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『きんもくせい』終刊にあたって

神戸市長 矢田 立郎

 今年1月17日で阪神・淡路大震災から12年が経過しました。

 震災によって失われたものはあまりにも大きく、震災前の魅力あふれる神戸のまちは文字通りがれきの山へと一変し、将来の夢や希望どころか日々の暮らしさえ分からない、絶望的な状況となりました。

 そのような中、『きんもくせい』は「阪神大震災復興 市民まちづくり支援ネットワーク」の機関紙として1995年2月10日に創刊されました。復興のまちづくりの報告や論文を掲載し、まちづくりに立ち上がった地域の復興情報を共有することにより、地域での復興の取り組みを支え、被災地発の情報紙として市民に親しまれてこられました。そうした市民ネットワークが復興の起爆剤となり、被災し、途方にくれていた多くの市民に「自分たちの手で神戸を復興させなければならない」という気持ちを呼び起こし、私たち神戸市民の手探りでの復興への取り組みを始めるヒントを提供しました。現在、神戸は復興の聖地として、大規模災害で被災した世界各地の地域に夢と希望を与えられるまでになりました。ハリケーン「カトリーナ」で大きな被害を受けたアメリカニューオリンズではこの『きんもくせい』を模して作られた「Trumpet(トランペット)」が刊行され、復興への取り組みを続ける市民に夢と希望を与えていると伺っています。これまでの活動には一言では言い表すことの出来ないご苦労があったことと思います。まずは、関係者の皆様に対して、ありがとうございました、そしてお疲れ様でしたと、改めてお礼申し上げます。

 私たちは震災と復興の中で多くの経験をしました。その中で気が付いた3つの大切なことがあります。

 第一に「命」です。

 神戸市内では4、571人の方が亡くなられ、負傷者も14、678人におよびました。亡くなられた方の多くは家屋倒壊によるものでした。亡くなられた方の思い、残された者の悲しみは12年が経った今でも全く変わることはありません。

 私は万が一災害が起こったとき、この震災の悲劇を二度と繰り返さないため、いかに人の命を守り、被害を最小限にくい止めることができるかという「減災」に視点を置いたまちづくりへの取り組みが重要であると考えています。そのためには学校をはじめとする建物の耐震化率をより高めていく必要があります。市民の皆様にもその重要性をご理解いただき、住宅の無料の耐震診断、耐震改修工事などへの補助を活用し、ひとりでも多くの市民の命を救いたいと考えています。

 第二に「絆」です。

 災害時に特に力を発揮するのは地域の力、人の助け合いです。震災直後の混乱の中、がれきの下から多くの市民を救い、避難所での不安な生活を支えたのは、他でもない地域のつながり、人と人との絆でした。その絆はまちづくりを通じてよりいっそう強固なものとなりました。震災復興再開発事業・土地区画整理事業においても、従来の市の事業計画案について説明会などで地元の意見をいただきながら進めるというやり方ではなく、まちづくり協議会において地元のみなさまが自分のまちについて考え、地域の方同士が顔をあわせながら協議したうえで、まちづくり提案をいただき、それを生かしながら事業計画を作り、進めるようになりました。また、震災の教訓をもとに、日頃の地域福祉等のふれあい活動を通して培った市民相互の助け合いの絆を非常時に活かすため、おおむね小学校区単位で「防災福祉コミュニティ」が結成され、現在189地区で結成されています。

 第三に「感謝の気持ち」です。

 震災時、国内外から多くの支援を受け、心と物資両面から支えられたことが大きなはげみとなり、復興への大きな力となりました。私たちはそれに対する感謝の気持ちを忘れてはなりません。平成16年12月から平成17年12月にかけて、そうした国内外からの支援に対する感謝の意を込めて、震災の経験や教訓、復興への取り組みと課題・成果、これからの神戸づくりの方向を発信する「震災10年 神戸からの発信」事業を実施しました。世界中で大きな被害が続発し、国内でも大規模な地震が予想されているなか、神戸の取り組みを国内外に発信することにより多くの被災地を救い、被害の広がりを未然にくいとめることが私どもの責務であると考えています。

 神戸で震災を経験されていないか、まだ生まれておらず、震災を知らない方が現在市内人口の1/4をしめています。震災の経験や教訓を次代へ継承し、今後も市民の皆様と手を携え、日本一安全な都市を目指し、皆さまとともに努力してまいりたいと考えています。

 わが国は今、高齢化という大きな問題を抱えています。本市も震災により高齢化問題が顕在化し特徴的なものとなりました。そのため、神戸市では地域で見守りができるコミュニティづくりを支援する等、高齢者が元気に生きがいを持って暮らせるまちの実現に取り組んでいます。急速に進む超少子高齢化の時代において、高齢者対策は全ての都市が直面する問題です。高齢者がいきいきと自己の能力を発揮することのできるまちづくりを完成させ、モデル都市として全国に発信できればと考えています。

 震災により激減した人口も平成16年11月に震災前の人口に戻りました。壊滅的な被害を受けた神戸港もコンテナ取扱い個数が震災前の8割程度に回復するなど、本市経済においても12年を経てようやく総じて拡大を続けるようになりました。昨年2月に神戸空港が開港し、神戸港も今年開港140年を迎えます。神戸は今未来への飛躍と持続的発展に向けて邁進する極めて重要な時期にきています。神戸は震災により他都市に比べ大きく遅れをとったことは事実です。しかし、震災での経験、教訓と震災により生まれた地域の力や郷土愛を活かし、全ての市民が幸せを感じられる、市民もまちもいきいきと輝く「豊かさ創造都市こうべ」の実現を目指し、皆様とともに市政の運営に努めてまいりたいと考えています。

 まちづくりに終わりはありません。神戸の夢の実現が、他の多くの被災地に夢と希望を与えることになります。私は今後の都市戦略として、生活文化や生活スタイルを含めた広い意味での「デザイン」をキーワードに新しい視点でまちづくりを行うことにしました。みなさまとともにおおいに議論をしながら、美しく、魅力と活力に溢れ、誰もが住みたい、訪れたいと思う世界に先駆けた都市モデルとなるようなデザイン都市神戸の実現に全力で取り組んでまいりましょう。

 『きんもくせい』は終刊となりますが、関係者の皆様によるこれまでの取り組みは今後の神戸のまちづくりに必ず引き継がれ、活かされることと確信しております。


 

連載【街角たんけん28 最終回】

Dr.フランキーの街角たんけん 第28回(最終回)
埠頭を渡る風〜新港突堤を歩く〜

プランナーズネットワーク神戸 中尾 嘉孝

 最終回くらいは結言めいた話を書いてみようかとおもっていたが、やはり街角へ出たいと思う。春になったから、というわけでもないが久しぶりに港へ足を向けた。

 鯉川筋から海岸通に出て、海際に出てみる。先ごろこの並びの水上警察署、合同庁舎を耐震性能等も考慮をして他所へ移転整備し、海岸通界隈から港への眺望を確保する構想が新聞で取り上げられていた。「ウォーターフロント・トゥ・パブリック」を唱える立場から言えば、こうした検討がなされるのも時代が変わった証拠と歓迎したいところではある。

