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復興リベラリズムの旗を掲げよう

関西学院大学災害復興制度研究所 山中 茂樹

 そろそろ反撃の狼煙をあげなければいけない。「住宅再建支援は耐震化の意欲を削ぐ」「被災者支援よりまず防災。危険なところに家を建てれば自己責任だ」。こんな批判や非難が高名な学者、官僚、さらには防災熱心な「率先市民」と呼ばれる人たちの間から漏れ聞こえてくる。いっさいの妥協を許さないとでもいうような「防災」の大合唱に、戦前、「非国民」の烙印を押して回った人たちのヒステリックな叫びと通底する不気味さを感じるのは私だけだろうか。

 「耐震化」や「自己責任」を葵の印籠のように振りかざす人たちを私は密かに「防災ファシスト」と呼んでいる。ファシストとは「結束した同盟者の集まり」。ファシズムとは「個々人の意思や思想を律し、型にはめるための権威」と定義されている。

 そもそも命が危ないのに住宅再建の支援金がもらえるからと言って、家が壊れるまで放置しておく人がどこにいるだろうか。阪神・淡路大震災で一番、死亡率が高かったのは独り暮らしの高齢女性だ。月額10万円足らずの年金で暮らしを立て、家賃1万そこそこの棟割り長屋に住む。家主も資力のない高齢者。この人たちを前にして「自分で自分の命を守る。自助こそ大震災の教訓だ」とだれがいえるのだろう。

 いや、それより新耐震基準でも3割の木造住宅が壊れるという統計があり、2005年の福岡県西方沖地震では新築マンションにも大きな被害が出た。「いや壊れるのは折り込みずみ。命さえ守られればよい設計になっている」と言ってのける専門家の無神経さに怒りさえ覚える。

 「民でできることは民で」といえば聞こえがよいが、要するに安全・安心に責任を持つことを放棄した政府。2001年の芸予地震の折、広島県呉市の被災地を視察した政府役人は「なんで、こんな危険なところに住んでいるのか」と眉をしかめたという。危険な急傾斜地の宅地は軍港建設という国策のもとに造成された鬼っ子だという認識もなく。

 いや、とまれ。それらを今更責めても仕方がないだろう。「完全なる防災などない」と、防災ファシストたちも認めているではないか。ならば、被災者支援もあってしかるべきだろう。

 それより驚くべきは「ムラの一般財源を上回る事業費を使ってまで復興させるのか」「過疎と高齢化のムラを再建する意味があるとは思えない」と復興にも市場原理主義者というファシトが登場してきたことだ。「復興」を生存権や基本的人権の成果物としてとらえるのではなく、コストで計るのが格差是認社会の流儀らしい。郵政民営化に反対する候補者たちの選挙区に刺客を送り込み、当選したチルドレンたちに「政治家は使い捨て」と言ってのけた前の宰相。その人気を支えた有権者たちは、イラクで人質になったボランティアたちを自己責任の名の下に袋だたきにした。

 「災害対応」も時代の風潮から無縁ではいられない。だからこそ、私たちは復興リベラリズムの旗を大きく掲げようではないか。リベラリズムとは、機会平等と最小不幸、国や社会による富の再配分を是とする立場だ。

 復興を人口の回復率や村民所得などでは計らない。一人ひとりの再生を集積したところから復興を測るべきだ。その指標には無機質な都市サイズの係数ではなく、豊かさ、楽しさ、懐かしさといった別次元の物差しを当てるべきだろう。災害時には往々にして復興バネが働く。平時なら緩慢なる過疎が進むところだが、「なぜ過疎なのか。これに歯止めをかけるにはどうしたらよいのか」。支援に入ったボランティアやアーティスト、学者らがこれまでの経済指標とはまた違った価値観を見つけ出すことに知恵を絞る。私たちはその作業を手助けし、同時に、復興リベラリズムに基づく再建支援のシステムを構築していかなければならない。防災ファシズム、復興ファシズムに打ち勝つための新たな指標創りをめざして。


 

連載【街角たんけん24】

Dr.フランキーの街角たんけん 第24回 もう一つの新開地(その6/最終回)
神戸瓦斯新社屋

プランナーズネットワーク神戸 中尾 嘉孝

 「神戸瓦斯四十年史」によると、昭和11(1936)年4月に旧社屋の解体に着手。6月19日に地鎮祭を挙行、翌12(1937)年7月末には外装までの工事がおわり、9月に竣工のお披露目をかねた落成祝賀会が行われた。
 同社史によれば「新社屋は、近世式鉄筋混擬土造りで、地上五階、地階一階を主建物とし、別棟として、倉庫、自動車庫、自転車庫等あり、軒高十九米、垣屋二十一米、敷地面積二、〇一四平方米、建坪四、七二六平米あり、白亜の近代建築は神戸第一の繁華街たる新開地にその威容を誇ってい」た(写真1)。

