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みなと町神戸とローマ

神戸学院大学「防災・社会貢献ユニット」教授 金芳 外城雄

 塩野七生著ローマ人の物語第15巻「ローマ世界の終焉」で十五年にわたった物語も表題どおり終わりになりました。なぜ、これほど日本人にこの物語が愛読されるのか。その長い歴史は、2000年にわたり今も続いているこの日本の国のありように関わるのかもしれません。また、私の生まれ育ったみなと町神戸にも通ずるところがあると感じています。

 以下、防災と町づくりという視点から述べてみます。

■ローマの災害対応と阪神大震災

 ローマの災害対応の基本は、次の三つだと記されています(ローマ人の物語VII)。

 (1)軍隊の出動による復旧・復興
 (2)義援金の支給
 (3)属州税の凍結です。

 これと対比して阪神大震災での対応で見ると、

 (1)国・自治体の対応に加えて、地域力が発揮されたこと。それは旧来の災害対応の考えを変え、防災から減災へと視点が変わり、主人公は市民であることが認識された。中でも、150万人をこえるボランティアの活動が目覚しかったこと。

 (2)義援金は多くの方々からの支援を受け、総額では約1800億円にのぼった。

 (3)国からの大きな支援がなされたが、一国二制度となる租税の凍結は採用されず、減免措置がとられたに過ぎない。

■ローマ人と日本人の相似点

 ローマ人と日本人には、意外と共通点が多いように思います。それらは以下の5点です。

 (1)温泉好き (2)多神教(紀元313年にはキリスト教が国教に)(3)パスタと米食
 (4)海洋文化 (5)創意工夫の技術力
 これらが、今も日本人をローマに向けるのかもしれません。ローマが覇権国家として他国の優れた技術や考え方を取り入れて発展した姿は日本と同様です。文化や思考において優れたギリシャの文化もとりいれています。日本人は、創意工夫においては世界的に優れた技術を有していますが、独創性の点でノーベル賞受賞者が少ないのに似ています。

■ローマを支えたもの

 ローマは一日にしてならず…の言葉どおり、1300年も続いたローマには多くの優れた制度があります。水道、橋梁の建設などの土木技術や衛生管理などですが、中でも以下の2点が極めて重要なものだと考えます。

 その一つは、支線を含め15万キロにわたり敷設された「ローマ街道」です。その優れた土木技術とともに、これは軍隊の通行道路という意味合いに加えて、属州国との文化・経済交流の礎となっています。交流による平和の構築は現代にも必要なことです。

 二つには、ローマが属州国の扱いに関して、その国の文化や宗教も含め認知して、ローマ市民権も与えていったその政治姿勢「寛容」です。1300年におよぶ帝国の基本であったように思います。

■みなと町神戸

 あの大震災で神戸の港も壊滅的打撃を受けました。東西20キロにわたる海岸線で、神戸港の岸壁が116キロにわたり損壊を受けました。公共施設の災害復旧事業は5,700億円に達しました。しかし、国による財政支援も受け、復旧工事を2年で完了しています。神戸港の復興計画では、二十一世紀のアジアのマザーポートを目指すことを基本に、産業復興に資することを掲げて魅力の再生に取り組んできました。神戸の歴史はみなとの歴史でもあり、世界への情報交流拠点でもありました。神戸の生き残りにはこの世界に向けた交流が極めて重要です。

 神戸空港も平成十八年二月に開港しました。その採算性や事業投資に関して多くの意見が出されましたが、ローマの基盤が交流にあったように、神戸も交流機能の整備には全力をあげて取り組んできました。歴史的にも長いスパンで考えていくことが重要です。

 これからの人口減社会においては、その都市のもつ魅力に磨きをかけ、交流人口を増やしていくことが求められています。神戸は、みなと町として世界に誇ってきました。震災から12年、陸・海・空の交流機能を備えた神戸が息長く発展していくことを願ってやみません。

 最後に、「きんもくせい」がこれまで果たしてきた発信事業は大変意義深いものと考えますが、今後もそこで培われた交流精神が長く続くことをお祈りしています。

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※金芳外城雄さんの現職は表題に明記されておりますが、元神戸市収入役であらせられたことは皆さまご周知のとおりです。2005年11月に阪神大震災を経験された神戸市職員OBによるNPO法人「神戸の絆2005」を立ち上げられ、震災の体験と教訓を次世代に語り継ぐ活動を続けておられます。写真は2006年2月に新潟県十日町市、川口町を被災地交流事業として「神戸の絆」のメンバーなど総勢23名で訪問されたときの一枚で、左は副代表の岩本しず子さんです。また、以前に「きんもくせい」で紹介いたしました「台湾ー神戸震災被災地市民交流会」の開催準備でも大変ご尽力されました。(天川佳美)