 「没個性な」携帯電話会社のビルができて久しい京橋北詰の一角に出る。早いもので旧神戸商工会議所ビルの取り壊しから20年が経過しようとしている。大丸神戸店の「旧ナショナルシティバンク神戸支店」の「リブラブウェスト」への再生活用と共に、神戸中心市街地の水際に市民の目を向けさせる契機となったことが、あの短くも熱い旧商工会議所ビル保存のお願い運動の成果であった、と書いても、やはり現場に立つと喪われたものの偉大さを感じずには居られない。これだけは、ほぼもとの位置に戻された旧神戸海軍操練所跡を顕彰する旧海軍軍艦のアンカーを用いたモニュメントと石碑が、この一画の空虚さを際立たせる。

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写真1 神戸商工会議所ビル 昭和4(1929)年竣工、原科準平・古宇田実設計
 
 欄干だけになった「京橋」を通って新港地区に入る。海軍操練所の中核施設にも位置づけられた船たて場を築造した網屋吉兵衛の顕彰碑が出迎える。

 新港突堤に立つ。この突堤建設計画を指揮したのは豊岡出身の土木技師・森垣亀一郎(きいちろう、明治7(1874)年〜昭和9(1934)年)である。同郷の先輩・沖野忠雄の後を追うように土木の道に進み大蔵省臨時建築技師となった森垣は欧州視察の際、世界で初めてロッテルダム港で施工されていた沈函(ケーソン)工法の技術を持ち帰り、神戸・新港突堤の建設に用いた。のちに森垣は、大蔵省から神戸市に転じ、港湾部長、都市計画部長、土木部長を歴任。昭和9(1934)年1月、新年度予算査定の市長打ち合わせの席で倒れ、急逝している。なお、森垣の指導で設置されたケーソンは阪神・淡路大震災で崩れたものの、再び据え直されて突堤の復旧がなされた。

 一昔前、ある建築史研究家から、「神戸の新港突堤には横浜のような大きな煉瓦造倉庫がないから寂しい」という言葉を聴いたことがある。しかし、どうだろうか。川西倉庫、住友、三菱、三井の旧財閥系倉庫各会社の倉庫群が見せる、1920年代半ばの時期の建物とは思えない機能的な外観が連なる様は、これはこれで圧巻である。流石に渡邊節が設計した川西倉庫は、基壇部が切石積でデザインされているが。

 神戸税関の東側に、2つのゴシック系の巨大な建物が建っている。今は農林水産消費安全技術センターが入居するこの施設は、元生糸検査所の建物である。「キーケン」というと横浜が思い浮かぶが、神戸の「キーケン」はレプリカではなく「ほんまもの」の近代建築だ。

 神戸での生糸の輸出検査は、明治2(1869)年、新政府が各開港場に蚕卵紙生糸改所(検査所)を設置し、生糸の検査、生糸業者への鑑札交付等の事務を行った時が始まりとされている。

 その後、生糸改所は、民営化を経て廃止され、貿易業者による自主検査の時代が続いたが、同28(1895)年2月の生糸検査所法の成立で、農商務省(現在の農林水産省、経済産業省の前身)の機関として生糸検査所が設置される事となった。検査所は横浜のみの開設が考えられていた所、但馬を中心とする関西の蚕糸産地の積出港となっていた神戸で、商業会議所を中心に神戸での検査所設置を国会へ建議した結果、横浜、神戸の2箇所の開設が法律に盛り込まれた。神戸生糸検査所は、翌29(1896)年、栄町に開設されたが、神戸での生糸輸出の衰退で、開設から僅か5年後の同34(1901)年に閉鎖に追い込まれている。

 時代が大正に移って、関西の蚕糸業が関東に比肩するまでに成長を遂げたので、業界では関西に生糸取引の場を設けようという機運が高まった。神戸商業会議所でも、大正10(1921)年7月に生糸市場設置委員会を設け調査検討を行い、同年12月に神戸市営での生糸市場の開設を市に具申した。

 この構想が動き出したのは、大正12(1923)年9月1日の関東大震災が契機であった。壊滅的被害を受けた横浜港に変わる生糸の積み出し基地が早急に必要であった。同月12日、全国の製糸業者が神戸で会議を開催し、神戸に生糸取引、その輸出を継承することを決議し、市に対して生糸検査所設置の要望を申し入れした。神戸市も臨時予算を組んでこれにこたえて、まずは元神戸税関監視所を臨時の検査所庁舎に当てて業務を開始した。しかし、木造平屋建の建物は手狭であり、すぐに元町通4丁目の元証券取引所の建物に移転した。この間、市は新港地区に用地を確保し、新庁舎を昭和2(1927)年3月に完成させた。その後、同6(1931)年、市から国に検査所は移管され、翌7(1932)年には本館東側に新館が置塩建築事務所の設計で増築されている。

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写真2 旧神戸生糸検査所本館 昭和2(1927)年竣工、神戸市営繕課設計 写真3 同新館 昭和7(1932)年竣工、置塩建築事務所設計
 
 最初に建った本館庁舎と増築部分、何れも広義では同じネオゴシックであるが、趣を異にする。本館は、高さを強調する「垂直線」が印象的。玄関部のアーチはゴシックカーブである。中央部は上部が塔屋的な扱いでデザインされ、パラペットにはバトルメントを模した装飾が施されている。本館庁舎を手がけた神戸市営繕課は、初代課長を務めた清水榮二が退職する直前の時期にあたっていた。

 一方、増築部は、柱型や塔屋デザインの扱いでゴシックさを演出しているが、東西に広がる雄大なファサードの連なりが印象的である。初代兵庫県営繕課長として、第三代県議会議事堂、県立第一及び第二神戸高等女学校(それぞれ、現県立神戸高校、同夢野台高校の前身)などを手がけた置塩章が得意とした、「スタイリッシュな」ファサードデザインの到達点がここには見られる。生糸検査所庁舎は、農林水産省農林規格検査所を経て、農業水産消費技術センター、肥飼料検査所と農薬検査所の三法人が統合されて発足した農業水産消費安全技術センターに引き継がれている。国の庁舎から独立行政法人の事務所に変わったのは時代の流れだが、今後のこの建物の行方が気になるところではある。是非、現地で生かし続けていただきたいものである。

 農業水産消費安全技術センター南側の交差点に面して建つ新港貿易会館は、元々は昭和6(1931)年に神港相互館という共同事務所ビルとして完成した建物だが、モンドリアンスタイルのフレームワークの丸窓やステンドグラスなどアールデコのデザインが各所にちりばめられた魅力的なクラシックビルである。税関、キーケン、新港貿易会館の3点セットがやはりこの場所には似つかわしい。

 第四突堤へ出る。神戸大橋とハーバーハイウェイなどを連絡する高架橋でやや殺風景だが、竣工当時は第一突堤であり、海外航路の客船の接岸岸壁という、世界との窓口の役割を負って来た場所である。

 大正7(1918)年に同突堤が完成した時は、大熊喜邦の設計による鉄骨造の「ザッハリッヒ」(即物的)なデザインの船客乗降場上屋が突堤の西側に建てられていた。この上屋は、昭和6(1931)年に第二期工事で拡張された突堤の東側部分に鉄筋コンクリート造で移転改築されたが、基本的な構造は踏襲されている。すなわち2階のデッキは、接岸している船舶のデッキから直接、船客が乗降できる構造となっており、1階部分に隣接する引込線には東灘駅(灘区)を基点とする臨港線を経由してポートトレインが入線し、旅客の利便を図っていた。現在は、みなと総局神戸港管理事務所としてごく一部が使われているにすぎないが、特に中央部の玄関から二階のデッキへいたる大階段室は、階段の親柱などが石造風に仕上げられるなど、見事な空間が広がっている。同種の施設は、管見ながら門司港に残されているだけであり、貴重な存在である。