 通常のオフィスビルの機能以外に、やはりショールームとしての役割が期待されていたためであろう、「四階には料理実習室、同講習室、集会室がある。(略)料理教室は一時に五十余名の実地講習をなすに充分なる設備を有し」ていた。それでも「一ヶ月三週間余の講習会を開いているが、毎回申込殺到して希望に応じきれぬ程の盛況を極めてい」たという(同四十年史より)。真新しい社屋を一目見ようという好奇心旺盛なご婦人方も多かったに違いあるまい。

 建物の角を大きな曲面で表現するなど、聚楽館などの近隣のストリームライン系の建築に近い造形言語も採り入れながら、あえてベースメントを人造石研ぎ出しで仕上げ、二階以上は縦長プロポーションの窓を白タイル貼のファサードに割り付ける古典的な手法で仕上げて、「近世式」と施主に説明する渡邊節の姿 勢は、無装飾の機能主義思想の意匠が建築界を席巻していく中で、まさしく「様式建築に殉ずる」ものであったといえよう。あるいは、そんな時代への挑戦としての意味を帯びた表現であったのかもしれない。

 やがて、戦時体制下の物資統制によって建築行為が制限され、スタイリッシュな建築表現の展開は困難となった。その延長線上である戦後、渡邊節の活躍の場は失われていく。

 そして、神戸の町を支えた2つの公共サービス事業体も、また戦時統制の中に埋没していくことになる。

 神戸市電気局は、1941(昭和16)年に入って改正された国家総動員法に基づき同年8月に公布された「配電統制令」などにより、新設された関西配電株式会社へ電気事業が引き継がれた。電気事業をもぎ取られた「電気局」は「神戸市交通局」への組織の衣替えを余儀なくされた(1942(昭和17)年5月)。1917(大正6)年の市による買収から25年後のことであった。1945(昭和20)年3月と6月の二度の空襲で、交通局は、本局庁舎難を逃れたものの、市内電車・バスの車両、施設に甚大な被害を受け終戦を迎えた。その直後の9月には交通局は、新開地の事務所を引き払い、橘通1丁目の市庁舎へ転出した。

 ガス事業は、電気事業とは対照的に事業統制の進捗は遅かった。しかし、終戦直前の4月1日、神戸瓦斯は大阪瓦斯に吸収合併。旧神戸瓦斯本社は、大阪瓦斯神戸支店に「格下げ」となった。

 歓楽街として、浅草、新世界と対比されて語られることの多い新開地だが、電気・市内電車、水道という公共サービス事業の中枢が、本通りの押さえの位置に向かい合って置かれていた事実は、いままであまり語られてこなかった。これらの拠点が新開地へ拠点が移された1910年代は、旧湊川河川敷の開発の真っ最中の時期である。電気、瓦斯の何れの会社も、設立や運営に神戸の資本家が深く関わっている。そういた事情から見て、2つの公共サービス企業の本社が新開地で相まみえたのは、湊川改修株式会社が、財界に働きかけて、映画や芝居小屋が敬遠しそうな、鉄道敷に近い区画を2つの会社にそれぞれ引き受けてもらった、という単純な理由による結果と推測することは容易である。それにしては、そろいも揃って、というのも出来すぎた話で、偶然の産物と簡単に流す気にもなれない。やはり、何かしらの意思を、そこに感じるのである。

 この謎解きは、機会を改めて取り組んでみようと思う。(この項終わり)

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写真1 神戸瓦斯新本社屋(設計:渡邊節、出典「工事年鑑 昭和12年」清水組) 写真2 神戸瓦斯新社屋玄関(出典:「四十年史」同社) 写真3 神戸瓦斯新社屋休憩室(出典:前出「四十年史」)
 


 

連載【神戸のみどり7】

神戸のみどり・その7
『布引ハーブ園誕生異聞』(後半)

元神戸市建設局公園砂防部長 小森 正幹


5.ハーブ園とロープウェイ

 1984年(S59)9月の神戸市公園緑地審議会答申「布引ゴルフ場跡地の公園整備方針について」を受けて、ようやくハーブ園ではない総合公園として次の段階へ進もうとしたときだった。

