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雨の朝、12年目のさよなら

非認証NPOきんもくせい代表 小林 郁雄

 震災12年目は、雨の1.17であった。夜明け前、神戸市庁舎南の東遊園地に集う人々に、冷たい雨がかなり激しく降っていた。慰霊の竹筒のローソクは、何度、灯をつけても消えてしまった。5時46分、黙祷の時に、それでも半数ほどのローソクに火がついていただろうか、かろうじて1.17という形に見えただろうか。

 7月から兵庫県の海外技術研修員としてコー・プランに来ていたアナさん(Ms. ANA LUIZA Yumie NISHIMURA)と、2004年4月新入社員(事務と建築設計担当)の安元美帆子さんの3人で、今年は参加した。アナちゃんはブラジル・クリチバ市からの新米建築家で、名前の通り日系3世である。恐るべきANDO建築ファンでこの2月に帰国するまでに京阪神の安藤忠雄設計のほとんどの建築を訪ねた。

 昨年11月、荏本(えのもと)教授に依頼され、神奈川大学の学術フロンティア研究会で復興まちづくりの話をしたときに、池田邦昭さん、村上直子さんら防災塾・だるまの皆様とも知り合い、10人近い方が今年の「1.17のつどい」に参加してくれた。

 例年、神戸市民にとって1.17が新年であるというか、1.17が過ぎないと新しい年は来ない。大震災から12年が経つ。被災は被覆され、復興は日常化し、時は静かに流れている。

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 4年間になる「月刊きんもくせい」をこの3月号(第48号)で終刊とします。「きんもくせ」50号、「報告きんもくせい」36号と合わせれば、1995年2月10日創刊以来12年間計134号になります。

 最終3月号は皆さんからの寄稿を全部収録したものとしたいと思ってます。2007年4月末までに事務局までメール、ファックス、郵便などでご寄稿をお寄せください。

 また新たな「きんもくせい」で、お目にかかることがあるかもしれませんが、12年目のさよなら。


 

連載【街角たんけん26】

Dr.フランキーの街角たんけん 第26回
須磨離宮道界隈(その2)

プランナーズネットワーク神戸 中尾 嘉孝

 鈴木博之編「皇室建築」(建築画報社)によれば、武庫離宮の計画は、既に明治天皇の採決を得ていた神戸御用邸改築のプランを生かす形で、練られたという。離宮の造営は明治44(1911)年11月に着手され、明治天皇の崩御による中断を挟んで、大正3(1914)年12月、電気工事を残して竣工を見た(写真1)。奇しくも同じ年、大谷光瑞は須磨の別荘買収にまつわる疑獄問題等が原因で、法主の座を追われている。

 須磨離宮が完成する前後から、離宮周辺では神戸の財界人が邸宅を構えるようになっていた。離宮の東、皿池(現市立須磨高等学校敷地)北側には川崎造船所初代社長の川崎正蔵が明治期半ばに木造2階建の和風建築の別荘を営んだ。後に正蔵の養嗣子・芳太郎によって追加された洋館(山田醇設計)ともども改造を加えられながらも震災時まで残っており、最後は修道院として使われていた。

 その西側、現在の離宮植物園の敷地に、大正7(1918)年、岡崎銀行の頭取・岡崎藤吉の邸宅が完成している。この岡崎邸の洋館は設楽建築工務所の設計である。岡崎家といえば、現在、木村拓哉主演でテレビドラマが放送中の山崎豊子原作「華麗なる一族」の萬俵家のモデルとなったことはあまりに有名である(写真2)。

 離宮の東側ばかりでなく離宮道の西側に目を転じると、現在の桜木町3丁目には大正6(1917)年、船成金の内田信也が広大な邸宅を構えた。当初は宗兵蔵(幕臣出身、工部大学校卒、宮内省、藤田組を経て大阪で建築事務所を自営)設計の洋館(写真3)だけだったが、後年、洋館を曳家して設楽建築工務所の設計になる和風の御殿棟を増築した。洋館は昭和60年ごろ、解体され、ステンドグラスのみが敷地内の別の建物に移設。御殿棟は震災で大きなダメージを受け、解体撤去された。また離宮西側には、貿易商・西尾類蔵のセセッションスタイルの大きな煉瓦造構造の洋館が、やはり設楽建築工務所の設計、旗手組の施工で大正9(1920)年に完成している(現ヴィスカヤ・ガーデン翠風苑)。