 管理事務所の近くから東側、小野浜岸壁は三井倉庫の専用施設である。この小野浜の三井倉庫も、やはり昭和7(1932)年完成のれっきとした現役の「近代化遺産」である。第三突堤の同じ三井倉庫の建物と比べると規模が飛躍的に大きくなっている。

 新港埠頭界隈は、今後、商業施設の建設などが計画されているが、神戸港の近代の歩みの中で築かれたこうした近代化遺産を上手に活用して、新たな水際空間を生み出していって欲しいものである。

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写真4 新港貿易会館 昭和6(1931)年竣工、神港相互館設計 写真5 神戸市みなと総局神戸港管理事務所 昭和6(1931)年、設計者不詳
 
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写真6 竣工した頃の神戸港第一突堤船客乗降場上屋(写真出典「神戸港大観」昭和7年) 写真7 三井倉庫小野浜営業所(旧東神倉庫神戸支店小野浜倉庫) 昭和7(1932)年竣工、東神倉庫建築課設計
 
おわりに

 2003年から4年の永きにわたって拙い文章にお付き合いを頂いた読者の皆様、また私に執筆の機会の場を与えてくださり、最後は筆が遅くなってしまった筆者に粘り強くお付き合いくださった小林編集長、天川佳美様、吉川健一郎様のお陰で、なんとかここまで書き続けられることができたと感謝しています。皆様、ご愛読本当に有り難う御座いました。

(灘区内に限定して、近代建築とそこにまつわる人物の一代記を書き連ねるコラム「灘建築夜話」をグローカル・サイト「ナダタマ」にて毎週1回木曜日更新で執筆しています。「街角探険」とは異なる、やや実験的な手法で書いていますが、よろしければ是非ご笑覧下さい)。


 

鎖瀾閣復元運動の現状/2007年2月

武庫川女子大学文学部教授、NPO法人谷崎文学友の会理事長 たつみ 都志

 『きんもくせい』06年2月号(No.40)で、谷崎潤一郎の旧邸「鎖瀾閣」の復元が篤志の建築家の出現で急遽実現することになった経緯を詳しく述べた。

 その後、どうなっているのか、いつ「ひまわりファンド」のお金を送金したらいいのか、とみなさまから問い合わせをいただいている。ありがたくて涙が出る。

 この号では、その後の動きを報告する。

 昨年9月、神戸市公園緑地課は庁内を調整しようやく、われわれの要求に応じて岡本六丁目の「岡本(梅林)公園」拡張予定地に、鎖瀾閣とナオミの家の建設を設置許可するかどうかを真剣に検討する、と答えてくれた。みなさまの署名運動のおかげである。

 しかしながら都市公園法にのっとり、公園内に施設等の設置を許可するためには、いくつかのハードルがある。そのひとつに「近隣住民の了解」という事項がある。

そこで、9月4日(月)、9月25日(月)、10月23日(月)、11月13日(月)、11月27日(月)、12月11日(月)、1月9日(火)、3月8日(木)の合計8回、午後7時〜10時まで、毎回延々3時間にわたって近隣住民と話し合いがもたれた。

 近隣住民とは、拡張予定地を取り囲む形で隣接している住民たちで、神戸市公園緑地課が「説明会のお知らせ」を配布したのは、約20軒(うち3棟のマンションを含む)である。そのうち出席者は多いときで12軒、少ないときで5軒であった。回を重ねるごとに減っていっているというのが現状である。賛成または無関心は欠席する。出席するのは反対もしくは何らかの注文がある、という場合である。

 何度も話し合い素案の修正を重ね、今なお話し合いを進めている。主に北側1軒、南側2軒が反対、北側1軒は条件付き賛成。

 反対の理由または条件は大きく分けて5種類である。

1.眺望がそこなわれる・・・これは鎖瀾閣北側住民2軒。

2.圧迫感・・・これは南側2軒。

3.見物客が来ることによる公害・・・騒音、プライバシー侵害、付近への駐車迷惑。

4.鎖瀾閣管理運営への不安・・・夜間と休館日の警備問題。

5.将来への不安・・・建った後、経営不振で放っておかれること。

 1の問題については、北側2軒の眺望を確保するために、今ある地盤から2メートル50センチ下げ、2階からの眺望を確保するよう提案し、12月24日にポール建てをして、シミュレーションした。この付近は山の斜面で、土地が段々畑のようになっていて、各戸一階からの眺望は望めないが、2階からは遠く海が望めるロケーションにある。その地域性を生かす必要がある、と判断したからである。

 北東側の家は、現状でほぼ納得していただいているが、北西側の家は2階からの眺望が確保されるだけでは納得いかない、主たる生活空間である1階のリビングおよびダイニングキッチンからの眺望が確保されないと妥協できない、と言い張り、あと1メートル50センチ、つまり現状から4メートル地盤を落とすことを要求してきているのだ。理由は「平成10年にこの家を購入したとき、前の空き地は公園になります。何も建ちません」と不動産屋が言ったから買った、というものである。

 しかし専門家に言わせると「不動産の重要事項説明のとき、周囲の環境は変わらない、というのは絶対言ってはならないこと」であるという。

 神戸市の予算では負担できない、追加の整地費用をわれわれが負担することも視座に入れて2007年に入ってから検討し始めた。その結果、追加の整地費用は1300万円以上かかり、しかも4メートル地盤を落とすと景観上、あるいは土地の強度、またバリアフリーの設置上、すべて不都合で、緑地を取れないため公園の機能すら果たせなくなる。そのため神戸市としては設置許可を出せない、ということになった。この調査結果が出たのは、2月中旬であった。

 3月8日にこの結果を報告したが、まったく妥協してもらえなかった。その強弁さに、同じ近隣住民すらあきれて中座する始末。しかし彼らに理解、協力していただくために、われわれはこれからも誠意を見せ根気よくコツコツと説得を続けていく所存である。

 ところで、倚松庵の建設に当たり、移築復元が決定してから建設まで2年の空白の年月があった。そのころ私は、倚松庵の移築復元運動を進めていて、神戸市に対して一刻も早く建設することを要求していた。しかし神戸市とともに歩んでいたわけではないので、その2年間の空白の意味がわからず、ただの神戸市の怠慢としか思えなかった。

 しかし今ようやくその意味がわかる。神戸市の担当部局は、近隣住民を一生懸命説得してくれていたのだ、と。そのころ神戸市の担当部局で今は退職した人が、大きくうなずいて言ってくれた。