 

連載【街角たんけん25】

Dr.フランキーの街角たんけん 第25回
須磨離宮道界隈(その1)

プランナーズネットワーク神戸 中尾 嘉孝

 昨年12月末、新聞の神戸地域版にのった1篇の記事が、人々を震撼させた。神戸市須磨区離宮前町の旧室谷邸(ヴォーリズ建築事務所設計、昭和9年竣工、写真1)が、倒壊の可能性ありという理由から現所有者の姫路の不動産業者により解体の方針決定がされた、というニュースである。ヴォーリズのチューダー系住宅作品の白眉であり、神戸市内で初の国有形文化財の登録をされた栄えある建物であっただけに、報道直後から兵庫県建築士会など建築関係団体や、地元自治会、神戸をほんまの文化都市にする会などの市民団体が行政機関に同邸の現地保存を求める要望書を提出し、行政機関も手立てを尽くしたが、その甲斐なく1月末から主要建物の解体作業が始まり、現在は更地となっている。今回は、この問題にも触れつつ、離宮公園の南側に広がる御屋敷街の表情をご紹介したい。

 須磨の地は、万葉の世から景勝地として知られ、数々の歌にも詠まれてきた。明治以降、特に明治21(1888)年11月の山陽鉄道兵庫〜明石間の開通を境に、須磨海岸から一の谷、塩屋、舞子にかけた一帯が別荘の適地として注目されるようになる。

 居留地の外国人は一の谷周辺の高台に木造洋館で別荘を建てた。明治33(1900)年には住友友純が野口孫市に命じて、須磨浦の松林に住友須磨別邸を建設した。同邸は木造2階建ながら華麗なビクトリアンスタイルの意匠による本格的な別荘建築であったが、昭和20(1945)年の空襲で建物が焼失、現在は石造の門柱の一部と外構のみが残っている。(写真2)

 明治30年代、浄土真宗本願寺派第二十二世法主・大谷光瑞は、西国街道の北側、旧跡・村雨松風堂があるほかは、一面田畑の広がる地域であった西須磨の高台に地所を求め、別荘を造営した。実は、この大谷家の別荘に隣接する山林は明治23(1890)年に離宮予定地として官有林から皇宮地附属地に所管替えされていた。明治40(1907)年、宮内省は大谷家別荘の地所を買収し、かねてからの離宮建設構想を現実のものとするべく建設計画の具体化を進めた。

 実は、神戸における天皇家の施設は、明治19(1886)年に弁天浜(現ハーバーランド宇治川河口西岸一帯)にあった専崎弥五平(文久3年の政変で、都落ちした三條実美ら七卿を匿った)の家屋敷を買い上げて神戸御用邸としたのを嚆矢とする。明治24(1891)年5月の大津事件の際、神戸港内に停泊する軍艦アゾヴァ号で静養する露国皇太子ニコライ三世を見舞うため、明治天皇がこの御用邸の桟橋からランチに乗って同号へ向かったという記録が残っている。鈴木博之編「皇室建築」(建築画報社)によると、その後、旧専崎邸時代からの御用邸建物を改築する計画が進行していたが、明治30(1897)年に基礎工事が終了した段階で工事は中止されていた、という。(この項つづく)

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写真1 旧室谷邸(昭和9(1934)年、ヴォ―リズ建築事務所設計、現存せず)) 写真2 住友須磨別邸(明治36(1903)年、住友総本店臨時建築部 野口孫市+日高胖設計、現存せず) ※出典:「野口博士建築図集」
 

 

「市民と庭師との語らい」で、あいたのしむ(相楽)園を目指す

神戸市立相楽園園長 本位田 有恒

 現在、私が仕事をしております「神戸市立相楽園」は、指定管理者として、昨年4月より神戸市造園協力会契約母体:神戸市造園共同企業体)が管理運営を行っています。神戸市の造園会社59社からなる団体であり、神戸のまちに憩いの場を提供し、活き活きとした季節の風を感じてもらえるようにすることを大きな目標としています。さらに自然災害発生時など不測の事態に善処する神戸市の協力機関として、必要時に緊急出動及びフレキシブルな対応ができるようにしています。12年前の阪神・淡路大震災の時には、会員一丸となって、神戸のまち、みどりの復興に寄与してまいりました。また、造園緑化技術の向上研鑽のため教育研修及び会員および市民にとっても安全安心な現場にするためにパトロールの実施などを行っています。

 このような私たちが、神戸市の都市公園としては唯一で、かつ文化的価値の高い日本庭園「相楽園」の管理運営に応募したのは、我々が持っている技能・技術を活かせるということと新たな分野へ進出できる絶好の機会と考えたからです。しかし指定管理者という立場は、今までの経験だけでなく、効果的・効率的な管理運営が必要とされます。

