授とともに神戸の復興の過程について講演する機会を得た。

 帰国後、さらに深い対話や交流がニューオリンズと神戸との間に築けないか、林教授や牧助教授は模索を続けた。その結果、ニューオリンズ総領事館の仲介もあり、国際交流基金日米センターの主催により実現したのがハリケーン・カトリーナ災害復興協力のための日米対話プロジェクトであった。

 2006年10月15日からの1週間のうち週の前半は、ニューオリンズ市の復興のキーパーソンとなる一行8名が神戸を訪れ、住宅・都市再建、コミュニティづくり、防災・減災対策の3つのテーマに分かれ、それぞれに神戸側のカウンターパートが仲介役となって関係者との交流・対話事業を実現させた。

 復興まちづくりをテーマとした第1グループは、代表的な事例である野田北部や松本地区などのコミュニティ・リーダーとの対話を行った。オリバー・トーマス市議会議長は、社会基盤の復旧・復興と並んで市民・事業者・行政の連携体制づくりが復興の基礎であること、市民と行政の協働による地域再建の重要性が強く印象に残ったと語ってくれた。

 ニューオリンズの地元紙タイムズ・ピキューン紙のゴードン・ラッセル記者は、来日するまでは神戸の復興計画は行政からトップダウンで下されたものだと思いこんでいたが、実際にはまちづくり協議会を通じた交渉によって双方が納得のいく形でまちづくりが行われていたことを学んだと語った。

 市民主導の再建計画づくりを進める協議会の事務局長のネーザン・シュローヤー氏は復興を進める上で、計画づくりの当初の段階から住民が参画することの重要性を再認識したと語った。

 長年にわたりニューオリンズ大学で都市計画を専門としてきたラルフ・テイヤー教授は、都市を直撃した巨大災害であり、復興が長期間にわたること、今後にわたって日米双方が互いを学びあえる関係にあるといった共通性と、災害から1年経っても災害前に比べて人口がほぼ半減したままで専門的な人材の不足、住民が戻ってこないことによるコミュニティづくりの遅れ、創造的な復興のための資金源は民間投資家に求めざるを得ない米国側の特異性についても言及した。

 コミュニティづくりを通した心の復興、地域経済の復興をテーマとした第2グループは、大倉山復興公営住宅のコレクティブ住宅(複数戸の住戸と共用リビング・ダイニングがセットになっている)と、高齢入居者の生活支援や入居者同士の人間関係づくりを団地に常駐して支援するLSA(生活援助員)の視察を行った。その後、震災直後に鷹取カトリック教会に集まった複数のボランティア団体がゆるやかな連携体制を維持しながら、さまざまな多文化共生の活動を続けてきた鷹取コミュニティ・センターのメンバーと討議を行った。

 第2グループに参加したカウンセラーの聖母聖十字架大学ヴェラ・トリプレット助教授は、被災者の心のケアの重要性を再認識するとともに、LSAによる住民相互の人間関係づくりが共助意識を醸成し、ストレスをうまく和らげている日本のやり方に共感を示した。

 ベトナム人コミュニティで牧会に携わるヴィエン・テ・グェン神父は、神戸を訪れることによって「われわれも復興できる」という確信が持てたこと、多文化共生が将来のコミュニティの強みに変わり得るという指摘に勇気づけられたと語った。

 防災・減災をテーマとした第3グループは、兵庫県の防災センター、神戸市消防局などで、震災を踏まえた県・市の危機管理体制や、神戸市みなと総局の担当者から震災後の港湾設備の復旧・復興状況について対話を行った。

 ニューオリンズ市緊急事態準備局ジョセフ・マシューズ長官は、ニューオリンズ市は、19世紀から現在まで何度ものハリケーン災害に見舞われ、その都度立ち直ってきた点をあげ、災害からの回復力が両都市ともに備わっていることを実感できたこと、地域コミュニティとの連携・協働の重要性を再確認したこと、都市基盤整備の復旧・復興や仮設住宅から恒久住宅への移行を神戸はいかに迅速に進めたのかに驚かされたこと、そして生活の復興を視野に入れなければならないことを学んだと語った。

 河川・海岸工学の専門家であるチューレーン大学/ザビエル大学生物環境研究所副所長ダグラス・マフェット教授は、復興は急ぎすぎてはいけない。急ぎ過ぎると、復興需要の受け皿は、大半が市外の開発業者の手に流れ、結果として資金が被災地内で循環しない。このような神戸の教訓を、われわれはこれからも学び続けていきたい、と語った。