 「そうですよ、先生。2年かけて住民はようやく納得してくれたのです」

 ああ、そんなことをもっと早く知っていたなら、住民感情との板ばさみで自己嫌悪にかられ、死にたくなるほど落ち込むこともなかったのに、とはがゆい。

 そう、われわれは後世に文化の灯を残すために日々努力しているのだ、何もひるむことはない、自信を持って進もう、そう思えてきた。

 どうかみなさまも暖かく見守っていってください。なお今、賛助会員を募集しています。詳しくは以下のホームページにて。(この原稿は「谷崎文学友の会会報No.10」と一部重複しています)。

http://sarankaku.cool.ne.jp/about.html

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鎖瀾閣の建設検討地 鎖瀾閣の復元南立面図
 

 

連載【神戸のみどり10】

神戸のみどり・その10
『相楽園異聞』(下/最終回)

元神戸市建設局公園砂防部長 小森 正幹


6.戦前の旧小寺邸庭園ついて

 現在、相楽園は神戸の誇る本格的な日本庭園と3つの国指定重要文化財(旧ハッサム住宅、旧小寺家厩舎、船屋形)と神戸市の行事と外国からの賓客をお迎えする迎賓館がある施設だ。「相楽園」は昭和16(1941)年、続く不況と貿易商社「小寺洋行」の経営不振などで小寺謙吉から神戸市へ売却され、その代金の半分は市へ寄付されたという。神戸市は中国の『易経』の一節「各得其願和悦相楽」(オノオノソノ願イヲ得テ和シテ悦ビ相楽シム)から、「相楽園」と名付けて昭和16(1941)年11月、市民に公開することとした。初めは春秋の花の季節のみ開園されていた。

 旧小寺邸当時の園内を概説すると、現在もほとんど当時と変わらないのは築地塀、正門、正門横門衛詰め所、東門、西門、蘇鉄園、池泉回遊式庭園の瓢箪池、池周辺を回遊する園路、明治時代作庭の特徴である洋風な芝生広場、荒木村重ゆかりの花隈城鬼門の樟、旧小寺厩舎などだ。戦災で焼失したのは、今の相楽園会館とほぼ同位置にあった本邸で、桃山風の破風屋根の車寄せをもつ「樟風館」、現在の旧ハッサム邸の女中部屋あたりにあった奉公人棟、戦後復元され茶室として使われているが、池に張り出した藤棚を持つ離れだった「浣心亭」、現在休憩所と滝と流れ手水がある庭園の西南角にあったという茶室「又新亭」(ゆうしんてい)、瓢箪池の上部の小広場にあった茅葺きの四阿、今は現代風の休憩所が建っている園内一番の高みにあった藁葺きの四阿などである。

 なお「樟風館」付属の漆喰塗倉二棟は戦災を免れ、公園管理事務所等に使われていたが、相楽園会館建設時に取り壊された。さらに特筆すべきは旧小寺厩舎前が畑だったようだ。また旧小寺厩舎は相楽園の鬼門に位置し、厩舎として建てられたものの生類を嫌い厩舎として一度も使われなかったらしい。ただし、当時ようやく利用され出した自動車のガレージとしてつかわれた。進入ルートついて考察すると、正門は古い写真から木製柵が前面にあり、人だけのようで北門は当時なかったので、厩舎に極めて近い東門からだと推定される。門と本邸と庭園の関係から通常、「樟風館」への通用門は西門だったことは容易にわかる。

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戦前の池と浣心亭の灯籠類(神戸市蔵) 旧小寺厩舎と畑と薔薇(神戸市蔵)
 
 なお、船屋形は戦前にはなかった。船屋形は江戸時代、姫路藩主が河川での遊覧用に使っていた「川御座船」の屋形部分だけが陸揚げされたものだ。飾り金具の裏に榊原家の家紋でなく本多家の家紋が刻印されていることから、建造年代は1682〜1704年の間と推定されている。昭和28(1953)年国の重要文化財に指定された。牛尾吉朗氏より神戸市に寄贈され、明石海峡大橋着地点に近い牛尾邸の池畔(現・苔谷公園の一部)から解体補修の上、昭和55(1980)年相楽園の西池畔を埋め立て設置した。前面の船泊風護岸は桂離宮の船泊を参考にして設計された。木造2階建、切妻造桧皮葺で内部 は1階2階とも3室に分かれていて、前方より「床几の間」「上段の間」「次の間」となっているが、中でも2階中央の「上段の間」は小さな床の間付で最も重要な殿様の御座だ。しかし「床几の間」の方が操船する船頭の座だけあって、景色も展望もよい。二階の木部は内外とも全てを春慶塗と黒漆塗 に塗分け、長押や垂木の先には金箔を施した飾り金具を打つなど華麗で繊細な造りである。日本に現存する唯一の川御座船だ。

7.庭園修復計画

 「正門から相楽園会館に至る主園路が小砂利敷きで歩きにくいうえ、車椅子の通行は出来ないので園路の舗装をしてほしい」という長年の市民要望にそって、平成10(1996)年京都造形芸術大学尼崎博正教授の指導のもと、黒玉砂利洗い出し舗装が施工された。その折り、尼崎教授から既存樹の手入れや庭園ディテール復元など多くの改善点の指摘を受けた。この指摘をもとに造営当時に復元するため、平成12年度に株式会社 中根庭園研究所に庭園の現況調査・分析評価業務を委託した。その結果、ひらどツツジ等樹木の剪定手入れ、芝生の消失、広葉樹繁茂による灌木・地被類の生育不良、五つの流れ施設の荒廃などが指摘された。ついで平成17年度までの改修5カ年計画が策定され、(財)神戸市公園緑化協会に委託して、剪定・伐採・実生樹の除去判定・流失土の補充、流れの復元整備・芝生の復元・根締め等補植・サイン等の整備・斜路の増設を含むユニバーサルデザインの実施などおおむね良好に実施され、見違えるようになった。今後もこの庭園にとって重要な苔等の地被類の復元などが重要課題であるとともに、地下に埋没している旧「又新亭」周辺の発掘、復元とその固有の伝統的意匠の保全に努めていく必要があろう。

8.指定管理者とこれからの相楽園管理

 平成18年度から相楽園の管理は、庭園部分は指定管理者「神戸市造園共同企業体」が、相楽園会館は神戸市行財政局が、重要文化財は神戸市教育委員会が、それぞれ管理することになった。まだ慣れないせいか少し軋んだ意見を仄聞する。元園長でもあった私の意見は、「相楽園は神戸の誇る本格的な日本庭園と3つの国指定重要文化財(旧ハッサム住宅、旧小寺家厩舎、船屋形)と神戸市の行事と外国からの賓客をお迎えする迎賓館がある施設で、三位一体的に管理すべきだと考えている」ということだ。もちろん世の流れとして、民間のできることは民間に委ねることは大切だと思うが、昨今の規制緩和が何をもたらしたか? と営利と距離を置いた視点での各施設の位置づけを考え直すことも重要なことだと思う。(この項おわり、「神戸のみどり」完)

※「六甲山植樹100年」(05年8月号と10月号)から始まって、「21世紀都市林"こうべの森"をめざして」(05年12月号)、「しあわせの村誕生異聞」(06年2月号と4月号)、「布引ハーブ園誕生異聞」(06年10月号と11月号)、「相楽園異聞」(07年1月号と2月号、3月号)まで、5つのテーマで「神戸のみどり」を連載いただきました。小森さんの「みどり」への情熱とさすがの筆に、今再び読み返してみて、先人から受け継ぐ「神戸のみどり」を守ることの意味を思っています。大切な文章のご寄稿を心から感謝申し上げます。ありがとうございました。(天川佳美)