 1985年(S60)故・宮崎辰雄市長からロープウェイ構想が発表された。ロープウェイによるアクセスは市内部でずっとくすぶってきた問題であり、はっきりいって検討もしてきた。しかし採算面など種々の問題を抱えていた。布引大龍寺線の延伸や新神戸トンネルからのエレベーター建設なども検討された。だが、ここに至って市長の方針が出たわけだ。計画は大きく曲線を描くことになった。1984年(S59)9月答申は、徒歩によるアクセスだった。前提が違う。事務ベースは議論に議論を重ねた。「ロープウェイなら、利用者はもっと広域を考えなければ……」「ロープウェイなら全国ベースの神戸の新しい名所にしなければ、採算が心配や」「北野異人館との連係ももっと考えなければ……」「審議会答申をもらったばかりで委員の先生方の説明はどうするや? 納得してもらえるかな?」「神戸市政100年もにらんまなけりゃなあ」と。

 そのとき、にわかに「ハーブ園構想」が浮上した。先の故・伊藤可人君の提案も公園砂防部としては留保していたし、新たな打開を模索して1986年(H61)、集客企画に強い阪急系コンサルタントに構想案の提案を依頼した。若い女性スタッフを主力とするこのコンサルタントはずばり「ハーブ園構想」を提案した。ここに来て内部保留案と外部案の偶然? の一致をみた。そのあと「布引ハーブ園」と神戸市都市整備公社が進めていた「ロープウェイ構想」とのドッキングをはかり、「布引公園基本計画」(案)が完成し、1987年(S62)秋、「布引ハーブ園」は故・宮崎辰雄市長の承認を得た。そして1988年(S63)2月、「布引ハーブ園」「ロープウェイ」が記者発表され、一部防災工事に着手した。

 なおこの変更劇はかなりの激務であったことを記しておきたい。

6.ヴァルトブルグ城をめざして

 ハーブ園のコンセプトは全体をテーマのハーブに調和した中世ヨーロッパの古城とした。すべてをほんもの、自然素材志向で整備しようということになった。目標とする古城はドイツ(当時は東ドイツ領)チューリンゲン州アイゼナッハの郊外の山上にある世界遺産「ヴァルトブルグ城」だった。私たちは「ヴァルトブルグ城」の写真を事務所に貼り、コンサルタントと協議を重ねた。今も「布引ハーブ園」の香のレストラン、森のホール、香の資料館、グラスハウスの外壁を見ると、あの写真を思い出す。アイゼナッハはバロック音楽のバッハが生まれた町、宗教改革の指導者マルティン・ルターが少年時代を過ごした町だ。「ヴァルトブルグ城」での歌合戦も有名である。ワグナーの「歌劇タンホイザー」は正式には「タンホイザーとヴァルトブルグ城の歌合戦」といい、この古城で初めて上演された。また古城は「布引ハーブ園」と同じように小高い丘の上にあり、アイゼナッハの町を眺めることが出来る。しかし私たちは古色を出すために屋根瓦や石材など材料などの吟味で、費用の関係から新しいものしか使えなかったのは悔やまれる。

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写真 香のレストラン
 
7.ハーブとは?

 「布引ハーブ園」の計画や建設がスタートしたとき、恥ずかしいことにまだハーブとは? 何なのか私たちも全然知らなかった。それでハーブの初歩から、開聞山麓香料園園長の宮崎泰先生とNHK趣味の園芸の講師でハーブ研究家の廣田先生の指導を仰いだ。そして廣田先生には計画・建設・管理運営に至るまでお付き合いをいただいた。先生方がおられなかったら今のハーブ園はないのではないかと思うのでここに記して感謝したい。

 そして今、「布引ハーブ園」開園から13年が経とうとしている。市内いや全国にハーブは伝搬し、爽やかな香りと可憐な花を競い、人々の生活の中に定着している。その意味で「布引ハーブ園」の果たした役割は大きかったと自負している。

※ハーブとは?

 簡単にいうと、主に温帯に生育し、料理の風味付けや薬用などのほか、さまざまな分野で人間のくらしに役立つ香ある植物である。ハーブの歴史は古く、古代文明発祥の地ではハーブに関する神話や伝説が多く残されている。

 また、1931(S6)年に出版された「A Modern Herbal」には約2600種のハーブが紹介されている。ハーブは洋の東西を問わず各国の暮らしに根付き、その植物と利用法は代々子孫に受け継がれている。梅、ショウガ、ミョウガ、オオバ(シソノハ)、ネギなど日本でも日常生活の中に多くのハーブが使われている。

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ローズマリー(シソの仲間)
 