 まず、公の施設の管理者としての立場を常に認識しなければなりません。入園者有料)の管理、行為の許可、安全安心な場の提供、さらに情報の提供など公平で迅速な対応が求められます。

 次に、入園者に満足していただける庭園管理があげられます。維持管理全般にわたっては、会員の協力のもと実施しておりますが、日々の管理において様々な視点が必要です。例えば、毎日行う必要不可欠な作業として掃除があります。落ち葉はもちろん、あらゆる植物、いきものに目を配りながら、庭園の魅力を倍増するという視点で作業を行っています。庭園にとって雑草といわれるスミレやネジバナ、各地の庭園でも問題となっている実生木や大きくなりすぎた樹木の手入れも重要な管理のひとつです。

 もうひとつ、利用の活性化があります。この1年間、試行錯誤しながら入園者向けのイベント等を実施してきました。NPOC.A.P)との共催で行ったアート遊山、近隣の神戸山手短期大学との共催パフォーマンスをはじめ、七夕イベントや「松の手入れ」庭園講座など出来る限り我々が関わり実施してきました。しかし一番大切と思われるのは入園者への語り掛け、コミュニケーションです。掃除や作業をしている時も必ず挨拶をし、向うから訊ねていただけるように心掛けています。服装も重要なポイントです。私たちは、造園職人の昔からの服装である半纏を着ています。入園者の皆さんはその姿を見て気軽に植木のことや庭の手入れのことなどを聞いていただけ、逆にこちらからは庭園の魅力などをお話しするきっかけができます。庭には必ず庭師や主の思いがあり、それらを想像しながら庭をまわる楽しみをお話しながら、ここ「相楽園」のファンを地道に増やす努力をしています。

 今後はさらに「相楽園」の伝統を大事にしながら、市民にとって身近でかつ魅力ある庭園になるよう努力していきたいと思っています。来年度からは、市民が参画し協働をするための企画も増やしていく予定です。そして市民自らが、関わりたいと思える「あいたのしむ相楽)園」を目指していきます。

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指定管理者制度とは?…平成15年9月の地方自治法改正により、公の施設の管理運営について、設置の目的を効果的に達成するため必要があると認めるとき、条例の定めるところにより、法人その他の団体であって当該普通地方公共団体が指定するもの(指定管理者)に、公の施設の管理を行わせることができる(地方自治法第244条の2第3項)。


 

連載【まちのものがたり45】

水の情景9 ワタシの旅
水田

中川 紺


〈これまでのあらすじ〉自分が探し求める水を辿って旅を続けるワタシは、人間に似ているが人間ではない何かである。行く先々で不思議な水や現象に出会い、途中で拾ったガラス片と糸玉、コイン、そして正体不明の生き物をかばんに入れて、いろいろな町を訪ね続ける。


 家がまばらになり、見渡せば見事に紅葉した山に囲まれていた。都会、といわれるところからは、ずいぶんと離れた土地に来てしまったらしい。

 相変わらず、ワタシは一人で旅を続けている。いや、正確には一人と一匹で。かばんの中のトカゲに似た不思議な生き物は、先客の白い糸玉がずいぶんとお気に入りのようで、手足と口を器用に使って、糸をほどいたり編んだりすることを、もう何日も続けている。元々の出会いが奇妙だったせいか、こんなことをすると分かっても別段驚きはしなかった。

● ●

 人も車もまばらで、飛んでいる鳥の方がずっと多いように思える。明らかに使っていない田や畑、空き地が広がる中に、白い看板が立っていた。傍らには、家が建ち並んだ明るいタッチの絵が添えられていた。

 「平成□□年、○○○線延伸!」「自然に囲まれた住宅地を」「都心まで△」「○月□日、分譲開始」……。

 ここに新たにまちをつくるのだ、と思った。そういえばバスは見かけたけれど、鉄道の線路は近くに見当たらなかった。でも来年末にはきっと駅が出来ているに違いない。

 そして将来、この、雑草が茂る空き地や、水が枯れてヒビが入った田んぼが小ぎれいな家々に変化するのだ。

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 きゅう、とかばんの生き物が鳴いた。

 ワタシが覗き込むと、そっと白い布を差し出した。どうやら、編みあがったらしい。

 小さく見えたそれは、広げるとずいぶんな大きさで、体もかばんもすっぽりと包み込めるくらいだった。そして薄いのに風を通さずにあたたかい。ワタシは頭からすっぽりとその布を被ってみた。