 

連載【コンパクトシティ あとがき】

「コンパクトシティ」を考える(あとがき)

神戸コンパクトシティ研究会 中山 久憲

 1997年に前神戸市長の笹山幸俊氏が第3期目に入った市政方針の中で、震災の教訓として、「小規模で分散し、自律した生活圏の多重ネットワーク社会」を作ることが災害に強く、安全で安心であるとして、震災復興のまちづくりに「コンパクトシティ」政策を提唱された。これが私がコンパクトシティ研究に関係するきっかけとなった。「コンパクトシティ」という単語を最初に聞いた際、言葉の響きに直感的に魅了されたからである。「コンパクト」という「小さくて詰まっている」意味の単語と、巨大化を指向してきた「シティ(都市)」という相反する単語が結びついたことで、それまでの明解な境界もなく拡大を続けてきた「メガロポリス(巨帯都市)」の問題の解決策の大きな鍵になりうると直感したからであった。

 しかしながら、市役所庁内での研究会や、『コンパクトシティ−持続可能な都市形態を求めて−』の翻訳を通じて、あるいは、仕事から離れた研究会で、日本におけるコンパクトシティの具体性を追求してきたが、「コンパクト」+「シティ」という相反する単語の組み合わせを満足する都市構造のイメージを創造するまでに至ることができなかった。それには、人類が定住生活を開始して以来、模索し続けている都市のあり方、すなわち苦闘し続ける都市計画や都市政策の形成の経緯を知らずして、欧米人が求める"Compact"+"City"に込められた意味を理解できないのではないかと感じた。

 そこで、2002年から新たに私的な「神戸コンパクトシティ研究会」を始め、ヨーロッパや米国の都市形成の歴史を順次たどりながら、文明と思想の進化、都市の政治と経済などとの関係から、都市の形態や行政の仕組みについて、都市計画的見地からその系譜の把握に挑戦してみることにした。

 そんな折に、2003年からの『月刊きんもくせい』の発刊において、隔月号での『コンパクトシティを考える』の連載を担当することとなった。そして、2006年9月号の第21回(実質的には20回分の原稿)で連載を終えることができた。その間3年4ヶ月、毎回の原稿を送付したら、すぐに次号の企画、資料の整理、執筆、校正、原稿送付を2ヶ月毎に繰り返してきた。しかし、毎回それほどの焦りは感じなかった。というのは、毎月の研究会で発表してきたコンパクトシティに関係した欧米の都市計画の資料が先行的にできていたからであった。その資料も既にページ数にして400頁を超えている。まさに継続は力なりである。ただし、連載は毎号2頁という量的制約があり、企画したかなりの部分を割愛しなければならず、研究会の成果を充分に表現できなかったのは残念である。

 5年にわたる毎月の研究会の活動と『月刊きんもくせい』での連載を通じて、欧米の都市のあり方、すなわち都市の主人公である市民の責任の自覚と義務の履行が、自治力を形成して、都市を自らが愛し守り、子孫に伝えていく持続性を保持してきたことを理解することができた。当初イメージした"Compact"の言葉の訳が、単に「小さく詰まっている」という意味だけではなく、「市民間の契約」、さらには意訳的に「都市の中で多様に活動するコミュニティの働き」であるという解釈に至った。つまり、「コンパクトシティ」は決して意図的に作り上げた都市の形態ではなく、市民がいかに自治力を獲得し、それを維持することで、結果的に「都市はコンパクトになる」ことと、それが都市の「持続性」を維持できるという命題に行き着いた。この命題については、神戸市での震災復興のまちづくりを通じた都市整備のあり方や、地方分権の確立による各地方の都市づくりの中で検証されるものであり、私自身も市民主体のまちづくりの中で実証できるように努めていきたい。

 最後になりますが、都市計画論として「コンパクトシティ」を研究する動機を与えていただいた前神戸市長の笹山幸俊氏、研究機会を与えていただいた当時の神戸市震災復興本部主幹で現(財)神戸都市問題研究所主任研究員の本荘雄一氏、また、『コンパクトシティ−持続可能な都市形態を求めて−』の翻訳の監修と欧米における事例の紹介をいただいた名城大学都市情報学部教授の海道清信氏、そして『月刊きんもくせい』への連載の機会を与えていただいた編集長で神戸山手大学教授の小林郁雄氏に深く感謝の意を表します。

 さらに、2002年からほぼ毎月開催させていただいた「神戸コンパクトシティ研究会」に場所を提供いただき、私の個人的興味からまとめた欧米における都市計画の系譜に、長年の経験を通じた意見をいただいた前こうべまちづくりセンター長の内田恒氏、現こうべまちづくり会館長の三輪秀興氏には大変お世話になりました。このほか、私的な研究会のメンバーとして参加していただいたことで、毎月資料を調べて原稿を書く機会ができ、その拙文に目を通し、説明に耳を傾け、時には懇親の場で議論や励ましをしていただいた神戸市の若手職員の皆様にも多大の協力を得ることができました。

 そして、『月刊きんもくせい』の読者の先輩や後輩の方々から、拙文を読んだという声をかけていただいたことが、何よりもありがたかったことなど、この場を借りて厚くお礼申し上げます。



終刊号に寄せて(到着順)

 

■土井 勉(神戸国際大学)

まちの再生と公共交通と『きんもくせい』

 『きんもくせい』12年間、本当に有り難うございました。

 この12年で私も勤務先が神戸市内に替わり、『きんもくせい』的世界に近くなってきたのですから、3月号で終刊ということは大変に残念です。でも、実際の編集、印刷、発送などは大変なお仕事ですし、それを弛まずに継続された小林郁雄さん、天川佳美さん、中井豊さん、吉川健一郎さん、皆様の活動は本当に尊いものだと思います、お疲れ様でした。

 あの震災がきっかけで発行された『きんもくせい』ですが、近年は震災と復興を大きな柱としつつ、これからのまちづくりについても展望するというのが編集方針ではなかったのかと思っています。神戸で仕事をするようになって、私自身もまちづくり、まちの再生について考える機会が増えました。

 まちの再生に関連して「ソーシャルキャピタル(=社会関係資本)」ということが良く話題に上るようになってきたと思います。ソーシャルキャピタルを言い出した米国のR.パットナムは、その著作『孤独なボウリング』で、米国でも減少しつつあるソーシャルキャピタル再生のために郊外へのスプロール化に歯止めをかける必要があると述べています。

 これは土地利用計画だけの話ではなく、自動車中心の交通政策から徒歩と公共交通中心の交通政策に転換する必要があることを意味します。このことは同時に地域の環境負荷を小さくし、さらに中心市街地活性化や地域の安全・安心にも寄与することになるものです。

 そのためには、公共交通をより魅力的にすること、まちと公共交通の関係をより緊密にすること、情報提供やコミュニケーションを通じた公共交通への利用促進など多くの課題があります。

 こうした文脈にも関係があるのですが神戸市や阪神間を中心とするエリアにおいて、まちの再生と公共交通に関する取り組みが実施されています。こうした取り組みがさらに充実していくために多くの叡智が必要です。『きんもくせい』の読者の皆様にも交通政策に時々はご関心をお持ちいただければ幸いです。