8.布引ハーブ園とロープウェイ建設反対運動

 「布引ハーブ園」と「ロープウェイ」建設は42年大水害の被害に発する自然保護の見地により構想段階「兵庫県勤労者山岳連盟」や「布引・市が原の自然を守る会」から厳しい反対にあった。ハーブ園やロープウェイを建設せず、ゴルフ場跡地をそのままにし、自然に戻せ、という主張だった。市は「六甲山が禿げ山から先人の努力により今日の緑が回復したが、人工によって創られた森はまだ道半ばであり、布引近辺の森も人工林であり、これから少なくても100年は人の手を入れていかねばならないし、また市は営々と森を守って来た。布引ハーブ園建設は災害防止や森林更新も含んでおり是非やらなければ」と。またロープウェイ建設は「子供から高齢者まで誰でも気軽にハーブが楽しめるようにするには是非必要だ」と説いた。相手のいろいろな運動に対応しながら、守る会との会合は開園後の平成6年まで都合13回に及んだ。現在年間50万人弱の入園者が「布引ハーブ園」を訪れている。

 なお、工事道路は熊内からのルートしかなく、工事用自動車の通行制限などの協定を作って対応したが、追い込みに入ると、「おい、朝6時トラックが通って家内の額を落とした。どうしてくれる?」「壁が落ちたがどうしてくれる?」など苦情も多く、沿道市民に多大の迷惑をかけた。ここに記し、協力に感謝したい。

9.投げ込み式入場料徴収システム

 2006年(H18)から指定管理者制度が適用され、民間会社が「布引ハーブ園」「ロープウェイ」を一括管理することになったので解消したと思うが、当初、「布引ハーブ園」は(財)神戸市公園協会が神戸市より受託を受けて管理運営し、「ロープウェイ」は公園施設を設置・管理許可を受けた(財)神戸市整備公社が管理運営していた。そのため、料金体系が二重になり、利用者に高額感を感じさせる恐れがあった。料金統合は開園前から検討協議されたが、運輸サイドの指導から解決できなかった。そのためアメリカ・ワシントンのスミソアン博物館のように入園者の良心に訴える投げ込み式料金箱が設置された。数字はさし控えるが歩留まり良好であった。なお、この件について私はローマの「真実の門」をまねしてその口に料金を入れる案を提案したが、「馬鹿者」と上司に一蹴された。今でも苦い、残念な思い出である。

10.今後のこと

 先に書いたように指定管理者制度によって「布引ハーブ園」と「ロープウェイ」は民間会社が管理運営している。施設の生い立ちは誰が管理運営しても大切である。悪弊は改革したらよいが、いいものは踏襲してほしい。そために今、この小論が少しでも役立てば、と思う。


 

連載【まちのものがたり44】

水の情景8 ワタシの旅
青い水

中川 紺


 滑り台、砂場、ベンチ、動物の形の乗り物、ブランコ、花壇、そして、手押しポンプ。 公園の中にはいろいろなものがあった。古風な雰囲気の地下水をくみ上げる手押しポンプには、一枚の張り紙がしてある。

『使用禁止』

 本来、くみ上げた水を流すための水路は、すっかりと乾いていて、コケなのか何なのか、表面は青みを帯びていた。

 砂場や滑り台には、まだ学校には行っていない小さな子どもたちが遊んでいて、傍らのベンチでお母さんが数人、おしゃべりを楽しんでいた。

「どうして、あのポンプは使用禁止になっているんですか」

 一人の母親が、わけを教えてくれた。

 最近、青い水が出るようになったという。市の検査の結果、有害な成分は含まれていなかったけれど、当面使用を止めて様子を見る事になったらしい。

「変でしょう? 赤サビがでることはあるって聞くけど」

「ねえ。青い水なんて何となく気味悪いわ」

 母親たちはそれ以上の詳しいことは知らないらしかった。

● ●

 なるほど、ポンプのまわりが青いのはそのせいなのだ。そしてこの青いものが、何かを発しているのがワタシには感じ取れた。

 周りに人がいなくなってから、ワタシはポンプに手をかけた。

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 ぎぃ。ぎ。

 しばらく動かしていなかったせいで、錆び付いたような悲鳴があがる。それでも力を込めていると、ざぁぁと、青い水が流れた。

 何度か水を流すとまた、がくん、と何かに引っかかったように動かなくなった。

 ワタシはかばんを地面に置いて、髪をまとめて、少し気合いを入れて、もう一度ポンプを押した。

● ●

 すぽん
 栓でも抜けたかのような音がした。

 きききき。か細い鳴き声。ポンプの口から滴る水の真下に、青緑の皮膚のトカゲのような生き物がいて、こちらを見上げていた。よたよたと歩く跡は青い線に染まった。青い水の原因はもしかしたらこれかもしれない。