 こうしてみると、須磨には、明治後期から大正初期にかけて、離宮の建設を一つの契機にまず規模の大きな貴紳の住まいが点として展開したことがわかる。東の住吉村・御影町が大阪の財界人中心であったのに対し、須磨は神戸に根拠を置く実業家が多いのも特徴だ。

 須磨の地に建った邸宅の設計を、設楽貞雄の事務所が多く手がけているのも目立つ。設楽貞雄(二本松の代官の子、工手学校卒。宮内省、山口半六事務所等を経て神戸で独立)の事務所は、名古屋高専や京都帝国大学出身の優秀な技術者を多く擁していた一方、支配人に宮大工出身の木村梅次郎を据えるなど、和風建築も器用にこなすレパートリーの幅の広さを誇った。設楽自身も昭和8年ごろまで西須磨上天神東町(現天神町5丁目)に自邸を構え、最晩年も桜木町に住まいした。(この項つづく)

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写真1 須磨離宮謁見所(大正3(1914)年竣工、宮内省内匠寮設計、現存せず ※出典『鳳閨』) 写真2 岡崎邸(大正7(1918)年竣工、設楽建築工務所設計、現存せず ※出典『近代建築畫譜』)
 
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写真3 内田邸洋館(大正6(1917)年竣工、宗兵蔵設計、現存せず ※出典『建築写真類聚・住宅の外観巻三』
 

 

連載【神戸のみどり8】

神戸のみどり・その8
『相楽園異聞』(上)

元神戸市建設局公園砂防部長 小森 正幹


1.海への熱い思い

 「相楽園」について書くには、その創始者小寺泰次郎が三田藩(九鬼家)藩士であったので、まず三田藩九鬼家の略歴から始めなければならない。それは小寺泰次郎がなぜこの地に「相楽園」の前身である小寺邸を営んだかということと大きな関わりがあるからだ。九鬼家はもともと紀州鳥羽の海賊出身で海の戦を得意とする家柄だ。しかし九鬼水軍は村上水軍ほど有名ではないかもしれない。天正5(1577)年ごろ、織田信長が石山本願寺(現在の大阪城あたり)を攻めあぐんでいた。NPO法人ドラマ九鬼奔流で町おこしをする会が発行する『水軍九鬼氏と三田藩の歴史』によると、同族との抗争などから志摩を追われた紀州鳥羽の九鬼隆義(九鬼家藩祖)は信長に臣従を誓い、毛利方の村上水軍が海路を運んでくる糧食を絶つため、火矢、投げ炮烙、火桶攻めに耐える鉄張りの大安宅船(いわゆる鉄甲船)の建造を提案した。<信長は「おもしろい。造れ、即座に造れ。費用は惜しまぬ」と、即座に応じた。> 天正6(1578)年三艘の巨大な鉄張りの船が建造され、ついに九鬼水軍は毛利の村上水軍を破り、名実ともに織田水軍といわれるようになった。

 慶長5(1600)年関ヶ原の戦いが起った。九鬼家は戦国の習いとして家の存亡を賭けて、隆義は西軍の豊臣方に、息子守隆は東軍の徳川方に味方し、父子別れて戦う。関ヶ原に破れた隆義は、息子守隆の命乞いにもかかわらず許されなかった。隆義は九鬼家への影響を思い自刃した。家康は隆義が行った海上からの石山本願寺攻めなどの豊かな経験を恐れたという。その後、鳥羽城主(5万6千石)守隆の四男久隆と三男隆季との間に家督争いが起きた。かねてから九鬼水軍の巨大化を恐れていた幕府は久隆の家督相続を認めたが、この機に乗じて摂津三田(3万6千石)へ転封するとともに、新たに隆季を丹波綾部2万石に封じた。これは九鬼水軍を分割し、かつ海のない領地に配して「陸に上がった河童」にした幕府政策の勝利だった。