 最後に、神戸での対話・交流事業の総括としてトーマス・オリバー市議会議長のまとめを引用して、この小文の結びとしたい。

 野田北部で語り合った時、ミスター・カワイがこのように話してくれた。「まちの復興については、もちろん行政が進めるべきところはある。けれども、行政がやった後の、最終的な責任は住民にある。まちの再建に住民が参画していくこと。これ以外に方法はない。」この思想を、われわれのまちでも実現させたいと思う。


 

連載【神戸のみどり6】

神戸のみどり・その6
『布引ハーブ園誕生異聞』(前半)

元神戸市建設局公園砂防部長 小森 正幹


1.発端

 1967年(S42)7月の神戸大水害により、布引カントリークラブゴルフ場は崩壊し、隣接した「市が原」の市民21人の尊い生命が奪われた。18ホールの無理なゴルフ場開発が原因と裁判になり、その補償が大きな社会問題となった。

 最終的には神戸市が5億6千万円で買収し、ゴルフ倶楽部はその資金で補償した。したがって、初めからこの土地利用計画は災害に強く、豊かな自然環境を保全することが条件だった。現在の地形を保全したままの土地利用計画立案は困難を極めた。

※神戸市行財政局の『神戸 災害と戦災 資料館』ホームページによると、「神戸 昭和42年7月9日には、熱帯低気圧となった台風7号は西日本に停滞する梅雨前線を刺激し、集中豪雨を西日本にもたらした。総雨量は371ミリと昭和13年よりも少なかったものの、1日当たり(9日=319ミリ)や1時間当たり(1時間最大75.8ミリ)の雨量は13年を上回るものであり、河川の氾濫により市内各地域で水害の被害を被った」とある。

2.発案

 「ハーブをテーマにした公園を布引か北神地区に創りたい」

 1983年(S58)秋の公園緑地部政策懇談会の席上のことだったと思う。若手の造園技術職員の、故・伊藤可人君が熱心にハーブ園構想を提案した。そのころの神戸市政策懇談会は、懸案事項に近い重要案件だけを議論するだけなく、一般職員からの提案も故・宮崎辰雄市長・三役まで説明できる機会があった。公園緑地部としては、同じ年の7月に神戸市公園緑地審議会に「布引ゴルフ場跡地の公園整備方針について」諮問していた。しかし、現実の問題として簡単に整備計画が決定できるものではなかった。1972年(S47)神戸市都市整備公社が神戸カントリークラブから先行買収後、1974年(S49)神戸市企画局は跡地の土地利用計画として甲南大学や県立高等学校用地などを検討しながら、1973(S50)神戸大学の田中茂教授に依頼して地質調査を進めた。平行して1976年(S51)〜1981年(S56)防災工事が兵庫県及び神戸市の手によって進められた。1977年(S52)跡地を都市公園にする含みで神戸市企画局(現企画調整局)から土木局(現建設局)に移管された。都市公園であれば、どうにか用地の買い戻しも含めてこの複雑な地形を利用した計画が立案できるだろうという結論だった。正直言って移管は公園側としてもかなり苦しかった。当時公社先行買収用地の買い戻し補助事業(公園用地)は、認められていなかった。起債も含めて事業化の目処がまったく立たない状況だったのだ。公園側の議論は「第一、どんな公園を整備するんや?」という意見を皮切りに空転し、当時かなりの不満があったことも事実である。一方、「市街地の中心地三宮に近い総合公園の整備は意義がある」「なんとかしょう」「既成概念とは違う公園はできないか?」などの積極的な意見も出されたが、暗中模索のスタートだった。

3.計画地の状況

 都市公園整備含みで計画地が土木局に移管されたとき、地質調査や市が原側の山腹工事も終わり、南斜面は基本的な防災工事が進行中だった。

 地形・地質の概略について述べる。園内を有名な布引断層に代表される大小4本の断層が横断している。当時布引断層上には廃墟の旧ゴルフ場のクラブハウスが存在した。割れた黒い窓から破れかけたカーテンの切れ端が風に揺れていた。あの阪神・淡路大震災でよく目撃されたような光景だ。ゴルフコースも崩れていたがコースの跡地形はよくわかった。すでにハギ、ヒメヤシャブシなどの低木が進入していた。播種による砂防樹だろうか?地形は六甲山系の取り付き部に当たる二つの尾根に囲まれた谷部で、今、香の資料館や香のレストランのある展望台は海抜約400mの山頂だ。9番ゴルフコースがそのまま広場になっている。地質は花崗岩で風化はかなり進んでいる。表層は約1〜2mの風化した表土で覆われていた。地質調査によると、かなり深い堆積もあるという。ところどころに岩も露出しているが、風化が進んでいる。土壌は弱酸性の砂質土で透水性が高いので、保水性と肥料の歩留まりが懸念された。