 その生き物は、置いてあったワタシのかばんの表面を器用にのぼると、中に潜り込んでしまった。

 あれ、そういえば。

 どこかで見たような気がすると思ったら、この前拾った異国のコインに描かれたものと、姿形がそっくりだと気がついた。

 地下水の中に暮らしていたであろう、この生き物は、呆れた事に、かばんの中で白い糸玉を枕にすやすやと眠っていた。

「変な居候ができてしまって」

 それでも、ずっと一人で水を探して旅をしていたワタシは、少しだけ暖かい気持ちになっていた。たとえそれが正体不明の生き物であっても。

 もう一度ポンプを押してみた。水はすっかりと澄んだ色になっていた。(第八話・完)

(イラスト やまもとかずよ)




HANSHINKAN NAVETTE-MUSEE・一日だけのうごく美術館

 

 昨年(2005年)の文化の日に開催された「HANSHINKAN NAVETTE−MUSEE」は今年(2006年)も同様に11月3日に開催されました。

 昨年は阪神間クラブの主催で、芦屋市立美術博物館と西宮市大谷美術館、白鷹禄水苑を結ぶ美術館巡りのマイクロバスでの運行でしたが、今年は兵庫県阪神南県民局の主催で千里国際情報事業財団と阪神間倶楽部の共催で開催され、バスも阪神バス、阪急バス、神鉄バスから5台を使用しました。

 兵庫県立芸術文化センター、西宮貝類館、白鷹禄水苑、白鹿記念酒造博物館、西宮市民ギャラリー、西宮市大谷美術館、芦屋市立美術博物館、谷崎潤一郎記念館、ヨドコウ迎賓館、堀江オルゴール博物館の10カ所を一方方向の運行で、一巡に2時間を要する大がかりなことでした。

 500名の募集に1,300名の申し込みがあり、最終は当選者の6割、261名の参加。有り難いことに一番遠くは九州からの参加者がおられました。(ラジオ放送での広報によります)
 今年はじめて実施されたインターネットによる申し込みは予想通り多数を数えましたが、当日になってのキャンセルも多く、結果的に6割の参加でインターネットによる申し込み方法に改善の余地を見ました。

 また、昨年同様ドクトルの人気は高く皆さん楽しまれましたが、2時間を一人で案内するのは大変ハードなことでしたので、ほぼ1時間ごとにドクトルは入れ替わりました。

 この企画の言い出しっぺであります河内厚郎さんが今年は宝塚映画祭の主催者でこちらには来れず、初代ビデオによるドクトルの試運行となりました。しかし、この試運行も道路状況やバスの運行状況とビデオの連携に問題があり、今後の課題を残すこととなりました。

 また、今回の参加者には昨年のアンケート結果をふまえ、参加料として500円を徴収いたしましたので、それぞれの美術館や博物館のガイドパンフレットに加えて、阪神館倶楽部監修の「HANSHINKAN QUIZ 50」という「おもしろクイズ」の冊子を配りました。この冊子は今後、阪神間文化の様々な知識や雑学を50問から増やしていくつもりです。

 皆様も乞うご期待を!(きんもくせい 天川佳美)

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写真 西宮北口の芸術文化センター前から出発
 


情報コーナー

 

●阪神白地市民まちづくり支援ネットワーク・第53回連絡会

・日時:12月6日(金)18:30〜20:50
・場所:神戸市勤労会館406号室
・内容:テーマ「まちづくりコンサルタントの行くえ・part2」

パネラー:(1)「まちづくり派コンサルタントの現状・課題・展望」/岩崎俊延(プランまちさと)

(2)「アーキテクト派コンサルタントの現状・課題・展望」/森崎輝行(森崎建築設計事務所)

(3)「ランドスケープ派コンサルタントの現状・課題・展望」/辻信一(環境緑地設計研究所)

 コーディネータ:中井豊(中井都市研究室)

・会費:500円
・問合せ:GU計画研究所(TEL.078-435-6510)

●第85回水谷ゼミナール(+忘年会)

・日時:12月26日(土)18:00〜19:30 忘年会 20:00〜21:30
・場所:ピパ・アランチョ
・内容:テーマ「今年できた私達の作品」

 発表者:(1)「甲陽園山地区集会所・やまびこの家と外構」/世儀 敦裕 氏(ジーユー計画研究所)

 (2)「滋賀県栗東の診療所等」/安元 美帆子 氏(まちづくり会社コー・プラン)

 (3)「共同建替えによる集合住宅」/渡辺 氏 + 三宅 氏(UR大阪事務所)

 (4)「六甲道駅北地区集会所・〔風の家〕」/岩崎 俊延 氏(プランまちさと)

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