 「陸に上がった河童」三田藩は海への憧れを捨てずに、事あれば対応できるように館周辺に志摩半島の地形になぞった池堀を掘り水練の場に、三田川畔に舟小屋を作り、川を堰き止めて操船の訓練に励み、水軍の備えを怠らなかった。しかし現実を見つめた政策として世の中の情勢を見極めるための実学的学問を推奨し、藩士の教育に力を注いだ。その結果、川本公民など幾多の有能な人材を輩出した。中でも最後の藩主九鬼隆義は疲弊した藩財政を立て直すため、藩儒学者白州退蔵や足軽小寺泰次郎などを家老格に抜擢し、有能な人材の登用を計った。二人の改革は門地を重んじる旧勢力や領民から「二たい」と呼ばれて嫌われるほど強力に進められた。先見性豊かで旧式を排し、欧化政策を推進するとともに完全な西欧式兵制を採用し、例えば鎧甲は全藩士に藩への拠出を命じ、火縄銃や古い大砲など旧式装備も含めてまだ目覚めていない他藩へ売却し、借財を返還して藩財政を二年で立て直した。

 「これからの藩政の指針をお聞かせ願いたい」

 隆義は川本幸民を通じて知り合った福沢諭吉に問うた。

 「民間の手による商業に力を入れられたらいかがでしょう。これからは民の力です。官営は先が見えています」

 隆義は、アメリカ的自由主義に心酔する福沢諭吉の提言を入れて近代資本主義的考え方に立つ帰農帰商策を三田藩の指針として藩士に示した。

 「これからは海のある神戸だと思う。わが藩の長年の願いが叶うときぞ。海は世界に通じる。世界へ眼を向けようぞ」

 隆義は諭吉の助言により発展の予測される開港間もない神戸に率先して移住し、花隈城址の東側に住んだ。そして隆義始め白州退蔵、小寺泰次郎以下藩士15人が役員の「志摩三商会」という西洋薬品が中心、食料品、雑貨などを扱う神戸初の輸入商社を設立した。志摩三とは、九鬼家出身地志摩と三田を意味する。この会社、実際は陸奥宗光と関係が深い豪商加納宗七が実施した生田川付け替え工事で生まれた埋立地の売買で得た資金で金融業を興し、経営基盤を固め、花隈周辺から海にかけての土地を安価で買い占めていった。

 なお、隆義はこの他にも海運業、牧畜業、三田青磁の復興などに取り組んだが、事業拡大を急ぎすぎたため多くは失敗したが、その先進的な視野の広い考えは明治維新の中で世の中の発展に大きく寄与したことは特筆に値すると思う。しかし、隆義は明治2(1869)年百姓一揆に見舞われる。藩外へ急速な事業拡大を図って領民を顧みなかった、というのがその理由で、現在でも地元の人に評判が悪いそうだ。

 しかし、三田藩の海へ熱い思いが相楽園エリアとその直下の開港間もない元町の港を中心に神戸の発展にも大きく影響したことは間違いないであろう。また相楽園周辺は海を通じて世界へ眼を向けていた人々の先進的な心を養う場所だったかもしれない。