 ホントはもっともっと継続して欲しかった『きんもくせい』です。12年間の発行を心から感謝申し上げます。

 ■坂和章平(弁護士)

 『きんもくせい』ファンのコンサル、コーディネーター、建築士は多いだろうが、「三世代」にわたる『きんもくせい』50+36+48をすべて購入し、きちんとファイル・保管している弁護士はわずかしかいないはず…。今から12年前の1・17阪神・淡路大震災は大変な被害を生み大きな爪痕を残したが、他方、それによって各種各層の専門家とまちづくり住民運動との連携を飛躍的に発展させることになった。そして、一貫してその原動力になったのがこの『きんもくせい』。ペンの力は偉大だが、それを継続させていく力はもっと偉大なことを実感。私にとっては、芦屋中央地区復興土地区画整理事業におけるまちづくり協議会の顧問弁護士としての5年半の苦闘が昨日のことのように思い出されるが、そんな私の活動や異業種交流は、『きんもくせい』によって大いに進化したもの。『きんもくせい』の発行を終える今、異業種の私からは、私の苦労の何十倍もの苦労を重ねてきたはずの、小林郁雄代表をはじめとするスタッフの方々の12年間の活動に敬意を表するとともに、「ご苦労さま」の言葉を贈りたい。

■みかん(きんもくせい主)

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バイにゃんにゃん
 
■龍鳳麒龜(森崎輝行/建築家)

 『きんもくせい』の休止にむけ、長文になりそうなので、詩(死?)をつくり送信します。誰か曲をつけて頂くと、私がうたってみせます。

黄色い紙『きんもくせい』廃刊に捧げる 詩
黄色い紙が連れてくる
なえる気力にご紹介
激励・勇気を献上し
「震災復興」へ立ち向かう
和田まことイラスト 伊達じゃない。

黄色い紙は想ってる
怒りの涙とご対面
たわごと・小論を手段とし
「震災復興」へ立ち向かう
和田まことイラスト 伊達じゃない。

黄色い紙は戦ってる
貧乏な仲間と抱き合い
まちづくりを御旗にし
「震災復興」へ立ち向かう
和田まことイラスト 伊達じゃない。

■安田孝(計画史研究者)

 『月刊きんもくせい』の終刊号に、お礼のつもりで感想を書きました。

 阪神淡路大震災は、私の教育・研究生活にも大きな転換点となりました。日本の高度経済成長期に都市計画・住宅問題関連の研究にかかわることになり、産業立地や住宅地開発と公害問題・環境評価が重要課題と思っていました。その中に、安全性が重要という視点は当然のごとく入っていましたが、強烈に実感させられたのは、1995年
1月のことです。

 その後、相変わらず日英比較研究をやっていますが、災害復興計画にコミュニティ再建が本格的に組み込まれたのは、日本では阪神淡路大震災後の計画でのことか、と最近は思いつつあります。イギリスでは、1940年代の戦後再建プランの中心にコミュニティ再建があるようです。

 近年では、日本全国のどこでも地震が発生し、それぞれの地域でコミュニティ再建が重要課題になりつつあるようです。経済力が大きくない今日では、期待ばかり大きくする復興ではなく、地道な再建計画の必要な時代になりつつあるように思いつつ、お礼の発信でした。

■御舩哲(多摩NPOセンター)

 『月刊きんもくせい』47号分、『報告きんもくせい』36号分、『きんもくせい』50号分12年間計133号分本当に有難うございました。そして迎えた2007年3月号第48号(通巻134号)で静かに一段落とされるとのこと本当にご苦労さまでございました。心から厚くお礼申し上げます。

 私はお陰様で阪神・淡路大震災を思いの中にとどめ続けることができ学び続けてきました。心から感謝を!

■片寄俊秀(大阪人間科学大学教授)

 何が難しいと言って継続することほど難しいことはない、といつも思っております。あの日から今日まで、よくぞ発行を続けてこられた、そのこと自体に、まず心からの敬意を表したいと存じます。編集の方々と、それを支えられた多くの方々に感謝申し上げます。なかんずく、無謀とも思えたこのような機関誌発行の試みを社をあげて応援された学芸出版社の心意気に、心からの拍手をお送りしたいと思います。多岐にわたる記事の数々から、災害とはその当日だけではなく、その後がかんじんということ、そして日々深まり深化するということを、実感として理解することができましたし、記事の中から、われわれのとるべき方向や、将来の展望についての多くのヒントをいただくことができました。ありがとうございました。

 そして、ごくろうさまでした。

■青池憲司(映画監督)

A Long March

 小林郁雄編集長、(編集)担当の天川佳美さん、中井豊さん、吉川健一郎さん、『月刊きんもくせい』3期通巻134号のProjectを全うされたことをおよろこび申し上げます。

 命に終りがあるようにProjectにも終りがあることはうれしいことです。とはいえ、終りははじまりですから、Projectも命とおなじように連環していきます。連環は螺旋状に延びていって閉ざされることはついにありません。

 阪神大震災があって、そして、わたしがはじめて被災地KOBEのみなさんにお会いしてから12年の歳月がすぎました。さまざまな事柄が走馬燈のごとくに現前します。

 遠くまで行くんだ――、とわたしたちは出発したように思います。わたしたちとは、被災地KOBEの住民さんであり、専門家のみなさんであり、勝手に被災地に入り込んだ青池組のような輩をもふくんだ、わたしたちです。わたしたちは、あの日、まだ見ぬまち、をめざして旅立ちました(噫!浪漫)。「阪神大震災復興 市民まちづくり支援ネットワーク」はその先達であり、先達すなわち工作者であり、機関紙『きんもくせい』は、まだ見ぬまち建設の作業工程書でした。「いま」的で「現場」感あふれるこのJournalを、わたしは愛読していました。とくに、足掛け5年の撮影を終えて、被災地KOBEをとりあえず離れてからは、先達たちの工作内容を知る手懸りのひとつでした。

 おもえば遠くへきたもんだ――、第3期終刊の知らせをきいて、そんな感慨がわたしのなかになくもありませんが、まあ、これは旅人の感傷というものでしょう。感傷は妥協です、これはいけません。余談ですが、震災後の復興まちづくりを市民の視点でつたえつづけてきたMBS(毎日放送)ラジオの番組『ネットワーク1・17』がこの4月にリニューアルされましたし、カトリックたかとり教会(および、TCC=たかとりコミュニティセンター)の新しい建物(これは被災地KOBEの新名所になるでしょうか)が完成して、献堂式(および、新規オープンのセレモニー)が5月末に行なわれます。いまは、ひとつの転換期――終焉と再出発の季節かもしれませんね。

 命の連環のように終りのないまちづくりの作業工程書として、機関紙『きんもくせい』がその有効性をいささかも失っていないことは、あらためていうまでもありません。

 小林さん、天川さん、中井さん、吉川さん、みなさんと次のステージでお会いする日をたのしみにしています。では、それまで、さよなら3期(三角)またきて四角。

■石東直子(コレクティブハウジング事業推進応援団長)

またお目にかかることを楽しみに、再見!