 森林構成は一部にクス、ヤブニッケ、カゴノキ、ヤブツバキなど当地の自然潜在植生である良好な照葉樹林もあるが、大部分はニセアカシア群落を主体とする二次林である。ニセアカシアは砂防樹として早期緑化の価値があるとされた時期もあったが、材質は脆く、風にも弱く、他の樹種を排除する性質もあるところから良好な森林ではない。ニセアカシアを早急に伐採し、ウバメガシ、クス、モミジ、コブシなどを植栽する森林更新を必要としていた。なお、ニセアカシアは今日的見解ではさらに有害外来種とされ根絶すべきという意見もある。いずれにしても1991年(H3)の開園当初から森林更新は進められているが、林相の良好化はまだ道が遠いという感じだ。

4.布引ハーブ園の発想の原点

 いま、なぜ? ハーブなのか?

(1) 「ハーブのある生活」は、その原点である42年災害の教訓を生かした環境に優しく、災害に強い安全な公園づくりをめざすことによくなじむテーマだと思った。

(2) 1984年(S59)9月の神戸市公園緑地審議会答申「布引ゴルフ場跡地の公園整備方針について」の自動車、コンピューターなどが発達した現代社会において、人と自然、人と人のふれあいなど、ともすると現代人が忘れがちなことを思い出させるテーマだ。

(3) それは自然、素朴、やさしさ、ぬくもり、あたたかさ、やすらぎ、手づくり、やわらかさ、いなか、ほんものなどの言葉で表現され、これらの言葉はすべて人とのかかわりの中で初めて意義を持つ概念だった。人間生活との深いかかわり、人と自然の共生、それにちょっとおしゃれなセンスを加味すれば、今までどこにもなかった新しい感覚の公園ができる。

(4) (1)〜(3)を考えていくなかで、ハーブこそ紀元前から人間の生活とともに生きてきたし、一つひとつは野草のように目立たないけれど、野辺の風に吹かれる風情は美しい。またハーブ園に訪れて感じ、かつ知って、ハーブの香りやキッチンハーブなど「ハーブのある生活」を家庭の生活に持ち込むことが出来る。

■その他計画に当たって意識したこと

●公園全体をハーブ中心とした都市公園は日本でも世界でも初めてであること。

●規模は全国スケールで整備すること。

●ハーブ専門家から見ても神戸しかないハーブ園であること。

●眺望留意、北野との連係重視の自然に囲まれた美しい花と香の公園であること。

●香の時代を予感できる新しい神戸の名所となること。(この項続く)


 

連載【まちのものがたり43】

水の情景7 ワタシの旅
アカネ

中川 紺

 車一台通るのがやっとというくらいの道路の真ん中に、子どもが数人、輪になってしゃがんでいるのが見えた。通学の途中らしく、全員が黒いランドセルを背負った男の子だ。

 なんだろう。

 なんだかずいぶんと楽しそうなので近くで見学してみることにした。

 そのあたりだけ水まきをしたらしく、地面がほどよく湿っている。子どもたちは、小さなくぼみに出来た水たまりに浮いた油を、枝でいじったり、息を吹きかけたりして、変化する虹色の模様に一喜一憂している。

「あーかーね!」

「おおー、すげー」

 小さなどよめきが上がったので、思わず覗き込むと、虹色の油の中に少しいびつな「アカネ」の文字が浮かび上がっていた。

「アカネ…?」

 好きな女の子の名前とか?
 ワタシがつぶやくのと、「こら、はやく行かないと遅刻するわよ!」と、ホースを持ったおばさんが、低い柵越しに声をあげたのが、ほぼ同時だった。

 子どもたちは一目散に駆けて行った。その人はやれやれといった顔で、また庭の芝生に水をまきはじめた。

● ●

 もう一度水たまりに視線を落とすと、もう油の模様は抽象画のようなものに変わっていた。あれは本当に一瞬の作品だったわけだ。

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 立ち去ろうとして少し動くと、太陽の光線が水に差し込み何かが光った。