2.小寺泰次郎と相楽園

 小寺泰次郎は三田藩の足軽の子として足軽町に生まれた。特に理財の才があり、「そろばん侍」といわれ、隆義の人材登用により代官として辣腕を振るった。前述したように隆義の命により白州退蔵と一緒に藩政改革を断行し、わずかの間に藩債務を完済した。そして改革は門地、家柄、慣習などに囚われない自由な発想で断行されたことはすばらしい。鎧甲の話は一見すべてをかなぐり捨て、財政的視点からだけのように見えるが、彼らはその文化財的価値を知っていたからこそ藩財政立て直しの貴重な財源として計算できたのではないかと思われる。そして、抵抗勢力の強力な反対運動と抵抗も予想される中、すべての藩士から鎧甲を供出させた、妥協しない改革の断行はすごい。この目標に立ち向かう姿勢は当時としては極めて斬新だったといえよう。一方、現代ではただ闇雲にすべてを財政的見地からのみ見ているきらいがあり、財政がすべてに優先するような考え方が横行しすぎているように思えるのは悲しい。彼は投機師の活眼と時勢を洞察する卓越した才能を持ち合わせていた。前述の志摩三商会の事業に精を出したのも小寺泰次郎だ。藩侯の屋敷がある花隈に近い「相楽園」の地も隆義と他一名の所有だった。彼は藩侯の仕事をしながら、その土地を分けてもらい、小寺邸及び庭園の造営を始めたのは明治19(1886)年から20(1887)年にかけてのことだった。

 陸に上がった三田藩が生き残りをかけて情熱を注いだ子弟の教育は、彼のなかにも生き続けていた。ずっと理想の学校建設に情熱を燃やして私学三田学園の基礎を確立し、息子の小寺謙吉が引き継いで建学された。小寺泰次郎は明治38(1905)年に亡くなれたが、謙吉の時代の大正2年(1913)の地租番付によると、西の横綱小寺、東は九鬼。金持ち華族九鬼は白州、小寺両氏のお陰と世間ではいわれていたらしい。しかし小寺泰次郎はただの金持ちでなく、神戸100年の大計を考えていたという。例えば、道路幅員などは「もっと広くとれ」が持論だったが、「あれはな、自分の土地を売りたいからや」と人々が言うのを聞くと、道路に計画されている土地を元の地主に買値で買い戻させて意地を貫いたりした。また全国で災害が起きると、いつも皇室下賜金の1/200にあたる災害寄付をし続けた。(この項続く)

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戦前の相楽園(神戸市蔵) 現在の相楽園
 

 

連載【まちのものがたり46】

水の情景10 ワタシの旅
冬のプール

中川 紺


 きゅるるるる。

 かばんの中が騒がしい。以前、公園の手押しポンプの中に住んでいたトカゲのような青緑の生き物が、今はワタシの旅に同行している。彼(彼女かもしれない)が最近よく鳴くようになった。周囲に誰もいなければ、かばんの縁から首を出してじっと遠くを見ている。

 どっか行きたいところ、あるの?
 そうだ、と言わんばかりに頭を振る。

 よく分からないけれど、こっち、と言っているであろう方向に、早朝の道を急いだ。ビル街の大きなカフェのガラス窓に白い人影が映っていた。生き物が編んだ白いストールに包まったワタシ。白いシャツ、白い手。黒く長い髪を除けば、本当に全身が白で包まれている、と改めて思った。

● ●

 たどり着いたところは、中学校のプールだった。もちろん門は閉ざされて部外者が入れるつくりにはなっていないのだが、フェンスの隅に子供一人が通れるくらいの穴が空いていたので、身体を小さくしてそこを抜けた。

 かばんの中の生き物は、もう鳴くのをやめていた。そのかわり、恐ろしくそわそわしていることが伝わって来た。ここに連れて来て本当によかったのか、分からない。でももう来てしまったものは仕方なかった。

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 早朝、ということもあるし、冬休みのせいもあって、学校にも、もちろんプールにも人の気配は無かった。しかしプールには水が満たされていて、ただシーズン中とは違うことは、大量の藻が発生して水面を被っていることだった。水草特有の青臭さだけでなく、何か異様な臭いが、立ちこめていた。

 するん。と、かばんの生き物が飛び出したのはあっという間だった。藻がまだらになった部分から水中に潜ると第一コースの飛び込み台の下あたりに顔を出した。

 戻っておいで。その言葉が届かぬうちに、緑の水面が波打った。よく見れば、水が動いたのではなく、生き物が藻を吸い込んでいるのだ。あの小さな体と口で。

 緑の絨毯の端を持って勢いよくたぐり寄せるように、プールを被っていた藻が片っ端から生き物に呑み込まれいった。そしてそれにつれて、お腹も手足もしっぽも太く長くなっていき、体はどんどん成長した。