 小林さん、天川さん、吉川さん、中井さん、○△□『きんもくせい』発行スタッフみなさん、震災直後から12年もの長きにわたってありがとうございました。金木犀カラーを見ると、「ああ、連帯してるんだ」と、安堵感を覚えました。

 時の刻みとともに、『きんもくせい』の内容も変化してきたようです。震災直後は各地の被災状況やさまざまな復旧活動が実況放送のように伝えられました。ひとりの人間がかかわり行動する範囲や時間は限られますが、『きんもくせい』を通して多くを知り、共感し、学ぶこともできました。

 つづいて時が進み、各地の復興過程と人間ドラマが報告され、さらに時が経ち、復興の朗報が披露され、やがて一段落した頃からは震災を契機にした新たな視点のまちづくり、まちの歴史・探検物、創作物語など、知的リラックス情報も届けられるようになりました。なお、国内だけに止まらず世界各地の被災・復興状況もあり、居ながらにして多くのことを学ぶことができました。

 12年と言えば、小学校入学から中学校、高校を終えて社会に羽ばたくまでの人生で一番様変わりする時期、『きんもくせい』もまさにそのような時を刻んできたような気がします。私のこの12年間についても『きんもくせい』には多分30篇余りの報告を掲載していただきました。いい経験になりました。謝謝、再見、再会!

■三輪康一(神戸大学)

 一口に通巻134号といっても大変なことで、持続は力であるとつくづく感じ入りますが、一方、12年もたちますと、紙面のどこをみても熱気をはらんでいたあのころからすると、書き手も読み手もヒートダウンするのはやはり自然の成り行きかと、思い知らされも、します。ただ、その時期、復興から普遍に向かうまちづくりの行方を見定める重要な論壇を形づくってきたことは紛れもなく確かであり、まちもひとも変わっていくなかで、続く世代にその種は着実にまかれたと思われます。『きんもくせい』の役割がほんとうに終わったのかどうか、わかりませんが、長い間ほんとうにごくろうさまでした。

■山地久美子(多文化と共生社会を育むワークショップ代表/神戸学院大学客員教授)

多文化共生社会とまちづくり

 「多文化共生社会とまちづくり」はまちづくりの達人がまちづくりの最新の現状を発信する『きんもくせい』の中であまり登場してこなかった分野の一つであろう。学芸出版社のホームページに掲載されている『きんもくせい』の1995年からの過去全ページを読破したことがあるが、おそらく2006年3月号に小林郁雄氏が書かれた「六甲アイランド基金と多文化ワークショップ」が唯一ではないかと思う。私たち「多文化と共生社会を育むワークショップ」の活動は小林氏により「国際交流ではなく多方面の文化と共生コミュニティへの取り組み」と紹介されている。2006年1月に結成された多文化と共生社会を育むワークショップは公益信託神戸まちづくり六甲アイランド基金の助成を受け、昨年度一年間の「みんなでつくる文化と共生社会:Korea編」事業を終了し、2007年4月から「みんなでつくる文化と共生社会:中国・アジア編」をスタートしている。

 多文化共生社会という言葉は日本でも語られるようになって久しい。いくつもの地域で多文化共生社会への取り組みが行われ、様々な活動が繰り広げられている。阪神間では六甲の神戸学生青年センターが数十年前から外国人居住者の人権確保や生活支援活動を行っている。震災以後は長田のFMわぃわぃをはじめとするたかとりコミュニティセンターなどの活動がよく知られている。

 日本では多文化共生社会というと、外国人の問題が外国人自身の居住にかかわる私的・法的な問題解決が中心と捉えられている面が強いように思う。しかし、多文化共生社会の構築に向けて重要となるのは「日本人がどのように外国人を受け入れて、多文化共生社会の構築にかかわっていくか」ということである。それは、文化的な側面から社会保障など社会資源の分配にまで及んでくる。

 その様な中で私たち多文化と共生社会を育むワークショップの活動は大きく二つの目的がある。一つは、日本人に向けて多文化共生社会について考え、議論できるまちづくりの場を提供することである。もう一つは、音楽やスポーツを通じて、言葉の壁を乗り越え「文化とまちづくり」の面から多文化共生を肌で感じてもらうことである。そのために多文化共生社会シンポジウム(小林郁雄・藤井英映)、各国文化紹介講演・料理会(飛田雄一・山地久美子)、「世界をつなぐ音楽の花束」コンサート(澤井宏仁・飯田美奈子・権龍模)やスポーツ交流会(林敏之)という多様な事業を推進中である。幸いな事に、昨年の事業では延べ600人程の方が参加してくださった。今後も、多くの方と多文化共生社会とまちづくりを推進していきたい。

 この度の『月刊きんもくせい』終刊にあたって最初で最後の投稿をさせていただきました。次に『きんもくせい』が復刊されることになりましたら、ぜひ「多文化共生社会とまちづくり〜その後」を報告させていただきたいと思います。

■松本誠(市民まちづくり研究所所長)

 『月刊きんもくせい』の終刊、ご苦労様でした。12年間134号まで、よくぞ途切れなく続けていただいたものです。コープランあればこその偉業だと思います。小林さんはじめ、天川さん、中井さん、吉川さん、そしてスタッフを支えてきた皆みなさんの執念のような努力に拍手と感謝を贈らせていただきます。

 三度の“創刊”を重ねて書き綴ってきた、震災復興をめざした「市民まちづくり」を支援するネットワークの機関紙は、被災地KOBEの多様な市民まちづくりの記録でもあります。12年間の復興まちづくりへの評価は多々ありますが、成功も失敗も、喜びも苦渋も、そして未だ新しい課題を次々に追い求める市民まちづくりの群像の数々は、90年代以降の歴史の転換期にふさわしい市民主体のまちづくりへの試行錯誤そのものだと思います。

 これらを現場からしっかりと記録して、発信していく情報紙が終刊するのは寂しさを覚えますが、この火を絶やすことなく、また新たな『きんもくせい』が立ち上げられることを期待しています。

 「市民まちづくり」とは、市民が主体となったまちづくりを、「市民」という担い手の側面と「まちづくり」というムーブメントの側面の両方から追求していく課題だと認識しています。市民まちづくりを支援する人たちの輪が、新しく登場するであろう「ニューきんもくせい」によって、また新しい地平を切り開いていく日を期したい。

■原口洋一(元・NHK神戸放送局長)

『きんもくせい』へのオマージュ

 私が、復興の戦列から離れて2年近くになりま す。『きんもくせい』が伝えてくれた神戸の消息は、もう届かないのですね。『きんもくせい』の終刊は、阪神大震災が、いよいよ歴史の領域に入っていくのだなと感じます。

 私のふるさと鹿児島の山では、倒木更新という言葉を耳にします。倒れた古木の幹に、次世代の若木が芽を出し古木を肥やしに成長してゆくのです。『きんもくせい』のあとがきにも暗示されていた新生の萌芽に密かな夢を託しましょう。

 小林さん、天川さんをはじめ事務局を支えてこられた同志の皆さんにこころからありがとう!そして再見!