 なんだろう。

 今日、二度目のなんだろう、だ。

 先ほど子どもが使っていた枝で水の中をさぐると、すぐに手応えがあり、五百円硬貨ほどのコインが出てきた。

 コインと言ったのは、明らかに日本のお金ではなかったから。片面には糸車の滑車を小さな恐竜のような生き物が回っている図柄、裏を返すと水紋が描かれていた。

 外国のコイン?
 しかし、アルファベットや数字がどこにも刻まれていない。

 おもちゃかもしれない。何となく気になってしまい(気に入ってしまい、というのが本当のところかもしれない)、ワタシはそっとそのコインをかばんにしまった。

 子どもたちがこれに気がつかなかったは少し不思議な気がした。水面の虹色が、わざと隠していたようにも思えた。

● ●

 どこかへ行くあては特に無かったので、子どもたちを追うように学校の方に歩いた。もう授業が始まったらしく、校庭のトラックを走る子どもたちの姿が見えた。

 学校の裏にまわると、ずいぶんと広い公園があった。周囲に低い石垣と生け垣がしつらえてあり、古いお屋敷を思わせた。

 もしかしたら、本当に元々誰かの大きな家があったのかもしれない。

 お屋敷の門柱にあたる、入り口の石柱に丸い書体で公園の名前が刻まれていた。

 あかね公園
 女の子の名前よりもずっと、子どもたちにはおなじみのものだった。(第七話・完)

(イラスト やまもとかずよ)




阪神白地 まちづくり支援ネットワーク・第52回連絡会報告

 

 ネットワークのまちづくり勉強会で中学生・高校生が関係するまちづくりをテーマに取り上げるのは、初めてであり、いろいろな分野で子供や中高生を対象とすることは少なくないであろうが、都市計画・まちづくりの分野ではめずらしいことだと思う。

 そのめずらしいテーマに取り組んだ2つの事例紹介と境界世代としての理解を田中さん解説し、そしてそこで語られたキーワードを松原さんが整理し、それをもとに討議が進められ、このテーマにとまどいながらも、思いの外、話が弾んだ。

テーマ「中高生とまちづくり」

○解題:まちづくりとマージナル世代/田中 正人氏:都市調査計画事務所
○報告:
1.高校生と自転車マップづくり/藤江 徹氏:(財)公害地域再生センター(青空財団)
2.うちらのまちづくり大作戦!中高生のためのまちづくりワークショップ/大角玲子氏:こべっこランド、東末真紀氏:神戸まちづくり研究所
○司会進行:松原永季氏(スタヂオ・カタリスト)

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藤江徹氏 東末真紀氏と大角玲子氏
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田中正人氏 松原永季氏
 


情報コーナー

 

●HANSHINKAN NAVETTE-MUSEE 一日だけのうごく美術館

・日時:11月3日(金・祝)9:30〜17:30
・場所:阪急西宮北口/兵庫県立芸術文化センター、阪神西宮/西宮市役所、JR芦屋駅/南口から出発
・資料代:500円
・内容: ちょっとその街に降りたってみたくなる、街並み、街角をめぐる一日だけのうごく美術館。地域文化を支える解説ドクトルが阪神間文化の見所を紹介しながら巡回運行。
・ルート:兵庫県立芸術文化センター〜白鷹禄水苑・集古館〜白鹿記念酒造博物館〜西宮貝類館〜西宮市民ギャラリー〜西宮市大谷記念美術館〜芦屋市立美術博物館・谷崎潤一郎記念館〜ヨドコウ迎賓館(旧山邑邸)〜堀江オルゴール館・主催:兵庫県阪神南県民局・阪神南地域ループバス検討協議会・協力:千里国際情報事業財団、阪神間倶楽部ほか

●NPO日本都市計画家協会関西支部設立記念・関西まちづくり交流セミナー

交流委員会行事

・日時:11月18日(土)13:00〜18:00
・内容:神戸・旧居留地「景観誘導と企業防災」の見学と説明、大阪・空堀「長屋再生と路地まちづくり」の見学と説明(後、空堀にて懇親会)

関西支部設立記念行事

・日時:11月19日(日)10:30〜16:00
・内容:歴史的町並み・富田林寺内町の見学、関西支部設立記念シンポジウム/じないまち交流館
司会:正木啓子(JSURP関西支部)

挨拶:黒川洸(JSURP会長)、多田利喜(富田林市長)

講演:越澤明(北海道大学教授)

座談会:木口俊彦・佐藤康平(寺内町をまもりそだてる会)、黒川洸、越澤明(司会)

取り組み表明:小林郁雄(JSURP関西支部長)

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