 びゅう。と強い風が一吹きして、にわかに空が曇る。瞬く間に暗くなり、雷とともに強い雨が降り始めた。

 辺りにいた人は皆、蜘蛛の子を散らすようにどこかへ行ってしまったが、ワタシはまだ田んぼのそばを離れられずにいた。布は水を一滴も通さず、雨具代わりになっていた。

● ●

 ほどなく、他の音が何も聞こえないほどに、そして視界が遮られるほどに、激しい一降りが来た。枯れた田んぼにもみるみるうちに水がたまっていく。

 ところが、それだけではなかった。

 緑の苗がいくつもいくつも顔を出し始めたのだ。さらにそれらはぐんぐんと成長して、緑の立派な稲穂となった。やがて黄金色に色づく。たまっていたはずの水も引いていて、そこにはまさに秋の収穫直前といった景色が広がっていた。

 そして。大きな雷鳴が轟いて、辺り一帯が光に包まれた瞬間、また元の荒れた土地に戻っていた。雨も小雨に変わっていた。

 一瞬の間に過ぎた一年の風景にワタシは見とれていた。もう二度と稲穂を揺らすことのない田んぼに、雨が見せた幻想だったのかもしれない。(第九話・完)

(イラスト やまもとかずよ)




阪神白地 まちづくり支援ネットワーク・第53回連絡会報告

 

 今回のテーマは「まちづくり系コンサルタントの行くへ・Part2」で、昨年に引き続き今年も行うことになりました。昨年は10名もの方々に報告していただいたのですが、今回はベテランのコンサルタント3氏に登場してもらい、議論を深めていくことにしました。

1.「まちづくり派コンサルタントの現状・課題・展望」/岩崎俊延(プランまちさと)

2.「アーキテクト派コンサルタントの現状・課題・展望」/森崎輝行(森崎建築設計事務所)

3.「ランドスケープ派コンサルタントの現状・課題・展望」/辻 信一(環境緑地設計研究所)

 岩崎さんからは、まずご自身の多様な業務について説明していただいた後に、「協働のまちづくりを支える専門家としてのまちづくりコンサルタントの役割と可能性」、「まちづくりコンサルタントの経済的環境と今後の生存可能性」と題して、まちづくりコンサルタントがまちづくりのシステムの中で必要なこと、行政からの経済的な負担が必要なこと、などを説得力を持って語っていただきました。

 森崎さんからは、今後の“アーキテクト派コンサルタント”が生きて行く上で大事なこととして、住民参加への関与、多様なコラボレーション、単体から地区への広がりを上げられました。

 辻さんからは、世の中に役立つことをすれば仕事になるという信念のもとに、様々な“すきま”をねらって多様な仕事−公園ミーティング、カルタづくり−を行ってきたことなどを語っていただきました。

 討論では、都市計画・まちづくりでは人材の育成が必要なこと(特に若い人)、スポンサーの問題(経済効果の証明!?)、行政内でのコンサルタントに関する情報不足の問題などが出されました。(中井都市研究室 中井 豊)

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報告者の方々。左から辻さん、森崎さん、岩崎さん
 


情報コーナー

 

第85回・水谷ゼミナール

・日時:12月26日金)18:00〜19:30(忘年会20:00〜21:30)

・場所:ピパ・アランチョ
・会費:1,000円
・内容:テーマ「今年できた私たちの作品」

 発表
 (1)「甲陽園目神山地区集会所・やまびこの家と外構」/世儀敦裕(ジーユー計画研究所)

 (2)「滋賀県栗東の診療所」/安元美帆子(まちづくり(株)コー・プラン)

 (3)「共同建て替えによる集合住宅」/渡辺+三宅(UR大阪事務所)

 (4)「六甲道駅北地区集会所」/岩崎俊延(プランまちさと)

・問合せ:GU計画研究所(TEL.078-435-6510)

日本災害復興学会準備フォーラム「脆弱な階層・脆弱な地域の復興支援」

<被災地円卓会議>
・日時:2007年1月13日土)14:00〜17:00
・場所:関西学院大学学生会館新館3階・会議室9
・内容:議長団/渥美公秀(阪大)・村井雅清(被災地NGO協働センター)・宮原浩二郎(関学)

<連続シンポジウム>
・日時:年1月14日日)10:00〜17:00
・場所:兵庫県公館大会議室
・内容:基調報告/井戸敏三(兵庫県知事)、山中茂樹(関学)

 シンポ1部/北川フラム(アードディレクター)、天川佳美(コー・プラン)、中貝宗治(豊岡市長)、豊田利久(広島修道大)、林宣嗣(関学)

 シンポ2部/柳田邦男(作家)、島本慈子(ルポライター)、永井幸寿(弁護士)、鈴木敏政(日本総研)、学会立ち上げ宣言/室崎益輝(総務省消防庁消防研究センター)

・問合せ:関西学院大学災害復興制度研究所(FAX.0798-54-6997)

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