■千葉桂司(株式会社URサポート)

 小林さま、ご無沙汰しています。もう遅いかも知れませんが、きんもくせいに一言をと思い、メールしました。長いあいだご苦労様でした。そしてありがとうございました。震災の後、復興関連の事業は公団復興本部の仕事となり、立場上お手伝いするのが難しくなり、以来ずっと気になって今日まで来てしまいました。十分な応援ができなくて皆さんに申し訳なく思っています。『きんもくせい』が来るたびに羨ましく、はがゆく思っていました。今後は、健康に留意され更にご活躍下さい。こんごともよろしくお願いいたします。

 『きんもくせい』が終刊されるとか。

 震災後12年間もの間、多くの情報と、多くの問題提起、多くの人たち(の事)を送り続けていただき、ありがとうございました。これに携われた方々に、心からご苦労様と感謝の念を伝えたいと思います。

 思い起こせば、震災直後からの数週間は極めて密度の濃い時間でした。とてつもない多くの人たちが、それぞれ自分のできることを見つけて、神戸を救おうと一生懸命でした。その中で、私は神戸市職員の方々の奮闘はすざましいものがあったと、一言言い残しておきたいと思います。まちづくりコンサルタントの人たちもそう、それ以上でした。それを事もあろうに、復興事業を山分けしようとしていると言った評論家がいました。唯一不愉快な出来事でした。

 公的な資料の何処にも残らない、しかし生の声、生の現場が飛び交った記録誌『きんもくせい』にお礼を言いたくて。


 

連載【まちのものがたり48】

水の情景12 ワタシの旅
海が呼ぶ

中川 紺

 長い間、探していた水の気配が、海にある。ワタシは半ば確信をしていた。その匂いを辿って、あの煌めく水面を目指して歩いていた。

 丘上にあった遊園地から海までは、決して近いとは言えない距離だったけれど、歩き疲れることなど無い。少し春が近くなって来たのか、風も以前ほどには冷たくない。目的が見えてきたせいか、足取りは軽かった。

● ●

 風の匂いが変化したと思ったら、目の前に砂浜と波打つ青い水面が広がっていた。

 この気配だと、体全体が感じていた。ワタシはここに来るために旅をしていたのだと。

 でもワタシは一体何者なのか。その謎は解けないままだ。何か言葉を発しようとして、とても喉が渇いていることに気がついた。こんなことは初めてだった。

 浜の隅っこにあった小さな売店まで、足を運んだ。中には小柄なおばあさんが背中を丸めて座っている。

「何かお探しかね」

 小さくてもはっきりと響く声。

「さしずめ、このあたりかね」

 差し出されたのは、水が入ったガラスボトルだった。ラベルは何もついていない。

「…でもワタシ、お金持っていなくて」

「コイン持ってるだろう。それでいいさ」

 戸惑うワタシに構わず、おばあさんはあの異国のコインを受け取りボトルを手渡した。

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 まるで何も入っていないくらいに、透き通った水だった。

「その水には名前が無い」

 つぶやくようにおばあさんが言った。

 えっ、とワタシは思わず声をあげた。

「自分が何か、知りたいんだろう? すべてはその水が知っているさ」

 何もかも見通したようなおばあさんは、そう言って水の入ったボトルを指差した。

● ●

 お礼を言って浜に出ると、波打ち際に立った。この水を飲むのは、ここが相応しい気がしたから。フタを開けてボトルの水を体に流し込んだ。

 水を一口呑み込む度に、懐かしい水の情景が浮かび上がってきた。

 水道の蛇口、猫よけのペットボトル、水がたまったホース、梅雨明けの睡蓮、虫の石が眠る川、流れている無数の糸、コインが沈んだ水たまり、手押しポンプ、稲穂が実る水田、藻に被われたプール、遊園地のボート。

 ああ、何だか体が軽くなった気がする。

 気だけではない。実際、軽くなっていた。足先からワタシの体は変化していく。白く薄くなって。髪を巻き込みながら。どんどんと。

 そして、最後の一口を飲むと、ボトルを持っていた手も、顔も、すべてがボトルの中に吸い込まれていった。体と服は白い紙に、黒髪は文字となりこれまでの出来事を紡いだ。今や物語の紙片となったワタシは、ボトルにすっぽりと収まっていた。最後に、緑のガラス片だったものがコルクと化し、栓をした。波がボトルをさらい、ゆっくりと海に導く。

 いつか誰かが拾って、栓を開けるとき、この物語が伝えられるのだ。(最終話・完)

(イラスト やまもとかずよ)



 

『月刊きんもくせい』終刊の辞

阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク

 それでは、皆さん、さよなら、サヨナラ、SAYONARA

小林郁雄


 1995年2月10日創刊から2007年5月10日の134号までの12年間にたくさんの方々が原稿をお寄せ下さり、『きんもくせい』の発行を担ってくださいましたことを心から感謝申し上げます。

 この度も多くの方々が今後のことに思いを馳せてくださる気持ちを有り難いと思いつつ、発行作業に携わってきた者たちはようやく肩の荷を下ろす気分であります。殊の外その気持ちを強く持っているのは私天川佳美であり、何を隠そう小林郁雄本人でありましょう。

 激務の何年かを髪振り乱すことなく『きんもくせい』を発行し続けられたのは中井豊、吉川健一郎の仕事の時間を割いての作業に他なりません。

 小林本人が定年いや諦念と決めた時に「暇になった人が編集作業をしたら」といった天川の激励(?)に応えて始まった小林編集長のその後は皆さまご承知の遅配続きでした。(ごめん/小林)
 しかし、市民まちづくり支援ネットワークの心意気が終わるはずはなく、皆さまそれぞれの中で「きんもせい」は生き続け、活動が終わることはないと思っております。皆さま、12年間をありがとうございました。いづれ、どこかで、お会いする時まで「さよなら」です。

天川佳美


 再々復刊した03年4月号で、小林さんが「現場に真実はあり、細部に神は宿る」と書いていますが、この言葉が今でも印象に残っています。

 働き始めた頃、10年をひとつの目標に一人前になるというか、仕事を一人で任されるようになりたいなと思っていました。少し言い訳がましいですが、仕事で手一杯になりきんもくせいの編集まで手が回らなくなったのがちょうど10年が過ぎようとしていた頃でした。現在、自分では“現場主義”に立ち地域に携わっていると思ってます。ただ、“細部に神は宿る”…情報の共有といった意味では、僕がこれまでに関わってきた、南芦屋浜や千種川、浜甲子園団地、奥池、六麓荘、長田神社前地域といった地域のことを発信できなかったなあ、と思う今日この頃です。

 『きんもくせい』の再々々復刊があるかはわかりませんが、今後はもう少しゆとりを持って、細部へのまなざしでもって僕の関わる地域の香りを何らかの形でお届けできるようになれたらと思っています。

吉川健一郎


 “市民まちづくり”とともに歩んだ12年間をふりかえって、いよいよ『きんもくせい』が完全に終わることになり、当然さみしくもありますが、震災から12年もたっているのでこれが現実的なところかな、とも思います。

 現在まで続けてみてプランナーの立場から思うのは、やはりまちづくり協議会に代表される地域でのなんらかの持続的な取り組みの大切さでしょうか。このとりくみがあればこそ、地域での様々な課題(平常時においても緊急時においても)に対応できるのだと思います。ただ、協議会等の“空白”エリアの方がまだまだ多いわけで、これからも努力と工夫が必要だと痛感しています。

 『きんもくせい』はこれで終わりですが、何らかの機会があればまた報告ができたらと考えています。『きんもくせい』読者の皆さん、長い間おつきあい下さりどうもありがとうございました。

中井 豊


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