 五分もしないうちに、以前の面影はほとんど無くなった。特に体はずいぶんと長く立派になり、今やプールのほとんどを占拠して、さらには底でとぐろを巻けるほどである。

 そして、最後のひとかけらが、その口に消えた。

● ●

 水面が、もう一度大きく波打った。

 頭をもたげたその姿は、どこかの看板で見たことがある。二本の角、手に大きな爪、蛇のように長い体。立派な龍だった。

 懐かしい瞳でこちらを一瞥すると、素早く音も立てずに水中に潜った。そしてそのままプールの底に消えていった。

 我に返ったワタシは、あわててプールサイドにしゃがんだ。目を凝らして水底に龍の姿を探したけれど、後には少し濁った水が残るばかりだった。(第十話・完)

(イラスト やまもとかずよ)




第85回・水谷ゼミナール報告

 

・日時:12月26日(金)18:00〜19:30(忘年会20:00〜21:30)

・場所:ピパ・アランチョ(神戸市中央区北野)

・内容:テーマ「今年できた私たちの作品」

(1)発表@「甲陽園目神山地区集会所・やまびこの家と外構」/世儀敦裕(ジーユー計画研究所)

(2)「滋賀県栗東の診療所」/安元美帆子(まちづくり(株)コー・プラン)

(3)「共同建て替えによる集合住宅」/渡辺+三宅(UR大阪事務所)

(4)「六甲道駅北地区集会所」/岩崎俊延(プランまちさと)

 今回の水谷ゼミナールは、年末恒例の“作品シリーズ”で、4氏・組から発表がありました。世儀さんからは、まちづくり支援を行ってきている地域で、調整池の敷地を使ったユニークなデザインの集会所づくりについて報告がありました。安元さんからは、滋賀県栗東市の調整区域に建つ診療所と震災で傾いた昭和初期の木造住宅の改修について報告がありました。渡部さんと三宅さんからは、水道筋商店街(神戸市灘区)に面する敷地での共同化による集合住宅建設についての報告がありました。最後に岩崎さんからは、震災復興区画整理事業が行われている地区で、設計コンペによる集会所ができる経緯と地域による運営についての報告がありました。(中井都市研究室 中井 豊)

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水谷ゼミナールの様子 ブラジル・クリチバから兵庫県の技術研修でコー・プランに来ているアナ・ルイザ・ニシムラさん、右は天川さん
 


情報コーナー

 

阪神白地市民まちづくり支援ネットワーク・第54回連絡会

・日時:2月2日(金)18:30〜20:50
・場所:神戸市勤労会館307号室
・内容:テーマ「神戸都心ウォーターフロントのゆくえ」

テーマ解説:小林郁雄(コー・プラン)

報告:

(1)「都心ウォーターフロントの景観形成」/白井治氏(まち空間研究所)

(2)「ポートアイランド(旧コンテナ埠頭)への大学立地」/中山久憲(神戸市都市計画総局)

・会費:500円
・問合せ:GU計画研究所(TEL.078-435-6510)

第18回まちづくりコンサルタント会議

・日時:2月8日(木) 13:15〜16:300
・場所:こうべまちづくり会館2階ホール
・内容:テーマ「『住民主体のまちづくり』支援施策、これからの展開〜その1:現在の状況と住民主体のまちづくりの今後〜」

会議の趣旨説明・基調報告/兵庫県都市政策課
市町の発表「施策の状況と課題」神戸市都市計画総局計画部地域支援室、西宮市都市局都市計画部都市政策グループ
コンサルタントからのコメント「住民・行政取り組みの実態−派遣コンサルの視点から」、

意見交換
・問合せ:ひょうごまちづくりセンター(TEL.078-367-1263、FAX.078-367-1264

第18回「くらし・すまい塾」

・日時:2月19日(月)18:30〜20:30
・場所:石東・都市環境研究室
・テーマ:「51白書」の学び始め、(1)チューター/塚田由佳里、室崎生子
・参加費:500円
・問合せ:石東・都市環境研究室(TEL/FAX. 0797−35−5622)

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